CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

STARGAZER: 7th / 0th Stage

f:id:CampVII:20210519213055p:plain


これの続き。

 


 

7th stage: Childhood's End: A

 

この場所だ

彼はここに立っていた

少し斜めになって

彼は立っていた

夢だったのだろうか

本当に……

その光景だけが稲妻のように蘇る

 

おそらく

僕の人生の中で最も深く人間を愛したのは

あの一瞬だったろう

森博嗣『魔的』より「一瞬」)

 

 

 夜も明けぬデスゾーンにて、山岳救助のスキルを持たない三人のクライマーが黒混じりのレッドタグをキャンプⅡまで下ろしたことは、公にならない大きな功績と言って良いだろう。

 彼らの尽力にもかかわらず、翌日もサンディは目を覚まさなかった。「生きている」のか、それとも本当に死んでしまったのか、彼が意識を取り戻さないことには判断がつかない。眠るように死んでいるのか、あるいは死んだように眠っているのか、彼に於いてその境界は曖昧で、同時にすら満たしうるものだった。誰の目にも明らかな致命傷を負ったまま平然と起き上がった以上、たとえ脈や呼吸が無くても、それは彼が二度と起き上がらない証拠にはなり得なかった。悪魔の証明だ、と医者は零した。だが夕方ガーゼを取り換えようとした彼が首を傾げ、大部分の傷が信じられないほど速やかに癒えつつあると告げた時、悪魔は祓われたように思われた。

 時間は無限ではない。幸いにも好天日が多かったためまだ食料や燃料にいくらかの余裕はあるが、それとて限りはある。応急手当の基礎知識しかないエリオットには、嵩張る荷物をサンディのテントに移して四人で身を寄せ合いながら、常より暖かく、快適さを保つよう努めるくらいしか出来なかった。彼を諦めてキャンプを離れようという意見は、終ぞ誰の口からも出ることが無かった。

 サンディの介抱のために、それぞれのテントを合わせて限界まで有用に使うしかなかった。その中で、サンディには悪いが彼の荷も解いていた。彼のザックに詰められていたものと、キャンプⅡ及びⅢに残置していた品目は、普通ではありえないものだった。

 書き出してみよう――テントと関連器具、殆ど替えもない僅かな衣類、予備らしい帽子、医薬品、寝袋、ヘルメット、太さの違うザイル三本、十分な量と種類のカラビナ、アイゼン、アックス、スパッツ、携帯ソーイングセット、マルチツール、リペアテープ、バーナー、ガス缶、最低限のクッカー一式、梯子、旧式の酸素ボンベ。消耗品以外はどれもが古く、羽毛で温度を保つべきものは羽根が抜けて薄っぺらで、くたくたになっていた。いつもウィンドブレーカーの下に着ていたダウンですら、血で駄目になるまでもなく使い物にならない代物だったことだろう。例外はエリオットが貸した『眺めのいい部屋』だけだった。食べ物は高カロリー食品の包みがいくつかと残置された缶詰や茶葉くらいで、こちらも量は本当に僅かなものだった。

 それから実用目的ではなさそうなものが三つ――年季の入ったスパナが一本、崩れそうなほどぼろぼろになって色褪せた青い布切れが一枚、そしてインクの掠れた写真……恐らく本から切り取ったもの。ちょうど百年前、未踏峰であったこの頂に挑んだ、英国第三次エヴェレスト遠征隊の集合写真。後列の端で世界一有名な登山家と肘を突き合わせ、今目の前で死んだように眠っている顔が、満面の笑みを浮かべていた。

 

  ///

 

 2024年5月20日

 

 三日後の朝、登るつもりなら寝坊になる時間にエリオットが目を覚ますと、目の前のシュラフはもぬけの殻だった。まさか消えたのかと飛び起きるが、外から紅茶の香りが漂っていることに気がつき安堵した。気が張っていたにもかかわらず深く眠り込んでしまい、人が出ていく気配にすら気がつかなかったようだ。ほっとした途端、きちんと畳み重ねて枕元に置かれた包帯と添え木にしていたストックに気づき驚かされたが、その主に関してはもう何が起こっても不思議ではないと思い直した。たった三日、されど三日だ。

 外を覗いてみると、入口から片足を引きずった足跡が伸びていた。その先、少しだけ稜線から下った岩棚には三日前までとそっくり見慣れた光景があり、違うところと言えばそのひとが帽子を被っていないことと、ウィンドブレーカーが縫い目と血の染みだらけになっているくらいだった。強風に煽られるがままの金髪の中にガーゼを何枚も当てた包帯が巻かれていなければ、あの出来事は夢だったのかと疑ってしまったかもしれない。ダウンは着ていないせいか、いつもよりその背が一回り小さく見えた。

 テントの中を振り返る。ローズとオリバーは、いつものことながらまだぐっすり眠っていた。今日は昼までには天候が悪化するのだろう、テントを揺らす強風にはいやな気配が混ざっているものの、そんなものはお構いなしといった風だ。

 鼓動が高鳴るのを感じていた。けれどそれは、これまでの山行で時折あったような、厭な予感を伴うものではなかった。枕元のチタンカップを取って、そっとテントを這い出す。近づいていくと、足音に気がついた肩がびくりと震えた。怖がるとしたらこちらの役割だろうと思いつつ、エリオットはその背に呼びかけた。

「おはよう、サンディ」

「……おはようございます」

 サンディはゆっくり振り返った。いつも目元ぎりぎりまで引き上げていたバラクラバは下ろされ、左頬にはローズの貼ったガーゼとテープが痛々しく存在を主張していた。笑おうとして失敗したような、困っているような、怯えているような、とにかくいつもの快活さとは打って変わった弱々しい色を湛えて、それきり目を逸らすと黙り込んでしまう。怒られるのを悄然と待っている子供のようで、どうにも見ていられない表情だった。

 何と声を掛けたものか分からずにいると、サンディは緩慢な動きでクッカーを火から上げて立ち上がった。やはり体のどこを痛がる様子などなく、ただ怠そうに右脚を引きずっているだけだった。

「いかがですか」

 諦めたような様子で、それでも濃いダージリンが湯気を立てるクッカーを揺らしてみせるのに黙ってカップを差し出すと、サンディは軽く目を見開いて熱い紅茶を注いだ。朝の薄く冴えた空気の中、芳醇な香りを吸い込む。マスカテルフレーバーが混ざるとは、どうやって手に入れたのかは知らないが良い茶葉を持っていたらしい。律儀な人だ。暫し香りを愉しみ、それだけで程よくぬるくなったダージリンを一気に飲み干した。品は無いが、寝起きでカラカラになった喉に染みわたるモーニングティーは格別なものだった。

「美味しいな。ところでローズたちはまだ暫く起きそうにないんだ、良かったらもう一杯くれないか」

 一連の光景をぽかんと眺めていたサンディが、信じられないという風に口を開く。

「どうして」

「本名も顔も素性も明かさない、食事も共にしようとしないから信用していなかっただけなんでね。明かせなかった理由がはっきりした今なら、もうあんたのことは信じても大丈夫だと思っているよ。むしろ非礼を詫びないといけないくらいだ」

「怖くないんですか」

「俺たち全員が、あんたの出ていくのに気がつかないほどぐっすり眠り込んでいたのが答えだよ。エヴェレストの幽霊は優しいというし、あんたもずっとそうだった」

 それとも何か盛ったのかいと尋ねると、サンディは静かに首を横に振って紅茶のお代わりを注いだ。

 エリオットはコックが座っていた隣に新たな足場を切って腰を下ろした。ややあってサンディも腰を下ろすと、エリオットはじっとその横顔を見つめる。何度となくモノクロ写真で見た顔、百年近く前の人物が全く同じ姿で、現代の装いに身を包んでいるのは不思議なものだった。

 これまでは殆ど隠されていたので気になることも少なかったが、確かにこうして素顔を露わにすると誤魔化しようもなく生気の感じられない顔色だった。人間の肌について言われる色白、蒼白、そういう表現を通り越して長年陽と風に吹き曝された大理石のように脱色された誇張なしの真っ白は目元だけではなかった。同じ色を纏った遺体を知っている。

 表情が薄いままじっと一点を見つめている姿は、朝の光の中で見てもなお屍体か人形のようだった。色白な人間が酷く日焼けした際往々にしてなるように、顔の皮膚は表面が剥けたように荒れている。しかし赤黒く染まっているはずの肌が無機的に白いせいで、それは強風に撫でられた雪面を連想させた。痛そうに割れた唇にも血液の温もりはなく、ただロイヤルブルーの眼だけが確かに星を灯して瞬いている様は、見ようによっては不気味、そうでなければ美しいと映るかもしれないものだった。

 普通なら恐怖するところなのだろうと思いながら、エリオットは首元を指して言った。

バラクラバ、外していて寒くないの。帽子も。ダウンだって着てないのに」

「え? ええ。それに無理に被ったら剥がれてしまいそうでしたから」

 虚を突かれたような戸惑いを浮かべつつも、サンディは頬と後頭部に触れて「嬉しかったんです」と呟いた。骨折などの手当てに使ったものは既に外しているあたり、恐らくこの古い傷二つは治らないのだろうと見当をつける。手当てすることもされることも無いまま、ただずっとひた隠しにしてきたのだろう。ノルとローズにお礼言っとけよと返すと、サンディはぐっと堪えるように唇をかんだ。

 その間にもいよいよ風は強さを増し、炎の揺らめきが酷くなってきた。ぼっと音を立てて掻き消されたのを見て、初めて大した暖にもならないのに燃やし続けていたことに気がついた。気持ちよく眠っているところを起こすのは可哀想だが、このモーニングティーを逃すのはもっと哀れだろう。漏れるガスを止めるサンディに、二人を呼んでくるのでもう一回紅茶を煮るよう頼むと、彼はこれ以上耐えられないという風に拳を握って立ち上がった。

「――あの、」

「込み入った話は後。抜け駆けしたって怒られてしまう」

 思い詰めた様子のサンディを押しとどめ、それでも早起きの特権として一つだけ伝え、確認しておくことにする。

「あいつらには誤魔化しておきたいから今言うけどさ、」

 年下の偉大な先輩を、眩しく見つめた。

「俺はあなたを迎えに来たかったんだ、行方不明のアンドルー〝サンディ〟アーヴィン。俺がこの山に来たのは、あなたに会うためだった。俺はあなたの縁者でも何でもないし、恥ずかしながらあなたがその探し人本人だなんて、夢にも思わなかったけどね」

 サンディ――アンドルー・アーヴィンはようやく、古写真の中と全く変わらない笑顔を見せた。

 

「その結論に至ったのは、僕の顔を見てから?」

 もう少し話がしたいという彼は、ゆっくりと新雪の塊を溶かしながら、幾分和らいだ声で問うた。

「だっていくらそう匂わせる行動を取られたところで、普通信じられるはずないだろう。それでも起き上がる様を見せられる前から確信していたのは、今思えば混乱していたと思うけど」

「まったくだ。あんな風に驚かすつもりは無かったんですがね」

「答え合わせの前に正解をばらされちゃあ、こっちは何を考えたところでお手上げさ」

「……」

 気まずげに俯いてしまう横顔に、三日の空白を思い知った。サンディに今のエリオットらのスタンスを分かってもらうには、もう少し話を続ける必要があるらしい。

「だけど俺はまだ核心しか知らない。解へ至る道筋の正解は、未だあんたが握ったままだ。これでもペン仕事の端くれだし、俺なりに間を埋めることも出来る。でもそれって、答え合わせじゃないよな」

「……そうですね。でも僕が期待していたのは正しい道筋じゃない、その筋書きによって真実へのショックを和らげることです」

「ああ、そういえばそんな言い回しだったか。クイズの答えは材料であって、本題ではないな」

「はい。ちなみにどんな筋書きを用意されていましたか」

 無邪気な問いに、今度はエリオットが気まずい思いをする番だった。

「酷いこと訊くな。二人は1924年6月8日に登頂を果たすも遭難、どちらが滑ったかは分からないが北壁を滑落し、アーヴィンはマロリーと離れ離れになる。その後ひとりで戻ろうとキャンプを目指すが帰りつけず、灯りもなく衰弱した彼は座り込み、死を待つばかり。ところが神様とやらに助けられ、実体ある幽霊としてこの山を歩き回り、時々登山者を助けたり励ましたりしながら自分の遺体を探してるってのが、一番特徴の無いプロット」

「ひとりで……」

「嫌だった?」

 芳しくない反応に些かいたたまれなくなるエリオットの心境を知ってか知らずか、サンディは言葉を探すように視線を泳がせた。

「仕立てればきっと面白くなるでしょう。でも僕はあまり好きじゃないな……訊いておいてこんなことを言う失礼はお詫びします。でも面白い本と好きな本って、きっと同じとは限らないでしょう?」

 丁寧な物言いのフォローに苦笑いしながらかぶりを振った。

「いいよ、俺だって気に入ってない筋だから。でも目的には沿っているだろう」

「うん、でも僕は絶対にジョージを置いて帰りはしない」エリオットが突っ込む間もなく、サンディは続けた。「それでは次、沢山の常識外をのみこんで僕がアーヴィンだと確信できた理由。顔以外にもあるなら、お聞かせいただけませんか」

 本人にその気はないだろうが、まるで演技の採点を頼むかのようなおかしな質問だった。随分昔から知っているのとそっくり同じ顔が訊いてくるのだから、余計に不思議な気分になる。昨日会ったばかりの人物と正面から再会して、どうして自分だと分かったのか尋ねられるようなものだった。

「そもそも生きている筈の無い人間が動き回っている点だけが問題だったんだけどな。特徴の一致する体格、機械に強くて器用、頭が切れて、陽気で親切で献身的、そして極めつけに同じ顔。おまけに小さい頃は随分と気紛れだったと聞いている。あんたが時々見せた不機嫌は大抵こっちの言動が悪かったし、ノースコルやスノーテラスで元気がなかった理由も今なら分かるけど、それでも元々の性格がちょっと出ていただろう。ずっと偶然の一致と演技だと思っていたけど、素だったんだな」

 サンディは素直すぎるほど表情を変えた。

「うわあ恥ずかしいな、どうしてそんな話まで伝わっているんだ。本当に僕の縁者じゃないんですか?」

「伝記があるからな、身内が書いたものがさ」

「ははあ、さてはイヴリンの系譜だな」

 やってくれたなと苦笑するのを見ながら、表情の見えにくい〝サンディ〟の印象が、快活な〝アーヴィン〟に寄っていくのを感じる。しかしそれは、この話題の流れでは微かに痛みを伴うものだった。

「……あの遠征の後の家族のことは知っているのか?」

「いえ、殆ど知りません。訊くのが怖いと思っている間に、聞いても仕方なくなってしまった……ただ幸せであればいいなと、それだけですよ」

 薄い笑みはいくらか軽薄な印象を与えたが、たしかに思い出せぬ過去と、目の前の人物への温かさも含んでいた。空のマグを転がしながら、サンディは穏やかに続ける。

「忘却は恐ろしいけれど、帰れない場所や会えない人のことをいつまでも鮮明に覚えているのもまたつらいと思いませんか」

「……覚えていないのか」

「忘れたくて忘れたわけではないんですよ」

 声は、少しばつが悪そうだった。

「ただ今の僕としては、成し遂げねばならない目的とこの山域を行動する技術だけ覚えていれば、本質的に困ることなんて無いんです。だから心配ご無用ってね」

「じゃあ、そういうことにしておこう」

 そうは言ったものの、エリオットはどうしてもサンディの答えをすぐに受け入れられそうになかった。彼は故郷で愛されていたし、彼自身もまた遠征中に家族や友人に宛てて何通も手紙を書いている。それなのに、あっさりとそれらを切り捨てたかのような言い分は腑に落ちなかった。

 あからさまにすっきりしない様子のエリオットに、サンディは少し考え込んでからポケットを探った。

「誰でもいい、大事な人を思い浮かべてください」

 そう言いながら、サンディは左手にナイフを握った。そしてマグを膝に置くと、何の躊躇いもなく右手を切りつけた。それは掌に載せたリンゴに押しつけた刃の滑るように、肉の削げた掌から黒ずんだ血が勢いなく溢れた。ぽたぽたとチタンに垂れる血はすぐ止まり、じっと見つめる四つの目の前で、傷口はゆっくりと、しかし確かに塞がり始めた。

「頭の潰れた屍体が起き上がる様を見るのとは、少し感覚が違うんじゃありませんか」とサンディは言った。なるほど、日常に滑り込む非日常は、それはそれで正気を揺るがすものだった。

「たとえば自分の兄弟が、息子が、親友が、恋人が、こんな化物の身体で帰ってきたとして……あなたは受け入れられますか。たとえその身が帰らなかったとしても、どこかで静かに眠っていてくれたらとは思いませんか。そう考えることを、僕は冷たいとは思わない」

「でも」

 エリオットの顔をじっと見つめ、サンディは寂しい微笑を浮かべた。

「質問を変えましょう。あなたなら、こんな身体で帰った自分が喜んで受け入れてもらえると確信できますか。家族や親友だけじゃない。戻ればまずは隊の仲間がいて、現地の人々がいて、それから社会がある。こっそり帰って隠遁しようというのなら……それこそ僕にとっては意味のない話だ。狭い部屋に隔離されたままいつ死ねるかも分からない羽目に陥るなんて御免だし、何より僕の為すべきことは此処でしか出来ないのだから」

 白い指の腹が傷口を拭えば、そこにはもう切り傷の痕跡など無かった。ずっと昔からそうなのであろう爪先の割れと、滑り落ちる斜面にしがみつこうとして削げたような掌の荒れだけが痛ましく残っていた。再出血の心配がなくなった手を伸ばし、サンディはクッカーの湯をかけて指とマグを濯いだ。素手に熱湯をかけるクッカーを握る手も無造作なもので、今しがたまでバーナーに熱せられていたチタンに指が触れているにも関わらず、彼は眉ひとつ動かさなかった。無表情にぴしゃりと捨てられた黒っぽい水を、エリオットはどうしようもなく掬いたいような気持ちになった。だがそれは許されないことだと分かっていた。

 しかしサンディは、血と一緒に悲しみも捨ててしまったかのように、今は一転、あっけらかんとした笑みを口の端に乗せていた。

「ね、僕は帰れないんですよ。だから僕たちはお互いの穏やかな日々を願うだけでいいんです。忘れたくて忘れたわけではないけど、それを悲嘆して心を削ることはない。身体の生き死にという違いはあっても、精神の働く内は前を向いて進んでいくべきではありませんか」

 その軽さも知っている、と思った。困難な目標を目指して旅路を共にし、数ヶ月、あるいは何年もの付き合いがあった仲間の捜索を打ち切り帰路に就く隊員たちの、己が生きて国へ帰れる安堵に浸る姿と同じだと思った。戦争を知っている人間の、乾いた諦念とでも呼びたくなる潔さ。戦争を知らない人間には冷淡にも見えるほどの、突然感情を置き去りにされるような、戸惑うほどの――哀惜ある軽薄。「登山経験の浅い」「楽天的すぎると評された」「戦場を知らない」サンディ・アーヴィンが死を見据えて登った結果なら、それこそが自然な考え方なのかもしれない。

 だが、あんたは忘れているからそんなことが言えるんだと叫びたかった。彼の父が、どれほど息子の遺品を大切にしていたかを教えたかった。彼の母が、二人の名を刻んだ教会のステンドグラスに薔薇を手向ける背のことを話したかった。彼の姉が、一番仲の良かった弟のことをどんな風に孫娘に語ったのかを聞かせたかった。

 しかし、何も言えなかった。教えることでサンディが忘れている郷愁を思い出してしまったら? それが彼のためだと断じる傲慢さは持ち合わせていなかった。

「分からない。何て答えるべきか、俺には分からないよ」

 漸く言う声の情けなさに、結局掬えない手の弱さに自己嫌悪した。しかし当のサンディは、そんなに大真面目になることはありませんよなどと口にするのだった。

「大丈夫ですよ。そもそも下界との縁が切れることへの葛藤は殆どありませんでしたし、本当にこの身体のことは都合がいいと思っていますから。まあ、人の輪の中に入るには微妙なところですけど……親切な幽霊が出るなんて話、本当は存在してはいけないんです」

 気遣ってか、彼は冗談めかして肩を竦めた。何度か痛む喉を鳴らし、やっとエリオットも軽い笑みを返してみせる。

「でも結構な人数と接触していたんじゃないか。元より人見知りと聞いているが」

「あれでも随分頑張っていたんですよ。そんな我儘を言っている場合でもありませんでしたし」

「冗談だよ。あんたは上手くやっていたし、おかげで妙なところで演技が下手だとさえ思っていた。身体のことも大丈夫、理解は出来ないけど事情があるんだろ。約束だ、答え合わせするって。俺の解答は出した、次はあんたの番だ」

 水を向けた途端、陽気な笑みは嘘のように消えてしまった。一瞬で沈んだ表情は、心なしか青ざめたようにさえ見るほどだった。

「うん……話しますよ、全部。ローズとオリバーにも。あなた方に害なす気が無いのは本当だけど、ずっと騙しているみたいで後ろめたかったんだ。打ち明けるのは、少し怖い気もします」

 昏い青は不安げにテントを見た。

「起こそうか」

「いえ、もう少しだけ時間が欲しいです」

「分かった」

 冷めた紅茶を飲み干しながら、自分も彼らが起きてくる前に言っておきたいことがあったのを思い出した。所在なげにマグを擦る指を見ながら、ひりつく唇を舐めた。

「あのさ、本当は最初に言うべきだった気がするんだけど」

 苦い声の先をじっと待つ穏やかな顔に、さてこれまで何度悲しみの色を流したものかといたたまれなくなった。

「何度同じ状況になっても、俺はきっと同じことをするけど、これまでのことが本当に申し訳ないし心底恥ずかしい。随分酷いことも言った。すまない」

 何だそんなことか、とでも言いたげな表情を、心の隅で期待していたのを自覚していた。だから期待通りの拍子抜けした空気が流れた時、エリオットはずるをしたような気持ちになったのだが、サンディはそんな裏など想像もしない風に微笑んだ。

「気にしないでください、あなたの警戒は当然のものだと思っていますから。寧ろ全員がローズのように無警戒だったら、僕はきっと罪悪感に苛まれていましたよ」

「罪悪感?」

 後でお話ししますと流して、彼はちょっと唇の端をつり上げた。

「それより、僕は最初、あなたはカメラを探しているものとばかり思っていました。此処へ何かを探しに来る人たちにとっては、大抵僕たちよりカメラの方が重要らしいですし。僕だって随分失礼なことを口走りました」

 少し皮肉げに、あるいは自嘲的な色さえ乗せて言う。その陰ある表情は、これまでに何度か感じていた通り彼――サンディ・アーヴィンの印象とは幾分ずれたものだ。今ならそれに見出すのがマロリーの微笑だと分かるが、さて。重なる面影に、今話しているのはアーヴィンだと幻影を振り払った。

「あれは伏せた俺も大概だった。勿論カメラも気になるけど、それよりもサンディ・アーヴィンだ。もうマロリーは見つかって彼の信仰のもとに弔われたけど、アーヴィンはまだどこかで冷たい風雪に晒されたままのはずだ。不香の花だけを手向けに。誰かが迎えに行くべきだと思っていた。夢見が悪いから自分で行くことにした」

 恥ずかしさも一周すると開き直れるものだ。センチメンタルな話をするならマロリー相手の方がまだましだろうと思いながら、じっと耳を傾けている白い顔色を窺った。

「気分を害したなら謝るけど、名声とか金目当てじゃないよ。出しゃばりと分不相応の同情がごちゃ混ぜになった感傷だ。俺もあなたと同じ歳の冬、アルプスで遭難したから……」

「いえ、ありがとう。自分を探してくれる人がいるというのはなんだか胸が痛くなるものですね。嬉しいはずなのに」

 すぼむ言葉に、サンディは痛ましい笑みを浮かべていた。

「あの時オデルが危険を冒して僕たちを捜索してくれていたと、随分後になって知りました。泣きたくなるほど嬉しかったと同時に、どうしようもなく悲しかった。ひどい親不孝をしたような気分になったんです。それももう取り返しのつかないような。皆の積んだケルンにも責められるような思いをしたものだ……それもいつの間にか失ってしまった感傷だけど……っと、込み入った話は後、でしたね」

 何も情緒に欠けているわけではないと言わんばかりのタイミングだったが、本人はただ喋りすぎてしまっただけらしい。小さな失敗に口を噤み、ふいとテントへと視線を向けた。つられて見やれば、中で人の動く気配がしている。随分話し込んだものだった。

 朝一番よりましとはいえ、サンディはまたあの困ったような、怯えたような表情を浮かべていた。無理やり笑おうとしていないだけまだ良いと言えよう。ぼろぼろのチタンマグを握り締める指が訴える緊張は、出会った夜のテントで固く組まれた手を思い出させた。

「あの、本当にローズとオリバーも僕のこと怖がっていませんか。自分で言うのも何ですけど、どう考えても真っ当な生きた人間じゃありませんよ。それに二人はあなたとは違うでしょう……僕への考え方、というか……」

 一瞬考えた。少なくともオリバーは全く怖がっていないわけではないだろうと思う。それでもサンディを背負い、その傷を診ることを承知してくれたのは彼だった。反対にローズは全く警戒しておらず、ただただ目を覚ますか気に掛け心配しているだけに見えた。彼女の状況認識が如何なるものかはいざ知らず、サンディが身構えるほどのことは起こらないだろう。言ってしまえば、今一番怯えているのはサンディだ。そう結論づけて、自分の口元が綻んでいるのに気がついた。

「あいつらもこの三日間で自分なりに理屈つけて落ち着いて構えているよ。俺がお人好しな変人しか誘わなかったおかげで本当は五人パーティーを組みたかったのに三人しか集められず、あの夜あんたと一緒に登る方に天秤が傾いたってわけ。二人分以上の力を持つメンバーを得られたのは幸運だったよ。その幸運が奇跡と呼ぶべきものとは思っていなかったけどね」

 行こうかと立ち上がった。ガスを止め、遅れて立ち上がったサンディが静かについてくる。これから怒られる子供みたいな足取り。妙なところ、とりわけ人絡みの不安については心配性な彼にその懸念は凡そ杞憂だと分かってもらうためには、変人どもに引き合わせるしかなかった。

 ほんの少し登り返すあいだに、テントの中ではもぬけの殻のシュラフと片付けられた包帯に泡を食ったらしい騒ぎが透けて見えた。慌ただしげにファスナーが引き下ろされ、突き出された顏と目が合う。サムズアップを後ろへ倒せば、彼女はぱっと明るい笑みを浮かべた。

「よかった!」

 音は風に吹き飛ばされてしまったが、確かに彼女はそう言った。下りてこようとするのを押しとどめ、猫の額めいた庭まで登る。恐る恐るといった雰囲気でついてくる気配はきっと俯いているのだろう。

 ローズと視線を交し、つい苦笑した。振り返ると予想通り、サンディは硬い表情を伏せたままだ。いよいよ可哀想なくらいに緊張しきってエリオットの後ろで背を丸めるが、エリオットが敢えて脇へのくと少し逃げ出したそうなそぶりを見せ、それでも意を決したように彼は顔を上げた。

「おはよう、サンディ。目を覚ましてくれて本当に嬉しい」

「あ……」

 喉がつっかえたように黙り込むサンディに、ローズが心配の色を浮かべた。後遺症で声が出なくなってしまったとでも思っているのだろう。挨拶くらい返したらと促せば、サンディは消え入りそうな声でおはようございますと呟いた。それだけで十分だった。ローズはぱっと駆け寄ると、喜びと感動も露わにサンディの左手を握って振り回した。

「ごめんなさい、私はあまり登山史に詳しくないけど流石に写真は見たことあるわよ。それにエリオットから講義してもらったからね、素晴らしい先輩! オックスフォードばんざい!」

 すっかり困惑して救いを求める視線を、エリオットはわざとらしく肩を竦めてやり過ごす。どうしようもなかったし、害も無かった。

 思いがけぬ歓待に戸惑う幽霊に、テントの入口が立てる音に怯える余裕は残されていなかった。扉が下ろされると、熊のように茶色い頭が覗いた。

「おう、おはようさん」

 ローズが小躍りしているところへ、まだ眠そうなオリバーが欠伸を噛み殺しながらのっそりと這い出て片手を上げた。彼らの間にいかなるやり取りがあったものかエリオットは知る由も無かったが、二対の目はちょっと気まずそうに見つめ合った後、サンディもぎこちなく「おはようございます」と答え微笑んだのだった。

 

  ///

 

 テントの中に成人四人が収まれば随分狭苦しく感じるものだが、三日間横たわっていた人物が膝を抱えただけで随分ゆとりを感じるようになるものだと驚いた。心地よい紅茶の香りに満ちた、小さな小さな城塞。サンディは最初の夜と同じように荷の隙間へ上手に滑り込み、両手をかたく組んでいた。

 さてどう切り出したものかと思案しながら熱いお茶を舐めていると、意外にもサンディが口火を切った。

「あの……まずはありがとうございました。傷の手当」

 彼は少し泣きそうな笑みを浮かべ、しかしシュラフの頭にまとめられた包帯とストックが視界に入ると顔を曇らせた。

「それとごめんなさい、約束を破ってしまいました」

「約束?」

「最初の夜、お金や物資に関してご迷惑はお掛けしないって」

「ああ、そういえばそんな話もしていたか。すっかり忘れていたよ」

「……」

 三人ともがけろりとしているのを見て、サンディは却って困ってしまったらしい。とりわけオリバーの様子は不可解なのだろう。もう警戒や恐怖心こそ浮かべていないものの困惑も露わな視線を巡らせて、最後には手元へ落とした。

「皆さん、その……案外平気そうといいますか……」

「目が覚めたら雪の中だと思ってた?」

 ローズの言葉にサンディは少し考え、小さく頷いた。

「気がついたら、ここ暫くと同じようにテントの中にいて。でも何だか見慣れたものではないし、最後の記憶を辿ればあんな……」

 そしてまた唇を噛んでしまった。落としたままの視線の先で組まれた真っ白な指先で、黒っぽい紫色の爪はひどく目立っていた。コートの色だと嘯いていたあの夜はつい丸め込まれたが、昼の陽の下で落ち着いて見れば、何も塗っていないことは明白だった。本当に見るのは初めてだった、エンバーミングもされていない死者の色。

「野晒しになっているはずなのにどうしてだろうと……手当までされているし……混乱して、声も掛けず外に出てしまいました」

 彼は紳士的に無礼を詫びた。そして表で呟いたのと同じように、傷の手当をされていたことが嬉しかったと小さな声で言った。

「お察しでしょうけど、治る傷と治らない傷があるんです。自分では見たことないけど、随分なものでしょう……特にこの二ヶ所は。見ていて気分のいいものであるはずがない」

 厚いガーゼや包帯で覆ったままの頬と後頭部を示し、サンディは自嘲に似た痛みの表情を浮かべた。確かに無惨極まりない傷だったが、返す反応は恐らく彼の予想とはずれたものだった。

「まあ俺は一応医者だし、もっと酷いモンも散々見てるから気にしなさんな。それにこいつらだって落ち着いていたし、なあ?」

 折角気を遣ったのにと言わんばかりのオリバーに、エリオットとローズは苦笑いした。

「気遣いは有難いけどなノル、俺は少なくとも虹の谷や戦場に住んでいるような面々なら見慣れてる」

 ローズはただ有名なドラマのタイトルを口にした。起こった笑いは、その意味を知らぬサンディにも十分だった。

「ほらな、変な奴しかいないだろ」

「ふふ、まったくだ。本当に……信じられないくらいのお人好しばかりだ」

 嘘みたいだ、と聞き逃しそうなくらいの声で呟いたサンディは、もしかすると泣いていたのかもしれない。しかし涙も流せず顔色も変わらないひとのそんな機微を確信するには、彼の振る舞いはずっと気丈すぎるほどだった。

 彼の身に一体何があったというのだろうか。知ったらきっと引き返せないとはオリバーの言だった。それでも三人ともが、この先どことも知れぬ場所へ案内されるがまま進み続ける覚悟を決めていた。

「なあサンディ、きっと大丈夫だからちゃんと話してくれよ。俺たちは全員、あんたが語ってくれることを望んでる」

 エリオットの静かな言葉に、サンディはどこかすっきりした面持ちで頷いた。それはセカンドステップの基部で見せた表情に似ていたが、今の彼にはもう、あの危うい軽さはなかった。

「ええ、きちんとお話します。僕のこと、僕が知ること、見たものと聞いたもの、あなた方が知るべき全てを。……そのために、あなたたちが現状をどう考えているのか聞かせてほしいかな」

「そりゃまたどうして」

 オリバーの怪訝そうな様子に、サンディは丁寧に言葉を付け足した。

「隠し事をしようというわけじゃないんです。そうですね、工学部の学生に機械の話をするのと文学部生に説明するのとでは少し違ってくるでしょう、そういう類のことですよ。どんな人に向けているか分からないまま一方的に喋るのは、僕にはちょっと難しいことだと思うから」

「一ヶ月以上も顏突き合わせておきながら、講壇に立たされるようなことを言うじゃないか」

「起きてからこっち、僕は全然あなたたちのことを分かっていなかったのだと思い知らされてばかりですからね」

 記憶が抜け落ちてもやはり根は変わらないものだと、エリオットの唇の端に微かな笑みが浮かんだ。本当に彼は講壇に立たされたことがあるのだと教えたら、サンディはどんな顔をするだろう。しかし余計な好奇心を満たす前に、ローズが答えた。

「私は現実家のつもり。目の前で起き上がったのなら死んでいない、たとえ死んでいるように見えたとしてもね。自分の勘違いを認めることだわ。……正直なところ、本人からどんな話が出てくるかちょっと怖いけど」

「俺は真逆だな、あんたの体はその眼を除いて死んでいる。とはいえちょっと常識の範疇から飛び出ちまったような出来事は何度か見てるし、あんたもその手の悪夢じみた何かに巻き込まれたか、泡立つ混沌の中心になっているかのどちらかだろうと。まあ悪意はないと思っている」

 次々口にしたローズとオリバーに促されたが、エリオットだけはサンディと顔を見合わせてはぐらかした。

「俺はもういいだろ。あんたが心身共にサンディ・アーヴィン本人だと信じている、それ以外は保留で」

 ずるいぞとどつかれても、まさか実体ある幽霊などと二度も口走る気はなかった。痛む喉で咳込みながら、不思議なくらい呑気な空気で和気藹々と……多分それは、百年前と同じように。そして笑いは喘ぎの中に溶け込み、さあ、あなたの番だと促す三対の目が彼を見つめた。

 エヴェレストの幽霊は――静かに微笑んでいた。

 白い手は、今はゆるく指を絡めていた。まるで右と左で違う人であるかのように、不安げな左手を右の手がそっと励まそうとしているかのような印象を抱くのは、全くの気のせいだっただろうか?

 三人の言葉をどう取ったのだろう。沈黙の果て、彼は小さくありがとうと呟くと、ゆっくりと語り始めた。

「……登山家は現実的であるべきです。夢想ばかりで生き抜けるほど、人間は強い生き物ではない。目の前の出来事をよく観察し、分析し、シビアな状況判断をしなくては。常に柔軟な思考を持ち、あらゆる可能性を考慮すべきだ。絶望してはならないが、希望的観測だけではきっと足を取られる。許されるのは相応の実力に裏打ちされた楽観だけだ」

 低く歌うような、どこか夢見るような語り口は、やはりアーヴィンよりもマロリーを想起させた。

「けれど同時に、登山家は浪漫を忘れてはならない……そうは思いませんか。理想主義と笑われようとも、その熱ある夢が、人の子を死の領域まで連れていく一面も確かにある」

 晴れた極高所の宙によく似た眼が、ひとつ瞬いた。

「改めて名乗るまでもなくなりましたが、僕はアンドルー・アーヴィンです。信じてもらうためにはこの身体の話をする必要があるだろうけど、あんな形で動く屍体だなんて明かすつもりはなかった……本当はもっと遠回しなことを積み重ねるつもりだったんです。たとえばあの日の出来事とそれからのことを説明するとか、ね」

 だからこれは、予定調和の物語りだ。

 ジョージ・マロリーとアンドルー・アーヴィンしか知らない1924年6月8日の物語が今、二度と物言わぬと思われた片割れの口から明かされるのだ。

 サンディはまるでマロリーのような眼をして微笑んだ。

「それでは、大真面目な怪談でもお話ししましょうか。僕は芝居がかったことは出来ないし、したくもないから、ただ経験したことを話すだけになってしまうけど……でもきっと、あなたたちにもそれが一番良いだろうから。ああ、それでも吹雪のテントとなれば雰囲気たっぷりですね。これを暇潰しと称するのは僕としても良しとし難いものがありますが、天候待ちに娯楽が欠かせないのも事実ですから。アンデッドが語る怪談なんて、そうそう聞けるものではありませんよ。とっくの昔に死んだと思われていた人間の語るミステリーなんて、ね」

 

 


 

 

0th stage: "I" stood at the summit with M. 

 

'It is the duty of the Alpine Club to climb as near as it can to Heaven!'

                   ──Andrew C. Irvine, 1924

 

 

 1924年6月7日

 

「本当のことを言うと、最初は気が塞ぐものがあったんです。あなたと一緒に登れるのは嬉しいけど、無酸素登頂に挑戦したかったなって」

 ありあわせのものでT型分岐を急造しながら、薄い酸素と酷く痛む喉に掠れる声で告白する。日記を見られることがあったら、最初から酸素を使うことに積極的だったこの人はどう思うだろう。

 自分で言うのも何だが、僕はこの遠征中、年上の仲間たちの中で実によく頑張り耐えてきたと思う。不満や不便を感じなかったわけではないけれど、そういったものは日記や遠く故郷にいる友人に宛てた手紙で零すくらいにとどめていたつもりだ。そして日記の中に最も強い調子で書いてしまったのが、目前に迫っている登頂アタックの采配に対する憂鬱だった。"I`m awfully glad that I`m with Mallory in the first lot, BUT I WISH EVER SO MUCH THAT IT WAS A NON-OXYGEN ATTEMPT."、そんなことを書いちゃったんですと白状すると、ジョージは笑って「俺と酸素が逆になるのだとしたら、どっちがましなんだ」なんて言うものだから、僕はこれだけですっかりやり込められてしまった。彼らしい勇敢な誤解だ、本当は酸素装置の修善が間に合うか心配でパニックになりかけていたのだなんて明かす必要はあるまい。

 1924年6月7日夜。ジョージ・マロリーとサンディ・アーヴィンは、標高約26,000フィートに設営されたキャンプⅥ――と言うと立派だが、実のところ岩陰に張りつき、辛うじて吹き飛ばされるのを堪えているような小さなテントで身を寄せ合っていた。僕たちは二月に故国イギリスを離れ、幾度となく荒れる天候とトラブルに押し返されながらも、遂にこの星で最も高い極点へ挑もうとしているのだ。

 シーベ・ゴーマン社が僕のことをさっぱり無視してくれたおかげで、僕はこの旅路で課題を失い手持ち無沙汰になるということが無かった。一抹の虚しさを感じるのは、早春の冷たい風が吹きつけるチベットを旅しながらこれだけ一生懸命に取り組んでいる酸素に期待を寄せる隊員がほぼ皆無だったことで、当の僕自身もこいつに頼りたいとは思っていなかった。可能な限り軽量化したところで随分な重荷であることは変わりないし、極高所とはどういう場所なのか身をもって知るまで、ジョージが酸素の使用に積極的だったのが唯一の救いと言っても良いくらいだったのだ。

 やりがいの最たるものだった彼は、焼け爛れているけれど元気のいい僕の顔をじっと見つめ口を開いた。

「ところが今となっては、落胆はどこかに置いてきたと見えるな」

「実用に耐えられる装備が出来たし、此処がどういう世界なのか、文字通り痛いほど思い知りましたから。酸素を使った登頂の方が、無酸素のノースコル止まりよりずっといい。ローマ教皇だって、まさか聖ジョージに剣を使わず竜を退治しろとは言わないでしょう。もっとも、ヒンクスが僕たちのことを聖女か何かだと思っている可能性はありますがね。「聖マルタが剣を使うなんて、スポーツマンシップに欠けているとは思わないかね?」なんてさ」

 眼鏡を押し上げる仕草と声を真似るとジョージが吹き出し、僕たちは揃って咳込んだ。まったく二人とも喉や気管支を酷く痛めているというのに、くだらないことを喋るものだ。きっと彼や隊長のノートンを始めとするベテランたちは、今頃ロンドンでふかふかの椅子に腰掛けウィスキーを愉しんでいるケチな老人に思うところが沢山あるのだろう。

 僕はこの遠征隊の裏について、知らないことがあまりに多いのではないかという不安がちらと過る。この旅の中で幾度か抱いた陰だった。しかしそれも26,000フィートも下に置いてきたものだと割り切って、ぼろぼろに割れまくった唇の血をそっと拭った。少なくともこのキャンプⅥより上で致命的なことになるものではないだろう。

 そもそもこの遠征隊に掛かっていた国からの重圧なんてものは僕にとっては二の次で、時にそういうところを「分かっていない」「暢気すぎる」と、ベテランの先輩たちから子供を諭すように優しく詰られもした。この遠征と国威とが切っても切れないものだということは分かっているつもりだが、それでも己が役割さえ果たせば問題ないと考えていたのだ。だって思い悩んで解決するわけではないことに、皆が皆、こんな地の果てみたいなところへ来てまで余計に気を揉む必要があるのだろうか? どうせチベット高原越えにもインドからイギリスへ帰る船旅にもたっぷり時間がかかるのだ、頂上に立つことなく帰ることになった時に向き合えば良いのではないかと思ってしまうのだが。余計な重荷にリソースを割いて憂鬱になるよりも、少しでも楽天的に陽気に構えていた方が余程登頂への力を保てそうなものなのに。

「竜退治よりはこの貴婦人を屈服させる方が面白いさ」

 それでも、この山へ登ることに関して一番ベテランであるはずの憧れの先輩は冗談めかして微笑んだ。嬉しくなって、痛む唇を吊り上げ頷く。

「まったくだ。でも頂上にイエティなんかいたらどうしましょうね」

「あれは噂をするとやって来るらしいぞ」

「おや、それは困りますね。せめて二〇〇〇〇フィートくらいまでは下りてからにしてほしいな」

 そんな軽口を叩くと、ジョージは口の端に温かな呆れを滲ませ、狭いテントの中で少し体を寄せてきた。

「しかし、自分が使うつもりの無かったものをここまで熱心に改良できるのは凄いことだな」

 円筒形の金属を、勁い指が軽く叩く。カリンポンで最初にボンベの包みを開けた時はぎょっとさせられたものだ、既に半分近くが使い物にならなくなっており、触れるだけで壊れと漏れを起こすのだから。二ヶ月間の頑張りの甲斐あって、山頂まで背負っていくじゃじゃ馬たちは、美しい人の愛撫にもさらさらと高い音を奏でるばかりだった。アタックの夜明けには滑らかに歌ってくれるはずだ。これで登頂を果たせるのなら、僕も粉骨砕身した甲斐があるというものである。

「機械弄りは好きですし、僕はこいつの調整のためにスカウトされていますからね。役目は果たすべきでしょう」

 最終確認を、と故郷の空気が詰まったボンベを、そしてT型分岐で繋いだマスクの一方を渡す。もう一方を装着するために爛れた皮膚を押し擦る作業は凄まじい痛みを齎したが、どうせこれが無くても痛みで飛び起きることになるのなら、酸素を吸えるだけこちらの方がましというものだ。少しでも眠れることを祈るほかない。

 思わず呻く僕を気の毒そうに見つつ、ジョージもマスクを付ける。こんな狭いテントに男二人、その上ボンベとレギュレーターを二つも持ち込みなどしたら横たわるのは不可能だ。今晩は二人で一本の酸素を吸いながら眠り、明日は二本ずつ背負って登ることになる。ジョージが金属筒を睨み、ポケットから引っ張り出した封筒に書きつけているのは酸素の圧力だろう。僕の目が狂っていなければ、四本は110、一本は100を示しているはずだ。

 暫く酸素装置の駆動音と荒れる風だけが空気を震わせ、二つの唇には沈黙が続く。不思議な気持ちだった。天候が許せば、数時間後には僕はこの人と一緒に、世界で一番天国に近い場所を目指すことになるのだ。

 僕は一度チャンスを失った男だった。最初の計画ではジョージと組んで酸素を使い登ることになっていたが、長引く荒天とそれに伴う度々の撤退で隊はすっかり消耗。重い酸素を高所キャンプへ運べるだけの力は残っていないと判断され、僕が取り組んできた――そして登山初心者の学生がこの遠征にスカウトされた最たる理由である――酸素装置を用いた攻撃はしないことに決まり、同時に僕はアタックチームから外された。幼少期から叩き込まれてきた、感情を露骨に出すのはとても幼稚で慎むべきことであるという母の教えをこんなに有難く思ったことはない。

 サポーターとして尽くしつつも不完全燃焼な思いを燻ぶらせていた僕の前に、強風のためキャンプⅤから撤退して来たジョージがやって来て言ったんだ。「今すぐ酸素装置を点検して、最も良いものを二組選ぶんだ」って。皆が額を突き合わせ、様々な事情を考慮しながら決まる会議じゃない、彼ただひとりの決断で僕をもう一度選んでくれたことが、どれほど嬉しく誇らしかったか!

 ジョージ・リー・マロリー。その名はこの遠征に参加する前から聞いていた。写真も見たことがある。それでも自分がこの英雄と親しくなり、未踏の最高峰アタックの相棒に選ばれたというのは、改めて考えてみると現実味を欠いた物語のように思えた。

 この人は、これまで英国がエヴェレストへ派遣してきた三回の遠征全てに参加してきた唯一の人物だ。イギリスで暮らしていたら経験せずに済んだであろう苦難、悲劇、二度の遠征でそういったものをたっぷり浴びてきただろうに、果敢にも今また此処にいる。そしてとうとう、目指し続けてきた頂に足を掛けようとしているのだ。

 彼の懐には、毎日手紙を書き続けている奥さんの写真がある。あの頂にその写真を置いてくると約束したそうだ。他の誰よりも未踏の最高峰に情熱を注いでいるこの人、いやこの人たちは喜んで命を危険に曝すけれど、命をなげうつことはしない。多分いま僕たちは世界で一番天国に近い場所にいる人間で、ジョージの命を地上に繋ぎとめるアンカーは家族なのだろう。

 彼がノースコル止まりで命を落とすのでは割に合わないと言っていたのを聞いたことがある。その時は頂を制覇できるなら死んでも釣り合うという意味に取ったが、ここ数ヶ月の旅と冒険を共にして、この人はどんなに頂に心奪われていても必ず死ぬ前に引き返すことが出来るのだと感じるようになった。死の線に爪先を引っ掛けて、くるりと頭を下に体を引っ繰り返すようなアクロバティックな闘いは、最後の一呼吸まで全力を出し切りたいという僕の願いと合致する。つまりペテロの鼻先で真珠の門にチョイと悪戯してやるってこと。顔も喉も女神の家で随分酷くやられているが、ノートンとサマヴェルが先んじてアタックしている最中でさえも、自分で挑戦する機会が回ってくることを願っていたのだ――無酸素チームの成功を願っていたのも本当なのだけど。

 僕は心の底から信じている、ジョージなら成し遂げるはずだと。この人ほどエヴェレスト初登頂の栄誉に相応しい人がいるだろうか?

 問題があるとしたら天候の不確実性と、僕自身の技量だと考えていた。この山では予想外のことが起こるということしか予想できないということは身に染みているのだが、いかんせん僕には登山経験が殆どなく、無論こんな超高所に来たことだって無い。そんな頭が酸素も睡眠も足りていない状態で分析できる問題なんて限られていて、ジョージも恐らくそこは承知の上で、酸素装置以外のトラブルには自分が対処するものと割り切って僕を選んだのだろう。それで上手くいくのなら、文句はない。

「ねえジョージ」

 元の色が白いせいで雪焼けが酷く、主に顔の痛みが原因となり眠れない日が続いている。ついでに言えばお腹も痛く、他の何人かよりは随分ましとはいえ、完璧なコンディションには程遠かった。少しでも休むためシュラフに潜り込みながら、つい弱音のような、甘えるような呼びかけを投げてしまう。しまったな、と思ったのは僕だけだったようで、ジョージはいつものようにまっすぐ僕を見た。いつも穏やかさと情熱を湛えて光るブルーグレーの瞳が、今は少し怖いような気もした。彼の眼は、いつだって底なしに澄んでいる。

 ほんのちょっと迷って、それでも問うた。

「僕は、頂へ辿り着けるでしょうか」

「置いていったりなんかしないから安心しろ」

 彼は、目指す場所に立てるとも立てないとも言わなかった。けれどその答えは、何よりも僕を励ましてくれるものだった。

「ありがとう。快晴を期待するとしましょうか」

「大丈夫さ、俺もお前も運がいい方だ」

 その言葉にすっかり安心して、僕は痛みの中で目を閉じた。

 この人は僕を置いていかない。それは僕にとって、憧れの人と天国に最も近い場所へ並び立つ約束も同義だった。

 

  ///

 

 1924年6月8日

 

 出発は午前五時過ぎ、東の地平に夜明けの気配を感じ始める頃だった。それが息をする最後の朝とはつゆ知らず、ジョージと簡単にハンドサインを交わし準備万端と伝えれば、僕たちのファイナルアタックが始まった。

 僕たちがやって来た北稜線上に険しい断崖があることは前もって知られており、低いところにあるものから順にファーストステップ、セカンドステップと呼称されていた。遠目にはこの二つの難所がどれほどの壁であるかよく分からなかったが、セカンドステップが極めつけの難所であることは明らかだった。僕たちに先行して無酸素登頂に挑んでいたノートンとサマヴェルは、これを避けるためにわざわざ尾根のかなり下をトラバースしてルートを模索していたのだ。

 実際にキャンプⅥを出発して最初にぶつかる障害物は、砕けやすい石灰岩の急な一枚岩の連なりに岩屑が乗ったもので、これはイエローバンドと呼ばれるようになる。続いて他より硬く、ほぼ垂直な一〇〇フィートほどの岩壁・ファーストステップが立ちはだかり、こいつを越えると吹きさらしの危なっかしい稜線を歩かされる。そしてファーストステップより更に難しいセカンドステップ、「巡洋戦艦の切り立った艦首」と形容されるこちらも約一〇〇フィートの岩場があって、その先はちょっとした壁を除けば、ゆるやかな登りの広い台地が、万年雪に覆われた世界で一番天国に近い場所へ続いているのだ。

 ファーストステップを登る直前、北東稜との合流地点で休憩を取るタイミングで、まだクライミングに不慣れな僕はアックスを置いて行くことにした――と、後々推測されていると聞いている。しかしそれは後年の問題で、この時の僕はちゃんと背面に結わえたアックスを持って上を目指していた。

 背負った荷は確かに重たい枷だったけれど、第一の壁を越える妨げにはならなかった。ジョージに続いて無事登り詰めたところで、僕たちは空になったボンベを一本デポした。ペースに少し不安を覚えたけど、二つの壁さえ超えてしまえばもう難しい地形はないはずだ。再び歩き始めてすぐに転げ落ちたのだろう、遠く響く金属音を背に進んでいった。

 順調な道行きを断ち切るように、問題のセカンドステップは黒々と冷徹に聳え立っていた。藍色の空に突き出すような峻厳なる壁は、この山域で散々巨大なものを見慣れた人間をも畏怖させるような圧を放っていた。その厚い白化粧は、女神の鼻筋に漂う威厳を和らげるどころか、ただその冷酷さを増すばかりだった。これが初めてお会いする黒いドレスの老婦人だったら、その厳粛さに少なからず気後れしていたことだろう。

 状況次第では迂回も選択肢に入ると語っていたジョージは、繋いだザイルの先で岩壁から氷河へ切れ落ちる急斜面の様子を探っていたが、戻ってくるその足取りを見れば、もはや地獄の門に正面から立ち向かうしかないことは明らかだった。彼は立ち止まり、僕を見て首を傾げた。行けるか、と確認するかのように。彼に此処で待っていてもいいのだと言わせなかったことを誇りに思う。ただ僕を慮っていることだけは確信出来て、力強く頷いてみせた。爛れた顔を抑えつける不恰好なマスクとゴーグルに感謝する機会なんてそうあるものじゃない。僕はちゃんと笑えていたかと、尋ねる機会は逃したままだけど。

 ジョージは並び立つと、グローブで膨れた指で黒い壁をリズミカルに辿ってみせた。基盤をよじ登り、やや右寄りに進むルート……最後は殆ど垂直な壁を登っていくしかない。うっかり落ちれば斜面まで転げていくことだろう。絶対に上手くいくと思うのは難しかったけど、絶対にやり切ってみせるとは思えた。分かったと親指を立てると、ジョージは僕の肩を力強く叩き、酸素を負った背を向けた。吹き溜まりに爪先を蹴り込み、伸び上がるようにして最初の手がかりを掴み、身体を引き上げる。

 先立ってリードしてくれる彼の動きを、ともすれば過労でぼんやりしそうな脳に刻み込んだ。彼の選ぶ手掛かりを、足捌きを叩き込み、出来る限りトレースするのだ。天才の持ち合わせるしなやかなリズム、最適解のルートを見出す技術を模倣するには僕はあまりにも経験不足だったけど、それでも三月からこっち、この至高のクライマーから随分教えを受けたつもりだった。

 流石のジョージでも、すいすい登るというわけにはいかなかった。限界まで軽量化しても酸素を吸えるメリットと重荷を負うデメリットは切り離せなかったし、ジョージはああ言っていてももう……気力だけで動いているようなものだった。僕も彼も喉を酷く傷めていた上に、彼は先日ジェフとも一緒にファイナルアタックを掛けて消耗していたし、僕は睡眠不足と腹痛に悩まされ続けていて、到底本調子とは言えなかった。それでも彼はしっかりと、着実に高い壁を登っていくのだった。どきどきしながら見守っていたけれど、彼が失敗するなんて可能性はこれっぽっちも考えていなかった。やがてジョージは途中の棚になっている部分で止まり、少し上の方を観察してから僕を手招きした。これ以上登ると僕の視点からは見えなくなってしまうからということだろう。

 基部はそこまで苦労せず登れた。興味本位で見下ろせば、尖塔のような物々しい黒壁の下にも崖のような斜面が続き、ロンブク氷河へと切れ落ちているのが見える……はずだが、少し低いところは幾分荒れ模様らしい。濃い雲が渦巻いていて、氷河は全く見えなかった。もしかしてオデルの影が見えたりしないかと期待したけど、望みはなかった。よそ見をやめて、細心の注意を払いながらジョージの登攀をなぞり辿っていった。

 僕がちゃんと動く心臓を抱えたままバンドまで登るのと入れ替わるように、ジョージは次の段階を登り始めた。なかなか整わない呼吸を数え、突風を警戒しつつ、彼の登る様をじっと追っていく。気遣ってくれても最後はよく見えなかったけど、出来るのは同じことの繰り返しだ。ジョージの登攀を思い出しながら、まず左の爪先を岩に引っかけた。腕を持ち上げた折、ちらと視界に入ったレギュレーターを読んで、すっと肝が冷えた。

 酸素はあと一時間分も残されていなかった。ジョージは気がついているだろうか。しかし声を掛けるにも、仕草で知らせるにも、彼はあまりにも高いところへ登ってしまっていた。

 気が急いたところで、とてもじゃないけど素早く登ることは出来なかった。オデルが雲の切れ間からセカンドステップを登る僕たちを見たというのは、思うにサードステップの見間違いだろう。流石にファーストステップに取り組んでいた時刻が昼を回っていたはずはないし、少なくともセカンドステップにおける僕の登攀が、彼の語るような格好いい様だったとは信じがたいから。

 冷たい爪先を氷に喰い込ませ、痺れそうな指に必死で力をこめる。殆ど垂直な壁だ、この指が少しでもゆるめば、重い酸素に引っ張られて真っ逆さまだ。焦るとしたら、酸素が尽きる心配以上に四肢の冷えが自重を支えきれなくなる懸念だった。緊張に浅い息を繰り返しながら、次の動きと取っ掛かりをイメージする。天地どちらの際(きわ)も遠く、死はあまりにも近かった。

 確かに難しかった。まず技量的にとても難しく、そのせいで精神的にもプレッシャーのかかる場面だった。でもそれだけだ。

 ロープ一本が失敗したクライマーを無傷で吊り上げられるかは甚だ怪しいけど、その先にいるのがジョージであれば、ビレイヤーである彼が僕の重みに負けて引きずり落とされる心配は要らないだろう。それならこれは、僕の命と痛みだけをベットするスリリングな賭けだ。面白いじゃないかと、少しだけ強がりのまざった思考を本音だと信じ込む。

 何より、彼は僕に「お前には無理だろうからここで待機していろ」とは言わなかった。きっと不安だろうけど、それでも僕が上手くやると信じてくれたのだ。ならば応えずになどいられるものか。

 ギリギリと奥歯が鳴る。冷え切った指先をしっかりクラックに張る。師匠は力任せのクライミングをするなと言っていた。バランスを、重心を意識して、しなやかに。頭の中で繰り返せば、くんっと重心が移って左足が持ち上がる。浮いた爪先を次のクラックに引っかけ、続いて腕を、そして右足を引き上げていく。それでもいくらかは腕力に物を言わせた登り方をしてしまったように思うけど、実際美しさを意識して登る余裕なんて全くなかった。間違いないのは、掠れた声で次の手を指示し、苦しげに励ましてくれるジョージの声が、少しずつ大きくなっていることだけだった。どれほどの時間が経ったか、もうすっかり分からなくなっていた。

 とうとう広い雪原の上へ身を引き上げても、緊張の名残が深い呼吸を許さなかった。本当にあの壁を乗り越えたのか? 地形を都合よく勘違いしていないか? 身を固くしたまま浅い息を繰り返す僕の背を、優しい手が力強く叩いた。振り仰ぐと、乾いた唇に血を滲ませたジョージが笑って言った。「よくやったな、サンディ」と。

 僕たちは、とうとうセカンドステップを超えたのだ。

 少しだけ座り込んでお湯を飲み、凍ったビスケットを齧って、ミントケーキを分け合った。マスクの内側は呼気で温かかったけど、ほんの短い休憩の間にすっかり冷えて霜がおりてしまった。ギャバジン織の袖口で白々と光る氷を拭い、凍った皮膚を剥きながらまた顔を覆った。

 ところが、期待したものは得られなかった。セカンドステップ半ばで目にしたレギュレーターを思い出して血の気が引く。頼むからただの軽い不具合であってくれと、祈りながらバルブをどう捻っても、うんともすんとも言わない。酸素が尽きたのだと認めるしかない……然るべき問題が訪れたのだった。僕の登攀を助けるため、酸素を吸うのを止めて指示を飛ばしてくれていたジョージの分はまだ少し残っているようだが、それとて時間の問題だ。

 頂上はもう目の前だった。それがどんなに果てしないもののように感じられたとしても、僕たちは既に最大の試練を超えているはずだった。

 僕が選ばれたのは酸素のためだと分かっていた。使い物になるレベルに修善できたとはいえ、未だに不安定な酸素装置にトラブルがあった時、対処できるのは僕だけだから。登頂成功には酸素が欠かせないと考えていたジョージは、登山家としては初心者だけど酸素装置の問題に対処できる僕をパートナーとして選び、それ以外の問題には自分が対処すればいいと判断したのだろう。合理的な決断だ。

 そして合理性を求めるなら、この先に僕は要らないのかもしれない。

 まさかジョージもセカンドステップを超えてすぐに酸素が切れるとは思っていなかっただろう。せめて往路だけでも保ってほしかったのに。感情的なものが意味を持たないとは言わないけど、此処でそれを押し通してばかりいられないことも分かっていた。彼は僕を置いて行かないと言ったけど、それはきっとこんなところで酸素が切れてしまうことを想定していない。ああ、誰か一人でも登頂を果たすことを考えるなら、こうなる前に僕の酸素を彼に渡すべきだったのかもしれないね。そしてこの先で酸素装置を使うことがない以上、僕は――もちろんここで諦めるしかなくなるなんて嫌だけど――ごねて彼の足を引っ張るつもりもなかった。別に聞き分けがいいわけじゃない、合理主義が身についているだけだ。捨て置いたフレームとボンベは鈍い金属音を響かせ、虚しいほどに背が軽くなった。ほらジョージ、必要なくなったものは置いて行くべきだよ。

 その時、キャンプⅥ以下で渦巻いていた雲の切れ端がここまでどうっと吹き上げてきて陽が遮られた。マスクから解放された熱っぽい肌を、じっとりした霧が撫でていく。ジョージはゴーグルを外し、雲の向こうに待つ頂を睨むように見上げていた。それに倣って僕もゴーグルを外す。僕たちの眼は月の下でこの頂を仰ぐには向いているかもしれないけど、太陽の下で直視するにはあまりにも弱かった。日中は雲の下でしかゴーグルを外せず、外したところで今やホワイトアウトも同然。真っ白な世界には、ジョージの姿以外何も見えなかった。

 不意に彼が振り返った。風に煽られてぼさぼさになった前髪には氷の粒が散っていて、まつ毛にも霜が降りてきらきら光っていた。その下で神の頂に待つ宙の色が瞬き、じっと僕を見つめ……口を開いた。

 

「歩けるか、サンディ」

 

 ああ――世界の雑音が消えた。

 瞬間、胸がつかえるほどの衝動に襲われた。最後のひと息まで力を尽くしたいというずっと昔からの願いが、凍った舌に滴るウィスキーの雫めいた強烈な陶酔と溶け合ってしまったかのような、あまりにも烈しい、もしかすると破滅的なほどの衝動。それはこの人との道征きならば死んでもいいと思えるほどの、感動にも近い響きで僕を突き飛ばす見えざる腕だった。

 あなたがほんとうに僕を選んでくれるのなら。

 この闘いのバディとして、さいごまで共に死力を尽くすことを許してくれるのなら。

 僕は必ず、その信頼に応えてみせる。

 上擦りそうな震えを痛む喉へ押し込み、冷え切った唇の端をつり上げた。

「もう百年は歩けますよ」

 軽口を叩けば、ジョージは一瞬呆気にとられた後、いたずらっ子みたいな笑顔を浮かべてまた肩を叩いてくれた。まるで鼻先をつねるような調子で、こんな世界には笑ってしまうほど不釣り合いな手だった。

 身軽さを得た代わりに酸素の助けを失い、一歩ごとに五度喘ぐような遅々として進まない歩みを続けた。幸いというべきか、酸素装置は総合的にプラスの作用を齎す武器だったらしい。僕の方が体力はあるけど、ジョージの方が歩き方は上手い。これまで人類が踏んだことの無い雪を切り開く彼の負担を加味しても間違いなく消耗する体力の差があって、それがある一線を超えると二人の距離はどんどん開いていく。ジョージの背中があまり小さくならないよう、必死にトレースを辿った。

 耳元で唸る風の音さえ意識できなくなるような、無我の境地に近かった。そして僕たちは、このなだらかな大地に佇む最後の壁に辿り着いたのだ。

 この名前の付けられていなかった「北稜線上にある未知の難題」の一つは、後にサードステップと呼ばれることになるものだった。地形自体はファーストステップよりも易しく、高さはせいぜい三三フィートというところだが、この標高で酸素を持たない人間にとってそれがどれだけ苦しい壁であることか! 雪が吹きつけて登りやすくなっているにもかかわらず、一歩一歩が重くて仕方がなかった。文字通り血の滲む喉に硝子の粉みたいな空気を通わせ、微かな酸素を必死に求めながら登る一手が、その度に地獄のような苦痛をもたらした。

 それでも悲鳴を上げる身体に鞭打って、足りない酸素の代わりにアドレナリンを巡らせる。信じられないほど時間をかけたと思ったけど、オデルが確かに僕たちの姿を見ていたのなら、あれは僕が感じたほど長い出来事ではなかったのかもしれない。何にせよ、僕たちはとうとう最後の壁を超えたのだ。足先まで引き上げて面を上げれば、もうそこには大きな起伏など無かった。もはやゴールまでの視野を遮るものはなく、イギリスの山であればあっという間に駆け上ってしまえるような距離に、僕たちの目指すものが光っていた。

 あとはただ歩くだけだった。この時間のことを細かに述べたら嘘になってしまう。極限の世界では、今この瞬間に必須と判断されたこと以外は勝手に削ぎ落されていく。僕の中でこの行程の細かな記憶は余分なことに分類されてしまったから、たとえ生きて帰ったとしても、子細な描写をお土産に出来るとしたらジョージに任せるしかなかった。極限の緊張に晒されながら見る白昼夢、そこに言語はない。ただ次の一歩をトレースに重ねること、風に飛ばされないこと、転げ落ちないこと、そんな注意を無意識のうちに全身に張り詰めさせて、死にそうな息遣いを聞きながら重い一歩をまた踏み出すことの繰り返しだ。肺の痛み、断片的な白と紺碧、苦しさの印象だけが残っている。最後にはとうとうアックスに寄りかかるようにしてさえ立つことも儘ならなくなって、僕は這うようにしてジョージの歩みを辿っていた。

 そしてどれほど経ったかもとうに分からなくなった頃、ふっとまともな思考が戻って来た。アンザイレンしているロープの張り方が明らかに変わったのだ。視線を上げると、片膝を雪に埋めるように背を低くしたジョージがロープを手繰りながらこちらを見ていた。セカンドステップで喉を潰してしまい、大声で呼びかけることは出来なかったのだろう。僕が顔を上げたのに気がつくと、引き寄せるように手招いた。血を吐く思いでまた一歩前進する。

 もはや歩くどころか立ち上がることさえ出来ず、僕は恐らく何分もかけて最後の三〇フィートを這い上がったのだと思う。ジョージが差し伸べてくれる手を、震える手で握り返した。彼は少しだけ呼吸が落ち着くのを待ってくれて、それからぐうっと強い力で引き上げた。僅かな高低差が彼と僕の目線をそっくり同じにして、数秒同じ高さの景色を見る。そしてジョージは慎重に西へ身を寄せ、僕はその隣へ。弱り切った身体では信じられない、痛いほど固く握り合った手に熱い高揚と緊張を感じながら、同時に最後の一歩を踏み出した。

 

 そして僕たちは、世界の果てへ至った。

 

 遂に人類未踏の最高峰初登頂を果たしたのだ――その瞬間に二人揃って倒れ伏したものだから、多分彼にさえも第三の極からの景観を格好よく睥睨することは出来なくて、僕はといえばジョージの右足と自分の左足が並んで無垢な雪に沈むのを見届けたきりだった。けれど網膜に焼きつけたその光景の誇らしさ、深い歓喜は、疲れ果てたぼろぼろの体をゆっくりと満たしていった。懐のカメラを探る指先が震えていたとしても、僕たちはたしかに成し遂げたのだ。

 死んでも忘れ得ない一幕の中、僕たちの足が引く影の長さの示すところを、縁から緋色を帯びた世界の意味を理解するのは、もう少し後のことになる。

 まったく、息をいくら吸っても酸素が足りなかった。いつまでも喘いだまま立ち上がれずにいる間に、隣ではクラストした雪がざりざりと削れる音がした。一足先に呼吸を整えたジョージが立ち上がる気配を感じながら、彼が目の当たりにしている光景の前に早く肩を並べたい、その誇らしい光景をカメラに収めたいと、期待と興奮に気が急いていた。

 ――だから、全く思いがけなかったのだ。

「――ッ」

 瞬間、吹き止んだ風と満ちる静けさの中に、彼の怯えたような息遣いが落ちるなんて。

「……ジョージ?」

 どうしたのと、眩む視界で彼の視線を追った。追ってしまった。

 そこに見たものを説明したところで、普通の人は信じてくれないだろう。不毛の大地から更に天へと聳え立つ高み、デスゾーンと名を受ける其処に凡そ生き物らしい生き物などいない。人間は科学と知恵の助けを借りて登る。忌まわしいゴラクは人間の登攀についてくるけれど、それとてデスゾーンを棲家として群れ成すわけではない。だから有り得ない筈だったのだ――まさか蠢く甲殻類めいた生物の群れが、頂に佇む僕たちを凝視しているなんて。

 それらは当時、疲れ果てて混乱している頭では、ただ巨大な甲殻類……もしくは虫、あるいはキノコのような何かという程度の認識だった。何かの見間違い、あまりの疲労と酸欠による幻覚を見ているのだと考えたかったけど無理だった。それは間違いなく南西壁の黒い絶壁に群がり、目の無い頭部で僕たちをじいっと見ていたのだ。これまでに感じたことのない類の恐怖感、本能的な忌避感を駆り立てる存在だった。それが体長五フィート超、鋏を備えた知性体だと知ったのはもっと後のことだ。その時、生まれて初めて僕の精神は、目にした存在の理解を拒んだ。

「に、げよう」

 今必要なのは「それ」が何なのかではなく、どうしたら良いかだった。絞り出した声は震えていた。

 振り返った瞬間、彼の背後に振りかざされる鋏を見た、はずだ。

 ジョージの手を取り駆け出した。頂に背を向けて、隠れ場所なんてない山頂部を一目散に。足跡と、膝を引きずった筋みたいなトレースを散らして、パニックのままにキャンプを目指した。もうまともに立っていられもしないはずの身体が走るなんて嘘みたいだね、僕としてもそう思い込んでいるだけだと考えている。当事者である僕自身にさえも、あの日の出来事の正確な全容なんて分からないんだ。正直笑っちゃうよ、「1924年6月8日に何が起こったのか、真相はマロリーとアーヴィンだけが知っている」なんてさ。

 サードステップを下るのはさしたる難関でもなかったけど、山はあっという間に深く赤く染まっていった。それを美しいと感じる余裕はなく、不気味だと怯えるには明確な形を持った脅威が大きすぎた。

 それでもやっと、白い平原の切れ目が迫って来た。もうすぐにセカンドステップだと、沸き起こるのは喜びではなく絶望の再認識と覚悟の必要性だった。それでもここを無事に下れなければ、僕たちに次の夜明けはなかった。

 大丈夫、ジョージと一緒ならやれる。腰に結わえたザイルをそっと指先でなぞり崖の縁に立った時、繋いだ手を軽く引かれ振り向いた。頂からずっと沈黙していた彼の表情は、低い陽の落とす影が濃すぎてよく見えなかった。

「ジョージ」

「サンディ、先に行け」

 身体が動かない、とジョージは言った。僕は首を横に振り、彼の腕を取った。その肩を支えようとして、彼の言葉の意味を知る。疲労や混乱による脱力ではなく、身体がなめし皮のように硬くなっているのだった。だからといって置いていこうだなんて思えず、僕は今にも走り出したい脚を抑えてジョージを背負い、ザイルで胴をしっかり繋いだ。

「先に行け、と言って帰らなかった人が沢山いることくらい、僕も知っています」

 殆ど垂直に切り立った岩壁を見下ろした。こんなにも寒いというのに、強風で雪が吹き飛ばされてしまうのか、全体的に黒っぽさの目立つミックス。登り以上に下りが難しいことは、度重なる撤退や護衛任務で身にしみている。仮に柔らかい雪が積もっていたとしても、到底楽天的になれる高さではなかった。此処を下りて終わりではないのだ。化け物たちはこのステップを下った先までも追ってくることだろう、脚など折っては意味がない。安全なところまで逃げなければならないのだ。どこまで逃げたら安全なのか、それは分からないけれど。

 ジョージの背丈は五フィートと少し。僕の方が体格はいいけど、女性や子供相手程の体格差があるわけじゃない。背の高い筋肉質な成人男性、それも身体の自由がきかない人を背負うなんて酸素装置どころの労じゃない。分かり切っていたけれど、彼を置いて行く選択肢なんて浮かびもしなかった。あとはかじかんだ手と震える足が裏切らないことを願うばかりだった。

 登攀ルートを思い出しながら、まずは右の爪先を小さな出っ張りに引っかける。そして左足を割れ目へ挟み込み、崖っぷちを掴んで体を下ろしていく。イライラするほど遅い下りに心は逸りながらも、ほぼ垂直な斜面が警戒を緩ませることを許さなかった。

 後ろへ重心が引っ張られる感覚に息が浅くなる。登りよりなお強く壁面にしがみつき、今落ちたらジョージから岩へ叩きつけることになるのだと自分を脅しながらじりじりと稜線を目指し続けた。垂直な壁を下りきった安堵感さえ覚える余裕もなく、ただただ一刻も早く無事にこの岩肌から離れたい、キャンプへ戻りたいと、そればかりだった。

 どれほど掛かったか分からない。それでも爪先が、そしてゆっくり下ろした靴底がきちんと地を踏みしめる瞬間が訪れた。僕はジョージを連れて、セカンドステップを下り切ったのだ。

 震える息を吐き、手のひらに残る雪を口へ詰め込むとすぐに踵を返した。よろめき、突風に怯えながらナイフリッジを下っていく。あの化け物をこの目で見てさえいなければ、ようやくこの難所を下りきった瞬間にへたり込んでいたかもしれない。岩壁に頭を引っ込める直前、頂の傍で揺れていた黒い動点を気のせいだと思うことはできなかった。休息は許されない。背負った仲間の重みに正気を預け、感覚のない足を引きずりながらファーストステップを目指した。

「絶対に置いていかない、ひとりで帰りはしない、あなたを……」

 血を吐きながらの濁った言葉に、彼の返事はなかった。

 ファーストステップ上に辿り着いた頃には、太陽はとっくに沈んでいた。空はぞっとするほど黒く、もはや西の際(きわ)にさえ赤みは無かった。半月の明かりは心許なく、おぞましいほどの星空は無責任に僕たちを見下ろし、嗤い合い、さざめいているかのようだった。

 一度ジョージを下ろし、彼の背嚢を漁りながらファーストステップの壁面に目を凝らした。昼に登ったとはいえ、酸欠と疲労に霞む目で暗闇に沈む黒壁の状態を読むのは困難なことだった。そして白へ切れ落ちる奈落を睨む一方、いつまでも目当てのものが掴めない。とうとう小さな袋の中を覗き込んだ時の絶望は随分なものだった。懐中電灯が無かったのだ。その時の僕は、きっと頂上から逃げてくる途中で落としてしまったのだと思った。

 仕方なく再びジョージを背負ってザイルを結び、白い雪を光らせる黒々とした岩に覚悟を決める。迂回する方が簡単なのかもしれないが、暗い中で初めて見るルートを取る気にはなれなかった。迂回路とて、氷河を背に崩れやすいスラヴを渡る難しい足捌きを求められるのだ。極度の疲労と酸欠、そして身を刺す強風と暗闇の中、初心者が成人男性一人を背負って越えるのは絶望的な難易度だった。

 岩壁を伝い降りるのだって、絶望的な選択肢には違いなかった。しかしセカンドステップを無事に下れたのだ。だからファーストステップも大丈夫。そう信じ込まなければとうに限界を迎えている体は崩れ落ちそうだったし、自分を騙すように信じたことで死んだとして、一体僕はどうしたらよかったというのだろう。

 再び頂へ向き直る。ゆっくりと足を下ろし、アイゼンで確かに氷を嚙んだ。

「僕を置いていかなかったあなたを、置き去りになんか――」

 それはもはや祈りであり、脅迫でもあった。

 震える手で握った氷が、火傷で爛れた皮膚のように岩から剥がれる感覚を覚えている。

 天と地がさかしまになっていると認識するには、世界はあまりにも黒く、白は等しく散らされていた。宙に浮いたこの身、首に回していた腕が遠ざかり、束の間ゆるんだザイルはすぐに張られる。

 僕たちは稜線に叩きつけられ、積もった雪を崩し、あっという間に岩肌を転げ落ちていった。とっさに右腕を伸ばし伏せるが、滑落を止めたくても手元にアックスはない。斜面にしがみつこうとした手のひらの肉が削がれ、ジャケットとシャツはあっという間に引き裂かれた。腹から真っ二つにされそうな苦しい痛みをもたらすのは赤いザイルで、黒い視界にすうっと一本伸びたその先に彼がいた。

 (まるで僕が先導しているみたいじゃないか)

 ザイルを繋いでしまったせいで、引きずられるようにスリップする彼の姿を捉えてそう思った瞬間、視界は裂けるような激痛と共に闇へと閉ざされた。

 やってしまった。二人とも死んでしまう――気が狂いそうな苦痛と恐怖の中で、統率を失った理性の欠片が救いを求めるように絶望的な事実を一つ認めた。

 ジョージがこの逃走の中で、僕に語りかけることなどあるはずが無いのだと。たとえ今、僕の脳が崩れ零れようとしていたのだとしても、彼の脳はあの頂に置き去りにされているのだと。

 僕は、彼を置いて逃げてきてしまったのだ。

 

 ガツン、とひときわ強い衝撃に後頭部を殴られ、ようやく滑落は止まった。一瞬意識が飛び、くらくらする中で走馬燈らしき光景が浮かぶ。腕の悪い素人映画のようだった。

 それは家でもなければ学校でもなく、大会でもなければ山でもなかった。船、濁った波、熱帯植物、焼けた肌の住民、お堅い服着たイギリス人、刺激的な匂いに満ちた空気、とにかく人間と珍しいものでごったがえして――ああ違う、もっと前だ。船の上だ。僕は甲板の上にいたのだ。ペンを手にした男に声を掛けられた一幕だけが、夢のように流れる。

「天国になるべく近いところまで登るのが、アルパインクラブの義務です!」

 朗々と答えたあの声は、果たして本当に己のものだったろうか?

 ああそうだとも。タンドリーチキンにされるかと思うほど暑い、熱い土地。ボンベイ――平穏なる港。その名がしっくりくると感じるにはあまりに凄烈な気候だと思ったが、なるほど、今思えば彼の地もたしかに平穏だと頷ける。門に至るまでの苦難を知らぬ子供が口にした天国、そのなんと穏やかなことだろう!

 苦笑しようとして、きっと唇が動いていないことに気がつく。なんて様だろう。顔は雪焼けで爛れ、触れるだけで皮が剥け、唇は乾燥と寒冷でボロボロに割れ、目も開いているつもりなのに何も見えず、頬からは何故か刺すような冷たさが口腔へと吹き込むときた。全身が千切れそうなほど痛くて、でも一体どこが痛いのか、それともあまりの寒さを痛みと感じているのか分からないまま、ただ肌を伝う一瞬の温みが痺れる脳に重傷を訴えていた。

 暗闇の中這いずろうとして、指一本とてまともに動かないことを知る。ジョージはどこにいるのだろう? ザイルで繋がれたまま落ちるのを見たのだから、きっとそう遠くはない場所に倒れているはずだ。考えたくないが、腕や脚を折ってしまったかもしれない。でも大丈夫、僕が動ければ連れて行けるから――動ければ。

 逃げなければ。取り戻さなければ。彼を連れて、抱えて、引きずってでも這ってでも逃げなければ。岩場で身を打ったって、稜線から転げたって、クレバスに落ちたとしても、骨の幾本折ったところで逃げなければならないのだ。頂へ戻らねば。あいつらから彼を取り戻さなくては。逃げねば。あいつらが追ってこないところまで、どこまでも、どこまででも――安全なところへ!

 その時、ジジッと無線機のノイズのような音が聞こえた。一瞬希望を持って、しかしその音の語る言語が英語でなければ、ポーターたちの言葉の響きでもないことにがっかりする。落胆した瞬間、パニックに陥っていた思考がふと現実に目を向け始めた。

 これ以上、一歩も逃げられないという現実。恐らく此処で殺されるか、凍えきるか、或いは失血で死ぬしかないという事実。

 悔しい。キリキリと歯の鳴る音なんて立たなくて、鼓膜を叩くのは氷雪の荒ぶりばかり。この頂に挑むことがもたらすのはオリーブでなくカロンへ繋がる花々、あるいは冠を頂いた髑髏になる可能性は高い。そんなことは承知していたけれど、それでもきっと期待していたのだ。そして何より、こんな終わりは想定していない! こんな馬鹿なことで死んでたまるものか!

 されど悲しいかな、いくら喉の奥で息巻いたところで、僕の命は刻一刻と掻き消えようとしている。風前の灯火と言うけれど、未だ消えていないのが不思議な気さえした。

 眠ってはならないと分かっている。それでも意識は急速に遠のいていき、あんなにうるさかった嵐でさえも闇の向こうへと霞んでいく。もはや寒いのか暑いのかも分からないほど感覚は鈍く、一枚、二枚とハンカチに覆われていくような心地ですらあった。恐慌状態から脱してなお、悔しさと恐怖だけが混乱という名の匙でぐるぐる掻き回されて頭が割れそうだった。もしかしたら文字通り割れてしまっているのかもしれない。先ほどまで確かに全身が痛かったという記憶はあるのに、今はもうそれすら認識が儘ならなくなっていた。血液と一緒に脳も零れてしまったのなら、流石に僕も無事では済まないだろうが――別の希望は生まれるかもしれない。

 そうだ、僕は意識の糸の端を握っていられる最後の瞬間、心臓が幕引きの一拍を打つまで絶望の淵に身を投げたりなんてするものか。無慈悲な貴婦人の気紛れがないとも限らないのだ。

 ノイズのような声がしたにもかかわらず、あいつらが未だ下りてきていないことだって幸いの先駆けかもしれない。だからここで僕が耐えきり、帰りが遅いのを心配した誰かが稜線からのスリップ跡を見つけてくれれば。そう、たとえばジョージが、登る僕たちの姿を探すよう頼んでいたという――

 

 ――ほら、気のせいじゃない。二本足の跫がする。

 ――神様。奇跡は起きるんだ。

 

「やあ、これが高みの果てに到達したものの末路か。といっても小さな星に皺寄せた微かな凹凸、その一点に過ぎぬものだがね」

 糸のような希望の先に手繰り寄せたのは、男性とも女性ともつかない声だった。てっきりノエルからの信号を受けたオデルが来たものとばかり思っていたのに、とうとう耳もおかしくなったのだろうか? 知らない声が降ってきたことに、濁った意識の中でなお困惑する。

「しかしよりによって今日この日にあの頂を覗き込んでしまうとは! 君たち、特に奴らに拉致された彼は随分運の悪い人間だったようだね。像とはいえあの神の姿を見てしまうとは……いやはや、私の言えた立場ではないかな? 君も今だけは目が潰れていて幸運だったね、神の姿など人間には重きに過ぎる」

 彼――あるいは彼女は、僕を見下ろし笑っているようだった。広い部屋で音が響くように、愉しげな声が大きくなったり小さくなったり、怪物の拍動めいた調子で鳴っていた。

「さて質問だ。君に一度だけ選択肢をあげよう」

 ぐうっと近づいた声が言った。

「このままでは君は死ぬ、もう間もなくね。しかし君の相棒は違う。彼もまだ生きているし、この先だって生き続けるだろう。だがそれは彼の眼と脳だけの話だ。君が追われていたあの生物は、生き物の脳に関心がある輩でね。それゆえに君の相棒の脳は取り出され、今はあの頂の裏、最も険しい山肌に隠されている」

 やっぱり! 此処にいちゃいけない、早く頂へ戻らないと――閉ざされた視界の中で這い上がろうと力を振り絞るも、もはや指一本とてまともに動かせなかった。衰弱しきった人間を見下ろすその存在の視座は、確かに神のそれだった。

「奴らに取り出された脳がどんな目に遭うかは、さて、君の目で確かめろというところだが……私の推測するところでは、冒涜的な手段で宇宙を旅させられたり、悪夢を見続けたり、実験材料にされたりと、まあ凡そロクな目に遭わないだろう。まさかあのような怪物に人道を期待するほど馬鹿じゃあるまい、ね」

 滑らかな音に埋もれ、息が吸えなくなる。

「おやおや困ったね、このままじゃあ彼を助けるものは誰もいない! 雪と岩の斜面に横たわる屍体を見て、誰がその脳の不在に気づこうか? これほどに険しい山の一際荒れた西の顔を、誰が探索しようか? そもそも君たちがここいらの稜線を辿るのだってやっとのことだというのに、一体誰がそこから転げ落ちた君たちを見つけてくれるというのだろう? 彼は何時まで化物たちに弄ばれたら、苦痛の果てに永久の狂気という形で解放されるのだろうね?」

 神の言葉は毒のように心に染み渡り、冷気なんかより余程酷い絶望の底の底へと叩きつけてくる。

「さあ、死ぬより酷い目に遭う彼を置いて独り死のうとしている哀れなお前は、まだ幸運な人間だ。そのまま死んだら楽になれる、不幸な相棒のことなど忘れて永遠に安らかな眠りを得られることだろう。そしてきっとお前にとっては幸いなことに、なんとここにもう一つの選択肢がある」

 これ以上ないほどの絶望の底へと、神は煌めく糸の端を垂らしてきた。

「安らかな死を捨てる覚悟はあるかい? 彼を救うために、明けない夜闇を独り彷徨う覚悟が」

 一瞬たりとも迷う余地などなかった。

 頷くことが出来たかは分からなかったけれど、神はたしかにわらったようだった。

「さあおやすみ、次に目が覚める時にはもう――」

 その言葉を最期に、僕は痛みの中で目を閉じた。山に身をゆだね、意識は冷たい闇の底へと滑り落ちていく。明けるとも知れない夜闇の奥へ――……

 

 アンドルー・カミン・アーヴィンの二十二年の人生は、こうして幕を引いた。

 ここから先は、エヴェレストの亡霊サンディの物語になる。

 

  ///

 

 次に目を開けた時、己の眼がきちんと機能しているのか分からず混乱した。ただのっぺりとして、暗闇の下は奥行きの全く分からない白に塗り潰されていたからだ。それを白と認識するのにさえいくらかの時間を要したが、助けてくれたのがすぐ傍に横たわるジョージの姿であったことは不幸中の幸いだった。

 一体どれほど眠っていたのだろう。もしかしたら何日も眠っていたのかもしれないし、数分だったのかもしれない。痺れたような脳が横たわるジョージを取っ掛かりに引き出しては広げる記憶を手繰りながら、己の状態を確かめる。まずは指、次に腕、そして脚……左肩を脱臼していた以外、四肢に大きな問題は無さそうだった。ただ頭部を岩に打ちつけたらしく、未だ頬から吹き込んだ冷気が咥内を凍りつかせようとする。恐る恐る手で触れてみれば、鏡を見たくないと思うに十分な惨状が察せられた。とはいえ、起き上がったところで血の染みた雪の量に驚き後頭部に触れた時の怖気に比べれば随分とましなものではあったのだが。

 体を埋めようとしていた雪を振り落としつつ、こわばった関節を軋ませながら立ち上がって、辺りを見渡してみる。方向感覚などさっぱり失ってしまう吹雪の中、かき消されかけているスリップ跡から稜線のあるはずの方角が察せられるくらいで、あとは自分とジョージの姿以外には雪しか見えなかった。化け物たちもいなければ、助けてくれたらしい存在の姿も気配もなかった。

 ほんの少しの間目を閉じて、耳を澄ましてみた。

 僕たちを呼ぶ声も、ヨーデルも聞こえなかった。

 次に目を開けて、稜線があるはずの高みに目を凝らした。

 僕たちを探す誰かの姿も、キャンプも見えなかった。

 ただ轟々と嵐は吹き荒び、ともすれば間近にいる彼の姿すら見えないほどに濃い白ばかり。

 どこまでも高く深い、銀の泥濘。ここには道標となる灯りも、星ひとつすらも無かった。

「だいじょうぶ」

 半ば凍った舌と余計な穴の開いた口では上手く話せなかったけれど、それでも自分の声が存外しっかりしていることに少し安堵した。笑ってみると、血液か涎だろうか、何か体液が唇から伝い落ちる感触がある。あれだけ酷く荒れていたからには血液なのだろうが、こんな理屈でしか推測できないことが痛覚を殆どシャットアウトされていることの証左だった。

 一つ前向きになると、次々と都合の良いことに気がついていく。此処にはストーブも酸素ボンベもない、どれほど眠っていたにせよ最後の食事から十二時間は経過しているのに、寒さも息苦しさも喉の渇きも、これまで苦しめられてきたものは殆ど感じないじゃないか。空っぽの胃が、思考能力や四肢の動きに影響を与えている様子もない。凍った関節も無理やり動かしているうちに解れ、これまでと変わりなく動くことを保証してくれる。いつまでたっても体が震える気配すらないが、温かく感じるのではなく温度を感じる機能が失われたようで、酸素を吸っているというより呼吸が必要なくなったかのようだった。宙の果てにおわす神様の慈悲に、厚い雲波の向こうで光る幸運の星に、心から感謝した。

 ――大丈夫。これならひとりでも行動できる。

 これで本当に遥かな故国など関係なくなった。この先は、ジョージとサンディの試練だ。

 刻一刻と深さを増していくように思われる雪を踏み分け、ジョージの傍らに跪いた。懸念していた通り、彼の右脚を折ってしまっていた。彼の体は石のようになっているというのに、随分酷く叩きつけてしまったものだと罪悪感に襲われる。まさか痛みに苦悶の表情など浮かべてはいないだろうなと恐る恐る顔を覗き込み、思わずあっと声を上げた。彼の両眼が潰れていたのだ。それを見た瞬間、はたと両の眼に冷気の針を感じる。自分に視覚情報をもたらすこの眼が何なのか、鏡に訊くまでもなかった。

 幸か不幸か、彼の面に苦痛の色を見出すことはなかった。ただその整った貌に驚きの色を見出すことが可能なばかりで、その身体が大理石のようになっていなければ、頂で聞いたあの恐怖の喘ぎは空耳だったのではないかと思うほどだった。

 握り返されることのない彼の手を取り、大丈夫だと反芻する。頬の風穴を左手で塞いで、横たわる彼に精一杯いつも通り笑ってみせた。

「大丈夫ですよ、ジョージ。あなたが僕を置いて頂を踏まなかったように、僕があなたを置いて帰ることもありませんから」

 

 


 
7th stage: Childhood's End: B

 

 ふっとテントに沈黙が下りた。語り手は白い貌に疲れ切った笑みを浮かべ、組み直した左手の指がゆるく右の甲を撫でていた。

「……あの日について語れることは、それくらい。あとは彼を取り戻そうと、南西壁に赴いては手酷く追い返されてばかり、実を結ばない旅を続けています。最初は傷が回復して動けるようになり次第。次は可能な限り装備を整え、偵察を挟みつつ。そして最近は人が増えすぎてしまったから夏と冬に。何度もあいつらの拠点へ乗り込んだけど、ジョージには会えないままだ」

 胸を締めつけるようなトーンは、そのまま物思いにふけるような色を帯びていく。

「たしか最初は、彼を取り戻して一緒に帰ろうと考えていたのだと思います。けれどそれはもう叶わぬ話となってしまった。こちらへ残された彼の皮膚は石のようなのですが、どうやら中は生身のままだったようで、すぐに寒冷と乾燥に傷つけられてしまいました。仮に今の身体に脳を戻したところで、その場で死ぬか、いたずらに苦しませるかでしょう」

 もう帰ることは出来ない、と青白い唇が呟く。帰る場所のないエヴェレストの幽霊に出来ることがあるとすれば、息も拍動もない旅を終わらせることだけだった。

「あれからは、寒さも空腹も感じなくなりました。代謝もない、痛みも殆ど感じない。きっとあなたたちもそう思っているように、僕もあの時に死んでいて、今は動く屍体も同然の状態かと。そのくせ新しく酷い怪我を負っても自然に治ります。いくらでも動けます。人に紛れるには少し不都合ですが、ひとりで動くにはこの上なく都合の良いこの身体は、普通のことでは朽ちないのだと思います。ジョージもまた、脳とこの眼以外は死ねないままなのでしょう」

 ぎし、と軋むような音がした。サンディの指は折れてしまいそうなほどきつく組まれ、それでも彼の心が上げている悲鳴はその軋みの比ではないと、引きつった顏と声が痛いほどに訴えていた。

「早く、彼の脳を取り戻さないと……彼に穏やかな眠りを、あげないと……僕は何もできないまま、もう何年、何十年――もしかしたら何百年――経ったかも分からなくなってしまった!」

 毒のような〝神〟の言葉を反芻する彼の眼には、気も狂わんばかりの焦燥と苛立ちの蒼い火が燃えていた。

 冗談じゃない、とオリバーは思った。サンディの正気は、自分が――あるいは自分たちが思っていたよりも、ずっと酷く削られていたのではないか。

 据わった目を伏せ、サンディは呻くように続けた。

「割れない卵のようなものなのです。外見は殆ど変わらないけれど、中身は決してそのままではいられない。いくら殻が強くとも、その中で僕は静かに腐っていくんだ」

 彼の痛みは匣から飛び出す災厄のごとく、あるいは転げた糸玉の端を手放せないまま見送るかのように溢れてやまない。流れ始めた血が止まらぬような訴え。拍動なき彼はとうとう顔を覆った。

「忍耐は僕の美徳だと思っている。でももう時間がない。分かるんです、少しずつ正気が擦り切れていくのが……死ぬ度に、昔のことを忘れていくんです。もう僕は、故郷での日々を殆ど思い出せない。この山に入ってからのことしか残っていない、それすらも零れていく……全部なくしたら、その時こそ化物になってしまう。何のために彷徨っているのかすらも分からない、ただの動く屍に。そうしたらジョージはどうなる? 誰があの人を……彼は僕を信じて、選んで、ザイルを結んでくれたのに……」

 一体それは、どれほどの――思いかけて、心のうちでなお口を噤む。苦痛、恐怖、焦燥、絶望、ありきたりな言葉でラベルを貼ることは出来ても、とても理解できると肩を抱けるようなものではなかった。

 眉を寄せながらも、ローズは彼の真摯さに打たれていた。記憶と正気を失っていく自覚が怖ろしくないはずはないだろうに、それでもまだ相棒の身を先に心配するなんて。

「僕は彼の相棒としての役を全うできなかった。墓守さえも果たせなかった……エリオットはよく分かっているでしょう。仲間は皆とっくに僕たちより高いところまで登ってしまった。僕たちだけがいつまでも地上で帰りあぐねている。天国に一番近い場所は天国にはなり得ない。僕に出来る役割は残りひとつ、あの人を殺すことだけなんです」

 エリオットは肯定も否定も出来なかった。ゴラクに啄まれた痕跡のある真っ白な遺体の写真を思い出す。しかし実質ひとりぼっちになった彼が埋葬の義務を果たせなかったとて、どうして己に責められようか。彼の話が全て語るままであれば、乾燥による損傷すら生じないだろうに。……

「信じますか、この話を」

 浮かびかけた疑問の尾を掴む前に、掠れた問いが割って入った。サンディはまだ俯き気味だったが、顔を覆っていた手は既に下ろされていた。青灰色の眼は夜を流したようで、狂気は夏に燃える蜃気楼の如く揺らめき続けていたが、その透明な井戸の底に光る星はたしかに誠実な正気の光だった。

「疑うという選択肢がまだあるとはね」

 皮肉めいた肯定は、思いがけず素直な首肯で返された。

「僕はジョージを殺さなければならない。けれどその為に無辜の人、嵐の中で目についたというだけで矢を立てられたあなたたちを巻き込むことを、僕一人の心の内で良しと決め込むことは出来ません。出来ない。あの頂を目指す人だけは駄目だ……あなたたちは皆、かつての僕たちの姿なのだから。その歩みを殺すことを、僕たちだけは是としてはならない」

 エヴェレストの幽霊は、登山者を助ける存在だという。

「故に僕は問いましょう。助けを求めることは、許されますか」

 こちらが泣きたくなるような顔で、彼はそう言った。

 ずっとずっと誰かを助けるために歩き続けていた死者が今、初めて助けを求めようとしていた。

 それに答えようと飲んだ生者の息に、彼はそっと指を立てて待ったをかけた。

「僕はこの問題を探るのと同時に、エヴェレストに挑む登山者を助けるよう努めてきました。あなたたちに助けを求めるということは、あなたたちを助けることと真逆の意味を持っていることでしょう」

 本当にその意味を理解しているのかと、誠実さは問うていた。

「もしも応じてくれるのなら、彼らの拠点となっている施設がある西側へ降りることになります。何度も一人で挑みましたが、いつもあの怪物たちに返り討ちにされてしまいました。それに登山者が年々増えているために、人目を避けて乗り込めるのは山そのものが危険な時期ばかりになってしまった。そのせいでここ数年は近寄ることすら出来ずにいる。だって、一人であんな場所にいたら目を引いてしまうでしょう。この身体でそれは避けたいんです。印象に残るのは仕方ないけど、踏み込んで善意から捜索されては困る。そこで見つけるのはきっと僕ではなく、禍々しい宙の匣なのだから」

 サンディはちょっと口を噤むと、話がそれましたねと呟いた。そして黒ずんだ爪をそっと撫でながら再び口を開いた。

「当然、滞在するだけで消耗するデスゾーンでの怪物拠点調査なんて、真っ当に生きているあなたたちを死の壺へ放り込む行為に他なりません。それに西稜からの登攀は未だ実績が少ないのでしょう? これまでのように難所で手助けもしますし、ベースキャンプまでお送りするつもりもありますが、ただでさえ危険なこの山でそんな無理を押すなんて、命の保証は出来かねます」

 この嶺へ、誰かを助けるために登る必要なんてないのだ。

「登頂熱(サミット・フィーバー)というのでしたっけ。登山家は此処へ登頂を果たしに来るものだ。屍体の上を這ってでも登ろうとする熱を、否定はしません」

 人ひとりが背負える荷には限界があり、頂を目指しに来たこの嶺で他人のことまで背負う必要は――少なくとも登頂を目指しに来たグループが自分たちのことを負う責任はないと、サンディは重ねた。

「これはマロリーとアーヴィンの問題です。だからあなたたちには、僕に「助けを求めるな」と言う権利があります。求められた助けを断る必要なんてありません。これはただのサンディの考えた作り話ですから、このまま天候回復を待って頂を踏んで、荒れなければ三日ほどでベースキャンプまで戻るとしましょう」

 驚いたことに、彼はここまで話しておきながらまだ「疑うという選択肢」を残していた。しつこいほどの、ともすれば怯え恐れているような確認は、彼の優しさと誠実さの証左でもあった。

「ジョージの御子息やサー・ヒラリーが仰っていたそうですね、登頂とは生きて帰って来ることだと……僕が言えた口ではありませんが、あなたたちが生きて此処にいる以上〝登頂〟を目指すことは義務ではないかと思います」

 だからお人好しになんかなっちゃあいけない。答えは登山家らしく、冷静に、冷徹に選んで。必要なら僕は席を外すから、全員の納得いく結論を出してほしい。そう言って彼は、今度こそ唇を閉ざした。

 じっと見つめてくる底の深い瞳、星を流したようなブルーグレー。はじめの朝に感じた印象の乖離。すっかり馴染みとなった眼差しに重なる、会ったことのないひとの面影。未だ見ぬひとの微笑みと憂いまでもが、その貌には宿っていた。

 これがサンディひとりの問題であれば、彼はいつの日か正気が朽ち果ててなお、永遠に助けを求めることはなかったのだろう。本当は助けてほしくないのではと疑うほどに慎重さを求めていたが、それでもここまで茶化して無かったことにしないあたり、限界まで切羽詰まっているのだ。マロリーを救うことは、頂を目指すことより切実なサンディの悲願だった。

「自力下山が不可能なら、助けを求めるのは当然のことだ。動けない仲間がいるなら猶更だ」

 だから少なくとも、彼が助けを求めなかったことにはしない。その上で、幽霊がやっと伸ばした手を取ろうとエリオットは決意した。馬鹿な選択をしている気もしたが、〝サンディ〟と彼の用意した物語を前に乗らない選択肢など取れるはずもなかった。

「あなたが誠実なのは分かっているし、沢山予防線を張るのも理解できる。サンディ、改めて言うのも何だけど私はあなたを信頼している。あなたがおかしなふるまいをする時には、相応の理由があると思っている」

 エリオットと同じ結論に至ったことを示しながらも、ローズは長い話のあいだ堪えていた疑問を口にした。

「どうしてあんなことしたの。セカンドステップで命綱なしなんて……不可能ではないけれど、登りやすいルートだからこそ梯子が掛けてあるのよ。そこから逸れて登るなんて無茶だわ」

「梯子はあくまで『梯子を掛けることが可能且つ最も登りやすいルート』であって、『梯子やビレイなしで登ることが可能なルート』はまた別の話ですよ。……落ちた以上、説得力はありませんけど」

 真面目な弁明には、どこかしっかり者の姉に叱られている弟のような色があった。それを自覚してか否か、サンディは少し視線を泳がせるとこう続けた。

「僕がサンディ・アーヴィンだなんて言っても、先の話をしても、それはただ狂人の戯言でしょう。信じてもらうにはまず人としての信用、それから本人だという説得材料が欲しくて」

 1999年、マロリー・アーヴィン調査遠征隊でもトップの登攀能力を持っていたコンラッド・アンカーが、セカンドステップでのクライミングに挑戦している。彼は梯子を外した上でこの壁を登り、1924年の二人にこの壁面の登攀は無理だろうという結論を下した。後に撤回しマロリーならば条件次第で可能だったという見解を出しているが、それでも経験の浅いアーヴィンには難しかっただろうと述べている。

「相手が僕のことを知っていたとして、顔を見せたことによって想定できるリアクションは凡そ二つ。そっくりさんやよく似た親類だと判断するか、豊かな想像力と薄い酸素のせいで幽霊か吸血鬼(アンデッド)だと思うかくらいでしょう。そして困ったことに否定し難い、特に後者はね。本人だと納得させるにしても、ショックの少ないやり方を取りたいのは自然でしょう」

 いまひとつ理屈が飲み込めず、エリオットが割り込んだ。

「それでクライミング能力を選んだと。でも……失礼なことを言うようだが、マロリーならともかく、アーヴィンだと説得する材料には薄いんじゃないのか。アーヴィンは素晴らしいスポーツマンだが、クライミングについては初心者のはずだ」

「でもあの日からは随分月日が経っているはずだし、ジョージのクライミングについてはよく伝わっているでしょう? 誰しも最初はそうであるように、たしかに当時の僕は初心者だった。でもかのジョージ・マロリーから岩登りを教わった初心者だ。一つ一つは薄くても、重ねればそれなりの話に出来ると思っていたのですが。そもそも常識の世界に生きている人たちに対して、僕がサンディ・アーヴィンだと証明できる決定的な材料なんてありません。何故か死んだ身体で動き続けているという証明なら楽なのにね」

 そこでやっと、百年前の常識に生きていた彼はDNAについて知らないのだと気がついた。無理やり微妙な状況要素を並べようとしているのはそのせいかと合点するが、いずれにせよここで証明できることではないから、最終的な選択肢は大差ないのだろう。この山とその身体で打てる手の少なさを想像するだけでこちらが絶望しそうになる。

 当のサンディはそんなこと関係ないとばかり、酸素のいらない身で深い自己嫌悪の溜息をついた。

「なのに、よりによって一番まずいことの決定打――明らかに死んでいるはずなのに動いているということを見せてしまった。ひどくショッキングな形で、それも落ちたせいだなんて最悪だ。つまりさ、僕は両方のステップで酷い失敗をしたってわけ。これがあのマロリーからクライミングを教わった男の演じた失態だなんて、お笑い草になればマシなくらいだ」

 おどけて浮かべる軽薄な笑みに、瞳だけが哀しいほど素直だった。

「あんたはきっと普段は運に恵まれている方だろうけど、大事なところで見放されていそうだな」

 抗議しようとするサンディを遮り、それにしても、と続ける。

「それにしても、願い事には気をつけろ、逆のものが手に入るかもしれない、最善は善の敵とはよく言ったもんだよな。でももっと前から随分怪しい挙動していただろ。少なくとも俺とノルは警戒していたし」

 これまで黙って話を聞いていたオリバーが頷いてみせた。

「ゾンビくらいなら有り得ることだと思っていたから、多分俺はエリオット以上に警戒していたぞ」

「でも決定打ではなかったでしょう。伏線ってやつです」

「雑な伏線だなあ」

「あまり本を読まないものでね」

 この点については開き直っているらしいサンディは、話が一息ついても答えを出していないオリバーへと視線を向けた。

「悪いな、俺はすぐ頷くわけにはいかない。これから話してくれるつもりだったのかもしれないがまだ聞きたいことがあるし、俺だって一度了承したものを撤回したくはない。ショッキングな話だとしても、今聞かせてほしい」

 いくらか申し訳なさを含むオリバーの詰まった言葉に、サンディはどうぞと先を促した。

「お前は心身ともに並々ならぬものを備えている。時々おかしな判断をしたり破綻した行動を取ったりしているようだが、それは不運な背景のせいであって、頭が切れる男だと捉えている。その上で訊くが、そんなお前が未だ遺跡の攻略に失敗している原因は何だと考えている?」

 この問いに、サンディは少し表情を暗くし言い淀んだ。しかしそれは伝えることを躊躇うのでも、いま意見をまとめているのでもなく、何度も心の内で反芻しては傷ついてきた汚点を口にすることを嫌悪するような様子だった。

「……まずは単純に数の不利。あの日ジョージを連れ去った怪物が、あの遺跡内に少なくとも二十匹はいます」

 三人の顔色を窺い読むようにしながら、サンディはゆっくり続けた。

「それから皮の厚さ。基本的にナイフや銃弾の類は効果が薄いようですが、ぼろの外套のようなものを纏っているものは殴っても蹴っても手応えが薄くて。頭を潰すか、もし

 くは腕脚を切断するためにしっかり狙いを定めないといけません。自分の首を飛ばそうとしてくる鋏を躱しながら相手の頭部を狙う難しさ、理解はできないとしても納得はしていただけるでしょう。僕は学生時代にちょっと教練を受けたくらいだ、機械として武器の構造を理解出来たとしても、隊の先輩たちと違って戦術や技術としての戦い方なんて知らない」

 幸運の条件なんて曖昧で変化しうるものだと、彼は残念そうな顔をしていた。聞く限りそうそう戦場では本当に死ぬこともなさそうな身体のようだし、そう思うのも仕方ないことかもしれない。

 サンディは言いづらそうに、それからと続けた。

「それからもうひとつ、あの遺跡では妙な停電が起きます」

「停電? 電気が通っているのか?」

「ええ。そうか、普通そちらの方が想定外ですよね。あいつらの施設には電気を使用する機械がたくさんあって、それらから漏れる光を中心にある程度の明るさが確保されているんです。物の色の判別は可能ですから、さほど困ることはないかと。ただし、いつからか停電が起こるようになりました」

 元よりエヴェレストで通電を期待する発想がない。停電が起こるだけならさしたる問題にはならないが、サンディは浮かない様子だった。

「妙な、と言ったな」

「はい。この停電はライトの類が意味をなしません」

 サンディは少し言葉を探し、気体のインクに落とされたか、一切の衝撃なく一瞬で目を潰されたようだと表現した。

「初めて停電に見舞われた次の襲撃では、僕は最初からずっとヘッドライトをつけていました。しかし例の停電に見舞われて視界を失い、そのまま袋叩きにされておしまい。次に起きた時、まだ機能していたヘッドライトはきちんと点きました。途中で電池が切れたわけではなかったんです」

 特殊な身体でも視覚を潰されては流石にどうにもならないらしい。

「それ以降、大まかな流れは変わりませんね。侵入したのが見つかり次第戦闘になり、暫くすると対策方法の分からない停電に遮られて、そこで探索は打ち切りです」

 彼は冗談めかして親指で喉笛を掻っ切る仕草をしてみせたが、苦笑いを返すのが精一杯だった。

 オリバーはサンディの話に少し思案し、眉根を寄せながら問うた。

「それは本当に停電なのか?」

「分かりません。いえ、実のところ停電ではないと思います。施設内に照明器具らしきものが見あたらないあたり、あいつらは光を好まないのでしょう。視界を確保できるのは、先程も言った通り機器類の光があるからなんです。だから視界を完全に遮るような停電が起きた場合、膨大な量と種類の複雑な機械もすべて止めたことになる。有り得ないわけではないけれど、ちょっと考えにくいと思います。奴らは岩石の研究と……恐らくは細胞の培養実験をはじめとした生命を扱う研究をしているようだから。停電は後者の活動に大きく障るのではないでしょうか」

「停電でないとしたら心当たりは?」

「残念ながら。科学ではないとしたら、それこそいま僕が動いている原理みたいなものの類でしょうか。少なくともひとりで打開する手段は今のところ思いつきません」

「そうか……」

 医者は暫くアンデッドを見つめていたが、やがてひとつの推測を導き出し納得したようだった。

「もしかしたら、その身体だからこその問題かもな。あんたも同じ考えで俺たちに協力を求めているんじゃないか。まさか本気で視界ゼロの中へ突っ込ませるつもりでもあるまい」

「僕とは違う、真っ当な生きている人に少し希望を見出している部分はあるでしょうね。でもそれは停電の問題に限るわけではないんですよ」

 にや、と唇の端を吊り上げる笑い方は、ちょっと久しぶりに見た気がした。少し明るくなった目が、思惑ありげな医者の顔を映していた。

「オリバー、何か心当たりがあるんですか」

「どうかな。サンディ、あんた脳についてはどれくらい知っている?」

「さあ、学校でいくらか教わったかもしれないけど今やさっぱり素人です。あなたは……」

「まあちっとはな。思うところはあるがただの憶測だ、あまり期待しないでくれ。上手くいくようなら話すさ」

 勿体ぶったように聞こえるが、ぬか喜びを嫌う彼らしいことだった。

「それと気を悪くしないでほしいんだが、これだけは確認させてくれ。本当に食欲は無いのか?」

「ええ、さっぱり」

「……」

 露骨に顔色を読もうとするオリバーに、サンディは苦笑しながら続けた。

「先程も仰っていましたが、ゾンビというのでしたっけ、動く死体の化物。僕はよく知りませんが、今では吸血鬼やブラックハウンド並みにメジャーな怪物だとか。それが人を襲って食べるから心配しているのでしょう」

 証明するのは難しいかもしれないな、と彼はぼやいた。

「僕がいつも食事時に離れていたのは、ただ顔を見られたくなかったのと、演技のためだけの食料よりも積むべき荷があるからです。食欲が失われたのは不幸中の幸いでした。人を襲って喰らったり、腐肉を漁る類のアンデッドに成り果てていたらと思うと……考えたくもないな」

「だが吸血鬼しかりゾンビしかり、動く死体とはそういうものだというイメージが基本でね。手当てをするのにあんたの身体を見ているが、長いあいだ脂肪や筋肉を消費してエネルギーにしているとも思えない。火のない所に煙は立たぬともいうぜ」

「気持ちは分かりますが、こちらからすればとんだとばっちりですよ。誓って僕自身に火を立てた覚えはありません」

 少し思案し、ローズには嫌な話だと思いますが……と気の進まない前置きをして、サンディは切り出した。

「人ではないけれど、烏を焼いて食べてみたことがあったんです。毎朝のようにたかられていたから鬱陶しくて……装備も傷つけられますし。賢い生き物であれば、一羽食べてやったら学習して近寄って来なくなるんじゃないかと思ったんですよ」

 彼は気まずそうにローズの方を見やったが、彼女は黙って先を促した。

「味が分かりませんでした。調理が原始的だとか、塩もスパイスもソースも無いとか、そういうのじゃないんです。ちっとも美味しくない代わりに、別段酷いとも思わない。ただただ肉らしい感触のする味のない物体を噛んでいるだけで、でもそれってきっと不味いということでしょう? なのに吐き出したいわけでもなくて。筋張った物体を、上顎と下顎の間にある硬いもので潰す運動を繰り返している、それだけのことなんです。その気になれば、羽や骨まで全て食べられたのかも」

 そして彼はその行為を、毒にも薬にもならない、ただ要らない行為なのだろうと結論付けた。

「まるで文字で書かれたご馳走みたいでした。生ゴミでも同じことなんですけどね。試したことはないけど、人を口にしたところで同じことでしょう――冗談じゃない! そんなものを食べるくらいなら大根の唐辛子和えの方がましだ」

 要するに何もメリットがありません、と重ねて、サンディはオリバーの顔をじっと見つめた。彼の話に考え込んでいたらしいオリバーが遅れて気づき何だと問えば、微かに困ったような笑みを浮かべながら穏やかに言った。

「今ね、あなたの顔を見て冗談を言いたくなったんです。あなたがあんまり警戒しているみたいだから。でもやめました。それだけ深刻な問題だと分かっているつもりです。僕の言い分は真だと神に誓いますが、立証するのが難しいことはお分かりいただけるでしょう。それとも、証明できるいい案がありますか」

「オリバー」

 もういいでしょうと、割り込む声に頷いた。

 サンディの話は、今の段階で事実と証明するのは難しいことが多すぎる。眼という一点を除いて屍体としか思えない肉体で、人が日々を営むことなど不可能な世界を身軽に動き回る存在がいる。ただそれだけのこと以外を今この場で事実であると証明するのは難しく、本人もそれを分かっていて誠実さを見せ、信じてもらえるように動いてきたのだ。情に流されて致命的な馬鹿を見る可能性もあるとはいえ、彼が真摯に答えてくれる以上、これ以上詰めるのはサンディに不誠実な気もした。

 オリバーは溜息を吐くと、頭を掻きながら表情をやわらげた。

「そうだな、意地悪を言ってすまなかった。なに、吸血鬼の伝承を生んだ事柄も、今じゃ大概科学的に説明がつくものさ」

 サンディを信じると、オリバーも断言した。

「とはいえ、あんたの話が全て真実だとしたら、後輩たちの身を思えば正直なところ同行は反対したい。だが恩義があるし、何よりこいつら自身が行きたがっているし、まあ、人間まずいつかは死ぬものさ。あんたの前で言うのも悪いがね。だからこそ死の先で苦しみ続けているあんたたちを助けたいとも思うし、これは俺自身の意志だ。この結論に至ったのはサンディ、あんたの行動と話によるものだが、選択自体は俺たち自身のものであることは忘れないでくれよ」

 だから万が一があっても自分を責めなさんなと、執拗なほど慎重さを求めていたサンディの肩を叩いてみせた。

「一緒に行くよ、サンディ。冒険は冒険を恐れない者にだけある、この山にまだ冒険が残っているというのなら、それは全力を尽くす価値がある。マロリーとアーヴィンの物語の続きにお誘いいただけるなんて光栄だ……と、これはエリオットに譲るべきだったか」

 いつもの調子でにやつくオリバーを小突くとローズが噴き出す。この山での日常だった。何もクライマックスだけが冒険ではない。星と嵐の夜、あの寂しそうな声に手を伸ばした時から、とうに運命の緞帳は上がっていたのだ。

「ありがとう」

 声を詰まらせる彼の白い手に、三つのグローブが重なった。

「行こう、サンディ。あなたの道に光る一等星は、俺たちの道を照らす一番星でもあるんだ」

 そしてあなた自身もまた。

 


 

 とうの昔に追記した気になっていたパートを加筆しました(2023.9)。前半戦一区切りというところ。

 続きは来年以降!