CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

1924年遠征 その後

 1924年遠征のその後。

 範囲が広いので随時追記。

 

 

1924年

ざっくり16日以降の隊について

 ノエル:まっすぐダージリンに向かい、遠征記録映画の製作に取り掛かる。

 ハザード:地図作成を完了させるため、グルカの測量士と共に西ロンブク谷へ。

 他隊員:ロンシャル谷で休んで体調を回復させてからダージリンへ戻る。

 この際にチベット当局から許可されていない地域へ立ち入ってしまったことと、ノエルが製作した映画の一部シーンが問題となり、イギリスが次にエヴェレストへ遠征隊を派遣できるのは実に9年後の1933年まで待たなければならなくなる。

 

6月19日

 午後、王立地理学協会のヒンクスの元にノートン6月12日に送ったマロリーとサンディの死を認める暗号通信が届く。

 ヒンクスはタイムズ紙に内容を知らせたが、マロリー家とアーヴィン家の人々には24時間近く連絡しなかった。

 

6月20日

 マロリー家とアーヴィン家に、ジョージとサンディの死の報せが届く。

 アーヴィン家へ送られたものは「委員会深い遺憾 本日エヴェレスト遠征凶報受信 ノートンより電報 子息とマロリー最終登山で死亡 他の隊員無事下山 会長と委員会心より哀悼 ヒンクス」という文面で、名前の順序を変えたくらいで殆ど同じ文面のものがマロリー家へ送られた。(電報訳は『沈黙の山嶺』より)

 王立地理学会とタイムズ紙は遭難の報せを翌朝まで漏らさないようにしていたが、ウェストミンスターガゼット紙が夕刊で報じてしまった。

 

 マロリーの妻ルースの元にヒンクスからの電報が届いたのは19時45分だったが、それより先にタイムズ紙の記者が着いていた。ルースが朝刊で夫の死を知るという衝撃と屈辱を受けないようにとの心遣いだった。ルースは旧友たちと散歩に出かけ、帰宅後三人の子供たちを床に就かせると何が起きたかを話した。子供たちは布団の下で丸くなり、みんなで一緒に泣いた。

 

 アーヴィン家への報せは、自宅にいたサンディの父ウィリーに19時過ぎに渡された。彼はすぐ、ウェールズの別荘で休暇を過ごしていたサンディの母リリアンと、湖水地方に滞在していたサンディの祖父ジェームズへ連絡した。彼らはまだ子供の末息子たち(アレク(13)とター(11))のために、この三人は暫く別荘で過ごすことに決める。サンディの兄ヒューはマンチェスターで事務弁護士として働いており、姉イヴリンは翌日オックスフォード大で試験を終えてから帰省して夏休みを迎える予定で、サンディのすぐ下の弟ケネスもモードリンカレッジの入試のためオックスフォード大にいた。

 翌朝、最終試験を控えたイヴリンが朝食を食べ終わると、サンディの友人たちが彼女の下宿に現れ、マントと短剣を構えた動きで窓を黒塗りしたタクシーへ彼女を「誘拐」した。イヴリンはそれがただのいたずらだと思い込んで、弟にまつわるニュースに気づかないまま試験を受けた。試験後、教室から出てきた彼女はそこで初めてサンディの友人たちから彼の死を知らされた。彼らはイヴリンをバーケンヘッド行きの列車に乗せ、その日の夕方にはイヴリンは父と合流していた。

 その後の弔電などの整理や返事には、専らウィリーとイヴリンが対応した。アーヴィン家の人々は悲嘆を露わにして動揺することなく凛と振舞っていたようだ*1

 

 6月21日

 遭難についての独占記事を載せたタイムズ紙が刊行――「エヴェレスト峰で悲劇、隊員二人死亡、マロリー氏とアーヴィン氏の運命」。

 午後にはイギリス中の新聞の見出しに、戦中のような言葉が踊った。「マロリーとアーヴィン、最終攻勢で死亡(デイリー・グラフィック)」「無情な悲劇(スフィア)」「エヴェレストとの戦い」「死者出て勝利ならず」「エヴェレストとの交戦 大きな損失」……。

 そして遭難を報じる記事と共に追悼記事も載ったが、こちらはかなり前から準備されていたものだった。

 

6月23日

 国王からの、遺族を励まし「二人の勇ましい探検家」を讃える言葉がタイムズに掲載。

 

6月24日

 ケンブリッジ大学にて学生や教師がモードリン・カレッジの礼拝堂に集まりミサを行う。エヴェレスト委員会のヤングハズバンド、ヒンクス、スペンサーも出席。

 

6月26日

 バーケンヘッド*2のセント・ジョンズ教会での礼拝にマロリー・アーヴィン両家の遺族が出席、チェスターの主教も来て話をする。

 サンディの母リリアンは息子と違って大層信心深い人で、祈りや神の存在、神職者たちの言葉に随分救われたらしい。

 国中から寄せられる心配や悲嘆の声は予想を遥かに超え、世界中の地理学会や山岳会までもが二人を悼む文書を発表していた。

 

6月末~

 マロリーたちが登頂を果たしたのかという点について関心が高まる。

 ノートンが慎重に登頂を断言することは出来ないと述べた一方で、オデルは彼らの登頂成否は永遠に謎のままだろうとしながらも、果たしていたに違いないと考えている…という信念を述べた。まさにイギリス国民たちの心情にぴったり添い、彼らの求める言葉だった。

 数々の追悼文・追悼記事が出る中で、マロリーは神話の域まで引き上げられていく。

 

10月17日

 セント・ポール大聖堂にてマロリーとサンディの追悼ミサ。

 ジョージ五世、皇太子、ヨーク公、コノート公なども出席。登山家がこのような栄誉を与えられたのはイギリス史上後にも先にも例がない。

 夜はロイヤル・アルバート・ホテルにて王立地理学会とアルパインクラブの合同会合が開かれる。エヴェレスト事業の主要人物は皆出席していた。ヤングハズバンド、ヒンクス、ブルース将軍、フレッシュフィールド、コリー、スペンサー、21年隊のウォラストンとヘロン、22年隊のロングスタッフ、ストラット、フィンチ、24年隊のヒングストン、ビーサム、ハザード、オデル、そして22年と24年の遠征に参加したノートンとジェフリー。

 

12月8日

 ノエルが製作していた記録映画 'The Epic of Everest' が公開。

 映画はイギリスとドイツを一巡し、北米各地を七回も回るなど好評を博すが、チベット側はパーリの人々が子供のシラミを取って食べるシーン*3をよく思わず、更に上映の為に呼ばれた七人の僧侶が僧院長の許可を得ず外国へ渡航した上に見世物のように舞台上で儀式をしてみせたことについて当時ラサで優勢だった保守的宗派が激怒した。

 チベットの政治的情勢も非常に不安定で、この映画は最悪のタイミングで公開されたと言える。チベットの首相は七人の僧侶を直ちに帰すよう求め、今後チベットに入る許可は出せない旨を通達した。

 

1925年

 6月、サンディの姉イヴリンとサンディの親友ディック・サマーズが結婚。彼の死からちょうど一年といったところ。

 23年秋に二人が婚約した時、蚊帳の外にされたサンディは諸事情からこの結婚に不安要素が多かったこともあって激怒していたが、彼らは幸せな家族を築いたという。この二人の孫が歴史作家のジュリー・サマーズで、彼女によってサンディの伝記 'Fearless on Everest' が著されたり、実家の屋根裏に75年間眠っていたサンディの手紙などの遺品が見つかったり、マートンカレッジのアーカイブに保存されていた品々の目録が作られたりしている。

 

1926年

 エヴェレスト委員会がもう一度遠征を送る許可を要請したが、外交官ベイリー*4チベット当局に取り次ぐまでもないと判断する。それほどまでに映画の一件は酷い傷を残していた。

 

1933年

 漸く入国許可が出て英国第四次エヴェレスト遠征隊が派遣される。

 22年隊のクロフォードと24年隊のシェビアが輸送担当官として同行するが、登攀班員は全員WWⅠを知らない若い世代の出身だった。

 サンディより2歳上で、24年隊の候補にも挙がっていたフランク・スマイスも登攀班員として参加している。彼は相棒と別れてひとりで登っている最中、いないはずの誰かに見守られている感覚を覚えていた。それは一緒にいて気分のいい存在で、あまりにも存在感が強いものだから彼はミントケーキを半分分け与えようとさえしたという。ほかUFOめいた謎の物体の目撃談も残している(こちらの記事参照)。

 この年はハリス・ウェイジャーペアとスマイスが24年にノートン・サマヴェルペアが登ったのと同じルートでノートンが到達したのと同じ高度まで達したが、それ以上は進めなかった。

 このハリスがファーストステップの基部に落ちている(あるいは置かれている)アックスを見つけて持ち帰っている。後にアックスに刻まれた三本線の印から、サンディのものだと判断された。

 

1935年

 偵察隊としての第五次遠征隊派遣。急遽派遣されたためノースコルへ到達するので精一杯だった。

 

1936年

 第六次遠征隊派遣。モンスーンの訪れが例年より早かったために撃退される。

 この年、スマイスが望遠鏡でマロリーの遺体らしき影を見つけたことをノートンに手紙で知らせている。敬愛する登山家の眠りをメディアで騒がせることを厭った彼は、一番知るべきだと思った人にだけ知らせることにしたのだった。

 

1938年

 第七次遠征隊派遣。悪天候のために移動が困難で、8,321mが最高到達高度となる。

 当時48歳だったオデルが頂上まであと一日というところまで到達している。

 しかしもうイギリス国民はエヴェレスト遠征にうんざりしており、気持ちを奮い立たせるにも資金を集めるにもどうしようもない状態だった。もうこの頃のイギリスは帝国らしい事業を手掛ける栄華の国ではなくなっており、帝国の再起の象徴として持て囃されたエヴェレスト遠征は今や七度の失敗を重ね、逆に国の失墜を連想させるものと化していた。

 

1939年

 WWⅡ開戦の年。

 ヒトラーポーランド侵攻11週間前に最後のエヴェレスト委員会会合が開かれ、20年間にわたり事業に身を捧げてきたヒンクスが辞任する。その後も遠征計画自体は立て続けられる。

 

1940年

 遠征の正式許可を求めるところまでいくも、戦争により実行はかなわず。

 

1941年

 40年同様、正式許可を求めるところまでいくも実行はかなわず。 

 

1942年

 40・41年同様、正式許可を求めるところまで進むも実行できず。

 またこの年、ルースが癌で亡くなる。再婚して幸せな生活を送り始めてからほんの数年だった。

 

1944年

 マロリーの弟トラフォードの乗った飛行機がアルプスで吹雪に遭い墜落、死亡。二度の戦争前に兄ジョージの心を奪った山々が見下ろすル・リヴィエ・ダルモンに埋葬される。

 また中国共産党チベットを脅し、北からエヴェレストへ繋がる経路が全て閉鎖された。外国がエヴェレストに踏み入ることが実質不可能な状態となる。

 

1950年

 イギリスとアメリカからの圧力により、ネパールが鎖国を解く。これによりエヴェレスト遠征はイギリスの独壇場から各国に開かれた競争の場となり、舞台は北東稜から南東稜へと移り変わる。

 

1951年

 イギリスは第八次遠征隊を派遣。この遠征の帰途でシプトンが巨大な足跡を発見したという話がイエティに関する議論を呼ぶ。

 またスイスも登山隊を送り、それぞれ21年にマロリーとブロックが偵察したエヴェレストの南側を踏査する。

 

1952年

 スイスが登山許可を得るがイギリスは53年の許可しか貰えず。スイスへ合同遠征隊を提案するも拒否される。

 この年テンジン・ノルゲイが最高高度8,611mを記録しているが、悪天候のため登頂はかなわず撤退。

 

1953年

 第九次遠征隊。

 この次にイギリスが登れるのは数年後で、翌年以降各国が続々と遠征隊を派遣する予定となっていたため、この年に初登頂を果たせなければイギリスがエヴェレスト初登頂を逃す可能性が高かった。

 強い意気込みで送り出したこの遠征にて、とうとうイギリスは20年代からの悲願を果たす。サー・エドモンド・ヒラリーテンジン・ノルゲイが、とうとうエヴェレスト初登頂の公式記録を樹立した。

 この報せを伝える電報がロンドンに着いたのはエリザベス二世の戴冠式前日で、式典の影を薄くしてはいけないとの配慮から24時間公表されなかった。登頂をすぐに知らされたのは、ごく少数の関係者を除くと二人だけ――王太后と、21年の偵察隊を率いて最終的な成功に至る道を切り開いたチャールズ・ハワード=ベリー中佐だけだった。

 この遠征については公式報告『エベレスト初登頂』参照。

 

1950~60年代

 南側から登るルートへ注目が移っていき、マロリーとサンディの物語は伝説となっていく。チベットの物理的・政治的孤立のせいで、山の北側にいるはずの二人の行方も調べようがなくなっていた。

 

1975年

 中国隊に参加していた王洪宝が、北東稜のすぐ下、標高8,077m地点に中国隊が設営した最終キャンプから徒歩20分ほどの岩棚で「古風な服装のヨーロッパ人の遺体」を見る。

 その遺体は仰向けになって口を開け、左の頬にゴラクに啄まれたと思しき穴が開いていた。サスペンダーを着けていたことから西洋人だと判断したということで、この段階で北稜に眠る西洋人となればマロリーかサンディのどちらかでしかない。しかし後年見つかったマロリーの遺体はうつ伏せになっており頬の穴もないため、これはサンディの遺体だった可能性が高い。

 王はその遺体に雪をかけ、簡単な埋葬をした。

 

1979年

 日本隊の長谷川良典が王洪宝から先述の75年の話を聞く。しかしその翌日に王はノースコルで雪崩に巻き込まれて亡くなったため、詳細を聞き出すことは出来なかった。

 

1986年

 エヴェレスト史家のトム・ホルツェルとオードリー・サルケルドが、王が遺体を見たという場所を系統だてて探すことにする。何十年も凍っていたフィルムでも現像できる可能性があるということで、サマヴェルがマロリーに貸したコダックのカメラを見つけることが目標だった。しかし悪天候と隊員の一人がノースコルで亡くなったことにより、問題の岩棚は捜索できずに終わる。ホルツェルとサルケルドの著書『エヴェレスト初登頂の謎―ジョージ・マロリー伝』も参照。

 

1999年

 ドイツ人地質学者のヨッヘン・ヘムレブを発起として、マロリーとサンディが行方不明になってから75周年を記念し二度目の調査隊を組織する(この文を打ちながら頭がくらくらしてきたよ)。米英合同のマロリー・アーヴィン調査遠征隊だった。

 そして1999年5月1日11時45分、登山家コンラッド・アンカーがマロリーの遺体を見つける。遺体の詳細やその後については今年の5月1日の雑記に、遠征隊が持ち帰った遺品については1924年6月6日の記事、彼らの組んだ推論による事故の様については1924年6月8日の記事にも書いたので割愛。

 いずれにせよ、マロリーとサンディが登頂したかどうか断定する要素は見つからず、カメラもマロリーが持っているものではなかった。

 この調査遠征については『そして謎は残った』を読めばいい。思うところはあるけどマストな一冊だと思う。

 

2000年以降

 99年の件により、マロリーとサンディの件についての関心が高まる。関連書籍が出版され、サンディについてもジュリー・サマーズを主体として資料発見や整理などが進んだ。

 そしてマロリーが問題のカメラを持っていなかったことから、当日それはサンディのポケットに入っていたものと見なされている。当然だがこれ以降、現在に至るまで捜索遠征の対象はサンディに移っている。

 99年以降もサンディの遺体を、というよりカメラを探す遠征は何度も派遣されている。近いところでは2019年のナショナルジオグラフィック隊(ナショナル ジオグラフィック 2020年7月号に報告記事が上がっている)や、今年 'The Third Pole' を出版したシノットの遠征など。

 それらしい目撃情報があるだけで、サンディの遺体は未だに見つかっていない。強風によって飛ばされ氷河まで転落してしまったという説もあるし、最近では登頂の証拠をもみ消そうとした中国隊によってカメラ諸共攫われたという説も見る。

 何にせよ、彼らの死から100年の節目が間もない今、2021年6月に至るまで、マロリーとサンディが最後に見た景色は謎のままだ。

 

*1:アーヴィン家では感情を露わにすることは未熟で恥ずかしいことだという教育がなされており、それは遠征中のサンディの感情的な忍耐強さにも表れている。

*2:サンディの生まれた街。そしてマロリーとサンディは当時のチェシャー州出身という括りで同郷。

*3:実際はシラミを噛んで殺しているのであって食べているわけではなかった。

*4:21年遠征に参加していたモーズヘッドのかつての探検仲間。