CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

STARGAZER: 2nd Stage

これの続き。

 


 

2nd stage: L' Eve future

 

Not what the light will do but how he shapes it
And what particular colours it will bear,
And something of the climber's concentration
Seeing the white peak, setting the right foot there.

Not how the sun was plausible at morning
Not how it was distributed at noon,
And not how much the single stone could show
But rather how much brilliance it would shun;

Simply a paring down, a cleaving to
One object, as the stargazer who sees
One single comet polished by its fall
Rather than countless, untouched galaxies.
  ──Elizabeth Jennings: 'The Diamond Cutter'

 

 

 二〇二四年 四月九日

 

 翌朝、エリオットはなんとも良い香りに鼻をくすぐられて目を覚ました。ショートスリーパーであることは彼の強みだが、それゆえに朝食の支度の割り当てが多くなっていた。その分昼食と夕食の割り当ては少ないのだが、高度を上げるにつれてはずれくじの感は増していく。静かなキャンプで明けていく空を眺めながら、熱い飲み物を一杯余分に楽しめるのがせめてもの慰めだった。

 入口の隙間から空を覗けば、高所には雲がかかっているものの、ノースコルまではよく晴れているらしい。昨晩吹きつけた厚い新雪は厄介だろうが、なかなかの山行日和になりそうだった。

 テント内へ零れようとする新雪を払いのけながら、入口の傍にまとめていたクッカーとストーブ、断熱シートを抱え、ミルクパン、オイルサーディン、調味料のパックを持って出ていく。

 キャンプではなく緊急露営で夜を明かしたため、周囲に見えるテントは一つきりだった。雪山用テントとして最もありふれたオレンジ色をしているが、遠目にもエヴェレスト単独行で使うには重そうな旧型だ。その傍らでは青いウィンドブレーカーとヴィンテージじみた飛行帽の背中が雪を寄せた腰掛を作り、バーナーを前に鼻歌を歌っている。近寄っていくと足音に気がついて振り返った。

「おはようございます。エリオットは朝早いんですね」

「おはよう。俺より早起きな奴がいるのはちょっと新鮮だな」

 寝る前に会った時と同じようにバラクラバを引き上げたまま、目元しか見えない顔が人懐っこく笑った。相変わらず白すぎる肌と対照的に鮮やかすぎる装いは違和感をもたらすが、曙光の中で見れば燈火の下より不気味さも少なく、そこで楽しげにしているのが一人の楽観的で快活な若い登山家だと信じるに容易かった。

 彼の前でライスクッカーは熱くスパイシーな蒸気を吹き出し、高所の寝起きにもかかわらず胃を刺激する匂いを気前よく振りまいている。少し惨めな気持ちになりながら調理器具一式を下ろし、新雪を詰めたカップをバーナーに乗せた。

「あの、朝食なら僕が作りますよ」

 サンディがいかにも親切そうに言った。ちらと横目に顔色を窺うが、それが本当に善意からくるものなのか、それとも行き会った少数パーティーを騙して何かしようと企んでいるものなのか分からない。

「昨日会ったばかりの奴に、よりにもよって朝食を任せたりしないよ」

「まあまあ。料理も早起きも得意なんです、今朝はお近づきの気持ちということで」

「胡散臭い奴」

「よく言われます。それよりアッサムはお好きですか? ミルクとお砂糖はどうしましょう」

 睨んでもくすくすと楽しげに笑って流される。まだ学生か、せいぜい卒業したところではないかと思われるのに、どことなく達観した老人を相手にするような感覚でやりにくかった。

「通じなかったかな。少なくとも俺は、よく知らない奴が作ったものを飲み食いする気はないよ」

「はい、そんな気はしていました。でもいつか役に立つかもしれないでしょう?」

 サンディは気を悪くした風もなくライスクッカーを火から下ろし、代わりに雪を詰めていると思しき鍋を乗せた。クッカーの蓋を開けると、ドライトマトとサラミ、香辛料の入った熱々のピラフ風炊き込みごはんの匂いと湯気が広がる。エヴェレスト山行にしては贅沢なこの料理を前に、快適性を削って軽さを得た自分の糧食を思い、揺らいだ気持ちを飲み込むのは悔しいものだった。そのごはんが一人用にしては量が多いように思えて、エリオットは苦虫を噛み潰したような思いを濾過器に八つ当たりする。

「そんなに作ったって、オリバーとローズが口をつけるかも分からないぞ」

「では余りはライスボールにして、食べるときに焼くとしましょうか」

 サンディは鍋へ雪を足すとライスクッカーはタオルで包み、自分のテントへ持って入っていった。その姿を辿って、彼の拠点が近くで見ると旧型というだけではなく、フランケンシュタインの怪物もかくやと思われるほど傷みの激しいものであることに気がついた。上手に補修してあるので風雪が漏れ込むようなことは無いだろうが、いくらなんでも新しいものを用意すべきではないかと思うほどだ。確かに料理とリペア技術は高いようだと認める。

 煮立った湯の中にティーバッグを放り込んで、カップとフライパンを交換する。カップは少し底を冷ましてから膝にのせて暖を取ることにして、手元では温まったフライパンにサーディンを転がし、軽く焼き色をつけてやったところへコンソメとトマトソースで味付けして軽く煮込む。それをミルクパンと一緒に食べるというのが、今日の朝食メニューだった。見栄を張っている己に気がついて舌打ちする。

 大して好きでもない鰯を焼いていると、サンディが戻ってきて溶けた雪水を濾し始める。断ったにもかかわらずモーニングティーを用意する気のようで、アッサムの茶葉と粉乳の口を切りながらエリオットの膝元を覗いてきた。

「やっぱりモーニングティーですか。ポーター付きでなくても、ヒマラヤ登山の朝といえばこれですよね」

「目覚めの一杯はダージリンのストレートと決めているんだ」

 ぱっとしない鰯にコンソメとトマトソースをかけながら、渋みの強い紅茶を流し込む。こんなもの珍しくもないだろうに、興味津々といった風にフライパンを見守る目を軽く睨む。

「それで? 単独行者より貧相な食事を笑いたいか」

「そんな意地悪なことしませんって。寧ろ僕の方が食料事情は粗末だと思いますよ、今朝は特別です」

「ふーん。分けてやろうか」

「おや、こちらのものは召し上がらないのに、そちらはご馳走してくれるんですか? ありがとうございます、でも僕はお先に頂いてしまいましたので」

 貴重な食料でしょう、お気持ちだけ頂きますねという体の良い断りに鼻を鳴らし、フライパンにトマトソースを流し込んだ。

「できますものは、鰯をビスケットに載せて軽く焼いたもの、骨を抜いた鰯のレーズン添え、私どものテントのお薦めは、鰯の――」

「あ、それ聞いたことがあります。何でしたっけ?」

「『遥かなる未踏峰』」

「そうだそうだ、小説でしたね」

 サンディが紅茶を煮出すと、鰯のトマト煮と一緒に強い匂いが立ちこめる。空は低地では見られない冴えきった青に変わっていき、背後のテントから人の動く気配がし始めた。

「でも実際のところは、そこまで貧相な食事情でもなかったそうですね。毎日では嫌になりますが、炒めた缶詰サーディンにビスケットとチョコレート、あるいはジャムつきのクラッカーに熱々のホットチョコレートとか? とっておきの日なら、チョコレート、ジンジャークッキー、マカロニ、ハムとタンの薄切り、ケンダル・ミントケーキなんてどうでしょう。もちろん、全部お好みの紅茶を添えて。食欲が萎えていなければ、実に結構なものです」

「お前、何がしたいんだよ」

「あの雪庇の残骸が見えないとは言わせませんよ。それに昨日もお話ししたじゃないですか、話し相手が欲しいんです。だから同行させていただく代わりに、お手伝いをしようと」

「違う、そうじゃない」

 高い背、がっしりした肩、特筆して白い肌、金髪のサンディを、エリオットは一人だけ知っている。

 一九五三年、エドモンド・ヒラリーテンジン・ノルゲイが人類初のエヴェレスト登頂を果たした。しかしそれより約三十年前、一九二四年に英国が派遣した第二次エヴェレスト遠征隊に参加していたジョージ・マロリーとアンドルー・アーヴィンが登頂を果たしていた可能性もあると考えられている。

 本当に言ったか定かではないが、「そこに山があるから」の文句で知られ、生前から稀代の天才クライマーとして誉れ高いマロリー。そして登山経験は浅いが、機械と運動の天才だった、遠征隊最年少のアーヴィン。教師と学生でもある二人組は、六月八日、山頂目指して最終キャンプを出発したきり、二度と帰ってくることは無かった。

 長らく遺体も行方不明のままだったが、三四半世紀を経た一九九九年、マロリー・アーヴィン調査遠征隊によってマロリーの遺体が発見された。果たして彼らが登頂を果たしたのか、その謎の答えを収めたものと期待されているコダックのカメラは見つからず、アーヴィンが持っているものと考えられている。

 しかし彼の遺体は未だ見つかっていない。それらしい古いイギリス人の凍死体を見たという目撃談もあったが、詳しい話を聞き出す前に証言者が雪崩で亡くなったために、詳細は分からずじまいとなった。確実なのは、山頂に程近いファーストステップと呼ばれる岩壁の下に残されていたアイスアックスが、彼の持ち物だということくらいである。一九三三年に、第四次遠征隊のウィン・ハリスが発見したこの遺品以来、マロリーと運命を共にした青年に関する確実な手掛かりと呼べるものは見つかっていない。

 そしてこのアーヴィンは、金髪であることとアンドルーという名にちなんで、友人や仲間たちからサンディと呼ばれていたのだった。幼いサンディ・アンディは親類から貰ったこの名を気に入って、自分からアンディではなくサンディと呼ぶよう主張していたという。

「エヴェレストでサンディと言われて、浮かべる若者は皆共通だろう」

「まあ、そうかもしれませんね。でもありふれたあだ名でしょう? あなたなら、もう一人くらいは〝サンディ〟を知っているんじゃありませんか」

 曖昧に笑んだ目元は、古写真で見たものによく似ているようにも思える。しかし瞳の印象が違うせいか、仮に今が一九二四年だったとしても、かの「サンディ」と同一人物という気はしなかった。暗闇ではよく光るが、明るい中で見ると存外底が深い印象を受ける瞳だ。振舞いの印象に反して、快活な利発さよりも感受性豊かな思慮深さを感じさせるその眼は、同じ青といえども「サンディ」らしくない目つきだと思った。

「今はウォラストンの話をしているわけじゃない。まして盆なんて先も先、冗談じゃない。お前はサンディ・アーヴィンの親類、どうだ」

「さあ、どうでしょう? ……とか言うとちょっと怪談(ホラー)っぽくありませんか」

怪談(ホラー)? 推理物(ミステリー)でなく?」

「ああ、確かに。うん、ミステリアスキャラも面白いかもしれません」

 答える気の無い様にバラクラバを外してみろと煽ると、サンディは嫌ですよと首を振った。

「だって取ったら寒いじゃないですか」

「そんな寒がりが尻の下に何も敷かず雪に座るかよ」

 

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  ///

 

 エリオットにとって腹立たしく、サンディにとって嬉しいことには、起きだしてきたローズとオリバーはサンディの淹れたモーニングティーを喜んで飲み、ピラフに舌鼓を打った上に昼食まで受け取った。警戒とは裏腹に、仲間たちが体調を崩す気配はない。だからといって、医学を学んだことが無く、登山に必須の怪我や体調不良の手当て程度の知識しか持たないエリオットは、本当にサンディの作った食事を摂っても大丈夫だという確信を持つことは出来なかった。

 昨晩は急な吹雪で停滞することになったが、今日は余裕を持ってベースキャンプを目指せそうだった。荷物をまとめて出発する頃には、新品の絵の具を二色ぱあんと撒いたところへ、筆先で色とりどりに打った点のような登山者たちが、次のキャンプを、そして多くは頂上を目指し一歩ずつ登っていくことになる。最もメジャーな南東稜ルートよりは落ち着いているものの、シーズン相応に登山者は多い。出発直後こそ他のグループを見ることは無かったが、キャンプ到達までには色とりどりのウェアが行き交う様を見ることになるだろう。

 技術にも体力にも自信があるというサンディの言葉は、すぐに真だと証明された。最初こそ、朝食をご馳走になった上にそこまで任せるのは悪いというローズとオリバーの遠慮、そして人柄もアルピニストとしての能力も分からない人間に荷物を預けることは出来ないというエリオットの断りからただ同行するだけとなったが、一八七〇〇フィートという標高も、稜線で吹きつけてくる強風も、隙あらば足を掬おうとするガレも物ともせず、彼は意気揚々とした足取りで、自ら先導を引き受けてみせた。

 斥候のように先んじては、目ざとく進行方向の不都合を見つけ出し、ルートファインディング、警告、トラバースや巻きの提案、手間取る新雪の蹴り込みまで、パーティーに欲しいと思う役割をあっさりこなしていく。必要となれば、彼は率先してラッセルやリードロープまで担うだろう。そう思うのも決して甘えや楽観ではないと確信できる、凄烈なまでの働きぶりだった。

 おかげで三人は、高度を上げているにも拘わらず、ベースキャンプ出立時より楽な行程とさえ感じるほどだった。昨晩眠る予定だった中間キャンプも、小休憩を取るだけでほぼ素通りして進んでいく。

 サンディは背負った荷の重みも自身の質量も感じていないかのように身軽に動き続けたが、とりわけ進路上に立ちふさがる氷が張りついた岩場での身のこなしは目を瞠るものだった。

 人間を拒む女神の意思そのものの体現の如く恐ろしげに聳え立つ氷雪の壁、岩と氷のミックス、底が黒いほど深いクレバスを隠す新雪を纏って音もなく沈む白い腹……チョモランマが処女峰でなくなってから恐らく七十年ほどが経ち、頂上に渋滞が発生するようになってなお、此処が厳しい世界であることには変わりない。

 形を持った無言の拒絶を、サンディはポケットに手を突っ込んだままちょっと眺めて、迷いなく出っ張りに手足を掛ける。そしてぐっと身を屈めたと思うとさっと次の手を、足を、大柄な体格からは想像しにくいしなやかな軽やかさは蛇のような動きで、少しも臆することなくするすると登ってしまう。クライミングと呼ぶほどの岩場でもないとはいえ、思わず目を奪われる様だった。

 この急勾配を越えたら眺めの良い暖かな日なたがある、此処で昼食を取ろうという提案が出たのも、やはり先行していたサンディの口からだった。何時間も負担の多くを担い続けた彼は流石に息を弾ませていたが、それも演技なのではないかと疑いたくなるほどに、アイゼンが刻む足取りは依然として余裕綽々だった。疲労しているはずなのに地に足をつけていられないといった様は浮かれた子供のようでもあり、後続を待ちきれない焦燥の表れのようにも思えた。

 極力軽量化したとはいえ、八〇〇〇メートル峰登頂に必要な荷物は決して軽いとは言えない。下ろした瞬間に肩と腰から宙へ浮き上がりそうな感覚さえ覚えるザックから解放されて、一息つくと食事の準備が始まった。

 ピラフがきつね色に焼かれる匂いと、日陰とは裏腹に暑いほどの陽とが混ざりあって、標高二〇〇〇〇フィートの一角だけが南欧の空気さえ纏ってみせる。陽気さの満ちた空間の片隅で、ビスケットを齧る音が拗ねたように地を撫でた。

 予定より進みが良い、天候も夜まで安定しているだろう。この分なら心身ともに余裕を持って今日の行程を終えられそうだ。そんなことを話し合い、地図を確認しながら、近いうちに消化にリソースを割くことを拒み始めるであろう体へカロリーを流し込んでいく。

 すっかり馴染んだリズムの中、いつの間にかお喋り好きの新入りがいなくなっていることに気がついたのはローズだった。

 いつからそうしていたのだろう、サンディは背を向けて少し離れたところに佇む岩に掛け、遠くに連なる頂の数々をぼんやり眺めていた。さくさくと新雪を踏み近寄っていく音に、彼はちょっと期待したような目で振り返った。大胆にも見ず知らずのパーティーに混ぜてほしいと入ってくる割には妙なところで遠慮するのが可笑しく、その目に応えるように笑ってちょいちょいと手招きする。

「サンディ、そんなところにいないでこっちで一緒に食べましょうよ」

 誘うと彼はきっと子供のように破顔し、しかし小さくかぶりを振った。

「嬉しいお誘いありがとうございます。でもすみません、人と食事するのが苦手なもので。食事だけは一人で摂らせていただきたいんです」

「そうなの?」

 意外な返答だった。驚きを素直に表すローズに、サンディは申し訳なさそうに眉を寄せる。

「付き合いが悪くてごめんなさい。でも食べるのは早いんです、もし僕がいること自体が水を差すことにならないのでしたら、今からそちらに行っても良いでしょうか?」

「もちろん。寂しくて声掛けてきたんでしょ? 離れて座っているだけなんて勿体ないわ、咳込まずに喋っていられるのも今のうちよ」

 寂しいわけでは、と少し口ごもったが、何か思い直したのか、気恥ずかしそうにポケットに両手を突っ込んで立ち上がった。

「ありがとう、ローズは姉さんみたいに親切にしてくれるんですね」

「あら、随分頼もしい弟分じゃない」十インチほども上にある顔を見上げ、ローズは笑った。「妹弟のお世話なんて、殆どしていないんだけどなあ。教師なんてやっているからかしらね」

 先に立つ彼女の言葉に、サンディは微かに目を瞠った。

「先生だったんですか。インストラクターとか?」

「ううん、カレッジで物理を。エリオットは作家だから、三人のうち二人は屋根の下の仕事ってわけ」

「へえ、これは意外でした。皆さんは古いお知り合いなのですか」

「ああ、大学の山岳部繋がりでな」

 質問に答えたのは、ちょうど戻ってきた二人の目の前でピラフの最後のひと口を飲み込んだオリバーだった。満足げに口元を拭きながら、ごちそうさまと空になったクッカーを振ってみせる。

「俺とエリオットはケンブリッジの先輩後輩、ローズがエリオットと同期だがオックスフォードなんだ。夏の合宿で知り合ったんだったか?」

 話を振られ、粉っぽい口中へ白湯を呷ったエリオットが不貞腐れ気味に頷いた。

「そう。ケンブリッジ城に山トロルのお姫様がいると聞いて」

「あらどうも、偏屈作家先生に褒められると照れますわ」

 鼻を鳴らしてあしらったローズは、少し気遣わしげな目を後ろに向けた。

「そう、偏屈なのよ。だから……」

「大丈夫ですよ、ありがとう」

 全く気にしていないと言わんばかり、にこやかに答えるサンディに、ローズとオリバーは杞憂だったと笑い、エリオットはそっぽを向いた。まさか失礼な奴らだなどと言えるはずもない。

 

  ///

 

 ゆったりした昼食後もスムーズに高度を上げていき、パーティーは午後一時にはアタック・ベースキャンプへ到着していた。テントを設営した一行は、高度に体を慣らすためキャンプ内をぶらぶらしながら他の登山家と言葉を交わす。サンディも似たような時間の潰し方をしていたが、確かにこの山にはよく親しんでいるようで、数日前から天候待ちをしているという登山隊に雇われているポーターの一人に声を掛けられ楽しげに言葉を交わしていた。

「何シーズンか前にも、彼とこんな風にキャンプで話をしたんです」煙草をふかしながら怪訝そうな目を向けるオリバーにサンディは言った。「最近のポーターに英語が堪能な方が多いのは嬉しいことですね」

 やがて隊へ戻るというポーターにサンディは軽やかに手を振ったが、その背の向こうにいる騒がしいほどの大集団を見る目は批判的な色を帯びていた。

 バラクラバで表情が窺いづらい彼が黙り込み、じっと佇む姿は何となく陰鬱で、亡霊か怨霊を連想させた。エリオットの悪癖がうつったかと、オリバーは苦笑いしながら青い肩を叩く。

「あんたも賛成しかねる派閥か」

「おっと、失礼しました」

 サンディは少し恥じるように首を竦めて、帽子を目深に被り直した。

「別にいいんですよ、何人登ろうが僕がとやかく言うことではありません。賑やかなのも一年中のことではなし、誰もいない、およそ生き物と呼べるものは何もない世界で、ひとりぼっちを噛みしめながら歩き続けるよりは良いくらいかもしれません。これには反対意見をお持ちかもしれませんが、僕は孤独を求めて登っているわけではありませんからね」

 向こうは公募隊なのだろう、国籍も人種も様々な人間が一塊になっている。孤独とは正反対の楽しげな光景ではあるが、商業主義が過熱した安価な公募隊がはらむ危険性については議論が起こっている。自身も公募隊で登った経験がある手前、オリバーには一括りに批判するつもりこそないが、あまりにも危うい状況の中で強行される隊や、ガイドの指示を無視する困った観光客に良い感情を抱けというのは、無理のある話だった。

「ま、確かにあんたは静けさよりも賑やかな方が好きそうだ。だがその感じじゃあ公募隊を頼らず登ってきたんだろう、信頼できる仲間を見つけてパーティーを組み、ポーターをスカウトするのは経験もエネルギーも要る。大したもんだな」

「ええ、どうも……。ああそれにほら、色々な人がいると、ちょっと変な装いの貧乏登山者がいたって幾分紛れますから。人が多いのは、案外良いことも多いんです」

 そう言っておどけたように擦り切れたウィンドブレーカーの袖口をつまんだが、すぐにその表情は暗くなる。

「とはいえ、流石にアイゼンの付け方も知らないのに来てしまうような類に良い顔をするのも、人情のない話だとは思いますが。そういった客のせいで命の危機に晒されるポーターが気の毒だ。きっと登りたくないだろうに、家へ帰りたいだろうに、今はそうもいかないものなのでしょうか。命をなげうつほどの誠実さを向けるに値する人や、目的のために死ぬのならまだしも、お金だけでは……」

 視線の先にいた集団の一人がふと目線を向けてきた。サンディの話が聞こえたはずもないのに、その人物はまるで見てはいけないものでも視界に入れたかのようにさっと目を逸らす。それでサンディは我に返ると、誤魔化すように笑って見えぬ口を塞ぐ仕草をした。

「すみません、随分と喋りすぎました。どうやらあなたの雰囲気は僕の口を軽くしてしまうようですね。どうか忘れてください」

「何だい、俺は何もしてないぜ」本当に人懐っこい奴だと、半ば呆れながらもつられて笑い返す。「まあお前さんの意見には概ね賛成さ。あっちもこんな体格のいい色男二人と目が合ったら逸らすのもおかしな話じゃないだろ、そっちこそ気にしなさんな。しかし……」

 随分変わった人間だと思った。しかし彼の考え方自体はさほど珍しいものでもない。今自分がサンディに感じている違和感の正体が分からず、心の内で首を傾げた。

「しかし?」

「いや、何でもない。お前さん変わった奴だなあと思っただけだ」

「うん、さっきの彼にも言われました。あなた方がそう仰るのなら、きっとその通りなのでしょうね」

 涼しい顔で頷いたサンディはポケットに両手を突っ込んだまま、早くも暮れの色味を帯び始めた陽の中を何処かへと歩いて行った。

 

  ///

 

 昨晩とは打って変わり、アタック・ベースキャンプは平穏な夜を迎えていた。

 満天の星空の下、夕食を終えてシェードを被せたヘッドライトを囲み、顔馴染み三人はホットココアを注いだカップを手にまったりと暖まる。

 飲み物の勧めを丁重に断ったサンディは、空っぽのチタンマグを手の中でくるくる弄んでいた。一日様子を見ていて、大胆だが几帳面な男だと感じている。一体何をどうしたら、頑丈なチタンがそんなに凹むというのだろうか。

「いかがでしたか、今日の登高は」

 エリオットの物問いたげな目に気づいてか気づかずか、尋ねる彼はきっと、得意科目の採点を受け取る生徒のような表情をしていた。

「想定以上、お見事だった」

 即答したのはオリバーだった。感嘆と称賛の滲む声に続き、ローズも頷く。

「本当に単独登頂だって目指せたでしょうに。一緒に来てくれて助かるけど、ちょっと悪い気もしちゃう」

「はは……数ヶ月間誰とも話さず過ごせるようになったら再挑戦するかもしれません」

「そういうものかしら。さ、一番よく見ていたはずの厳しい先生のご意見は?」

「ん、右に同じ。昨晩のおかげと言うには状況が危険すぎたけど、それにしたって銀の裏地だった」

 素直に答えるとローズとオリバーが妖精に鼻をつままれたような顔をしたので、そこまで大人げなくはないと睨んだ。実のところ、嫌味をひねるには鈍く響く頭痛が邪魔だったという話でもあるのだが。

「何だよ、サンディが山を登ることにかけて優れているのは明らかだろ。時間をかけなければ分からないこともあるけど、最後まで能力を批判するようなことは無いんじゃないか」

 三人の評に、サンディは照れ隠しのように歪なマグを弾いた。布越しにもバラクラバの下でにやりと笑みを浮かべているのが見えるようだった。

「嬉しいものですね、ありがとうございます」

「人として信用するかはまた別の話だからな」

 はっきり言って異常だと思った。いくら山に、そしてこの山域に慣れているとしても、流石にあれだけ動けるのはおかしいだろう。そう言いたいのを飲み込めるほどにありがたくはあるのだが。

 ネパールのシェルパ族やチベット人を始め、何代もヒマラヤ山域で暮らしている人々がいる。人体の高所順応には段階があり、赤血球数増加などの数時間から数日ほどで変わる短期的なものもあれば、脳血流量などの一代ではどうにもならないほど時間のかかる長期的な順応もある。低地に居を構える人間がどれだけ頑張っても間に合わないほど高所に適している逞しき者が訓練を積み、ベテランのポーターになったとしよう。彼は単独登頂を目指せるだけの荷を背負って、標高二〇〇〇〇フィートの雪山を、果たして今日のサンディほどに気負いなく動き続けられるものだろうか。

 ひどく色の白い彼が、陽の強い超高高度で何代も重ねてきた家系の筋とも思えなかった。せいぜいがハイランド出身といったところだろう。

 命の削り合いという世界の前提を無効化したかのような自由闊達な歩み、その裏にあるのは非生命感でしかない。だが彼の動きを不可能と切り捨てるには、エヴェレストに限らず極限の世界で人間が見せる奇跡のような力と命の強さを示す例は多すぎた――呆気ないほど容易く落とされた命と、天秤にかけてみたいくらいには。知っているが故に完全否定することは出来ないが、いざ目にすると化かされたような思いだった。

「それはそうと、この先も顔を見せる気は無いのか」

「ううん、紳士的な寛容さを期待したいと言ったら引いてくれますか?」

「別に無理にとは言わないよ。その分信用は変わらないけどな」

「これは手厳しい。明日からも尽力させていただきますよ」

 サンディはバラクラバを一層引き上げると、くつくつとひどく嬉しそうな笑い声を漏らした。

 

 汚れものを片付け終えると、朝までに残る仕事は眠ることだけになる。エリオットは文庫本を開き、ローズは手紙を書き始め、テントへ招かれたサンディとオリバーはこの先の状況について情報を交わした。

 やがて一足先に寝支度を始めたオリバーにおやすみを告げたサンディは、エリオットの本には一瞥をくれただけで、ローズの手元に好奇心の光る目を向けた。

「日記……ではなく手紙ですか。随分沢山書いたんですね」

「全部まとめて送ることになるからね。ま、生きて帰らなきゃそもそも送ることすらも出来ないんだけど。この後ももっと増えるわよ」

 書き終えた手紙を収めた封筒は多く、まだアタック・ベースキャンプにいるというのに先が思いやられる厚みだ。紙束を括りながら、ローズはサンディを見上げた。

「あなたは家族や友達への手紙は書かないタイプ?」

「あー……書いていたこともありましたね」

 サンディは何故か少し目を泳がせ、頷いた。

「随分昔のことみたいに言うのね」

「実際昔のことですから。今はもう、送る相手がいないといいますか」

「あ、ごめんなさい」気にするなというように手を振るサンディに、すまなく思いながらも続ける。「でもそれなら、家族についてはきっと私と似たようなものかな」

「そんなに沢山書いているのに?」

 驚く彼に、ローズは封筒の宛名を見せた。数も宛先の種類も多いが、その中にヒューストン姓のものは一通も無かった。

「親戚がいないわけじゃないんだけど、ラサから絵葉書を送ったしもう十分。友達には手紙を書くけど、それはそれとして今じゃ頂上でもネットに繋がることだし、必ず最高の蒼の中で集合写真と自撮りを上げてやるんだから。勿論危なかったら諦めるけど、期待したいところね」

「楽しそうですねえ」

 浮かれて話すローズを頬杖ついて眺めながら、サンディは幼い子供を前にした老人のようにのんびりと呟いた。もちろんと頷く灰色の目が、天幕の向こうに聳える頂を見つめて光る。

「楽しいわよ、写真は好きなの。特にこの星で一番宙に近い場所、そんな素晴らしいところで見たものは残しておきたいの。集合写真が撮れそうだったら、その時はサンディ、あなたも一緒よ」

「僕もですか。……はい、楽しみにしています」

「撮影時間が確保できる幸運な登頂者になれたらいいわね、出来たら動画も撮りたいな」

 スマートフォンを取り出し、これまでに撮ってきた写真や動画を繰って見せると、サンディは興味津々といった様子で覗き込んだ。中でもイギリスの写真が特に気になるようで、大学時代に構内で撮影したものを開くと真摯なほどにじっと見入っているようだった。ヒマラヤ歩きが長いと言うからには、恐らく今はこちらに移り住んでおり、長く故郷に帰っていないのだろう。元はロンドンで生まれ育ったのだろうか。そんなことを思いながらも、気に入っている写真を見てもらえることが嬉しくてアルバムを繰り続ける。

 暫くここまでの旅路や故国の写真、友人とのスナップなどを見せていたが、そのうちふと思い立って尋ねる。

「そういえばあなたがスマホを触っているところを見た覚えが無いけど、壊れたとかじゃない?」

「ご心配ありがとうございます、最初から電話を持っていないだけなので問題ありませんよ」

 身軽が一番ですと笑う姿は、不思議と地に足がついていないようでもあった。

「え、流石に不便じゃない? ラサどころか、ベースキャンプだってちゃんとネットに繋がるでしょう」

「必要になったら考えますよ、面白そうですしね。でも無ければ無いで、案外何とかなるものです。現に僕は、電話無しで何年も元気にやっていますから」

「ふーん。ま、今回はカメラが使えるってだけで御の字かな。あ、そういえば慌ただしくてまだあなたの写真撮ってなかったわね。一枚いい?」

「顔が写らなければ構いませんよ」

「スナップ撮ろうとしたって、その格好じゃ殆ど写らないじゃない。じゃあ手元でポーズ取ってね、はい、エリオットもこっち見て。ノルも入れるわよ」

 電子音が鳴り、全員が写った一枚が撮れた。

 オリバーは寝袋の中でとうにいびきをかいており、読書を邪魔されたエリオットは面倒そうにカメラを見やり、撮影者のローズは狭いテント内で無理に入り込もうとして見切れ、きちんと写れたはずのご機嫌そうな被写体は首から下しか写っていない。

 まったくおかしな写真だが、ローズは自分たちらしいと満足そうに眺め、小さく溜息を吐いた。

「格好はつかないけどいい写真だわ、エリオットもサンディもありがとう。でもこうなるとせっかく持ってきた一眼が嵩張るだけのお荷物になっちゃったのは本当に残念、いい写真撮りたかったなあ……」

 ローズの嘆息に、面白そうにスマートフォンの画面を覗いていたサンディが顔を上げた。

「おや、寒さのせいですか。それとも壊してしまいましたか?」

「正解、壊しちゃった。サコッシュのファスナーをうっかり閉め忘れていて、岩場登りで滑り出たらそのままがらがら、がしゃん。軽量化するためにカメラケースを薄手にしていたのも悪かった。人でも機械でも、岩場で転げ落ちたら死んじゃうのは当然ね」

「ああ……ということは、回路が壊れたというわけではないんですね。パーツは回収できていますか?」

「時間を掛けずに見つかるものだけは。でも細かい部品は殆ど見つからなかったし、残ったものも随分ひしゃげちゃったからもう駄目かな。小さなねじとか、あの風と地形じゃ一時間かけても見つけられる気がしない」

 思い入れがあるしお気に入りだったんだけどね、と笑うとサンディが痛ましそうな目をした。

「よかったら見せていただけませんか」

「ええ、構わないわよ」

 ローズがザックから取り出したのは、布に包まれたカメラと、プラスチックバッグに収められた細かな螺子や金属片の類だった。布が解かれると、サンディは驚きと喜びに小さく声を上げた。

「わ、これは意外でした。てっきりデジタルの一眼かと」

 触っていいわよと渡されたカメラを、サンディは硝子細工か小鳥でも扱うかのように受け取った。

 カメラは今時珍しくなったフィルム式の一眼レフで、古いものの丁寧に手入れしながら大切にされてきたことが窺えるものだった。

 ローズが話した通り、落とした際についたと思われる新しい傷が細かな古傷を抉るように重なり、腹は破れ、中身は弾け飛んでいる。なんとか回収されたパーツと、陽に晒され駄目になったフィルムはハンカチで包まれ、軽くなった本体には留め金を失った蓋がただ被されているだけだった。奇跡的に無事だったレンズも、機能が死に果てた中身にただただ景色を通すばかりで、とても再び使えるものではなかった。

「元は父のものだったからだいぶ年季が入っているけど、雰囲気あって好きなのよね。フレアもゴーストも綺麗に出るのよ。もう写真は撮れないでしょうけど、見かけだけでも傷で風格が増したと思おうかしら。エヴェレストで終わるのなら本望かもしれない」

 本音ではないだろうに、という言葉は飲み込んだのだろう。サンディは暫く無言でカメラを矯めつ眇めつしたり、ハンカチに包まれた部品をひとつひとつ確認したり、ペンライトを取り出して内部を覗き込んだりなどしていたが、やがてほっとしたように一つ頷いた。

「……うん、これなら直せるな」

「まさか」ついローズの口を突いたのは、否定に近い疑いだった。「こんなに酷く壊れているのに? 私も何が足りなくなっているのか把握しきれていないわよ」

 怪訝そうな目を正面から見つめ返し、サンディは自信満々に頷いた。

「大丈夫。前と全く同じにというのなら、此処では少々骨が折れますが、カメラとして使えるようにするだけならいけますよ」

「撮れるならそれでいいわよ。本当に頼んで良いの?」

「是非やらせてください、機械弄りは大好きなんです。明日の朝にはお渡しできますよ……もちろん、この大切な品を預けていただけるのでしたらの話ですけど。本当に良いのか尋ねたいのはこちらの方ですよ」

 言われてみれば、出会ったばかりの正体不明な人物へ素直に大切な父の遺品を預けようと思えてしまうのも不思議な気がした。しかし彼のことは信用して良いと直感している手前、天秤の傾きは知れたことだった。それにどうせ元々壊れている品なのだ、これ以上悪くなるということも早々あるまい。

「すごい自信ね……いいわ、お任せする。でも急がなくていいのよ、少なくとも山を下りるまで直るなんて思ってなかったんだから。夜更かししないようにね」

「ふふ、お気遣い痛み入ります。大丈夫、全部上手くいきますよ」

 サンディはカメラと小袋の包みを抱いてぐっと親指を立てると、今日一番意気揚々とした足取りでテントへ戻っていった。

 あっという間に遠ざかっていった気配は、本当に明日の朝に間に合わせるつもりで仕事を始めるのだろう。今は十八時を過ぎたところだが、山のリズムで早起きするのならば眠るべき時間までさほど残っていない。何でも朝食を作るエリオットより早起きだったというのだから、よほどのショートスリーパーでもない限り明日の朝までに修理を終わらせるなど土台無理な話のように思えた。仮に徹夜したとしても、ごく限られた道具しか持ち合わせていない過酷な環境下、あれほど悲惨な状態に壊れてしまったカメラが直せるものだろうか。荷物の選別には最も慎重になるべき単独行者が、アーミーナイフとテープ以上に大したリペアキットを持ち込んでいるということもあるまい。

「本気かしら」

 人柄への信頼と腕への信用はまた別の話だ。思わず呟くと、これまでずっと黙っていたエリオットが本から顔を上げた。

「あまり聞いてなかった。明日までにあのカメラを直してくるって話?」

「にわかには信じがたいけどね。彼、多分私たちより年下でしょ? それでヒマラヤを歩き回って長いっていうのに、そんな技術どこで身に着けるのよ」

「天才なんじゃないの。学校じゃなくても学ぶことは出来るだろ」

 幽霊話に関わり合うのも億劫な気分で、ちらと隣のテントを思うだけで口を噤む。高度を上げたことと昨晩寝つきが悪かったことが重なり、エリオットの頭は十分な酸素の補給と休息の必要性を訴えていた。

 サンディの正体は分からないが、彼がかの「サンディ」その人を現代に再現するかの如く動いているのだとしたら、結果には期待できそうだ。テントも随分古いものを上手く修繕して使い続けていることを知っている。とはいえ、顔を明かさない彼が本当にそれだけの技量を持っている保証はまだない。仲間の期待が空ぶっては悪いと、それ以上は触れないことにした。

 頭痛と気鬱で全く読み進まなかった本を閉じる。それを合図に、二人は先輩にならってシュラフへ潜り込んだ。

 

  ///

 

 二〇二四年 四月十日

 

 朝、やはり早起きのエリオットが一番にテントを抜け出すと、更に早起きのサンディは前日と同じように朝食の支度をしていた。おはようございますと笑む彼の膝には、布に包まれた塊が鎮座していた。

 触れるのは抜け駆けのようで、何となく持ち主への遠慮があった。好奇心を抑え当たり障りのない雑談を交わしながら湯を沸かしていると、常よりは早めに起きたローズが這い出てきた。

 挨拶もそこそこに掲げられた包み、そして得意げな明るい目に、ローズは驚嘆と期待を隠そうともしなかった。

「はい、お約束の品です。フィルムは持っていますね?」

「もちろん。え、本当に直せたの?」

「使ってみるのが早いでしょう。現像は下山してからになるでしょうが、問題なく撮れているはずです。保証しますよ……といっても、サインくらいしか出来ませんけどね」

 ローズが受け取った包みをほどくと、そこには確かに部品こそ足りないものの、ありあわせのパーツで巧く機能を補われたアンティークカメラがあった。どうやら拾い集められた部品以外も宛がわれているようで、サンディが持ち合わせから工面してくれたらしい。

 朝陽に輝く嶺へシャッターを切ればカシャリと聞き慣れた音がして、螺子を巻けば数日ぶりにセットしたフィルムが心地よく巻き上げられていく。自然と顔がほころぶのが分かった。

「ううん、信じていいと思ってる。すごいわね……あなた何でも出来るのかしら」

「そんなことはありませんよ、たまたま得意分野で仕事する機会が降ってきただけのことです」

「そう? 控えめなのも過ぎれば嫌味よ」

 そうは言っても苦手なこともありますから、と遠慮がちに付け足した声は、嬉しげな色を隠しきれていなかった。

「ともかく、サコッシュの開けっ放しにはお気をつけあれ。普段からその一眼を使っているわけではないのでしょう」

「ええ、大抵はスマホよ。綺麗な写真をお手軽に、十分すぎること。任せなさい、このために自撮り棒(セルフィースティック)を改造したんだから」

「セルフィースティック?」

「え?」

 何ですかそれ、と続けんばかりの様子に、ローズは思わずぽかんと口を開ける。その反応を見て、サンディが微かに身を固くした。

 ローズがザックのサイドポケットから取り出した幾度にも折りたたまれた棒、それを伸ばしてスマートフォンをセットして見せて、彼はようやく得心がいったような顔をした。

「あ、ああ、見たことありますよ。勿論」

「ちょっと、大丈夫?」

「少しぼんやりしていただけですよ、修理に夢中で夜更かししたから……」

 瞳や窺える表情の印象に反し、サンディの目元は笑って尚暗く、そう言われれば納得せざるを得ないものがあった。

「もう、そんなこと無いようにって言ったじゃない。でも本当にありがとう、どうお礼をしたらいいか。おかげで心置きなく進めるわ」

「どういたしまして。僕も良いカメラを直せて光栄です、とっても面白い仕事でしたよ。お礼というのなら、また何か調子の悪い道具があればどうぞ修理屋サンディを御贔屓に、ということで」

 調子よく盛り上がる素直な二人を眺めながら、起きてはきたもののまだ眠気を顔いっぱいにはりつけたオリバーがあれは何だと尋ねる。エリオットがかいつまんで説明すると、珈琲のカップを手に白い息を吐いた。

「ガイド、ポーター、修理屋の三役兼業。とんでもない逸材を拾ったもんだ。最初に組んだパーティーの頭数が足りなかったのも、幸運な巡り合わせだったかもしれないな」

「うん……」

 言葉にするのは控えただけで、エリオットの胸中では呆れるほどの驚嘆と同じだけの警戒が膨れるばかりだ。頭痛は治ったが、気分は晴れやかと言うには程遠かった。これまで眠ったことなど無いかと思われるほど顔色の悪い彼は、今日も元気に歩き続けるのだろう。

 

 一九二二年、斜面にて発生した雪崩でポーター七名が死亡。この事故により英国第二次エヴェレスト遠征隊は撤退。

 一九二四年、悪条件が重なりキャンプⅣの設営作業中ポーター置き去り事故発生。死亡者こそ出なかったものの、困難な救出活動により第三次遠征隊登攀班は酷く消耗。その後のアタックに尾を引くことになる。

 呪われたポイントだと、ひとりごちる声は誰にも届かない。冴えた朝陽の中、本日目指すべき現代キャンプⅠ、ノースコルは白く輝いていた。

 


 

 光のすることでなく、人の与える形と

 どんな特別な色になるかということだ、

 そして登山家の一心不乱といったものがある、

 白い峰を見て、そこに足の置きどころをまちがわず。

 太陽が朝よかったということでなく

 またひとつの石でどのくらいのものを見せることができるかでなく

 どのくらいの輝きを避けることができるかだ。

 ただ剥いでいくこと、つづけること

 ひとつのものを、星を見つめる人のように見る。

 ただひとつのほうき星を落ちて磨かれる

 無数の、触れない銀河ではないのだ。

 

 (『英語歳時記/雑』より 成田成寿訳)

 

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