CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

虹の谷へ/1921 ①

 1921年5月10日の朝、印カルカッタ港にひとりのイギリス人が降り立った。彼はいそいそと荷物を送る手続きだけ済ませ、午後には駅に向かう。船から全ての荷を下ろすには一日もかからないけれど、そんなのとても待ちきれないという足取りで……。 

 

 今年はイギリスの第一次エヴェレスト遠征から百年の節目だ。そしてちょうど百年前の今日、ジョージ・マロリーは初めてエヴェレストに挑まんとインドの地に降り立った。

 

 この第一次遠征はそれ以降の遠征と違って登頂を果たすことが目的ではなく、登攀可能なルートを見出すことが主目的となる偵察遠征だった。遠征の開始と終了をどう定義するかにもよるけど、インドからのトレッキング開始~山を下りて隊員が解散する頃合いまでとするなら、第一次遠征はおおよそ1921年5月から9月末といったところ。同じ定義なら1924年の第三次遠征は3月下旬から7月上旬。登頂目的の遠征が夏のモンスーンを挟むことは基本的に無い(はず…)ので長丁場に感じる。英国人隊員は以下の通り。

 

隊長:チャールズ・ハワード=ベリー(39)

登攀隊長:ハロルド・レイバーン(59)

登攀班:ジョージ・マロリー(34)

登攀班:ガイ・ブロック(33)

登攀班:アレクサンダー・ケラス(52)

地質学調査:アレクサンダー・ヘロン(37)

測量班:ヘンリー・モーズヘッド(38)

測量班:オリバー・ウィーラー(31)

医師:アレクサンダー・ウォラストン(48)

カッコ内は1921.05.10時点での年齢。

 

 ここで予防線を張っておくと、自分は1924年遠征、それもサンディのことを最優先にしつつ彼とマロリーを軸にする形で調べているので、1921年及び1922年遠征については詳しくないし、複数資料を照合して詰めているわけでもない。公式報告書も読んでいない有様で、この記事のソースは殆ど『沈黙の山嶺』からとっている(引用部も特筆していない限りここから)。なのでここに誤りがあったり、自分が誤解していたりすると修正する機会が殆どない状態なので、24年の話以上に曖昧度が高いものになっていると思う。お金を取っているわけでもないので、他人の調べ物フックという以上に自分用メモの役割が大きいものと見ておいてほしいところ。断定の形をとっている部分も鵜呑みにしない方がいい。

 

 と言い訳したところで、今回は隊員たちについてマロリーからの(イギリス人らしい毒舌もたっぷりな)評を交えながら紹介。

 念のため補足を兼ねて個人的な所感を述べておくと、マロリーは基本的に寛容な人物だけど、友人など好きな人たちに対し本当に親切で優しい一方で嫌いな人間に対してはかなりずけずけ書くし、浮き沈みが激しい部分にも表れているように良くも悪くも感情的な性格をしている。ここに引いている人物評は彼視点の事実ないし真実かもしれないけど、それで対象人物の全てを知った気になるのは偏り過ぎだ。それにマロリーは自分の感じたことを書いているだけで、公平性を持った彼らの伝記を書こうとしているわけでもない。

 それからマロリーへの批判めいたことを色々書いてしまった気もするけど、彼は天才の典型みたいな尖ったスペックを持ち合わせている人で、とにかく普段はそそっかしくて感情的なのだと思っておいてほしい。悪気が無くてもやらかしやすい人で、そのことを書き添えると批判めいてしまうんだ。そして作家志望だった彼の手紙は情緒たっぷりに遠征の様子を綴っているし、登攀に際しても勿論素晴らしい力を発揮しているけど、今回はその辺りの美しいものや業績を引いてこれるようなテーマではないだけなのだ。

 

1921年の英国人メンバー。後列左~:ブロック、モーズヘッド、ウィーラー、マロリー 前列左~:ヘロン、ウォラストン、ハワード=ベリー、レイバーン。

 

■チャールズ・ハワード=ベリー(隊長)

 1921年遠征隊長。27もの言語に通じ、人脈も幅広かった。遠征を事務面で動かしたエヴェレスト委員会の議長ヤングハズバンドの要請でインドへ赴き下見・交渉、第一次遠征への道を開いた。

 マロリーとは対照的な装いで、『沈黙の山嶺 上』p.366の描写が良い。「ハワード=ベリーは背筋を伸ばし、千鳥格子上着ツイードのズボンをはき、ネクタイと金の懐中時計の鎖をのぞかせ、フェルト帽を粋な角度でかぶっているのに対し、マロリーはいたずら好きそうで、手にはミトンをしたまま、首から襟巻がだらりと下がり、両膝を立てて、まるで子供のようである」。

 そんな恰好からも分かる通り彼は上流階級出身の人物なのだが、マロリーが言うには「地主然とし過ぎていて、保守党らしい偏見を持っているだけでなく人の身分に非常に敏感で、自分と同じ身分にない人たちを……見下している。たとえばロナルドシェイ卿にはたいへん愛想よくする――僕に言わせれば愛想がよ過ぎることもある」。ちなみにマロリーは中流階級の人物だ。

 それにこんなことも言っている。「彼には心を許さないほうがいいと感じたし、実際ある意味で打ち解けることはないと思う。あれは寛大な人間ではない。物知りで、独断的で、自分が知らないことを人が知っているとちっとも気に入らない。口論にならないように、僕は会話で持ち出す内容にとても気をつけている。彼と僕が一緒に足を踏み入れてはいけない分野があるから」……経費削減のため途中でポニーを降りて歩いてくれないかとハワード=ベリーから頼まれた夜、その場では黙っていた感情をぶちまけた妻ルースに宛てた手紙より。

 なおハワード=ベリーも委員会のヒンクスやヤングハズバンドへの手紙で他隊員をよく批判していたが、その矛先としてとりわけ名が挙がるのはマロリーとレイバーンだったというから、お互い相性が悪かったということだろう。

 こうして書き連ねると何だか嫌な人で現地人にも厳しそうに思えるが、彼はチベットの人々のことを親切で温かくもてなしてくれたと大変好意的に書き綴っている(マロリーが機嫌の悪かった時にチベットのことを「不愉快な人々が住む不愉快な国」と言い表したような感想とは対照的)。それに彼はポーターたちの信仰心や儀式を興味と感心と思いやりをもって見ており、彼らが望めば供物を捧げたり、場を火や煙で浄めたりするための小休止も許していた。マロリーからは狭量や偏見を非難されていたが、精神世界に関しては彼は比にならないほど視野が広かったと言えよう。宗教への憎悪が大きな理由となって神権国家チベットを嫌っていたウォラストンはこの点で対照的だが、彼はハワード=ベリーのことがとても好きで尊敬していたという。

 

■ハロルド・レイバーン(登攀リーダー)

 当時すでに登山家として有名だったものの、遠征開始からずっと腹痛と下痢に悩まされた。途中シッキムでの療養を挟み再合流している。隊では「神経質な年寄り」として不評だった。批判的な性格で言い訳がましい、そのうえ指図がましくて少しもユーモアを解さず、落ち着きがなかったそう(ロバから2回落馬して2回頭を蹴られていた)。マロリーは彼のことが好きではなく、ブロックとウィーラーからも敬遠されていた。ハワード=ベリーの批判の矛先もよく向いていたが、レイバーンも彼のことは好きではなく水と油という始末。

 全方位と不仲なのは24年のハザードを連想させるが、オデルは彼の気難しさを我慢出来ていたし、サマヴェルも心配の眼差しを向けていた。レイバーンはどうだったのだろう? 此処は今後の課題。

 形式ばったことが嫌いな辺りはマロリーとも合いそうな気がするけど、それどころではなかった。マロリー曰く、「人を非常にいらいらさせる」「言うことがいつも事実と違っている」「くたびれた、争い好きな年長者で、登山にはまったく向いていない」「ぼけてばかなことをしゃべり、そこにいる意味もなく、衰えきって見ているこちらの胸が痛くなりそうな人物」と散々だ。

 

■ジョージ・マロリー(登攀班)

 24年には唯一3度のエヴェレスト遠征全てに参加しているベテラン隊員として中核を担うマロリーだが、この時点ではヒマラヤの経験が無かった。また20年代の遠征はWWⅠとWWⅡの戦間期で軍OBの人脈が物を言ったという背景から隊員の年齢層が高いことに悩まされており、第三次遠征では22歳のサンディとの対比もあってマロリーも年齢に苦しめられる側の立ち位置となるが、隊員一覧の年齢を見ても感じられる通りこの第一次遠征では若手として採用されている。そして勿論、それ以上に有望なクライマーとして。

 先述のように登攀リーダーのレイバーンが終始体調不良に苛まれたため、クライミングのリードはマロリーが担っていた……つまり実質登攀リーダーはマロリーだったようなものである。

 頂上へのルートを探る偵察では30kmも離れたところから見えないノースコルの存在とそれが登攀の鍵となることを見抜くなど山の天才たる鋭さを発揮しているが、実はこの年はカメラの操作を間違えたりストーブに上手く火が点けられなかったりといった機械音痴エピソードも。一生懸命やって立派にやり遂げたことがあると同時に結構やらかしていて、人間らしさが溢れている。

 実のところマロリーはこの遠征への参加を悩んでおり、最初は妻ルースが大反対だったこともあってもう少しで断るところだった。子供もまだ小さいのだ。結局マロリーをエヴェレスト委員会へ推薦したジェフリー・ヤングから直々に説得されたルースが意見を変えて後押ししたことで参加に踏み切ることになったのだが。戦間期イングランドにあって、マロリー自身、この遠征の先に淀んだ現状を打破するような出世や栄光があると期待していた。なおマロリーは続く1922年と1924年の遠征への参加もかなり悩んでおり、もうあそこへは行きたくないといった旨の心境を綴った手紙も残している。

 それでもノースコルへの試登を行った頃には撤退判断が遅く、頂上への執着を強めているように見える。下界にいれば妻子を何ヶ月も置いて己の命を危険に晒すことに悩んでも、いざ山に近づいてしまえばその頂をまっすぐに見つめてひたむきになってしまう。その執念がやがて彼自身を殺したとも言えるのかもしれない。

 

■ガイ・ブロック(登攀班)

 ブロックが参加したエヴェレスト遠征はこの初回のみだが、彼はマロリーのウィンチェスター校時代からの旧友で登山仲間だった。彼は遠征中も後期に高山病を起こすまで概ね良好な体調を維持し、地形を読み取るコツを心得ていた。登攀ルートを探すための偵察ではマロリーと行動していることが多い。

 マロリーが気分屋で忘れっぽかったのに対し、ブロックはしっかりしていて大抵誰とでも上手くやっていけるタイプだった。陽気さを維持できる精神的に落ち着いたブロックはマロリーの良い仲間だった。

 

■アレクサンダー・ケラス(登攀班)

 エヴェレストで亡くなった人として最も有名なのはマロリーだろうが、彼は20年代の遠征で初めて亡くなったイギリス人というわけではない。その条件付けで言うなら、該当者はケラス博士だ。

 彼は遠征の始まる前に1年近くも調査旅行を行っており、隊に合流した時には疲労困憊、腸炎赤痢の症状が出ていた。しかし忍耐強すぎるほどの彼は、己の体調のことを隊長ハワード=ベリーにも、昔馴染みであるモーズヘッドやウォラストンにも言わずそのまま参加。具合が悪くて横になるところを見せまいと気を遣ったり、あまりにも弱っているところを見せないため他隊員からは遅れて出発するなどしていたが、とうとう極度の疲労が原因となって6月5日に心臓発作を起こし亡くなった。彼の墓はカムパ・ゾンにあり、マロリーとサンディを含む20年代のエヴェレスト遠征における犠牲者の名前を刻んだベースキャンプの碑には当然彼の名もある。

 マロリーがケラスと初めて会ったのは5月11日にベンガル知事のロナルドシェイ卿が主催したパーティーだったが、彼は遅刻して来た。それも野外活動用の服を着てずぶ濡れというしわくちゃな格好、なんとここまで6kmも歩いて来ていたのだ。形式ばったことの嫌いなマロリーは、ケラスを初めて見た時からすっかり気に入ってしまった。「ケラスはもう大好きになった。紛れもないスコットランド人で言葉遣いがぶっきらぼう――全体にぶっきらぼうだ。あの盛大な晩餐会にみんなが着席してから十分後に入ってきて、それもひどく乱れた格好だった……ケラスの姿かたちは、茶番劇に登場する錬金術師の見本として完璧だと思う。とても小柄で背が低く、やせていて猫背で、胸板も薄い。頭は……まさに牛乳瓶の底のような眼鏡と、先のとがった長いひげで不恰好に見える」。彼の死に最も動揺したのもマロリーだった。

 

■アレクサンダー・ヘロン(地質学調査)

 ポーターの統率に非常にすぐれていた。また彼の地質学的な発見は非常に大きなもので、22年の遠征にも参加しようとしていたのだが、遠征隊の地理調査と彼の弁明や態度がチベット側の神経を逆撫でしたため、以後はヘロンどころか地質学者の参加自体がなくなってしまった。(チベット側から提示された条件を守らずに彼らを怒らせ後に影響する事件は1924年にも発生している。)

 マロリーの初期印象は簡潔――"退屈"。

 

■ヘンリー・モーズヘッド(測量班)

 ここに挙がっている面々の中では唯一チベット語を話せた人物。本格的な登山経験は殆ど無かったものの、ハードな環境下での働きはお墨付きだった。ハワード=ベリーから一人で未知の領域へ送り込んでも大丈夫と太鼓判を押されていた人物である。また1924年隊のハザードは彼の旧知。

 本当にとんでもなく逞しかったそうで、友人からは「ヘラクレスの縮小版」と評されたとのこと。24年遠征で逞しさを評価されるサンディも大姪から「身長6フィートの日焼けしたヘラクレスFearless on Everestより)」なんて言われているけど、モーズヘッドはどこにいても快適さを気にせず、何を食べても、逆に何日も水さえ口にせずとも平気でいたというのだから、これらの点については潔癖症気味で胃腸の強くなかったサンディよりも屈強と言えるかもしれない。100を超えるヒルに群がられてもてんで平気でいたというのだから凄い。「何かが危険だと考えることがまずないので、自分が危険を冒していることに気づかない」とは1913年に探検を共にしたF.M.ベイリーの評。

 マロリーが語るところによれば「とてもいい奴で、少しももったいぶらず、親切で、顏もしぐさも〔彼の〕弟たちとよく似ているが、背はどちらよりもずっと低い」。随分気に入ったようで、モーズヘッドとウォラストンに会えない日が続いた時は恋しがっている。

 そんな彼もビルマで暗殺されて生涯を終える。この事件は未だ未解決だそうで、妹の恋人に恨まれて撃たれた説が強いものの…といったところ。

 

■オリバー・ウィーラー(測量班)

 与えられた任務はエヴェレスト周辺の地理を調べる測量の仕事だったが、登山家としても非常にすぐれ、大変忍耐強い人物だった。若い下士官でありながらWWⅠで壮絶な最前線を生き延び、沢山の死を目の当たりにしてきた彼のメンタルは、今の日本で呑気に暮らしていると冷淡に見えたり理解が難しかったりするほどだ。彼は最終的にマロリー・ブロックと共にノースコルまで登っている。

 マロリーは理由不明だがやたらとカナダ人嫌いで、カナダ出身である初対面のウィーラーについても最初から軽蔑の念を持って接し情け容赦ないことを書いている。遠征初期にルースへ書いた手紙で言うには「ウィーラーとはほとんど話していないが、僕のカナダ人嫌いを知っているね。ウィーラーを好きになるには、まずごくりと唾を飲み込まなければいけないだろう。神様、僕に唾液をください」。

 しかし5月末の手紙ではこうも言っている。「ウィーラーには植民地出身者らしく退屈なところがある」「でも嫌いではない」。実際ウィーラーは退屈な男などではなかったはずだが、マロリーの酷いカナダ人嫌いを思えば、彼に唾液を飲み込ませただけでも立派な人だったのだと思えるほどだ。

 そして七月には、表には出さないもののまた少しずつ考えを変えていた。というのも彼とブロックが比較的温暖なカルタへ偵察に向かっているあいだ、ウィーラーは標高5,800mを超える高所で長期野営しながら、モンスーンの合間で晴れを待ち続ける最も困難な任務を何ヶ月も担っていたのだ。たった一人で! 彼の最大限評価されるべき偉業は、たとえ表向き素直に認めなかったとしても、マロリーの目にも明らかなことだった。

 

■アレクサンダー・ウォラストン(医師)

  この遠征にはアレクサンダーがいっぱいいるけど、ウォラストンはサンディ・ウォラストンと表記されることの方が多いはず。(「金髪のアンディだからサンディ」というサンディ・アーヴィンの愛称がイレギュラーなだけで、本来 Sandy は Alexander / Alexandra の愛称。)

 医師ではあるが健脚で、具合の悪いレイバーンをシッキムへ送り返すのに同行しながらも恐るべき速さで本隊への再合流を果たした。24年にブルース将軍を護送したヒングストンを思わせるが、この時は登攀要員の手を割かれる危険はあるもののサマヴェルも心得があったので、21年の方が万が一の際に抱えるリスクが大きかったように思える。

 マロリーは彼のことも前々から知っており、「とにかく献身的で私欲がない人」と評している。この年の隊の中では最も親しかったそうだ。

 

 

 まとめると、マロリーから見た1921年の隊員で最初から印象が良かったのはブロック・ケラス・モーズヘッドの3名、悪かったのはハワード=ベリー・レイバーン・ヘロン・ウィーラーの4名。ケラスがここから一ヶ月も経たないうちに亡くなることもあり、彼の視点では先が思いやられる。必ずしも個人的な心証の悪さが任務に大きな悪影響を与えるわけではないし、ウィーラーに対しては考えを変えてもいるのだけどね。

 それにしてもこの21年遠征の隊員たちへの印象を踏まえると、24年遠征はサマヴェルを始めとする昔馴染みが沢山いて隊長ブルース将軍のことも好き、初顔合わせとなるサンディ・ビーサム・ハザードへの第一印象も良かったことで、インドに降り立ち皆と顔を合わせたマロリーが元気づくのもよく分かる。

 

 こうした英国人隊員、そして通訳や沢山のポーターたちで構成された隊は、世界の屋根のてっぺんに至る道を探すためインドからチベットへ、そしてエヴェレストへと進み、マロリー・ブロック・ウィーラーはノースコルへの試登を行うことになる。

 しかし万事順調とは言い難かった。

 現地での警戒やポーターたちによる食料盗難を始めとする問題は随時出ていたが、編成に大きく影響するような事件は6月5日――ずっと具合の悪かったケラスが亡くなったのだ。そして同日、ずっと下痢と腹部の激痛に苛まれていたレイバーンをシッキムへ送り返して療養させることになった。

 2人の登攀班員の離脱は確かに痛手だが、結果としてエヴェレストへ登る実働部隊としての中核をマロリーが担う流れを作り出した。これは1921年に限らず、その後の遠征にまでわたる運命の話だ。

 登攀リーダーのレイバーンも年上のケラスもいなくなり、ウィーラーも登山に長けているが彼は測量班員。言い方は悪いけど、「マロリーが登る」ための障害が一気に取り除かれた形だ。ブロックも優れた登り手だったが、歳も殆ど変わらないこの二人を並べるとなれば、どうしても天才であるマロリーに軍配が上がる。

 6月15日、偵察に出ていたマロリーとブロックは、快晴の下でエヴェレストの姿を目の当たりにする。マロリーは岩場で登攀ルートを見出すのが非常に上手かったが、この時彼は30kmも離れたところからたった一目見ただけで、その地点からは隠れている部分に存在するノースコルの存在を言い当てた。その後の遠征、そして現代でも登攀の鍵となる地点である。

 しかしこの時期はモンスーン真っただ中。到底山に登れる時期ではなく、エヴェレストやその周辺を探る偵察にも骨を折ることになる。(3年後の今日どこにいたのかを見れば、この年の到着の遅さは明白というもの。)

 やっとのことでノースコルへ至る道を見つけ(ここが非常に大変で重要だし色々な事件もあったのだけどもっと噛み砕きたいのでまた別の機に)、先述の三人は9月23日ノースコルに登る。マロリーだけはまだ元気だったが、ウィーラーは脚が冷え切っておりブロックは気力があっても体力が追いつかない。マロリーは一人でも登りたそうだったが思いとどまり、ここで引き返した(マロリーは自分より弱い登り手を置いてひとりで登るようなことはしない人物だったと証言されている)。

 しかしここでの描写が綺麗だ…「エヴェレストにすっかり心を奪われていたマロリーは、雪と氷の壁がある程度の風よけになっているとはいえ、それでもすさまじい突風が一行のいるところで吹き荒れているのに気づいていないかのようにウィーラーには見えた。マロリーの髪の毛には氷の結晶ができ、まつ毛にも霜がついていて、その眼はまるで別の空間に落ち着いているかのようだった。」

 撤退しキャンプへ戻ったのが9月25日、あとは皆揃ってインドまでトレッキング…というわけではなく、隊員たちは三々五々に散っていった。マロリーとモーズヘッドは26日にカルタへ向けて出発、ブロックとレイバーンも28日に合流している。マロリーは(そして彼と一緒に最短経路でチベットを横断しダージリンへ戻るつもりだったブロックも)一刻も早く家へ帰りたいあまり、カルタ谷上部のキャンプから物資を撤収する指示をポーターたちに任せ、隊長ハワード=ベリーにもろくすっぽ挨拶せず出発してしまったのだ。ハワード=ベリーはヒンクスとヤングハズバンドに宛ててマロリーとブロックが全く役に立たなかったと怒りの手紙を書いたがやむなしといったところ。

 

 こうした遠征の詳細やこまこましたエピソードについてはまた別記事で。

 マロリーが出会ったポーターのニマのことも書きたいのだ。 

 

  最初の方にも書いたけど、この記事のソースは殆どこの2冊から。ボリュームたっぷりで、マロリーのことと1920年代の遠征を知るのに良い本。何なら1920s遠征の資料として一冊勧めるなら私はこれを推す。

 とても読みやすい本だけどとっつきにくいという方は、まずは訳者の秋元由紀氏によるコラム「沈黙の山嶺・小話集」だけでも是非。マロリーの像で心滅茶苦茶にされるし、濃い人しかいないぞ!

 余談。コラムにもあるけど、マロリーは山と登ることについては天才的に鋭いものの、それ以外ではかなり抜けていてそそっかしくぼんやりしている人だ。機械音痴でもあり、21年遠征では乾板を裏表逆に入れてしまったせいで、一ヶ月ほどもかけて奥まった一帯の貴重な写真を沢山撮ったつもりが全部だめにしてしまうという大失敗もしている。1924年、彼が機械の天才サンディに大きな期待を寄せていたのは尤もだし、自分が疎い酸素装置を使う以上は機械トラブルに対応できる彼が必須となるのも当然。99年に見つかったマロリーがカメラを持っていないのも自然なことに思える。初登頂の証拠写真という重大なものを撮ろうとするなら、自分よりも機械の扱いに長けており、写真の腕もいいサンディに任せない理由は殆ど無いのではないか。