CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

1924.06.08

 マロリー・サンディペア、ファイナルアタックの日。

 最初に強調しておくと、この日マロリーとサンディに何が起こったのかを確かに知っているのは当事者である二人だけだ。だからこの二人の動向について書いていることは全て推測・推論で、「だろう」「思われる」などを省いているのは単純に全ての文にそうした文言をつけたらくどいからというだけのこと。

 

【早朝~正午】

 二人は恐らく朝早くにキャンプⅥ(標高約8,200m)を出立した。先日のマロリーの手紙からは、彼が朝8時には稜線上、もしくは頂上基部にまで到達する気でいたことが分かる…というのが『沈黙の山嶺』だが、『そして謎は残った』においてはあくまでこれはルート選択に迷っていたことを示しているとの解釈が取られている。

 酸素を背負った二人はキャンプから北東稜との合流地点すぐ下まで斜めに登り、標高8,461m地点で休憩、酸素ボンベを一本デポ。ノートン・サマヴェルペアはクーロワールを登るため斜面をトラバースしたが、マロリー・サンディペアは稜線を辿るため北東稜を目指した。彼らはイエローバンド*1の上辺あたりへ登って北東稜に出たのだろう。このポイントは岩壁の基部で、現在ファーストステップと呼ばれている。北東稜はそこから上へ延び、進んでいった先でこのルートにおける最大の難所セカンドステップを超えると、もう頂上までの道を遮るものは殆どない。一応サードステップと名のつく岩壁はあるが、基本的には開けていて、疲労・標高・風寒を除けば大きな障害のある地形ではない。

 

 ノエルは昨日マロリーから受け取った手紙の通り、朝からキャンプⅢのすぐ上の高台に腰を据え、ファイナルアタックの様子を撮影しようと構えていた。しかし午前8時は何事もなく過ぎ、10時には雲や霧がかかって北東稜を飲み込んでしまい、とうとう正午には何も見えなくなってしまったので、凍えたノエルはキャンプⅢへと戻った。

 

 キャンプⅢのテントではノートンがタイムズ紙に送る原稿を口述していた。それ自体は非常に前向きな文章で、内心で親友を案じる気持ちが表れているものではない。しかしノートンはその日ずっとテントの前を行ったり来たりして殆ど話さず、見るからに元気のない様子だったという。昼頃にはヒングストンに医療品をまとめてノースコルへ救助隊を送る準備を整えさせていた。

 

【12時50分】

 キャンプⅤから散策に出ていたオデルは、高さ30mほどの岩場の上まで登ってみたその時、雲の切れ間に北東稜を仰ぎ見た。その時彼が目にした光景は、その後散々議論されることになる。「12時50分、MとIが稜線上を最後のピラミッドの基部に近づいているのを見た」というのがその日の日記。数日後、正式文書における記述の訳を『沈黙の山嶺』より引用。

 

「急に空が晴れて、エヴェレストの稜線全体と頂上部分が露わになった。私の目は、稜線上の岩壁の下にある小さな雪の尾根を背景に浮かび上がった小さな黒い点に止まった。その黒い点は動いた。別の黒い点が現れ、雪の上を上がり、尾根にいる最初の点のところまで言った。それから最初の点がそそり立つ岩壁に近づき、しばらくしてその上に現れ、二つ目の点も同じことをした。つい見入っているとその光景はすっかり消え、ふたたび雲に包まれてしまった」

「真相は一つしかない」「それはマロリーとその仲間だった。たいへん遠くにいた私でも見てとることができたとおり、二人は相当な機敏さをもって動いていた。二人は気づいていたに違いないが、その地点から頂上に到達し日暮れまでにキャンプⅣに戻るには日照時間があまり残っていなかった。二人がいたのは最後のピラミッドにごく近い顕著な岩壁で、そこに達したのがそれほど遅かったことは注目に値する。マロリーの計画では、高所キャンプを予定どおり出発していればその数時間前にそこに着いていたはずだった」

 

 マロリー・サンディの最後の姿を目にするオデルの絵。

 

 セカンドステップを越えるマロリーとサンディの絵。The Sphere紙掲載。

 

 オデルはこれを、マロリーとサンディがセカンドステップを越え、そこから更に登り続けていく姿と考えていた。しかしこれは明らかに遅すぎた。何が原因で遅れたにせよ、これが本当にセカンドステップを越えていたのなら頂上に到達する時間はまだある。しかし日没までに高度をあと200mほど上げねばならず、下山するともなればそれはまた別問題だった。現代のエヴェレスト登山におけるファイナルアタックでは、14時までに登頂する目途が立たなければ撤退になるという話を聞いた。それに山は午後にかけて荒れやすい。

 マロリーはキャンプⅤにコンパス、そしてキャンプⅥには懐中電灯を忘れてしまっていた。致命的なミスだが、手のつけられない忘れん坊とまで言われるマロリーのことなので、別段高度によって集中力が失われたというわけでもなくいつも通りの忘れ物だったらしい*2。暗くなるまでにキャンプへ戻れれば懐中電灯については問題ないが……。

 

【昼過ぎ~】

 午後に入ると天候が悪化してきた。風が荒れ、気圧も急激に下がってしまった。オデルは二人を心配して登っていき、一時間後キャンプⅥを見つけたが、その頃には視界は全く効かなくなっていた。

 オデルはテントを調べたが、マロリーの意図や出発が遅れた理由の分かる手掛かりは見つからなかった。片づけの出来ない二人が出て行った後のテント内はひどく散らかっていたという。オデルはただ食料と酸素ボンベ一本を見つけ、床には調整器の部品が散らばっていたという。サンディが何かしらの作業を行っていたと見られ、それが酸素装置の修善でそれゆえに出発が遅れたのだという見方もあれば、いやそれは夜に酸素を吸うための工夫をしていたのだという見方もある(昨日の記事参照)。

 

 オデルは1時間待ったが、悪天候でマロリーとサンディがキャンプを見つけられず迷っているのではないかと思い外へ出た。そして嵐の中、稜線に向かって60mほど登っていき、叫んだり、ヨーデルを歌ったりしてみたが、彼の声は横殴りの風に掻き消されてしまった。もう一時間経つと、オデルは退却せざるを得なくなった。このままキャンプⅥに残り、戻って来たマロリーとサンディに手を貸したかったが、キャンプⅥの小型テントはとても三人が泊まる余裕などない。マロリーは前日の手紙で、「必ず、暗くなる前に撤退できるようにキャンプⅣに戻っておくように」と言っていた。二人が帰ってこないなどという可能性は想像したくもなかった。

 

【16時30分~19時】

  オデルはマロリーの忘れて行ったコンパスを目立つようテントの角に置き、テントの入口を閉じてから下って行った。18時15分にキャンプⅤに着いたが食料も燃料もストーブも無いので更に下り、18時45分頃ノースコルに到着した。

 キャンプⅣではハザードが待機しており、オデルはよい報せだけを彼に伝えた。

 

 マロリーとサンディが酸素を2本持って行ったか、あるいは3本持って行ったのかは見解が割れる。セカンドステップを乗り越え登頂を果たしたと仮定した場合、彼らが酸素を2本持って行ったのであれば酸素が切れた状態で登頂した可能性が高い。その場合帰りのサードステップで日没を迎える。3本持って行ったのなら酸素を吸いながら登頂できただろう、そしてファーストステップ付近で日没を迎えたと思われる。

 

【夜】

 天気が一時的に崩れて遅れもあったようだが、登頂を果たした二人が意気揚々とキャンプⅣへ下りてくるのが見えることを期待して、オデルとハザードは一晩中寝ずの番を続けた。懐中電灯か蝋燭、各隊員が携行していたマグネシウム発煙筒の光が見えないかと。

 しかし、終ぞ何も見えなかった。

 

 

 マロリーとサンディの最期については諸説あるけど、ここでは1999年にマロリーの遺体を見つけた調査遠征隊による『そして謎は残った』で語られる推測を。

 

 マロリーとサンディは、頂上に到達したかはともかくキャンプⅥの近くまで戻って来ていた。この日の日没は恐らく20時頃、上弦の三日月は西へ沈んでいく。遭難事故が起きたのは、少なくとも陽に弱い青い目をしたマロリーがゴーグルを必要としなくなるくらい暗くなってからの可能性が高い。

 酸素は既に尽きていた。疲れ切った身体を引きずり、二人はアンザイレンしたままイエローバンドを下っていた。その最中足を滑らせたのはマロリーだったかサンディだったか、いずれにせよ二人はロープで繋ぎ合ったまま滑落した。

 ロープが岩の突起に引っ掛かり、急斜面を落ちたマロリーは右半身から岩に叩きつけられた。その際に右肩を脱臼し、腰に酷い出血を起こすほどロープが食い込んで肋が数本折れている。一瞬滑落は止まったものの、衝撃を受けたロープ(恐らく凍結によっても弱っていた)が切れてしまい、彼は再び落ち始めた。直後、急斜面に右足から着地したものの、衝撃によって右足の脛骨と腓骨が折れてしまう。

 傾斜が急すぎてそれまでの勢いが強すぎたために、彼の滑落はまだ終わらなかった。マロリーは身体を捻ると滑落停止の姿勢を取り、凍った岩屑の斜面に指先を食いこませ、手袋を裂きながら、なんとか腕と指の力だけで必死に止まろうとする。

 少しは勢いが落ちたか。そう思った瞬間、傾いたスラブに打ち当たって舞い上がった。次には斜面に強く叩きつけられ、鋭い岩の破片に額を激しくぶつけた。ようやく滑落速度が緩んできたものの次の岩棚も滑り落ち、そこでようやく停まった。

 両手の指は変わらず斜面に爪を立てている。岩屑に顔を埋めていて、右額の傷は深刻だった。マロリーは最後の力を振り絞り、折れた右脚を庇って左脚を重ねた。その瞬間激痛が走り、マロリーの命の灯火は消えた。

 サンディも負傷していたがまだ生きており、暗闇の中でマロリーの名前を呼んでいた。しかし返事が返ってくることはなく、とうとうサンディは呼びかけることをやめ、のろのろと歩き始めた。コンパスも懐中電灯もない。勘だけを頼りに東へ向かい、独りで約400m離れたキャンプⅥを目指した。

 しかし辿り着けなかった。スノーテラスの小岩稜から10分、キャンプⅥまではあと30分の地点で、疲労のせいか負傷のせいか足が止まってしまった。サンディは腰を下ろすと、夜の標高8,200mという絶望的な寒気の中で目を閉じた。"アンドルー・カミン・アーヴィンは、夜明けを迎えることの無い闇の奥へ滑り込んでいった。"

 

 

 マロリーとサンディは、遅くとも6月9日の朝を迎える前に命を落とした。

 マロリーの遺体が間違いない形で見つかったのは75年後の1999年5月1日。サンディの遺体はそれらしい目撃談はあるものの、未だにきちんと見つかっていない。

 彼らがこの日、登頂を果たしたのかは未だ謎のままだ。

 

 

 

※今日の記事は『沈黙の山嶺』をベースに、夜のマロリーとサンディの出来事については『そして謎は残った』で述べられている推測を中心に記述しています。真相はマロリーとサンディにしか分からないよ、ということだけは重ねて強調しておきます。

 

 『そして謎は残った』で語られる最期の光景、本当に最後の瞬間まで生きようと必死に足掻いたマロリーの姿も、サンディの哀しさも…好きなんだけど、それは "感情を滅茶苦茶に搔き乱される、熱くてあまりにも胸が痛い名場面" みたいな意味での好ましさで…まとめて打ちながら物凄く悲しくなった。小説の体裁で出されているものよりも、この4ページの方がひどく堪える。

 ここで語られている光景がそのまま事実をそっくりそのまま当てているという可能性は低いだろう。でも確かにマロリーの遺体は凍った斜面にしがみついて、意識を失う最後の瞬間まで生きようとしていたのが分かる。敬服する。そのことを教えてくれたのは99年調査隊だけど、彼らはこのマロリーの遺体の写真を高値で売り、ばらまいて、世界中から本当に簡単にアクセス出来るようにしてしまった。

 あの姿を、自分はとても尊いものだと思う。でも何も知らない人や、別段の思い入れのない人、あるいはもっと浅薄な人からすれば違う…当然のことだと思う、責めるつもりもない。でも彼らから、この人の名前や姿について悪気なしに「○体画像」やら「グロ」やらの言葉を使って注意喚起されているのを見る度、どんな気持ちになるか、 感傷的過ぎると自制しようとしたとて、やっぱり辛く思う。彼らのここまでの歩みを、そして最期を思えば、感傷的・感情的になってしまうのも仕方ないかなと思う。

*1:黄色っぽい砂岩の一枚岩。エヴェレスト山頂部の写真を見ればすぐに分かるが、黄色い帯が走っている。ぼろぼろ崩れがちで非常に滑りやすい難所。

*2:日没までには絶対にキャンプへ戻る気でいたため、軽量化のために懐中電灯を置いて行ったという可能性も一応0ではない。