CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

1924.06.13

 朝、ノートンはオデルにマロリーとサンディの遺品を整理するよう頼んだ。イギリスの家族に返すものを選び、残りはベースキャンプで燃やすのだ。

 この時オデルが持ち帰ることにした品の詳細はまだ分からないが、サンディについては少なくとも1921年付の住所録が含まれる。恐らく遠征中に手紙を送るためのものだろう。これはサンディのリュックサックに入っていたものだが、リュックサック本体はこの日に壊され、燃やされている。

 サンディが在学していたオックスフォード大学マートンカレッジに彼ゆかりの品や資料を集めたアーカイブがあり、その目録の中にこの住所録の記載がある。BOX2とナンバリングされたこのグループには、住所録以外にも財布が2つ含まれるようだ。ひとつはLlanfairfechan*1の切り抜きが入ったもの、もうひとつはサンディの生まれ故郷であるバーケンヘッドからオックスフォードへの電車乗車券が入ったものらしい。これらの財布が住所録と一緒にリュックサックに入っていたのかは断定できない書き方がされていた。

 オデルは彼らの持ち物整理に一日の殆どを費やした。

 

 ノートンは昨日に続いてもうふたつの電報をロンドンへ送った。

 ひとつめはエヴェレスト委員会宛てで、残る六人の登攀班員の健康診断報告が同封されており、隊員もポーターたちも全員もう戦闘外であることを記している。

 そしてもうひとつは個人的にエヴェレスト委員会のヤングハズバンドとヒンクスに宛てたもので、残念ながらどの点においても成功の報告ができず、マロリーとサンディ、そして二人の現地民が亡くなったことを記していた。

 そしてノートンがこれらの電報を送ったのと同じ日に届けられた郵便物の中には、彼宛てに遠征隊に最後の試みにおける成功を祈る手紙も一束含まれていたという。

 

 サマヴェルとビーサムは石を積み上げた巨大なケルンを作った。このケルンには20年代の遠征が生んだ死者全員の名前がドライバーで彫りつけられていて、今でも北東稜ベースキャンプで見ることができる。

 

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*1:ウェールズの海辺リゾート街。