CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

STARGAZER: 5th Stage

f:id:CampVII:20210409203757p:plain

 

これの続き。

 


 

5th stage: The long afternoon of Himalaya

 

'It is a most perfect night, starlight and about first quarter moon with lightning flashing on the horizon and the Dzong towering many hundred feet above us in the moonlight.'

  ──Andrew C. Irvine, 11th April 1924

 

 

 二〇二四年五月十四日

 

 此の嶺峰に御座す神の姿とは、

 二脚で這い寄る黒き言葉である。

 

 と、想像している。

 口の中で小さく祈りを呟きながら、屍体のように身をこごめている。■■る・しゅ■ん、■■る・が■■ん■。凍った舌を上手く回せるかという問題は慣れで解決するものではないが、たとえ熱いスープを含んだとしても、この祈りの文句は人の舌には難しい。■■る・しゅ■ん、■■る・が■■ん■。これでも随分上手くなったと思うのだが、神には拙い祈祷に聞こえるだろうか。もっとも、Iが唯一話せる英語でさえ、この身体で綺麗に発音できるのは、驚くべき器用さと努力の賜物なのだが。

 まんじりともせずひとり過ごす夜には、とうの昔に慣れてしまった。暗闇の中でじっとしていれば、きっとすぐ傍に眠る死者たちと何ら変わりない。ただその思考を止めることが可能かという点だけが、白い頭蓋の内に触れることのかなう神の印する差異なのだ。

 瞼を閉じれば天幕越しに北東の風が怒鳴り、開けば闇に慣れた眼に影が躍る。そしてIを責め立てるのだ――何をしている、無駄なことをしている暇など無い、この一刻一秒が取り返しのつかない罪の積み重ねだ、これ以上待たせるのか、彼に会いたくないのか、と。Iはじっと、その痛ましいほどの調子の訴えに耳を傾け、冷静と思われる理屈を積み重ねる。そして黙したまま答えるのだ。ことを為すために、これも必要な行為なのだと。そして悲鳴か嘆願のような訴えに意識を向けることをやめ、これからの計画と、今までのことを振り返り、丁寧にさらっていく。考えていく。想像してみる。それらの全てが、もう幾度目のことか分からなくなっていた。

 ひと月近く前に借りたペーパーバックに触れる。『眺めのいい部屋』……どんな話なのだろう。皮肉なタイトルだと思ってしまう。陽の下で開いてみたところでⅠにはまともに読めないのだが、暗号のようなページの中に刷られたGeorgeの文字だけは、「苦しい」ほど懐かしく拾えた。

 あの人がモデルになったジョージ・エマースンは、どんな人物なのだろう。Ⅰが知るジョージ・マロリーは、一九二四年にイギリスを離れてからの姿だけと言っても差し支えない。Ⅰが彼のことに関心を持ち、知りたがっているのを見て色々と教えてくれる人もいたが、それらの話も殆どがこの山に直接関係することばかりだった。おまけにⅠの性格を誤解してか、愉快とは言い難い噂話も少なくなかったので、いつしかその話題は避けがちになってしまったのだが。

 時々は、そのアタックパートナーの名前が出ることもあった。機械弄りとスポーツの才を見込まれて招聘された、アルプスの経験もない学生。ジョージ・マロリーのパートナー選択の真意は今でもちょっと謎、という意見があるらしい。詳しいことを思い出そうとするとあまり良い気分にならないので、Ⅰはこの話を忘れたことにしている。

 ジョージ・エマースンは、Ⅰの好奇心と思慕を埋め合わせてくれる存在だろうか。時間のある時に、この本の持ち主にあらすじだけでも訊けばよかったと、少しだけ後悔している。だがあの偉大な登山家についての話を求めてこなかったのは、きっと正解だ。もしも彼と語らうことがあるとすれば、それは彼の目的について口を割らせてからだ。仕掛けるとしたら今日がいい……絶対に彼自ら向かう、うってつけの舞台があるから。Ⅰの傷を抉る羽目になったとしても、これだけは絶対に探っておかねばならない。

 八時間ほどそうして横たわっていると、もう何百、何千、もしかすると幾万と重ねたのかもしれない朝が勝手にやってくる。が、Iの朝はもう三時間ほど早い。それまでにうんざりするほど時計を確認した挙句、Iは無駄な荷でしかない寝袋から這い出す。そして今日の空模様を読み、少し先までルートの様子を確認してから、仲間たちの食事の準備を始める。これは珍しい日課だ。何しろIは、今に至るその永い日々において、ひとりでなかった時間の方が圧倒的に少ないのだから。かつてのIは、他の多くの人々と同様に朝食作りを辛いと感じていたのかもしれない。しかし今のIに、その苦痛を共有する理由は無かった。

 東を向いたテントから這い出すが、時刻こそ朝に近づいているものの、まだまだ見える景色は夜そのものだ。心細げなテントたちを見下ろす空はもはや、半ば宙と化しつつある。太陽が昇ってなお宇宙の色が透けて見える、薄い天球。真昼のシリウスすら見えるほどに、この辺りは昼と夜が近い。太陽が最も高いところに昇り詰めてさえ、モノクロの山嶺を覆う蒼穹は黒々としているものだ。夜闇で目を凝らす限り、雲は殆ど見当たらない。今日は午後までよく晴れるだろう。良い兆候だが、気は晴れなかった。

 眠りについたままのキャンプを後に、ひとり雪の道をとぼとぼ歩く。いつも他人に見せる、力強く待ちきれないような足取りが嘘のように、その歩みはなんとも寂しげなものだった。孤独な視界で星明かりを受けちかちか瞬く雪は、無数の小さな眼球が埋まっているかのようだった。その無機質な眼差しを遮るように一歩一歩踏み出しては、その足跡に更なるぎらつきの喧騒を敷いていく。積もり凍った雪は締まってこそいるもののかなり深く、進むにはこれまでより少々負担が掛かるかもしれない。いつもより多めに荷を担えるよう、それも気づかれないくらいさり気なく手を回してやるのがIなりの親切というものだろう。ぼんやりとそんなことを考えながら、丁寧にクレバスが潜んでいないか調べ、覇気はないが疲労もない脚でばこばこと深雪を蹴り、ちょっと途方に暮れてしまうような雪原に細いトレースを刻んでいく。

 暫く歩いて行くうちに、東の地平に近い空は徐々に黒ではない色を帯びていく。遥かな際が黒から濃紺、青、黄に染まり、やがて峰々はヴィーナスベルトに覆われていくはずだ。美しい朝焼けになるはずだった。加えて言えば、あまりにも見慣れているがゆえに、感動も感傷もない。だが今日その始まりはあまりにも暗く――否、暗さを通り越して黒かった。鮮やかな色を帯び始めてもその印象は変わらず、柄にもなく根拠のない不安を感じる。慰めになるかと、Iは久方ぶりに記憶の底から故郷の空を拾い上げようとしたが、すぐに無駄な努力と悟って苦く笑んだ。仮に失った色を思い出せたところで、もうIには縁のないものだ。

 くるりと向き直り、ここまでの足跡に重ねて踏み固めるように下っていく。キャンプを後にして登ること約四十分、凡そ一マイルほど来ただろうか。下りまで含めて一時間ほどの偵察であり、仲間には秘密の「朝の散歩」だった。ライト以外には簡単な衣類とアイゼンにアックス程度しか持っておらず、非常に軽い装いとはいえ、間もなくデスゾーンに足を掛ける領域では恐るべきペースだった。これで重荷を背負って登る時には、仲間たちは少なくとも三度踏まれたトレースを辿ることが出来る。

 ……それにしても、本当に黒い朝だ。此処には永遠に、夜明けなどやって来ないのではないだろうか。

 未だ寝静まっているキャンプへ戻ってくるとアイゼンを外し、手早く着替え、何食わぬ顔で雪と水を火にかけながら、花色に染まる万年雪のピラミッドを見上げる。純粋に頂上を目指す仲間を、何とかしてあそこまで連れて行ってやりたいものではあるのだが。そしてかつてI自身もまた、あの頂へ至るため必死になっていたことがあったと思い出す。決して忘れてはならない記憶なのに、流星のような当時の情熱をその心に蘇らせるには、少しの努力と瞑想を要するようになっていた。それでも思い出せるだけましというものだ。

 Iの目的は、とうの昔に、登頂ではなくなっている。

 じっと身を固めていると、たとえ天国から溢れ零れたような光の中であっても、この山へ置き去りにされた二百の物言わぬ凍死体になったような気持ちになる。南西壁を超えて吹き下ろす風はつららを削いだ鋸刃のようで、バラクラバ越しに切れぬ耳朶を打ち続け、その中には死者の声が混ざっているような気がした。生者のそれより、遥かに聞き慣れてしまった声だ。この山にもシーズン中は随分人が来るようになったけれど、それでもやはり此処は生者の世界とは言い難い。何しろ見上げれば、黒い宙に穿たれた穴から見下ろしてくる外宇宙の眼差しと視線が交わる。逸らして俯けば、光線を映した雪に潜む銀色の眼球がびっしり。怯えて天幕に籠ったとて、猟犬のように吼え猛る呪詛に囲い込まれ、眠れぬまま悪夢に足を浸すばかり。この山に、この世界に、逃げ場なんてどこにも無いのだ。もはやこの世界の一部となってしまっているⅠ自身、きっと本当は此処にいてはいけない存在なのだろう。

 耳元で低く囁く声は天幕越しの咆哮とは違い、決してIを責め苛むものではなかったが、今は聞きたくないと軽く追い払うように適当な歌を口ずさむ。そう、たとえば……聖体賛歌(Hymnus Eucharisticus)なんかどうだろう。ついこの間まで、どうしてこの歌が好きだったのかはすっかり忘れてしまっていたし、歌詞もメロディーもひどくうろ覚えだったのだが、全部後輩が正しく教えてくれたのだ。残念ながらラテン語の歌詞は覚えられなかったが、Iにはそのやり取りだけで十分だった。それに五月一日の朝六時にしか歌ってはならない法もあるまい。うん、これは名案だ。

 薔薇色の頂へ小声に歌いながら湯を沸かす姿は、ちゃんと陽気そうに見えるだろうか。どこか寂しそうだと言われる度に、Iは少し不安になっていた。しかし今、明けの空に歌いながらもその思考の表層を占めるのが、この星に、今この山にいる人間以外の人が住まうとは俄かに信じがたいという考えだと知られたら、人は然もありなんと頷くだろう。とはいえ、それは的外れな見解というものだ。もし仮に、あの地表に何十億という人間が住んでいたとしても、それは故郷の空と等しく、I自身にはとうに縁の無いことと感じる。麓から見ればこの山は近づきがたい世界かもしれないが、この山に住まうものからすれば、あの麓から向こうこそ立ち入ることの許されぬ禁域であった。そしてそれは、此処がIにとって十分な大きさの牢であることを意味していた。

 ところで、と、短いフレーズを二十回は繰り返したところで我にかえる。今日の空は、何時までこんなにも黒々と厭な顔をしているつもりなのだろう。Iは鮮やかな雪に落ちる青い影をじっくり観察し、雲と太陽と星を見つめ、それが認知の歪みであり、心因性のものであると冷静に結論づけた。

 大丈夫、と呟く。大丈夫。元々多かった気掛かりがひとつ増えただけなのに、そんなに宙を黒く思うことは無いじゃないか。……そして、そのひとつの気掛かりがどれだけ厄介で、癇に障るものかを自覚してしまうのだった。文句こそ違えども、似たようなセルフセラピーをここ一週間、毎日のように繰り返している。Iらしくないことではあったが、それも仕方ないのかもしれない。自身の危機については無頓着と評されるくらいだったが、■■■■のこととなれば話は別だった。

 そんなことを考えながら、クッカーの沸騰する湯の一部をマグに移し、靴を履いたまま自分のテントへ這い入る。天幕の影で口元を覆うバラクラバを外し、くいっと煽った。口の中に暫く熱湯を含んでいると、凍った舌が融けていくのが分かる。柔らかになった舌でぬるい湯を喉へ流し込み、顔を拭い、バラクラバを引き上げ、今日のお茶を選ぶ。

 どういうわけか、昔から読み書きは酷く苦手だった。その傾向は恐らく酷くなるばかりだが、馴染みある単語はまだなんとか理解できる。幸いにも今期Iのお茶を飲む面々は好みにうるさいタイプではなく、いつもIの作るものや淹れるお茶を喜んでくれた。いや訂正、一度だけ砂糖と塩を間違えるという古典的なミスをして酷い顔をさせた。I自身も身元の証明を立てられず怪しいことは承知しているので、自分が作ったものを食べてもらえるのも、喜んでもらえるのもとても嬉しいことだったし、失敗した時は心から申し訳なく思った。自然と各キャンプで補充する茶葉にも、サービス心が加わる。とはいえお茶についての知識も失って久しいので、茶葉そのものの状態とパッケージの品質を参考にするしかなかった。料理もそうだが、何につけても人から聞いた数字と嗅覚頼りである。

 ――今日はカモミールティーにしようか。ああでも、これをくれた人は夜に飲むものだと言っていたっけ。(本当にそうだっただろうか? Iは昔、カモミールティーを朝に飲みはしなかっただろうか? この花と朝陽の白い組み合わせのどこが悪いというのだろう?)真剣に吟味しながらふと気づくが、いま緊張をほぐすような優しい香りを求めているのは、きっとIだけの都合だ。彼らは目前に迫っている頂に緊張を高めているだろうけど、今日はまだ特別な日ではない。ここは飲み慣れたアールグレイか……それとも、おやつ時のようだけど、フルーツの「甘い」香りがするフレーバーティーの方が嬉しいだろうか。今日の朝食分として任されている材料からはスープを期待されているのが明白で、他はゼリーか、チョコレートやミントケーキなりの高カロリー食で賄うつもりなのだろう。Ⅰの次にタフな男を除けば、もはや固形物を食べるという行為が苦行と化しているのは、その表情からも明らかだ。昼も似たり寄ったりなメニューになるはずである。スープ以外は「甘い」。ならば風味の傾向が揃う、フルーティーな香りのお茶を出してもそう問題ではないだろう……多分。砂糖を入れたらくどいかもしれないから抜いておいて、欲しければ各自で好きなだけ足してもらおう。

 林檎の絵が描かれたティーバッグを密封袋から取り出し、クッカーの元へ戻る。この辺りだと沸点はかなり低いが、もう問題ない。美味しいお茶のコツは、正しい温度のお湯で淹れることだと思う。根拠はどのティーバッグにも大抵入念に一〇〇℃/二一二℉と書いてあること。時々そうではないものもあって、ご要望があれば淹れるのだが、勘で淹れる上に反応を見るまで出来も分からないのは、Iの中の几帳面な部分が随分気持ちの悪い思いをする。今回の仲間が食に寛容、あるいは適当なのは、Iにとって重要ではなくとも嬉しいことだった。

 封を切ろうとしたところで、風とバーナーの唸りに混ざってファスナーの下りる音がする。自然と気が引き締まり、背筋が伸びる。起き抜けからすっきりと速い足音。そら、早起きの「気掛かり」がやって来るぞ。

 さくさくという足音は近づいてきて、Iの傍らに無言で雪を盛り、クッカーを広げ始めた。ここ一週間、Iと彼のあいだには、挨拶を交わすようなそうでもないような、何とも微妙で居心地の悪い懲役三十分が課せられていた。距離を置けばいいものを、彼は何故かこれまでと同じように隣へ陣取ってくる。

 Iはティーバッグを落として蓋をし、入れ替わりに隣のバーナーが目覚める。二人とも暫く無言で視線を落としていたが、ふと彼が空を見つめ、少し気味悪そうに言った。

「随分暗い朝だな」

 挨拶代わりの言葉に、思いがけずほっとしてしまった自分がいて少し嫌になる。お人好しで酷い目に遭うのが自身だけならば構わないが、彼を巻き込むとなれば話は別だ。

「この辺りでは、快晴の朝はいつもこんな風ですよ」

 常通りの丁寧さで答えようとは思ったのだが、ついつっけんどんな言い方になった。やたらと突っかかってくる割に気にしいな赤毛の隣人が、少し気まずげな、取り繕うような調子で重ねる。

「そう。風が強かったけど、よく眠れたか?」

「いつも通りに」

 素っ気なく返してから、一応心配してくれたのに少々大人げなかったような気もして、Iは取り繕うようにクッカーを揺らした。

「モーニングティーは?」

「いつも通りに」

 仕返しのような尖った返事に、これは仕方ないと小さく肩を竦めた。そしてぎこちない会話に続く無言のうちに、いつものルーティンが進んでいく。淹れたお茶を二人分の水筒に注いで、スープの準備を始める。またバーナーの唸りが交替した。なんて無駄だろう。何もかもが非効率的だ。

 たとえ相手に対し思うところがあれども、他のメンバーに直接迷惑を掛けるようなことはしない。それが二人の間の不文律だった。Iも彼も言い訳の余地なく大人で、しかも本当なら喧嘩をするのも馬鹿らしいくらい歳が離れていた。こんなことになるはずではなかったのだ。それに加えて、Iにはこの大きな蟠りを抱えた相手を危険に曝す気もさらさら無かった。それだけは絶対にしてはならない。だが、もしも彼が、ただ一点を犯す気ならば、……。

 もしかすると、Iは彼を助けたことを後悔することになるのだろうか。それは脳裏をよぎるだけでも嫌な想像だった。矜持に悖るし、まるで自分が化物になってしまったかのような気分になる。

 誤りは許されない。決して早まるわけにはいかない。楽観的になってはいけないし、必要以上の疑いで歪めてもいけない。隠し事だらけの二人には、困ったことに正直な話し合いが必要だった。自然に解ける氷など、此処にはない。今日という日を、繊細な酸素装置を扱うように、上手いこと進めなければならなかった。

 視界を切る影に揃って見上げると、まだ早い高所の空に、ゴラクのひときわ不吉な影までもが踊っていた。ああ、本当に嫌な朝だ。いくつもの憎悪を抱えて歩むには、Iの精神は少々潔癖すぎた。

 

  ///

 

 閑話休題。しゃんと起きて、先へ進むべき時間だ。

 たとえ案内人が嫌な朝だと感じていても、それがパーティーの危険に関わる予感でない限り、好天の中を進まない理由にはならない。模範的と言うには偏った荷の分配に、疑念を覚える者はもういなくなっていた。ひときわ大きな荷を負った青い影が刻んでいく三度目のトレースが、四、五、六度と踏み固められていく。

 身体は念入りに慣らしているが、それでも生物学的に順応の限界ラインだった。しかしまだ酸素は使えない。荷は重く、それでも一歩一歩着実に進んでいく。確かに苦しいが、最終キャンプを目指して順調な歩みが続いていた。少なくとも最初にデスゾーンを踏んだ時よりはマシだ。ただ一点気になることがあるとすれば、岩片が雪上を転げるかのように、宙舞う翼の落とす影が視界を横切ることだった。キャンプⅡを出てからも一時間以上そんな状況が続き、今日は自分たちが狙われているものと認めた。

 公募隊やキャラバンのような大規模遠征ではない以上、荷物は極限まで切り詰める必要がある。当然食料とて贅沢をするわけにはいかず、量やカロリーこそある程度の余裕を持たせてはいるものの、美味しさや種類は我慢を強いられるラインナップとなっていた。それが幸いに転じたのか、此処まで登ってくる間に鴉を見かけることはあっても狙われはしなかったのだが、いよいよデスゾーンに足を掛けようという段になって、向こうも選り好みしなくなったらしい。

 サンディはひどくピリピリした様子でアイスアックスを握りながら、時折希薄な空気を掴む黒い姿を睨んでいた。一マイル限りの、妖精の親切めいたトレースはもう消えていた。クレバスを警戒する手元は丁寧だが、苛立ちを抑えきれないように雪面を突き刺している。二度目の小休憩を取る頃には、スピッツェの先が丸まっているのではないかと思うほどだった。

「それにしてもゴラクが多いな。相当高いところまで追ってくるとは聞いていたけど、もっと少ないものだと思っていた」

 小休憩に入り、早速ぬるいお茶を飲みながら、いよいよ黒さを増していく空を飛ぶものを見上げる。会話の一言一言の間に意識して息を吸わねばならないほど苦しかった。山岳救助隊のヘリコプターさえ寄り難い空を己の翼で飛ぶものがいるとは、何とも逞しいものだ。しかし考えてみれば、自分たちだって車など入れない場所を己が足で歩んでいる。機械はこの星の奥地へ進む助けとなるが、最後には二本の脚こそが極める場所は多いものだ。

 エリオットの少々感傷的な色を含んだ言葉に、オリバーは怪訝そうな顔で答えた。

「いや、南東稜ではここまで見かけなかったぞ。数年で様変わりしたのか、元々北稜はこんなに多いモンなんだか。良い餌場でもあるのかね……恐ろしいこった」

 そう言って、薄気味悪そうにルートの向こう、切れ落ちた北壁を見やった。まだぎりぎりデスゾーンに踏み込んではいないが、十分に救助の難しい高度だ。覗き込めばゴアテックスの一着くらいは見つけてしまうかもしれない。

 エリオットと並んで空を仰ぐローズの眼差しだけは、黒い大きな翼たちへ好意的だった。しかし彼女は、口を開く前につと不安そうな視線を滑らせた。

 サングラスとバラクラバの隙間から見えるサンディの横顔が、物凄い目で空を睨んでいた。先日の「花火」は、彼が狙ってゴラクの群れへ投げ込んだわけではないと分かっている。彼はただ、自分が危険物を握っているのを見て慌てて取り上げ、投げた先に偶然ゴラクの家族がいただけに違いない。しかしあの尋常ではない浮かれっぷりに抱いた空恐ろしい印象は、本当に花火に喜んでいただけのものなのだろうか。彼はゴラクを爆炎に巻き込めたことに喜んでいなかったという確信は持てなかった。

「サンディ、動物は嫌い?」

「いえ、そういうわけでは」

 ローズの問いに答える声もどこか固かった。自分でも気がついたのか、誤魔化すように咳払いすると、ヤクやラバならもっと好きですよと冗談めかして片目を瞑ったらしい。ちょっと先の様子を見てくると言い残して、ピックの先を剣呑に揺らしながら、先方に鎮座する氷瀑めいた小ステップを登りに行ってしまった。

「あいつの気紛れは今に始まったことじゃないけどさ」背中を伸ばしながら、エリオットが小声に言う。「こうもピリピリされると、どうにもからかいにくいね」

 またお前は余計なことを、という目を向けたのは、意外にもオリバーの方だった。

「確かに今日はかなりの不機嫌だが、良くたってお前はからかっている場合じゃないだろ。この少人数パーティーでぎくしゃくしたまま一週間とか、勘弁してほしいんだが」

「ちゃんと協力し合ってるだろ、寝坊助が全てを見ているとは言わせないぞ。俺たちそこまで子供じゃないし、そもそも俺は今日何もしてない、はずだ。あれとは関係ない」

 尤もな非難への弁解は聞き入れられ、話は打ち切りになった。

「それとローズ。おいローズ、今日は随分大人しいが大丈夫か。無理したら命とりだぞ」

 オリバーがいつになくぼんやりしていたローズの肩をつつくと、彼女は少し驚いたように振り向いた。大丈夫と答える表情も冴えず、エリオットとオリバーは顔を見合わせた。

「本当に大丈夫だって、不調を隠したりなんかしないから」慌てたように言いながら、ローズは口元を覆うものを下げて、色のいい唇で笑った。「ほら、顔色だっていいでしょう」

「じゃあ何か心配事か。今言えることなら言っておけ」

「だな。席を外した方がいいなら離れるけど」

 腰を浮かせたエリオットに、そうじゃないと首を振った。

「違うの、サンディのことで……いい子なんだけど、彼、ゴラクのことがすごく嫌いなんだと思う。だからあの子たちがあまり寄ってこないでくれると良いんだけどなって」

 言いながら、ぐるぐると円を描くように飛び交う翼を見上げた。向こうもきっと、こちらの様子を窺っていることだろう。食料を広げるのを、あるいは一行が死体になるのを待っているに違いない。チベットでは伝統的に鳥葬も行われているが、少なくともそのような文化を持たない者の中に、人間の死体を啄む巨大な鳥を嫌悪する者が一定数いることは仕方あるまい。だがその嫌悪が積極的に彼らを害するほどの敵意だとしたら、もしかすると尋常ではない事態が起こり得るかもしれない。

「私は結構好きなんだけどな。ベースキャンプのハトやカラスだって愉快で逞しいけど、こんな薄い空気の中でも飛ぶゴラクを見ると元気が出る」

 ――それに、サンディの優しい性格を疑いたくない。

 心配そうに空を仰いだローズの懸念は、残念ながらほんの一時間半後に悲惨な形で的中することとなる。

 

 先行したサンディが引き返してきてから、再びゆっくりとした歩みが始まった。出立後の一マイルのように敷かれたトレースを辿り、予め確認できていたクレバスに梯子を渡し無事に乗り越え、数度目のルートをなぞる。キャンプⅢに着けば、苦労して何度にも分けて運び上げた荷が待っていて、目前に迫る彼らのファイナルアタックを支えてくれるはずだった。

 行程も残り三分の一を切ったところで昼食のため荷を下ろした。天に吊り上げられそうな軽い背を伸ばしながら、各々ボトルや防水袋を取り出していく。ザックを置いたのは、おまじない程度の烏よけになりそうだが寒々しい岩陰だった。しかし少し離れた小岩の高台まで行くと見晴らしがよく、強い陽と風が合わさってなかなか快適そうである。途中に平らかな段が出来て雪が積もり、背もたれ付きの天然ソファのようになっていた。慣れた光景とはいえ、この環境で想定できる限りベストなランチタイムを過ごせそうだった。

 自分は此処で荷の番をしておくから、一番良いところに陣取ったら良いとサンディが勧める。それでは食べ終わってからも寒々しいではないかと言えば、今日はそれでいいと首を振った。一人でいたい日もあるだろうと、誰もそれ以上は追及しなかった。

 三人が小岩にかたまり、防水袋を開けたところでローズがあっと声を上げる。スープのボトルを置いてきてしまっていた。取りに戻ろうとすると、ザックの傍に置き去りにしているのに気づいたのだろう、サンディが岩陰の方から足早に向かってきているのが見えた。

「ありがとう、ぼんやりしていたみたい」

「どういたしまして。余計なお世話ではなかったようでほっとしました……ところで」と、サンディが岩棚の端に胡坐をかくオリバーの手元に目を向けた。

 視線を受けて、一人だけ豪勢で悪いなと笑うオリバーの手には、鮮やかなカナッペがあった。エリオットとローズは見るだにおぞましいとばかり目を背けるが、サンディは軽い驚きを示すだけだった。

「今日は行程何日目でしたっけ。ここで生野菜が出てくるとは思いませんでした」

「平然としていられるあたり、お前もまだ食えるようだな」

 にやりと笑うオリバーに、サンディは曖昧な笑みを浮かべ返した。

「まあ、高度には慣れていますから。でもこんなところで、ええと、それは……」

 赤い小円盤を前に名前が出てこない様子の彼に、ビーツだよとオリバーが笑う。

「つまらんほど普通のクラッカー、ザックの底から発掘したビーツのスライス、一ヶ月前に期限の切れているヴィンテージハム、魔女狩り時代なら焙られていた呪いじみたマスタード。よくあることだな」

 隣でエリオットが呻き声をあげた。この説明には流石にサンディも顔を曇らせ、不安そうな目をカナッペに向ける。

「ええ……大抵冷凍されていたでしょうけど、ザックならテントの中にも入れていたでしょう。大丈夫なんですか? 医者よ汝を知れと言うでしょう」

「いやあ、お前の作ってくれる食事が旨いからな、つい食べた気になってうっかりうっかり。自分で作らないと管理が甘くなるな」

 患者を増やしなぞしないから安心しろと豪快に笑うオリバーは、話しながらもせっせとカナッペを量産していく。

「褒められるのは嬉しいですけどね。お医者さんに言うことでもないでしょうが、体に余計な負担をかけないでやってください」

 少し複雑そうな風ではあるものの、サンディは素直に喜びを表した。ひとつどうかと差し出され、お気持ちだけと断る彼を、今回ばかりはエリオットも責める気にならなかった。

 それではごゆっくり、と青いウィンドブレーカーは、小岩の高台を離れようと踵を返し、トレースを辿りながら小さくなっていく。やはりどこか寂しそうな背。その頭上を黒い影が低く掠め、飛行帽がふっと視線を上げる。その時にはもう、岩棚に掛けた三人の視界がさっと翳っていた。

 反射的に身を捩ったオリバーの手があった場所を、鋭い爪が空振りする。ゴラクの巨大な翼に顔を叩かれた彼は、旋回する嘴の先がまっしぐらに滑ってくるのを見た。

「うおう、腐りかけのカナッペをオーダーとは趣味が悪いな!」

 向かってくる黒い影を迎えようとアックスに手を伸ばした時、視界の端に全速力で走ってくるサンディと何か光るものが見えて、オリバーは考えるより先に限界まで身を引く。次の瞬間、アイゼンの爪がぞっとするほど鋭く凍礫を嚙んだ。

 サンディが遠心力と体重を乗せて振り抜いたアイスアックスはオリバーの睫毛を掠め、風切り音を唸らせて烏の頭を見事打ち抜いた。ピックの先端は小さな頭蓋骨を割り砕き、烏は何が起こったか認識する間もなく、血と脳漿を吹き出しながらクリケットボールの如く飛ばされ、叩きつけられるように墜落した。

 呆気にとられるオリバーには目もくれず、サンディは転がる烏へと大股に近寄ると広がった翼をアイゼンで踏み躙り、更に二度、三度とアックスを振り下ろす。

「汚い、汚い、腐肉喰らいめ」

 ぞっとするほど低い声が、風さえやんだ静寂の中を這う。

「汚らわしいやつら。死んでしまえ、お前たちなんかいなくなればいい。こんなところまで人間を追いかけて、盗み取って、果てにその身体まで啄んで、全く呪わしい奴らだ。そんなに高い場所で生きていたいのか」

 ぶつぶつと呟きながら、とうに動かなくなった烏を執拗に殴り続ける。何度も、何度も。鳥葬で食わせる死体のように細かに、しかし憎悪だけを込めて、その鳥を。最初はパキ、コキと骨の砕ける音が混ざっていた殴打音は、いつしか肉片と液体と雪がかき混ざる、水っぽいぬちゃぬちゃというものへ変わっていた。

 声を掛けることも出来ないまま、どれほどその背を眺めていただろうか。ふと糸が切れたように動きを止めたサンディは、頸から上を原型が残らないほどぐちゃぐちゃに潰され、汚れ濡れた羽毛の塊と化したぼろぼろの烏の脚を雑に掴み上げると、くるりと振り返った。

「はい、これでもう心配ありません。僕はこれを棄ててきますから、ごゆっくりどうぞ」

 サンディは息を荒げてみせながらもすっきりした笑みを浮かべて、まっさらな雪にぼたぼたと血と臓物の混ざった粘性の雫を垂らし、翼を引きずりながら、いずこへと去っていった。恐らく絶壁の向こうか、クレバスの底にでも放り込んでくるつもりなのだろう。普段の温厚さとはかけ離れた残虐な行為に、残された三人は引きつった顔を見合わせた。

「きっと食料を盗まれて、頂上アタックに失敗したことがあるんだな」

 オリバーが最大限温厚な意見を出したのは、もう一瞬反応が遅れていたら烏の脳と共に己の目を抉り抜かれていたことを思えば立派な行為だった。

「あるいは、此処の住人になったかつての仲間が啄まれているのを見たのかも」

 ローズは最大限好意的な意見を出した。

「どちらにせよ、あいつのアイスアックスを借りるのはごめんだな」

 グリベルの黒いヘッドでは分かりにくいが、どれだけ血に汚れたかは想像に容易かった。シャフトの赤に血の色が染みていないことを願うしかない。

 全員の溜息が重なった。少し途方に暮れるような空気が流れた後、ローズがサーモボトルを手に腰を上げた。

「……私、サンディを迎えに行ってくる」

「おい」

 エリオットの制止に、彼女は朗らかに笑った。

「大丈夫、きっと心配することなんて無いから。それにこのままあの子が戻ってきても気まずいだけでしょ。私もすっきりしないしね」

「そりゃありがたいけどさ……十五分で戻って来なかったら探しに行くぞ」

 ローズは頷いて、サンディのトレースを追いかけて行った。現状、サンディと一番屈託なく話せるのは彼女だ。あとは冷戦状態と、一方的な疑念に警戒。といって二人と微妙な関係になっているサンディが悪いとも言い切れない。情けない話に、エリオットは溜息を吐いた。

「で、どうするんだいオールド・チャップ。あんたの意向に反してサンディは随分懐いているようだが?」

「色男は辛いねえ」

 呑気な返答に白い目を向けると、言葉とは裏腹に苦い笑みを浮かべた唇が渇いたパンを食んでいた。

「いやまったく、頭が痛い話だよ。悪意が無いのはほぼ確信しているし、今のも含めてあいつが決定的な何かをしてくれたわけでもないから無碍にするのは心が痛い。尻尾は見えているのに、それが悪魔なのか迷子の子犬なのか分からないときた。正直今のところ胃痛以外には恩恵しかないんだよなあ」

「安心しろよ、あんたの胃はザックの中で忘れられた肉にも負けやしないんだから」

 こんな場所で走れるサンディが化物なら未だ元気に肉を食べていられるオリバーも化物だと思いながら、エリオットはゼリーを胃へ流し込んだ。

 そして約束通り、十五分で二人分の影が戻ってきた。ローズの表情を見る限り、少なくとも彼女の心証が悪い話し合いにはならなかったらしい。サンディは少し落ち込んだ様子で、嫌なものをお見せしてしまってごめんなさいと、ずれた謝罪をした。それでその場は追及できず、うやむやになって残りの行程を進む運びとなった。サンディは烏の件よりも寧ろ、預かっていた荷の番をすっかり失念していたことの方が酷い失態だと思っているらしかった。

 

  ///

 

 仲間の無惨な死に怯えたのか、その後烏が一行をつけてくることはなかった。サンディはあの苛立ちを、少なくとも見た目には完璧に抑え込んでみせ、冷静に丁寧に道を拓いていった。エリオットたちがラッセルの交代を申し出ればすんなり先頭を譲り、不審に思って見やれば、此処での口論はあなたたちに負担をかけるからと、誰より乾燥と寒冷に痛めつけられた声で笑った。それから程なくして、隊列はまた元に戻った。

 ここから先は、写真で見れば然程の高さも距離もない。しかし距離と標高差だけでその道程を判断するのは愚の骨頂だ。命を擦り減らしながら、見えているが辿り着けないゴールを目指して冷たい地獄を這うような道程となる。しかしサンディが単独登頂を目指すに値する能力を備えているだけでなく、その粗末な装備すら彼にとっては十分なものであることは、もう殆ど疑いなかった。

 そして一行は、デスゾーンに踏み込む。

 人体が適応できる限界を超えて、宇宙に近い場所。

 翌日は休養と順応に充てることを確認し、夕食まで各々自由に過ごすことになった。

 

 テントでひとり胡坐をかき、エリオットは悩んでいた。

 目的地が近かった。当然今からでも足を伸ばしたいが、そちらへ赴けば、必ず緊張に晒される。この一週間、そして今日の出来事を思い、これは必要なことなのか、それとも軽率な行動ではないかと思い巡らせていた。

 それでも悩んでいたのは五分程度だった。陽は決して長くないし、明日生きているとも限らない。今晩突然高山病を起こす可能性もあることを思えば、対人関係の緊張は負うべきリスクだと考えた。何より、あの場所は自分たち二人で話すには最良の場所かもしれない……もしかすると、その逆かもしれないが。仮に突き落とされたとしても、墓場としては最良だろう。少なくとも自分の死に場所として文句はない。

 心が決まれば行動は早かった。地図とGPSを手に、キャンプから稜線を辿っていく。本当ならば少し高度を下げたいのだが、今の時点で急斜面をトラバースするほどのリスクは負いたくなかった。

 天は未だ昼と分かるが、それは青が濃縮されすぎた夜のような黒さを帯びていた。目を凝らせば星の瞬きまでもが微かに見える。少し進んで行くと、予想通りというべきだろうか、先方に古びた青を纏った背中があった。しかし俯きがちな重い足取りは、彼には珍しいものだった。

 何食わぬ顔でその後ろを歩いていくと、やがてサンディはぴたりと足を止めた。

「探偵さんはスノーテラスに御用ですか」

 振り返った顔は不愉快さを隠そうともしていなかった。誤解を解かなかったのは自分の責任とはいえ、互いに良い気分のものでもなかった。

「そりゃあ、わざわざこっちまで歩いてくるからには、スノーテラスかお前に立派な御用だろうな」

「……」

 サンディは冗談に乗ることも無く、じっと冷ややかな眼差しを注ぐばかりだった。元よりこうなることは予想していた。あの場所へ向かうのなら、サンディと会わずに終わるなんて有り得ないと分かっていた。エリオットはリーシュを吊った両手を上げて、敵意は無いとばかり振ってみせた。

「別に墓荒らしをしようってわけじゃないよ。気に障るなら今日は帰るけど、見張っていた方が安心か?」

 なるべくサンディの神経を逆撫でしないよう譲歩したつもりだったが、彼はその返答も予想していたかのように、まるでペーパーを読み上げるかのような調子で返した。

「散歩と旅は、道連れがいた方がいいでしょう。ガイドとして使えるなら尚更ではありませんか」

「そう。じゃあよろしく頼もう。墓場を歩くのに、墓守ほど頼りになる案内人はないからな」

 先を促すと、サンディは渋い顔のまま踵を返した。

 早くも暮れつつある陽は黄昏の色味を帯び始めており、雪面は青と白の中にゆっくりと赤を溶かしつつある。ウィンドクラストした雪面は挑発するように光を散らし、先行するサンディが蹴り込む度に苛立ちの声を上げた。

 不機嫌と、出方を窺うような沈黙が続いた。エリオットは目的地に辿り着けさえすればいいと開き直っていたが、どうやら不本意な案内人はそうでもなかったらしい。息の詰まるような空気に耐えかねたか、とうとう彼は大袈裟な溜息を吐くと、肩を竦めた。

「ああ嫌だな、僕は腹の探り合いや駆け引きなんてものはさっぱり駄目なんだ。一体どうしたら五十タンカの品を五タンカまで値切れるのか、気難しいゾンペンにご満足いただける献上品を最低限で済ませられるのか、分かったものじゃない」

 冗談なのか本気なのか、随分と古いたとえを持ち出した彼は、歩みを止めるとおもむろに尋ねた。

「エリオット、あなたは僕のことをどんな存在だと思っていますか」

「何だ急に」

 いいから答えろと言わんばかり、木で鼻を括ったような態度は腹立たしいが、それだけのことをしたのはエリオット自身だった。誤解を解くためにも、話を進めなければならなかった。薄い空気を吸って、短気を抑え込む。

「……明朗闊達。無謀なほど勇敢。呆れるほど神経が太くて動じない。クライミングと登山の天才。機械に関しても天才的に器用だけど、信じられないほど古臭い。エヴェレストの専門家。冷え性が過ぎる以外は頗る健康で頑強。愉快な仲間にして些か不愉快な秘密主義者。礼儀正しく食事を共にしない無礼者、ついでにだいぶ非常識。真面目で誠実なのに致命的に不誠実で、信用できると思うほど不信を覚える余所者。びっくりするほど優しくて、おまけにちょっと気紛れ。ユーモアがあるのは美点だけど趣味が悪い。あと多分ちょっと寂しがりや。きっと俺たちはよく似たものを見ているけど、多分そのせいで面倒臭いことになっている。……で、キーワード当てゲームはご満足いただけましたか?」

 思ったよりよく観察されていると感じたのか、東の宙に似た目に一瞬驚きの色が過ったが、それもすぐに不機嫌に溶けてしまった。

「そう。それなら僕は自分の短所をひとつ認めますが――僕は僕のことを短気だとは思わないけど、頭に血がのぼった時に、それほど冷静な言動を保てるタイプだとも思っていない」

「脅しか?」

「いいえ、ただの告白です。ついでに嘘を吐かれたり騙されたりするのも嫌いだということを覚えていてほしいな」

「隠しごとも、だろう。人のことを言えないだけだ」

「ああまったくだ。それでも僕は、可能な限り誠実でありたいと思っているんですよ」

 そこまで言うと、サンディはゆらりと亡霊のように背を向けた。北に切れ落ちた斜面を指し示しながら、青い背は家に帰りたくないとぐずる子供のような歩みを再開した。

 やがて彼は、いくぶん落ち着きを取り戻した声で言った。

「エリオット、あなたの探し物はカメラでしょう。マロリーとサンディの登頂の証拠が収められているかもしれない、あのコダックのヴェストポケットを、このスノーテラスで見つけようとしているんだ」

「当たらずとも遠からずかな。もし万が一見つけられたらという気持ちが無いとは言わないけど、それは第一の探しものじゃない」

「ふうん。じゃあ写真ですか? あれが見つかれば、二人の登頂失敗の証明になるかもしれませんね」

「少なくともここで見つかるとは思ってないさ。ついでに言うと、今更山頂で見つかる可能性があるとも期待していない」

 やっぱりサンディは勘違いしているな、と思った。エリオットの中で、百年前の登頂を証明するものは必ずしも必要ではない。証拠はない、可能性は低いと言われながらも、それは彼の見る一番の夢であり、信頼とロマンと願いの上で達成を確信している偉業だった。

「ではボンベや背負子ですか」

「見つかったら謎解きは進展するかもしれないな。俺の目的とは言い難いけど」

 だからいくら登山史最大の謎の鍵に繋がる物品を挙げたところで、サンディはエリオットの本当の探しものを当てることは出来ない。

「キャンプⅥ跡地は」

「興味はある、けど稜線に近いところだろう。今じゃ望み薄だと思うな」

 よしんば察したとしても、彼が〝サンディ〟を名乗り、あたかも本人であるかのように振舞う以上、それを指摘しないだろうと、そう見込んでいた。

 サンディは少し黙り込んだ。ひょうひょうと渦巻く布越しの風に乗って、低く怨霊の呻くような、夜風の声が次を挙げた。

「……ジョージ・マロリーの遺体」

 想定すべきその一言には、流石に目元が引きつった。

「おい――それは怒るぞ。最初にも言っただろ。既に正しく弔われた、尊敬する先人の墓荒らしなんて、冗談じゃない」

 それにしても、随分と人品卑しいものと評されているらしい。その選択肢を取るものと疑われたこと自体が、他の何にも勝る酷い侮辱だった。

 憤慨しかけた熱が荒く氷を散らす前で、荒涼とした斜面を指していた指が、ゆるりとポケットにしまわれた。

「それじゃあ、サンディ・アーヴィンの屍体だ」

 乾ききった冷ややかな声に、後を追う足が止まる。ひたり、と表情の消えた面が振り返り、見つめてくる。耳朶を打つ風音すら霞むほどに、知らず心臓の拍が聞こえるかと思うほど強く脈打った。

「それをお前が言うのか」

 サンディは無表情なまま、小さく肩を竦めた。その死人のような目がじっと――エヴェレストの亡霊の非難が、二百の死者が、誤解した軽薄を責めている。

「マロリーの遺体を収めた写真は、随分高く売れたそうですね」薄青い屍体の唇が紡ぐ。「かつての調査隊があの人を晒し者にしたように、次はサンディの写真を売り飛ばすんだ。謗りは受けるでしょうが、まあそれなりの名声は得られるんじゃありませんか」

「サンディ」

「別にいいんじゃないですか。登山にお金が必要なのは昔から変わらない。死人に口なし、目的が何であれ晒し者にしたからって、本人は訴えたりしませんよ」

「サンディ!」

 はっと揺れた宙色の眼は束の間、激情に駆られたことを後悔するように瞬いたが、すぐまた正面を見据えるとじっと睨んだ。しかしそれはもう死体の冷たい敵意ではなく、ひとりの青年の痛ましい情の火、あるいは疲れ果てた墓守の哀しみでいっぱいに満ちた、底のない宙の淵だった。

 彼らしからぬ物言いもまた、間違いなく怒っていると同時に、明らかに傷ついてもいる人間のそれだった。相変わらずその肌に血がのぼらないのが不思議なほど、薄皮一枚の下に抑えた激昂と悔恨めいた悲嘆、それでも堪えきれず色の滲んでしまう声で吐き出す様に、エリオットは怒る気を削がれてしまった。

 代わりに、その頑ななくらいの不信にもどかしさが募っていく。誤解を招くような伏せ方をしたのは、確かに自分が悪い。けれどこれ以上誤解され続けるのも、そんなに傷ついた顔をされて加害者気分になるのも嫌だった。

「俺がこの山に来た目的について詳しく話すつもりは、今は無い。でも絶対にそんなことはしない……仮にアーヴィンに会えたとしても」

「では、何のために」

「お前、それだけ挙げておいて……」

 仇を見るような眼差しに、とうとう強くはない忍耐力の限界が来た。今のサンディに怒ることは出来ない。苛立ちは足に込めて詰め寄ると高い目を覗き込んで、勢いのまま怒鳴るように口を開いた。

「逆に訊きたいよ、どうして単純なファンだって可能性が思いつかないんだ? そんなに俺がせこい墓荒らしに見えるのか? 彼らの眠りを妨げる敵がいないと困るか? それとも自分より先にアーヴィンを見つけられることを警戒している? お前のやり遂げねばならないことって下界で騒がれる前の埋葬か? もしもそうなら俺はお前を邪魔する気はないし、お前にそんな風に疑われるのも見当違いだと主張させてもらう。まったく、お前こそそんなナリと振る舞いで〝サンディ〟なんて名乗って、随分なフリークじゃないかと……」

「ま、まって――ファンだって?」

 頓狂な声に遮られ、我にかえった。エリオットを睨んでいた青い目は、今は見たこと無いほど丸くなり、逆光から唖然としてエリオットを見つめていた。

 嘘みたいな沈黙がおりた。

「……お前は違うの?」

 サンディは少し考え込み、首を横に振った。

 では何故そんな振る舞いを、と思ったが、それよりも色の変わった気まずさをどうにかしたかった。もっとましな嘘を吐けばよかったと後悔した。そろりと一歩離れ、もう行こうと先を指した。

「そもそも俺の探しものを当てたつもりになってくれるなよ。別にそうだとは言ってないからな」

 気を取り直し、無言のまま背を向けたサンディについて、景色をよく見ながら歩いて行く。

 右手に覗ける斜面こそが、スノーテラスと称されるポイントだ。凍った礫と残雪に固められた急斜面で、一九九九年にマロリーの遺体が見つかっている。三四半世紀を経て再び衆人の前に現れた彼、その写真の扱いに関する騒動は聞き及んでいる。少なくともマロリーを敬愛しているサンディがひどく怒るのもやむを得まい。

 何度か登山史に名が挙がるこの地点には、滑落した登山者の遺体が点在している。虹の谷と呼称される八五〇〇メートル近辺は更に高い場所だが、既にデスゾーンに突入している此処も十分にその趣がある。

 写真で幾度となく見た光景と一致するポイントに立ち、切れ落ちた危うい斜面を見下ろした。

「おりたいな」

 エリオットの言葉に、押し黙って更に先へと進んでいたサンディが振り返り、咎めるような硬い声を張った。

「もう陽が低いですよ」

「分かってるさ、無理はしないよ」

 サンディは暫くじれったそうに待っていたが、エリオットが動こうとしないので、諦めたように引き返してきて隣に並んだ。

 空は厚い雲に覆われつつあったが、時折覗く切れ間からは赤みを帯びた陽が微かに漏れていた。今晩は酸素を吸いながら眠ることになるが、ポーターとしての役を果たすほど余裕があるのはサンディ一人という中で、何日もボンベを使い続ける余裕などない。幸い全員よく順応しているので、可能であれば明日を休養と順応に充て、深夜には登頂アタックに踏み切りたいと考えていた。

 明日は朝から悪天候で停滞するに違いない。西の空で切れた雲の端と、その向こうでまた深く巻いている暗雲を見れば、誰だってそう思うだろう。深夜にかけて一時晴れるようだが、デスゾーンの凍った斜面に身を任せ、呑気にプラネタリウム観賞に浸る贅沢は、未だ生者の権利とは言い難い。

 同じことを思っていたのだろう、西の空をじっと見つめていたサンディがぽつりと呟いた。

「この斜面に座って待っていたら、さぞかし美しい星空が見えることでしょうね」

「何だ、らしくもない」

 彼は小さく笑ったようだった。その皮肉っぽい弧を描いた目元に、ふと彼が名乗るのと同じ名を持っていた青年ではなく、最も有名な登山家の面影を見たように思って戸惑う。常は彼の言動とちぐはぐな印象を受ける眼は、今は不思議としっくりくる皮肉と痛みを湛えて見つめてきた。

「あなたは確信して立ち止まったのでしょう。正解、ジョージ・マロリーが眠っているのはこの辺りですよ(G e o r g e M a l l o r y' s b o d y i s l a y i n g o n a r o u n d h e r e.)。彼もまた、エヴェレストの亡霊(G h o s t s o f E v e r e s t)の一員だ。此処からたった二十分ほど歩いていくだけで、あの英雄の墓標に辿り着いてしまうんです」

「……流石に二十分は無理だろう、お前の記憶は多分アーヴィンの遺体と混ざっている」

 そうだったかもしれませんねとサンディは頷いた。

 束の間、厚い雲が切れて最後の陽が強く射す。染まる斜面の雪と礫が織りなすコントラストは、白さを抑えてなお目に沁みるほどだった。視界の利く今ならと思ったが、稜線上からの目視だけではマロリーの眠るポイントがどこか特定することは出来なかったし、エリオットの一番の探しもの(・・・・・・・)を見つけ出すのも到底無理そうだった。

 もう二人の間にひりひりした緊張感はなく、墓石へ載せる花輪の触れ合うような、静かな共感と哀慕だけが満ちていた。暮れゆく墓場を焼きつけるように目を凝らしていると、ふと隣で掠れ声が呟いた。

尊い騎士の墓に薔薇の花輪なく、ヒナギクすらも咲かないというのなら、せめて星は輝くべきだと思いませんか」

「マロリーは既に英国国教会式の祈りで葬られたから、今は神の御許で休んでいるはずだ。ここいらで語られる親切な幽霊だって、正体がマロリーとは言われていない」

 あまりに痛ましそうな様子で言うので、らしくもない慰めが口をついた。しかしサンディはちょっと複雑そうな沈黙の後、控えめな調子で言った。

「神はこの山にもおわしますよ。時には登る者に触れ、奇跡を起こすことだってある」

「意外だな。てっきりお前はもう神を信じなくなった若者だとばかり」

「僕も昔は、礼拝でのお説教中に居眠りする手でしたがね」

 冗談めいたことを、しかし彼は静かな真摯さでもって続けた。

「でも、今はその実在を信じています。シェルパは今でもプジャを執り行うし、その祭壇へ自ら供え物を足していく海外クライマーだって多いじゃないですか」

「それに二十年代も、ラマの祈りは他の何よりチベット人ポーターを勇気づけていた、か」

「その通り。マロリーだって、教会はともかく神のことは信じたがっていました。それに、僕自身も救われましたからね」

「神に?」

「僕は運がいいんだ」

 答えになっているような、なっていないようなことを言う。意味を飲み込むのに数拍かけ、ようやく信仰による癒しや支えよりも、もっと現実的な救いを得たのだと理解する。

「そういえば、」追及するより早く、サンディが口を開いた。「マロリーを見つけたあの調査隊は、最初それをアーヴィンの屍体だと思ったそうですね。洗濯票を見てなお、どうしてアーヴィンがマロリーのシャツを着ているのだと疑問を抱いたのだと聞きました。微笑ましい勘違いですが、彼が滑落なんてするはずないという信仰はよく理解できます。この山が数多のクライマーを殺してきたとはいえ、かのマロリーまでもとは。一体何が起こったのでしょうね」

 サンディが切り落ちた山腹を見つめる目はどこか悲愴で、思い詰めたような節さえあった。

 

  ///

 

 二〇二四年五月十五日

 

 ふと目を覚まし、時計を見て驚いた。まだ出発まで四時間もある。いつでもどこでもぐっすり眠り、直接的な危険に曝されでもしなければ起こされるまで目覚めないオリバーには珍しいことだった。

 酸素を吸っているとはいえ、流石に人体の適応限界を超えたデスゾーンでは眠りが浅くなっていたのか。それとも、頂上アタックを目前に控え気が立っているのだろうか。既に一度踏んでいる頂とはいえ、北稜ルートからの挑戦は初めてだ。南東稜ルートよりも難易度の高い登攀に武者震いする己がいないと言えば嘘になる。しかも今回は極端にパーティーの人数が少ない。サンディという優秀なガイドとポーターをこなせる人材は得られたが、それでも頭数が少ないことに伴うリスクが意識から消えることは無かった。その一つがメンバー内に不和が生じた際の影響の大きさであり、現にエリオットとサンディが最近ぎくしゃくしているのが気掛かりではあった。とはいえ、二人ともまさかアタックに際して協力し合わないほど子供でもあるまい。寧ろサンディを警戒している身としては、旧友が怪しげな人物と精神的に距離を置いてくれるのは有難いくらいだった。……それも昨日の夕食時には少し変化したように思うが。

 いい歳した大人たちの集まりである。一々口出しをする気はなかったが、あの二人は互いの腹を探りたがっているのにやりようが下手すぎた。こんな状況でなければ、いっそ面白いくらいだ。昨晩、そして今日の様子を見るに、登頂日目前という段になって何かが上手くいったのだろうが、それが腹の明かし合いの結果疑いが解けたのか、騙し騙されが噛み合って表面上和解してしまっただけなのか、オリバーは見極めかねていた。

「とっておきの手があるんです」

 キャンプⅢで迎えた夜、サンディは笑いながら言った。

「本当は、登頂アタックに際して夜明け前に出発するなんて言い方をする必要は無いんです。午後の嵐さえ落ち着いて晴れてしまえば、三つのステップをこなすのに太陽は必須ではない、そうでしょう。今はこんなに優れたライトがあるし、梯子とロープまで掛かっているのですから。だから僕としては、まだ他のパーティーが眠っているうちに出発することをお勧めします。環境が整っているなら、渋滞こそが一番厄介なくらいですから……どうでしょう」

 そしてパーティーメンバーの顔を見渡した。

「俺はいいと思う」

 意外にも、最初に賛同を示したのはエリオットだった。彼が付け加えるには、雪がゆるむリスクを最低限に抑え、セカンドステップを前にして尻込みする登山者を待って渋滞することもないのは非常に魅力的との考え。

「でもそれじゃあ、頂上からは何も見えないんじゃない?」

 誰より頂上に立つのを楽しみにしているローズは、折角登っても何も見えないのではつまらないと難色を示した。

「ええと……そうですね、でも星明かりに照らされたヒマラヤとチベット高原が見られる機会は貴重だと思いますよ。それにご承知の通り、頂上にはネパール側からも人が沢山来ます。こちら側よりもずっと多くの人々が列なして集まってくるんです。あのテーブルより狭い頂上でそんなことになって、ゆっくり写真を撮ろうなんて難しい相談ですよ」

 サンディはよほど早く出発したいのか、少し苦しい言い分で食い下がった。ローズは暫く考えてから、想定コースタイムよりも少し遅めに登ると、頂上で地平線が明るくなるのを見られるくらいの時間に出立するのはどうかと提案した。二人と、ついでにエリオットもそれで妥協した。

「ノルはどうだ」

 エリオットに水を向けられるまでもなく考えていた。しかしオリバーは即答できなかった。提案自体は悪くない。だが頂上に立った時、とうに上弦の月が沈んだ星明かりでしか世界を臨めないのは、よほどの変わり者でもない限りもったいないと感じるだろう。それはサンディもよく分かっているはずで、あの頂が早く着いたからと長居できるような場所ではないことも理解しているはずだ。大抵の人間は三分ほどお邪魔して下りていく世界のてっぺんだ。それに酸素の問題だってある。ポーターを連れていないこのパーティーには、余分な酸素を運ぶ余地は殆どない。つまり、ローズが喜ぶような景色は、ちょっとしたトラブルが起こらないことには見られないのだ。彼女もそれを承知の上で妥協したのでその点は良い。しかし、サンディがそこまでして食い下がったのが引っかかった。彼は一体何を考えているのだろうか。

 疑ったものの、結局オリバーは同意した。もしもサンディが他に人のいない状況を利用して何か悪いことを企んでいるのであれば、実害が出る前に三対一に持ち込めばいい。害が出る前に気づけるよう、警戒を怠らなければ良いのだ。いくら彼が強靭とは言え人間だ、三対一で抑え込めないこともあるまい。

 あるいは、そんなことを考えていたせいで眠りが浅くなっていたのかもしれない。それとも、何か危険が迫っているのだろうか。すぐに二度寝しても良かったが、半端な尿意と空模様、それに浅い眠りが虫の報せである可能性が気になって、楡風に身を晒すことにした。

 静かに表へ這い出すと、天上の黒幕には織り込んだような綺羅星がちらちら光っている。月が沈んだことで、小さな瞬きは一層その輝きを増していた。東を切り取る山嶺の縁にかかる雲波には雷が光っているが、それも出発までには遥か遠くへ吹き流されることだろう。西の空に雲は少なく、凡そ快晴が期待できそうだった。しかし気温はかなり低い。やはり山頂に早く着いたとして、じっと夜明けを待っていては命に関わるだろう。首を縮めながらいそいそと用を足し、テントに戻ろうとした時だった。

 ふと視界の端に動くものを認めて立ち止まった。少し離れたところ、暗闇ではあまり目立たないウィンドブレーカーだが、個性的過ぎるその帽子で見分けのつくサンディだった。彼は何か考え事でもしているのか、珍しくぼんやりした様子で、ライトもつけずに自分のテントの周りをぐるぐる歩き回っていた。オリバーが見ているのにも気づいていないらしい。きっといつぞやのように、独り問答でもしているのだろう。

 (あいつでも頂上アタック直前となれば落ち着かなくなるもんなんだなあ)

 内心警戒しているとはいえ、いつも余裕綽々だったサンディに人間味を感じた気分で眺めていると、サンディの身体がカクンッとつんのめった。その足元に滑らかな石か氷板を潜ませた新雪の塊でもあったのだろうか、足を掬われたようで、まったくもって意外なことに派手に転倒した。運動神経のいい彼らしくもなく、顔まで雪面を掠める倒れ方だった。

 サンディとは二人きりになりたくない。見ないふりをすべきか、という迷いを意識するより先に、医者として駆け寄っていた。

「おいサンディ、大丈夫か」

「あ、え? オリバー?」

 サンディは予想外の声に驚いたらしく、起き上がりながら近づく足音へヒョイと白い顔を上げた。ぱっぱっと顔に着いた雪を払いながら、「恥ずかしいところを見られてしまいましたね」と笑う声がクリアだ、と思ったのは、恐らく二人同時だった。

 はたと立ち止まったオリバーの顔が引きつり、一瞬遅れてぱっと口元に手をやったサンディは露骨に表情をこわばらせた。

 ――バラクラバが、外れていた。

 人工の灯りに非常に乏しいこの場で、揺れるライトと星明かりの下の一瞬、細かな顔立ちが窺えたわけではない。しかしそれでも見紛うことなど有りえない。

 サンディの左頬には、孔と形容するのが的確なほどの酷い裂傷が縫合もされず開いており、歯列が剥き出しになっていた。縫わずに放置したまま生活するなどまず有り得ない、おぞましく異常な傷だった。

 ヘッドライトから逃げるように顔を伏せたサンディが、バラクラバを強く引き上げる。眩しそうに目を眇めながら視線を上げ、笑おうとしたらしかった。

「これは隠しておきたかったんですけど……悪いことをしましたね」

 殻で覆うような硬い声は、滲む動揺と、微かな怒りにも似た緊張を隠しきれていなかった。

 ――あの傷は何だ。こいつは何だ。

 動揺を必死に抑え思考する。否が応でも、過去の忌まわしい出来事を思い出さずにはいられなかった。

 この山での出来事ではない。半ば放浪のような生活をする中で、仲間が冒涜的な「何か」に殺されたり、人智を超えたとしか言いようのない混沌の渦へ巻きこまれたり、端的に言えば怪物に襲われたことが何度もあった。ついて回る星が悪いと半ば諦め気味だった。今回のエヴェレスト行に誘われた時も直感的に嫌なものを感じたが、それにもかかわらず同行してきたのは、拒否すれば自分を除いた誰かと共に行ってしまうであろう後輩たちのことが心配だったからだ。きっと信じてもらえない懸念から守れるものなら手を尽くそうと、それでも以前この山へ登った時は何事も無かったからと、幾許かの楽観も携えながらやって来たのだ。

 エリオットは怖がりで警戒しすぎるくせにどうも抜けている、ローズは割に抜け目ないが鷹揚ゆえに無警戒すぎる、そして自分が一番俯瞰していると思っていた。七不思議を聞いた時からは自身もサンディを疑い始めたが、彼もまた己と同様に人の常識から外れた何かを経験した者、少なくともそうした事象にいくらか関わる人間だと思っていた。たとえ自分たちを巻き込もうとしている厄介者だとしても、だ。

「お前は何なんだ」

 まさかパーティーの中に化物を混ぜていたとは! とんだ失態と恐怖にこぶしを握り締める。しかし肝心の化物は雪を払い立ち上がると、どことなく乾いた声で言い訳がましいことを言う。

「長く山をやっていると、こういうこともあるんです。あなたも分かるでしょう?」

「怪我自体はな。お前、人間じゃないだろ」

「…………」

 その言葉に、サンディは少し傷ついたような目をした。すぐに否定の言葉が出ない。肯定しているも同然だった。

「……昔滑落したときにやった怪我です。なに、指をなくすよりかマシですよ。自慢できるものではありませんから、どうか皆さんには内緒にしておいてください」

「分かったよ、喋ったら殺されかねないからな」

「そんなことはしませんが……」

 よほど喋られたくないのか、言葉尻はもの言いたげにすぼんでしまう。それもそうだろう、傷をあんな風に放置して登ってくる人間があるものか。まるでゴラクにでも啄まれたかのようではないか。

「どうだか。何でもお前、神に救われたとか言っていたそうじゃないか。お前さんを救った神が邪悪なものでないことを祈るぜ」

 オリバーの言葉に、俯いていた青い眼がくる、と上向く。上げられた面の表情など、バラクラバに覆われてまともに読めるはずが無い。それなのに、オリバーには目の前の化物が、確かに喜悦して、あの傷を歪め笑っているのが分かってしまった。

「ああ、やっぱりあなたは何か知っているんですねオリバー」興奮に上擦った声を上げ、白い男は一歩踏み出した。「ずっとその話を聞きたかったんです。あなたが冒涜的なものを見たのはこの山で? それとも何処か遠い地かな。他の皆よりはちょっとだけ僕と同じ側だ」

 更に近寄ってこようとするのを制し、オリバーは思い切り舌打ちした。

「やっぱりな、だから嫌だったんだちくしょう。妙な怪談なんかしてくれやがって。問い詰めて痛い目を見るのはごめんだ、追及しないでおいてやるから暴れてくれるなよ」

「失敬な、暴れたりなんかしませんよ。誓って害意はありません、これまでと同じように力を尽くさせていただくだけです。〝エヴェレストの幽霊〟の正体が何であれ、あの頂を目指す人々を害するものではない。エリオットも言っていたでしょう」

「どうだか。害なした時の話が持ち帰られないだけかもしれない、そもそもお前がかのエヴェレストの幽霊だと保証するものは無い。俺としちゃあ、ただお前の倫理と俺たちの倫理があまりずれていないことを願うばかりだよ。もしお前が懐に入れた蛇だったのなら、俺たちは――俺は絶対に、その身が温まる前にもういっぺん雪の中へ放り込んでやるからな」

「……大丈夫。もしも僕があなたにとっての蛇であったとしても、決して咬んだりはしないと、最後には分かってもらえるはずですから」

 サンディは人間らしく傷ついた様子を見せながら、誠実さを約束した。そして背を向けようとするオリバーを、待ってと引き留めた。

「ねえオリバー、これだけ教えてください。あなたが混沌を目にしたのは、以前この山へ登った時でしたか。それとも別の機会でしたか」

「全く別だ、別。会ったこと無いだろ、俺たち」

「……そうですか」

 きっぱりとした答えに、彼はひどく落胆したようだった。神との面識でも期待していたのだろうか。

「もういいだろ、俺は寝る。間違っても明日ザイルを引こうなんて考えるなよ」

「まさか!」

 静まり返ったキャンプに掠れた大声が響き、嘘のように雪に吸い込まれた。オリバーのぎょっとした表情を見てか、サンディは少し慌てたように取り繕おうとした。

「すみません。大丈夫、それだけは絶対にありません。ザイルを引いて仲間を滑落させるくらいなら、そんなもの僕の方から切ってしまいますよ」

 だから二度とそれだけは言わないでください。と付け足す低い声は、微かに震えていた。

「あなた方に危害を加えるつもりは、本当にありません。もしも何か危険が襲ってくるのなら、僕が盾になってもいいくらいです。それに、あなたは神のことを心配しているようですが、僕を救ってくれたあの神がそんな邪悪なもののはずはありませんから、そちらもどうか心配しないでください」

 サンディは心からその神を信頼し、崇敬しているらしい。安心させるようにそう言うが、却って空恐ろしいくらいだった。もうこの話は続けたくない。

「信仰するものはみんなそう言うさ。じゃあな、おやすみ」

「……おやすみなさい」

 茫と佇む人のようなものは、落ち込んだ様子でじっと見送っていた。

 

 死人めいた視線を遮りテントへ潜り込んだ瞬間、凍てつくような寒さにも拘わらずどっと汗が噴き出した。冷静なふりを装っていたが、まったく肝が冷えるやり取りだった。

(ありゃあ本当に人間じゃなさそうだな。あそこまで人っぽいのは初めて見たがそういう化け物か)

 いつぞやの夜にエリオットが言っていたことを思い出す。「何かサンディに知られたくないことがあったら、小さな癖字で回りくどく長々と、悪魔との契約書の如く書いたらいい」。あの時はさして気に留めなかったが、今となっては有用なアドバイスだった。

 サンディにはああ言ったが、化物だと分かっているものを仲間に伝えないわけにはいかなかった。人ならざるもの、それも神と呼ぶべきものと接触していることが分かった以上はこの行動もばれている可能性があるが、その時はその時だ。口頭で伝えて聞き耳を立てられる方がよほどまずいだろう、エリオットがああ言った根拠は知らないがひとまず信じるしかなかった。

 赤いヘッドライトの中で、わざとのたくった筆跡のメモを書きながら考え続ける。

(悪い奴でもなさそうなんだがなあ、邪険にするには気が引けるが絶対じきにロクでもないことが待っている……もう頂上は目の前だってのに)

 医者としての己と後輩たちの保護者としての己、そしてこれまでにも混沌の一端を垣間見てきたオリバー・アスターと、ここまでの旅路を共にしてきたオリバー・アスターとが相反し、心の内で議論は紛糾していた。

 これまで接触したことのある人ならざる存在に、凡そ善性と言えるものは無かった。そういったものと関わったことのある人間についてはそうとも限らないが、一見人間に見える人外と出会うのは初めてだった。そして悩ましいことに、彼がここまで実害と呼べるものを与えたことが無いのも事実なのだ。油断させるためという可能性もある以上、それで信頼するわけにもいかないのだが。

 今自分が此処にいる目的の第一は、後輩たちを無事にこの山から連れ帰ることだ。サンディを伴うことで彼らの、そして自分の命をも危険に曝すことになるのであれば、無言でもって非人間を肯定した存在とこれ以上行動を共にするわけにはいかなかった。

 サンディの目的は一体何だ。やり遂げなければならないことがあると言っていたらしい。彼は何を、いつ、どのような手段で行うつもりなのだろうか。否、そんなことは知らなくてもいい。自分たち三人に害があるのか、あるとすればそれはいつなのか、どうすれば助かるのか、それが分からないのが問題だった。

 そんなつもりはないと彼が言ったところで、化物の言い分は信用できない。だがサンディの言い分は? ザイルを引いてくれるなと言った時の、悲鳴のような強い否定は?

〝仲間として数えられるかどうかでいえば、〟

 綴る軌跡に続く結論は止まる。

 

「……取り乱しちゃったなあ」

 オリバーが冷や汗をかいている頃、サンディは静かに肩を落としていた。天幕越しの赤いヘッドライトをぼんやり眺めながら思い巡らせる。

 オリバーがああいうもの、あるいはこういうものの存在を知っているのは、彼には悪いが朗報だ。だがそれだけに疑われている。自分が何を言ったところで、もうろくに信じてもらえないだろう。それどころか、エリオットやローズに、今のやり取りや見たもののいくらか……もしかすると全てを伝える可能性もある。ああは言ったが所詮口約束だ。最悪、出発前に体良くパーティーから追い出されることも覚悟しておいた方が良いだろう。こうなる前に、彼とは人を交えずに少し話しておきたかったのだが。

 ――悩んだところで、僕に決定権はない。

 仮に事が有難くない方向に転んだとしても、サンディに彼らを害する気が無いのは本当だった。彼らが真摯に頂を目指す者である限り、それだけは許されない。そもそも無理を言っているのは自分の方だという自覚があった。これから更に無理を重ねようとしているというのに、随分な無様を晒したものだ。せめてあと一日、時間が欲しいのに。

 手痛い失態だったが、浮足立って寝たふりも出来ないほど昂っていた精神と頭が冷えたのは良いことだったかもしれない。結局いつも通り前向きに全力を尽くすしかない。元より謀略だの駆け引きだのは得意ではないのだ。昔もそのせいで随分な目に遭った気がするし、その後だってそちらの経験を積む機会などろくに無かった。彼がいたとしたらもう少しはマシだったかもしれないが、得られぬ助けを求めても仕方ない。下手な駆け引きを補う方法もあるが、最後には運がものを言うと思うことにしていた。

 自棄になってはいけないが陽気は結構、そう開き直れば少し楽になるというものだ。それでも完全に普段の平静を取り戻して振舞える自信は無かったが。

「大丈夫、どうとでもなるさ。どんな雲にも銀の裏地があるはずだろう、サンディ」

 灯りが消えたのを見届け、古びた腕時計に目をやる。悪くない頃合だと、自分のテントに戻り、ザックを漁り始めた。もしも彼らがこのザックをこっそり調べていたのなら、サンディはとっくにパーティーを追い出されていただろう。誠実さには誠実さで応えたいと、心から思っていた。

「大丈夫」と口癖のように重ねて呟く。これが最後のチャンスかどうかは分からないが、自分たちに残された時間が残り僅かなのは間違いなかった。

「あなたは神の犠牲者……」

 

 あなたは神の犠牲者

 我が唯ひとりの

 救い手であるあなたを通じ

 私に生の希望が戻ってきました

 

 小声におかしな讃美歌を口ずさみながら、〝I〟は夜に冷たく凍る道へ踏み出した。上ではなく、ルートから外れた下方へと。

 


 

「素晴らしい夜だ、星明かりと上弦の月は稲妻の光と一緒に地平線上に、そして城塞は月明かりの中で僕たちの頭上何百フィートもの高さに聳え立っている」

 

 

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