CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

1924-01-01から1年間の記事一覧

1924年遠征 その後

1924年遠征のその後。 範囲が広いので随時追記。 1924年 ざっくり16日以降の隊について 6月19日 6月20日 6月21日 6月23日 6月24日 6月26日 6月末~ 10月17日 12月8日 1925年 1926年 1933年 1935年 1936年 1938年 1939年 1940年 1941年 1942年 1944年 1950年 …

1924.06.16

遠征隊はロンブクを離れる。ノートンいわく「みじめな一行」であった。 夜はザカル・チュ沿いの高台に野営した。この晩は満月で、月光に照らされたロンブク谷とエヴェレストの壮観な様を見渡せる場所だった。 隊員のひとりがこの夜にテントから外を見ながら…

1924.06.15

ベースキャンプにて、余った食料や物資をすべて燃やす。 夕方には隊員とポーターが全員、サマヴェルとビーサムの作った記念のケルンの周りに集まった。高さ90cmの正方形の台座の上に小岩を積み重ねて出来たもので、人の背丈よりも高く、20年代の遠征が生んだ…

1924.06.14

詳細不明、今後要資料集め。 ノートンの日記は6/12~14の記述がまとめられており、非常に忙しかったことが窺える。キャンプ全体が撤収作業に追われ慌ただしかったことだろう。 現段階で思いつく資料はヒングストンの日記なのだが、恐らく活字化されていない…

1924.06.13

朝、ノートンはオデルにマロリーとサンディの遺品を整理するよう頼んだ。イギリスの家族に返すものを選び、残りはベースキャンプで燃やすのだ。 この時オデルが持ち帰ることにした品の詳細はまだ分からないが、サンディについては少なくとも1921年付の住所録…

1924.06.12

オデル、ハザード、ヒングストンらがベースキャンプへ戻る。 ベースキャンプではヒングストンによる健康診断が行われた。全員山での戦いを再開できるような状態ではなく、キャンプⅣより上へ登った者は全員心臓が肥大していた。ジェフリーがあれ以上マロリー…

1924.06.11

キャンプⅢ・Ⅳからの撤退。 【午前】 キャンプⅣのオデルとハザード、シェルパのニマとミンマは、テントや装備を全て残したままキャンプⅣを去る。彼らが持って下りたのは、行方不明になったマロリーとサンディの所持品だけだった。 陽向の気温は31℃もあり、雲…

1924.06.10

マロリーとサンディの捜索、そして打ち切りと撤退。 【朝】 キャンプⅤで厳しい夜を明かし朝を迎えると、ポーターたちはそれ以上登れる状態ではなかった。そこでオデルは彼らをキャンプⅣへ下らせ、自分はキャンプⅥまで行くが暗くなるまでにノースコルへ戻ると…

1924.06.09

マロリーとサンディがキャンプに戻っている気配がない。 帰らぬ二人の捜索のため、オデルがキャンプⅤへ登る。 【朝】 キャンプⅣのオデルとハザードは夜明けと共に起床し、サンディの双眼鏡で頂上付近を探した。しかし未だにマロリーとサンディの姿が見えない…

1924.06.08

マロリー・サンディペア、ファイナルアタックの日。 最初に強調しておくと、この日マロリーとサンディに何が起こったのかを確かに知っているのは当事者である二人だけだ。だからこの二人の動向について書いていることは全て推測・推論で、「だろう」「思われ…

1924.06.07

ここからはもうマロリーとサンディについては日記も写真も残っておらず、彼らの動きについてはマロリーの短い手紙や状況からの推測が中心となる。 1924年6月7日も好天だった。モンスーン前に訪れることの多い10日間の晴天、その最中にあったのである。隊員た…

1924.06.06

マロリー・サンディペアがキャンプⅤへ出立した日。彼らは8人のポーターを伴って、ノース・コルの更に先へと進んでいった。 この日の朝、オデルとハザードは2人のために、炒めたイワシの缶詰・ビスケット・チョコレート・お茶の朝食を用意した。 マロリーとサ…