CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

1924.06.16

 遠征隊はロンブクを離れる。ノートンいわく「みじめな一行」であった。

 

 夜はザカル・チュ沿いの高台に野営した。この晩は満月で、月光に照らされたロンブク谷とエヴェレストの壮観な様を見渡せる場所だった。

 隊員のひとりがこの夜にテントから外を見ながら考えたことを回想して綴ったという文章が素敵だったので『沈黙の山嶺』より一部引用。誰の言葉なのか書いていなくて分からない、誰のいつの記述だろう。

 

「昼の光の下では、私たちは物事を明白に現世の、俗界の側面から見るが、月の光は、私たちをより大きく、より永く続く観念に対面させるようだ。私たちのものの見方に神秘の要素を添えるのである。その夜、そのような眺めを前にすると、生の代償は死であることに気づくのはごく簡単なことだった。そして、生の引き渡しが敏速に行われる限り、その個人にとって引き渡しがいつ行われるのかは重要ではないのだ。あの高みのどこか、氷と岩が広がる世界の中に、二つの動かない人影があった。昨日、男として申し分のない活力と意志にあふれ、彼らは偉大なる戦いに挑んでいた――そうすることは彼らの一生の願いだった。今日、その戦いは終わり、二人は行ってしまった。けっして朽ち果てることなくあのままの姿で。誰がこれ以上の終末を望むことができるだろうか?」

 


 

 日付を追う記事はこの6/16付で区切りにしようと思うので、最後に遠征隊の有名な集合写真について。

 

後列左から:サンディ、マロリー、ノートン、オデル、マクドナルド(通訳)

前列左から:シェビア、ジェフリー、サマヴェル、ビーサム

 

 一番有名なのは最後の写真で、少しでも24年隊のことを調べたら絶対目にするはずだ。 これらは5月にベースキャンプで撮影されたもので、最後の彩色写真はノエルの手によるもの。初出は 'THE SUNDAY TIMES magazine' という雑誌の1969年9月28日号。

 

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  私物。また落ち着いたら綺麗に撮り直してまとめます。

 

 ちょっと脱線したけど、この集合写真を撮影した時に有名なカット以外にも数枚撮っていて、そのうち2枚が先のモノクロ写真たち。

 恐らく撮影順は並べた通りだと思うのだけどどうだろう…。最初はお上品そうにしていたマロリーがポーズを取り始めて、サンディが我慢できず笑っちゃうような流れが想像できてすごく楽しい。他の面々は殆ど変わらずじっとしているのに!

 写真や映像を見ているとサンディはポケットに手を突っ込む癖があったようなのでこの時も何の気なしにいつも通りの立ち方をしていたのだろうけど、2・3枚目は揃いのポーズみたいでちょっと楽しくなってしまう。

 


 45秒あたりから集合写真撮影前後の映像。

 

1分からの6秒間ほどのカットが集合写真前後。先の映像にはサンディがいないが、こちらでは左端で楽しそうにしているのが見える。

 

 映像系は映像まとめの記事に置いているけど、見慣れた光景や時間が動き出すような印象を受けるこのカットはひときは胸が詰まるような思いを覚える。

 

 

 昨日の記事にもリンクを貼ったけど、事故後の集合写真と比較して不在を感じてしまったりする。写っているメンバーがマロリー・サンディ以外でも違うので、このふたつのシーンを比べるのはちょっとおかしいんだけどね。 

 


 

 マロリーとサンディの死に限ったことではないが、20年代の遠征を通じて死者が出た時の空気感は恐らく現代日本に暮らして培われた感覚では少し違和感を覚えると思う。度々言及している気もするけど、そのことについて少し補足しておく。

 

 1920年代の遠征はWWⅠを経た「戦後」に行われたもので、隊員たちの殆どは従軍経験がある。24年遠征で戦線に出ていなかったのは、戦争当時まだ若すぎて懲役されなかったサンディと、教職ゆえ徴兵を免除されていたビーサムだけだった(マロリーも教師だったので本来徴兵されずに済んだ可能性が高いのだが、多くの友人が惨事に見舞われているのに自分は仕事を続け幸せに暮らしていることに耐えられず、あまりにも本人が強く志願したため校長が折れて入隊を認めたという経緯がある)。

 20年代遠征とWWⅠの関係については『沈黙の山嶺』が分かりやすく書いてくれているが、人選も軍OB繋がりなら空気も軍隊めいたところがある。上の命令は絶対順守というのもそのひとつだろう。そして死者が出た時の、個人的には冷たく感じられるくらいのドライさもそのひとつだ。

 殆どの隊員たちは、戦線で悲惨な死を迎えた人々、あるいは迎える瞬間を目にしてきた。仲間や友人が死ぬことも一度や二度ではない。その結果、遠征中に死者が出た時でもかなり淡々と受け入れているように見える。

 

 21年遠征でアレクサンダー・ケラス博士が亡くなった時、最も動揺したのはマロリーだった。マロリーはケラスのことを気に入っており、カナダ人隊員のオリバー・ウィーラーのことを嫌っていた(こちら参照)のだが、このウィーラーがケラスの葬儀に顔を出さなかった。ではマロリーは怒ったのかというとそんなことはなく、手紙でも何も言及していないのだ。他隊員も同様で、仲間の葬儀に不参加の隊員がいることに疑問や引っ掛かりを覚えている様子はない。「仲間の死」は彼らにとってあまりにも馴染みあることだった。

 

 そうした空気は24年遠征でも変わらなくて、隊員たちはマロリーとサンディの死に心を痛めてはいるがそれを何日も引きずって口にすることはなく、淡々と受け入れていた。オデルでさえ、12日の日記にはベースキャンプにほっとして伸びやかな気持ちでいることを綴っている。

 資料を読んでいるとこの切り替えの早さやドライさについて行けず、自分だけ放り出されて口を開けたまま、しれっと帰っていく背中たちと氷の山の間でおろおろするような気持ちになったりもする。でも別に彼らが冷淡だというわけではなく、戦争とは何なのかを身を以て知っている人々の感覚とずれてしまうだけの話だ、と今は思っている。

 

 もしもペア分けが違っていたりして、マロリーが亡くなりサンディが生き残っていたりしたら、彼の反応は少し毛色が違ったかもしれないとも思う。

 サンディも従兄弟が戦線で亡くなって遺体も見つからなかったり、兄ヒューが毒ガスを浴びて一生手当の必要な傷を負ったりと、戦争が生んだ犠牲と全く無関係というわけではない。学生の身でありながら英空軍が悩まされていた機関銃とプロペラに関する問題を解決して、軍の技術部を驚愕させたこともある。それでも実際に戦場へ出ていないという差異は大きいと思うし、衰弱した仲間を放置して手当てする気配もないポーターたちに唖然としていたのも馴染みやすい感覚だと思う。

 ただこれは踏み込みすぎな仮定のようにも思うし、サンディの性格上それを日記で事細かに書くことはなく、態度としても抑えようとしていただろうから、手紙を辿らないと読み解けない部分だったことだろう。

 

 それならサンディと同じくビーサムの言及はどうなんだ、という部分が今後の課題かな。彼はまだ性格がきちんと掴めていないし、要素としてもちょっとマイナスに感じる言及が多い(倫理観から戦役を拒否していた人物が24年隊員候補に挙がった際に匿名でスキャンダルを起こして辞退させたが、自分も(『沈黙の山嶺』曰く恐らくは恐怖心から※要出典)戦役拒否していたり…)ので慎重にいきたい。

 


 

 先述の通り遠征隊がロンブクを出たので、ひとまず日付を重ねながらのデイリー更新はここで一区切りにしようと思います。この後みんなで揃ってイギリスに帰るわけではなく三々五々に散っていくので、遠征の具体的な終わりがいつかと決めるのは結構難しいんだ。サンディの日記が3月22日からなので3ヶ月弱でしたね。

 あとはその後のことを時系列でまとめたものを一本、1924/6/17付で置いておこうかな。