CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

1924.06.10

 マロリーとサンディの捜索、そして打ち切りと撤退。 

 

【朝】

 キャンプⅤで厳しい夜を明かし朝を迎えると、ポーターたちはそれ以上登れる状態ではなかった。そこでオデルは彼らをキャンプⅣへ下らせ、自分はキャンプⅥまで行くが暗くなるまでにノースコルへ戻ると書いたハザード宛ての短信を預ける。 

 

【午前11時過ぎ】

 オデルがキャンプⅥに到着。

 テントを開けて、その中にぐっすり眠っているマロリーとサンディがいればどれほど良かっただろう? しかしキャンプはオデルが去った時から全く変わっていなかった。

 テントにはオデルが二人のため置いて行ったミントケーキを含む食料品がいくつかと酸素装置の部品が散らばっており、他に酸素ボンベが一本、そしてマロリーのコンパスが二日前に置いておいたそのままに残っていた。

 

 【~13時過ぎ頃】

 オデルはキャンプから更に山を登り、二人を探し、名前を呼び続けた。何かの形跡や手掛かりがないかと、酸素もなしにデスゾーンで必死の捜索を行ったのである。風が荒れ狂う日だった。

 二時間近く捜索を行ったところで、オデルは岩場や割れた一枚岩が一面に広がるところでマロリーとサンディを見つける可能性は低く、頂上ピラミッド方面まで範囲を広げて捜索するには新たな捜索隊を編成する必要があると気がついた。先日も述べたように、ノートンはこれ以上高所へ人を送って命を危険に晒させる気はない。 

 

【13時過ぎ頃~】

 オデルは足取り重くキャンプⅥへ戻った。テントから寝袋を2つ引っ張り出し、裏手にある岩をよじ登って雪の張りついた急斜面に持って行くと足場を切り、寝袋を並べて「T」の字の信号を送った。「形跡なく絶望的、指示を待つ」の意だった。

 

 【14時10分~】

 ノースコルのハザードがオデルの信号を確認。5分後、ハザードはキャンプⅢへ向けて合図を送った。雪の上に毛布を6枚、十字架の形に並べる――二人の死を伝える信号だった。

 


 キャンプⅢにて最初にその信号に気づいたのは、望遠鏡を覗いていたノエルだった。ジェフリーはノエルに何が見えたか尋ねたがノエルは口を利けず、黙って彼にも望遠鏡を覗かせた。違う形に見ようとしたが、どうしても出来なかった。

 この報せを受けたノートンは10分間も迷ったが、ついに返答として毛布を三列に並べさせた。「捜索を中断せよ。一刻も早く下山」という指示だった。ハザードはそれを確認すると毛布を片付け、オデルへ向けて「了解。下山せよ」の合図を送った。

 その後、午後のうちにノートン・ジェフリー・ノエルはキャンプⅢを去っている。ベースキャンプにいたサマヴェルはマロリーたちの死の報せをすぐには受け止められなかったようで、その日の日記には信じられないと書き記している。

  オデルはキャンプⅥから、マロリーのコンパスと、サンディが最後まで取り組んでいた酸素装置を回収してからテントの入口を閉じた。

 

 次にこのキャンプへ人が訪れるのは、9年後に派遣された英国の第四次遠征隊…マロリーに憧れていた、サンディより2歳だけ年上のフランク・スマイス(1902~1949)であった。もちろん誰もおらず、そこには廃墟のようなキャンプの残骸が残っているのみだった。

 

 【~17時過ぎ】

 オデルは悲しみに暮れながらノースコルへ下った。日記には「形跡なし。テントに食料を少し残し、入口を閉め、ひどい風の中、尾根を下った。Ⅴには寄らず」とある。

 それでもオデルは振り向いた時、頂の聳え立つ様子に心誘われるものがあった。きっとマロリーとサンディも同じように心奪われ、どんな障害にも気づかずあの神聖な高みに至ろうとしてしまうのではないかと考えた。 そして自分の気持ちを抑えるため目線を遥か下方のノースコルへ移し、そこで二人以外の仲間たちが自分の帰りと知らせを待ちわびていることを思い出した。そうとなれば今夜ここに泊まって明日も捜索を続けたいという自分の欲求に従うわけにはいかず、仮にそうしたとて生きた彼らを見つける可能性が殆どないことを考えた。

 深く考え込みながら、オデルは長い道を下って行った。17時過ぎ、ハザードとニマとミンマだけが待つキャンプⅣに到着した。  

 


 

  ここで壮絶な捜索を行った、そして最後に生きたマロリーとサンディを目撃したとされるノエル・オデルのことについて少し補足。

 彼が有名なのは、主に後者のエピソードが理由だ。オデルは8日の記事にも書いた通りのことを語っているが、この証言についてあまりにも質問責めにされたり疑われたりしたため、オデルは1度発言を撤回してもいる。その後また修正したが、そうした行動もあって、余計にマロリーとサンディがセカンドステップを元気よく乗り越えたのか疑わしく思われているわけだ。

 

 彼は地質学者の教授でもある登山家だった。非常に温厚な性格で、周囲の気が立っている時でも悠々と新聞を広げ始めるものだから、周りもそれを見て落ち着きを取り戻すなんて話もある。ただマイペースなのんびり屋でもあったので、朝の支度の遅さは輸送班を苛つかせたりもした。

 

 そしてサンディがこの遠征に参加することになったのは、オデルとの接点によるものである。

 オデルは妻と一緒に山を登っている最中、山中をオートバイで飛ばしてきた青年に道を尋ねられてびっくり仰天した。道を教えてもらった青年はお礼を言うとそのままバイクで走り去っていったが、それが当時16歳のサンディだったのだ。

 後に再会した2人は当時のことを思い出し、一緒にクライミングもしている。その際サンディの登攀を見ていたオデルは、その運動神経と初めての岩場にも物怖じせず登れる度胸、リーダーシップなどを高く評価している。

 

 1923年夏にオックスフォード大学が派遣したノルウェースピッツベルゲン島遠征には、オデルもサンディも参加している。エヴェレストに挑むまで、この時到達した約1700mがサンディの登ったことのある最高高度だった。

 その時オデルの見立てでは、サンディは高度のせいかいつも以上に口数が少なかった(恐らくまだ人見知りが残っていたのだろう)が、自分は最後のひと息まで全力を尽くしたいという願い、エヴェレスト遠征への参加を望むことを語っていたという。

 

 オデルは当初酸素装置の担当者を任されていたが、自分としては酸素の効能に期待していないこともあり誰かに任せてしまいたいと考えていた。心身ともにタフで運動神経に優れ、温厚で円満な性格を備えており、機械の天才であるサンディ・アーヴィンはまさにうってつけの人材だったのだ。オデルの推薦により、登山経験に乏しい21歳の学生のエヴェレスト遠征参加が決まったのである。

 

 こうした経緯もあり、オデルとサンディの関係については「オデルはサンディの兄貴分だった」と紹介されることが多い。実際サンディはスピッツベルゲンでオデルを手本としていたし、オデルも遠征に際してサンディの面倒を見ていた。

 それからこんなエピソードがある――スピッツベルゲン遠征について母校シュルーズベリー校で講演するよう任されたサンディは、沢山の人前に立って話すことに自信がなく、ひたすら不安で仕方なかった。サンディはその憂鬱をオデルに打ち明け、彼のエヴェレスト遠征(1922)に関する原稿を見せてもらっている。当人の懸念や自信のなさに反し、講演は非常な好評のうちに終わったそうだ。

 

 しかし遠征が始まると、実質サンディの師となった(選ばれた)のはマロリーだった。語弊があるかもしれないけど、言ってしまえばサンディの鞍替えでもあるので、これによってオデルとサンディの間に若干の軋轢があったかも…とはジュリー・サマーズの見立て。

 サンディはマロリーを手本とし、最初から彼を感心させるために力を尽くしていた。そのことは手紙や日記の記述からも窺える。マロリーほど頂上に執着していたわけではなくとも、サンディもまたてっぺん以外には目もくれていなかった。そして彼がアタックに挑むチャンスを得るためには、最も登頂成功の可能性が高いとされるマロリーに好印象を与えねばならない。オデルはこの隊でリードクライマーになれる人物ではなかったし、サンディもすぐにそのことを理解していた。

 仮にオデルがこのことに心痛め、多少の軋轢が生まれていたとしても、それは周囲に気づかれるものではなかった。二人はトレッキングでもよく一緒に歩いたり走ったりしていたし、長いこと共に酸素装置の仕事をし、他隊員の護衛任務やサポートを行っていた。オデルとサンディの献身的なサポートは、ノートンたちからも非常な感謝と評価を得ている。

 

 マロリーが最後にアタックパートナーとして選んだのはサンディだったが、これはノートンたちからすれば何故経験豊富なオデルではなく初心者のサンディなのかと疑問を抱くような選択だった。この相棒選択の真意について未だに議論されているほどだ。マロリーは登頂達成に酸素が不可欠だと考えており、酸素装置の扱いを熟知していてトラブルにも対応できるのがサンディだけだったというのが、普通に考えて最大の理由だろう。酸素の対応をサンディに任せ、登山としてのトラブルには自分が対応する気でいたのではないかと思う。

 しかしそれ以外の要素としても様々な憶測が聞かれる。「審美眼的な意識から」「ここまで頑張ってきた若者に機会をあげたかった」「オデルと一緒だと意見が拮抗した時に自分の決定を通せない可能性があるが、サンディ相手なら確実にイニシアチブを握れる」「せっかちなマロリーはオデルののんびりっぷりが我慢できなかった」「恋心ないし下心があった」などまあ本当に色々で、ここでその如何について述べるのは避けるけど、これらと並んで「オデルはこの段階で高所順応が上手くいっていなかった」という説もある。

 オデルは高所順応が遅く、長らく酷い症状に苦しめられていた。しかしとうとうここにきて彼は他の誰よりも高い順応度を示したのだ。暴風の吹き荒れるデスゾーンにおいて、酸素を吸わず、ひとりで、二時間もの捜索を行う。海面の30%程度の薄い酸素と台風のような風、悪い足場といった条件の中、帰らぬ二人を探して歩き回り、名前を呼び続けた彼の行動は本当に凄まじいものだ。そうでなくとも、彼は酸素の助けなしに7,000m超えの世界で2週間を過ごすという驚異的なことを成し遂げているのだ。

 

 マロリーとサンディは遠征で初めて出会ったが、インドまでの船旅においてマロリーはサンディを食事に誘って一緒に食べることが多く、やがてサンディの人見知りも打ち解けていった。「最後のひと息まで全力を尽くしたい」と願うサンディは、恐らくマロリーの情熱やひたむきさに共感したのだろう。

 二人は学問における得意分野は真反対といっても良いくらいだったが、スポーツを愛し、ボートに熱中し、友情に厚く、寛容でありながら時々狭量で軽率なことをしてしまう性格要素など、いくつもの共通点がある同郷者だった。マロリーもまたサンディの明るさや情熱に惹かれ、この若いスポーツマンに自分の過去を重ねていたのかもしれない。マロリーの伝記 The Wildest Dream においては「新しい経験を求め、それを実践しようとする熱意と運動能力に溢れた学生時代の自分」の姿を見出していたのではないかと述べられている。加えてマロリーは、サンディとの関係を通して、これまで受けてきた先輩指導者たちとの関係の対極を演じることが出来た。今度は彼が、山を知り尽くした当代随一のクライマーとして、若いパートナーに登山を教える役だった。

 

 しかしサンディが山での振る舞いやロールを模倣する手本がマロリーであったとしても、彼がオデルの連れてきた子であることに変わりはなかった。オデルは自分が白羽の矢を立てた若きサンディが悲惨な最期を遂げたことにひどく心を痛め、責任を感じていた。

 彼の痛切な思いが窺えるエピソードは、マロリーとサンディの最期に関する見解(これは後日の記事にて)や、アーヴィン家と交流を持ち続け、サンディの父が唯一息子の思い出を語らう相手であり続けたことなど、この捜索後にもいくつもある。

 

 オデルは年齢を理由に33年遠征への参加を断られたものの同時期に別の山への遠征で健脚を発揮したり、年老いても氷河を渡り切ってみせたりと、驚くべきタフさを示している。彼はとても長生きしたため(1890-1987)、インタビューに答える彼のカラー映像も残っている…はずだけど今見たら動画は削除されているみたい? こちらの記事参照。