CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

STARGAZER: 6th Stage

これの続き。

 


 

6th stage: Untouched by human hands

 

'I hope I put up a good show when the altitude gets a bit trying.'

  ──Andrew C. Irvine, 2nd May 1924

 

 

 そろそろ迎えに行かねばならない。

 そんな考えは感傷に過ぎないと一蹴されるのは明らかで、到底素面で口に出せるものではなかった。だからずっと胸の内に留め、この旅が終わっても墓まで持って行くつもりでいた。

 思い詰めなくとも、きっといつか、自分ではない誰かが彼を「見つける」ことだろう。恐らく役割を果たすのがその誰かである必要性は薄いし、自分でなければならない理由も無かった。

 あるいは彼自身が、誰に頼ることも無く、自ら姿を現すこともあるのかもしれない――今より何十、何百年、もしかすると何千、ひょっとしたら万の星霜が過ぎ去ったのちに。それはそれで、悪い話ではないのかもしれない。

 それでも考えてしまうのだ。吹きつける嵐と極寒の中、必死に叫ぶ声に答える者のない闇の中で独り、明けない夜に落ちていくことの悲しい孤独を。それは共感の延長にある憐憫だ。

 いつまでも想ってしまうのだ。氷雪に閉ざされた山に置き去りにされ、百年を経ても朽ちることすらも無く在り続けるということを。それは仮定の延長にある恐怖と、嘆かわしくも否定し難い興味だった。

 はじめのうち、それは烏滸がましいと息吹きかけようとも燃え切らぬ、厄介な青い熾火のようなものだった。しかし何年も潜在意識に在り続けた感傷はいつしか倦み、ふとした拍子に意識の表層に上っては、縫合糸を縫い目の一つずつバチバチと音立てて千切るような苦しみを齎した。こうなればもはや打つ手はひとつ、傷を開き切り、氷水で濯ぐより他になかった。

 だからこれは自己満足なのだと銘じているつもりだ。本気で手を伸ばす力のない弱い人間が、痛みから逃げる望みをかけてもいるこの行動を美化してはならないと。それでも本当に此処まで来てしまうほどに、自ら彼を迎えに行きたかったのも偽りない心なのだ。実のところ、地上で最も天国に近い場所へエウリディケを迎えに来るオルフェウスは決して多くないのだから。

 すっかり賑やかになった冥府登りの列に紛れ込み、はて己が抱くは竪琴か、はたまた死衣にくるんだ花一輪か、暗闇が途切れるまで分からないのは滑稽なことである。ひとつ確かなのは、自分は竪琴の奏で方など知らないということだった。

 

  ///

 

 二〇二四年五月十七日

 

 エリオットが目を覚ますと、まだ出発まで二時間半ほどあった。酸素を吸っているおかげか、デスゾーンで過ごした割に頭はすっきりしている。テントの外では高度相応の風が唸っているものの、登高に大きな問題は無さそうだった。

 二度寝すると却って調子が狂いそうな気がして、少し早いが熱いものでも飲んで支度しようかと外へ出る。時間が時間だからか、いつも目が覚める頃には鼻先をくすぐる茶の香りはなかった。サンディのテントも灯りは消えたまま、キャンプ全体が死と隣り合わせの眠りについていた。

 ここでは傾斜がきつく、また雪を掘ってもすぐに岩へぶつかってしまうため、まともにテントを張るだけの平らかな面積を確保することさえ至難の業だ。蕩けた蝋のように垂れ下がったテントたちが張りついている斜面にて、ひとりダウンスーツに身を包み、着ぐるみのようになりながらダージリンの渋味で目を覚ます。数時間後には足を掛ける予定の頂は、座ったまま手が届きそうなほど近かった。

 サンディが起きてこないことに違和感を覚えたのは、一時間近くも経ってからだった。普段の彼ならそろそろテントの中で支度を始めていそうなものだが、一向に動く気配がない。声を掛けようか、それとも今日は時間いっぱいまで眠るつもりなのか、そもそも起こす理由など……キャンプⅡで愚かなことをしでかした手前思い切ったことをする気もなく、テントの周りからうろうろとヘッドライトを照らすばかりで踏み込みかねていると、ドアのファスナーにメモ書きが挟まれているのを見つけた。明らかに意図的に挟んであるそれを迷わず抜けたのは、外側から突っ込んだ形跡があったからだった。

 開いた紙きれには「しゅぱつじこくまにではもどります」とだけ書いてあった。本気なのだろうかと暫し考え、無駄なことだと結論づけた。訊いたところで答えは決まり切っているのだ。

 時計を見ると、出発までにはまだ十分な時間があった。軽い咳と食欲不振を除けば、体調も頗る良好だ。

 エリオットはアックスとコンパスと地図にヘッドライト、念のためにザイルとカラビナも持って、ゆっくりと足跡を辿り始めた。古いテントの入口から延びる足跡がやや下り調子にルートを外れ、北へと向かっているのを見て舌を巻く。彼の向かった先は凡そ見当がついていた。

 一九九九年に発見されたマロリーの遺体は、北壁のスノーテラスと呼ばれるポイント下に横たわっていた。調査遠征隊はそこまで歩いて下りて行ったわけで、相応の準備と実力に体力、気象条件が揃っていれば、今でも眠る英雄の近くまで歩いていくことは可能だ。しかし凍った礫がすっぱり切り落とされたような急角度の山腹は、小さな浮き石がからからと吸い込まれていくように、うっかり足を取られようものなら勢いづいて谷底まで落ちていく奈落への口だ。まかり間違っても星明り頼りで歩き回るような場所ではない。

 マロリーとアーヴィンの最期については百年ばかり様々に議論されてきたが、マロリーの右脚の骨折は滑落の途中で岩へぶつかった衝撃で折れたものだというのが九九年隊の見解だった。大の大人の腓骨と脛骨が諸共折れる、それだけでも此処で足を滑らせたらどうなるか、恐ろしい可能性をまざまざと見せつけられる思いになる。それでも足りないと言うのなら、真っ白に色が抜けて大理石の彫刻のように滑らかなその身体に辿り着くまでの道すがらすれ違う、潰れ、ひしゃげ、苦悶にのたうちながら亡くなったクライマーたちについて考えることだ。そもそも乾燥したチベット高所の土壌と寒冷さは土葬に適さないために、そこに暮らす人々は遺体を解体して鷲やゴラクに与える鳥葬を執り行うほどである。ゴアテックスとプラスチックブーツのカラフルな服は元より土に還るものではないが、この高度では持ち主の肉体が纏うまま共に残り続ける。マロリーが着ていた綿やウールの衣類でさえ、触れると粉になるような状態ながらも、洗濯票の文字が読めるほど保存されていたのだ。それよりずっと後の時代の頑丈な素材ならば尚更である。救助されることも埋葬されることもなく、自己責任のデスゾーンに横たわる遺体の数は二百ほどにのぼるという。虹の谷は今でも、毎年のように住人を増やし続けている。

 バラクラバから覗く色素が抜けきったような肌、ヴィンテージじみた飛行帽、赤いダウンに青いゴアテックスのジャケットを重ね、下は黒のフリースパンツとイエローラインのスノーブーツを履き、蛍光グリーンと灰のザックを背負うという、わざとかと疑うほどに混沌としたサンディの装いを見た瞬間、歩く虹の谷のようだと感じたことを思い出す。縁起でもない連想を振り払い、顔を上げた。

 実のところ、エリオットはサンディに親近感を抱ける気がしていた。スノーテラスを前にして抑えられなかった傷ついた激情に、墓を見下ろす眼に「これだ」と思ったのだ。

 エヴェレストへ誰かを探しに、あるいは弔いに来る人間は存外少ない。粛々と列為す観光登山者はルートから外れようとせず、人工着色料の塊を抱えた蟻のように、鮮やかな点の連なる線にて星羅雲布として山の輪郭を象るのみ。とりわけデスゾーンともなれば、皆大抵自分が生きて登り、帰ることに精一杯なので、疲労から何気なく座り込んだまま立ち上がれなくなったり、雪庇を踏み抜いたりした人間の多くは取り残され、虹の谷に仲間入りする。救助活動が行われることもあるが、それを当てにして活動するのは己に対する無責任でもある。他人の、仲間の屍体の上を這ってでも自身の登頂を果たそうとするエネルギーと、冷酷といっても納得され難い判断を導く心理は登頂熱(サミット・フィーバー)とも呼ばれ、此処一帯ではよく見られるものである。死んだクライマーが自分の意志で来ていたのならば、という但し書きはつくが、エリオット自身もそれを受け入れていた。

 そんな場所へ、高額な費用と大変な労力を払って死者に会いに来る人間は多くない。そのせいだろうか、昨日スノーテラスを見下ろすサンディの悲愴な眼に、これまで彼が見せてきた友好的な態度の何よりも信頼を感じたのだ。

 エリオットは自分が小心者の評を買っていることを知っているし、否定もしない。オリバーのような豪胆な冷静さも、ローズのような鷹揚な柔軟さもない。それでも執念の片鱗は持ち合わせていると思っていたし、敢えて主張するまいと考えているその熱と重なるものがあれば、密かに親しみを抱くのも自然なことだった。

 だから迎えに行く。いくらサンディがタフとはいえ、流石にアタック当日にスノーテラスまで下っていくほど体力も精神力も費やすことはしないだろう。時間も時間だ、準備運動がてらゆっくり足跡を辿っていれば、じきに鉢合わせることになると見込んでいた。おはようと言葉を交わして、手短に今日これからの話をして、きっと自分たちは上手くやって、最後には笑顔で分かれるのだ。心の奥のざわめきを無視し、慎重に一歩一歩を踏み出していく。

 そしてまさに今、急な傾斜の向こうから登ってくる人影を捉えた。こんな時間に、慣れているとばかりライトもつけず登り返してくるなんて、まず間違いなくサンディだろう。エリオットは酸素ボンベのバルブを閉めた。

「サン、ディ――、?」

 呼びかけるため、マスクを外しかけた手が固まる。

 軽やかだった。

 ゾッと全身の肌が粟立ち、暑いわけでも激しく動いたわけでもないのに背中と掌が汗で濡れた。心臓は高所のせいでなく早鐘を打ち、目にした光景の意味を理解したくないと本能が叫ぶ。親しみを抱いた途端に裏切られるのは、もう何度目のことだろうか。

 いつかの光景が蘇った。月光とバラクラバに切り取られた、白く幽鬼じみた顔。今それと同じものが、やはり月光を照り返して仄明るく光る雪を踏みしめ、点々と刻まれた足跡をトレースしながら登ってきていた。物思いに耽っているのか殆ど無表情だった面が、こちらに気がついた瞬間はたと目を見開く。暗がりでも明らかな感情の揺らぎで一見人間らしい印象を取り戻したが、エリオットの全身は鳥肌が立ったままだった。

 一九九〇年代半ば以降、エヴェレストの登頂難易度はかつてと比べると飛躍的に下がったと言われている。登山ウェアの進化は進み、金さえ払えば随分と身軽に快適に山頂を目指せるようになった。ただしそれは、あくまでかつてと比べればという話だ。標高二六〇〇〇フィートでは、最低気温は華氏マイナス十三度前後まで下がることがある。酸素の薄さもあり、未だ人間が自由に活動するにはあまりにも過酷な世界だ。初心者向けトレッキングとはわけが違う。

 そんな極高所の夜を、アックスを片手に揺らし、インナーに軽いウィンドブレーカーを羽織っただけという文字通りの身軽さで足取りも確かに登ってくる人間がいたら、それは――それは、本当に人間だろうか?

 ほんの十フィートほどの間を置いて、彼は立ち止まった。困ったように笑っているのだろう。きまり悪そうにくぐもった声が、おはようございますと投げられた。

「何だよ、お前」

 やっとの思いで吐き出した問いの掠れが、高所のせいならばどれだけ良かったことだろう。

 二度目だと、届かない声が小さく呟いた。

「朝の散歩ですよ、僕もイギリス人の例に漏れませんからね。それよりエリオットはどうして? 書き置きを残してきたのですが、見ていませんか」

 エリオットの緊張とは裏腹に、彼はきまり悪そうにしながらもさして動揺した様子はなかった。それはまるでこのやり取りに慣れているようでもあり、咳込むことすらなく、否、咳込むふりすら放棄してはぐらかそうとする言葉が、これまでの何より恐ろしかった。ふと折れた身体が脳裏を過ぎる。クレバスに飛び込んできて、あの恐ろしい角度で曲がり、ザイルに吊られ揺れる身体……。もう限界だった。

「何、企んでいるんだ。まずい言い訳ならしない方がましだぞ」

 怯えを隠せない声に、青い眼はかすかな憐憫を滲ませ微笑した。

「僕は時に逆も然りだと思いますけどね。しかし企みだなんて、人聞きが悪いなあ」

 何もしていないのに悪者のように言われるのは心外です、と、本当はそう思っているわけでもなさそうな口ぶりで言った。全く顔色の変わらない彼が何を考えているのか分からなかった。はにかみにも、時折見せる激情の片鱗にもちっとも血の気がのぼらない、死んだ子供のような顔。少しだけ困ったように眉根を寄せ、それでも笑みを絶やさない佇まいは、今や不気味なばかりだった。一緒に過ごした時間が、バラクラバの下の表情をも読み取らせるようになっていることが憎い。

「オリバーはお前を警戒している。言うまでもないけど俺もだ。それにローズだって、甘い奴だがお人好しに底はあるぞ」

「知っています、その点については多分あなた以上に。何もあなたたちを馬鹿にしているわけではありません。そんなはずがない。それでも、僕は……」

 左頬を撫でるようにして、幽霊は少し俯いた。

「……戻りましょう、出発に間に合わなくなります。出立が遅れて致命的な事態を引き起こすなんて間抜けな惨事、絶対に御免ですからね」

 ざくざくと凍った雪を踏む爪が、一歩一歩近づいてくる。思わず身構えるエリオットに、サンディは心なしか悲しそうにも見える一瞥だけを寄越して擦れ違っていった。

「待て、どうして俺たちがこの先もお前と一緒に行動すると思っているんだ。これからが一等危ないっていうのに」

「でも僕は有能で有用でしょう? それとも、これまでに何か一つでもあなたがたに危害を加えましたか。ブラッグは良い犬だがホールドファストはもっと良いっていうじゃありませんか。まあよく喋りますけど、僕たち銜えるだけが手段でもありませんしね。こんなに骨身を惜しまず働くガイドポーターなんて、他にはいませんよ」

 振り返った彼は、これ見よがしに両手を広げてみせた。元の空気に戻ろうと言っている。同じ墓を悼んだ他人同士に――あるいはもっと前でもいいから、戻りたがっている。迷い山を行くのならば、それで正しいだろうが。

「開き直るな、これからの話をしているんだよ。お前が突然襲ってきたとして、三対一でも勝てるか自信がない」

「害意はないと約束します。信じてもらうには行動で示すしかなさそうですけど」

「その行動を警戒しているんだよ。こんなものを見せといて、まだ何も説明する気がないのか? 名前も顔も素性も明かさない奴が何を信じさせようっていうんだ」

「とても大事なことを」

 それにお喋りが好きなのは本当ですよ、と付け足した。そして白い面は諦めたように真面目な顔つきになると、打って変わってひどく真剣な様子で続けた。

「お願いです、今日の日没まで時間をください。それまでにはきっと僕のことを信じてもらえると思っています――いや、信じさせてみせる。必ず」

「真実の半分しか語らないのは、大嘘を吐くのと等しいというが?」

 飛行帽は頷いた。

「僕だって、あなた方への隠し事はもう上手くいかないと分かっています。随分大目に見られていた自覚はあるんです、それでも看過できないものがあることも分かっている。でもそれは避けるべきリスクを避けただけで……知らない方が幸せで、知る必要もないことってあるでしょう。この状況だってそう。でも、あなた方がお望みなら全てを語ると約束します。僕が知ること、見たものと聞いたもの、あなた方が知るべき全てを」

 語る調子のひたむきさは、まるでこれが生死の懸かった説得であるかのようだった。薄い酸素を途切れ途切れに継ぐ必要のない、必死の説得。

「……そう」

 エリオットは暫し黙考し。

 先行していたサンディについて歩き始めた。

 サンディはほっとしたように小さく肩を下げ、ゆっくり先導するように歩みを再開した。

 結局のところ、エリオットは好奇心に勝てる性質ではないのだ。この「サンディ」を名乗りマロリーに傾倒する不思議な青年が、何か登頂以外の目的を持ち、この極寒と薄い酸素の中を軽装で動き回っていることに種があり、それを開示する気があるのなら、賭けは最初からエリオットの負けも同然だった。それでもサンディへの不信感がもっと募っていればどうなったか分からない。流石に仲間の命をベットすることには慎重だった。

「スノーテラスで話して良かったな。あれが無かったら、俺たちは間違いなく出立前にお前を叩き出していたぞ」

 エリオットの言葉に、前を行く背が苦笑する気配がした。

「うん、僕もそう思います。何もかもを打ち明ける必要なんて無いけど、話すタイミングを探るような隠し事なんて不信を煽るだけだ。不向きなストーリーテラーは、今日でおしまいにします」

「昨日までにやめる気はなかったのか?」

「駄目なんです、まだ足りない。きっとまだ信じてもらえないから」

 サンディが頑なに信用に拘るほど、一体何を抱えているものか気になる。酸素を背負うエリオットを気遣いゆっくり登る軽やかな姿は、その足でトレースが刻まれていなければ、本当に幽霊だと思ったかもしれない。

「俺は今のお前の装いを見ても追放しなかったのに?」

「それは少し悪いと思っています。でも説得の対象はあなた一人ではないんです、特にオリバーは、今ではあなた以上に僕を警戒しているはずだから……きっと誤解されているけど、彼を責めることは出来ません。ですがどうか心配しないでください、選択と決定の権利は何時もあなた方にあります」

 サンディは本心からそう思っているからこそ、きちんと説得しようとしていたのだろう。とても茶化す気にはなれなかった。ノルと何があったんだと訊けば、多分彼が教えてくれますよと憂鬱な調子で返された。

「そういえば」と、先行く彼は思い出したように言った。「まだ答えを聞いていませんね。書き置きを見ていないんですか」

「読んだよ。それで心配して迎えに来たらとんでもないものを見せられたもんだ」

 書き置きを見つけたのが半日は前の出来事に思える。エリオットの愚痴めいた言いぐさに、サンディもつられて少し気の緩んだ笑いを零した。

「元気ですねえ。……いや、今のは余計だったな。僕も迂闊でした、悪いことをしましたね。戻ったら一番いいお茶を出しましょうか」

「お前な……いいよ、まだ何も話してもらってないし。だけど明日のお茶は貰うとするよ」

「えっ」

 この極所をこんな軽装で元気に歩き回れる謎は残っているが、そこに種明かしがあることを信じるのならば、気になるのは彼が出かけた理由だった。恐らくスノーテラス関係だろうが、果たして何をしていたのやら。

 驚きに目を丸くして振り向く頭に、逡巡してちょっと笑ってみせた。

「信じさせるんだろ。何する気か分からないけど、本当に悪意の無いことなら頑張れと言っておくよ。もしも害になるものだったら、その調子に乗った装備のまま氷河へ突き落してやるけどな」

「……嬉しいなあ」

 ごめんなさい、と呟いた小さな声は折から吹き上げた風にかき消され、エリオットの耳に届くことはなかった。遥か下方の氷河は、死骸も溶かさぬ白い流れになるために、音もなく流れていた。

 切るような風の中、二人の足音が連なる。暫くの沈黙の後、サンディが思い切ったように口を開いた。

「ねえエリオット、僕は何もあなた方を怖がらせたいわけじゃないんですよ。寧ろその逆です」

「何だ急に」

「信頼がなければ友情はない、誠実さがなければ信頼はない……誰の言葉でしたっけ。僕は最近思うんです、もしも新しい友人ができたらどんなにいいだろうって。今となっては難しそうだけど……」

 くるりと振り返った彼は月を背に、寂しそうな立ち姿でふざけて指を振った。

「クイズです。僕は一体、誰でしょうか。今日は忙しくなるから、制限時間は明朝のお茶までとしましょう。解は一つですが、どうかあなたの、ひいてはあなた方の正気にとって、最も穏やかな手順で解いてほしいのです。あなたの解は、きっと日没までに出るでしょう。そこに至るまでの道筋を明日の朝聞かせてください、作家先生。この山は、小説より奇なる奇跡と冒涜に満ちているのですから」

 お茶の時間が近いのでお先に失礼します、とサンディは速足に登って行った。わざわざ歩幅を合わせられたその足跡をトレースして、エリオットもまたテント目指して歩みを進める。

 全ての不可能を除外していけば、最後に残ったものはどんなに不可解で奇妙で信じがたいことでも、それが真実だということになるという。しかし今回ばかりは、直感の告げる解が不可能の最たるものでしかないのだった。直感が除外すべき不可能である以上、理屈でもって可能性の中から答えを選ばねばならないが、どれもこれも決め手に欠けるときた。彼は多分、ドイルも読んだことが無いだろう。そもそも推理として成立しないのではないかと、雪明りの先へ消える背中に溜息を吐いた。

 しかしそれも、探偵小説であればという話だった。自分がこの物語を推理物(ミステリー)だと思っているだけで、実は怪談(ホラー)だったとしたら話は別だ。推理ではなく、ただアンノウンの正体を当てるだけのクイズならば、怪談の中でも問と解答は用意できる。とはいえ、そんな与太話に流されて痛い目を見るつもりも無かったが。

 一体彼が今日は何をしでかすつもりなのかと思うと、楽しみが三割と空恐ろしさが七割だった。

 

 「明日のお茶」は無いことを、彼は数時間後に知ることとなる。

 

  ///

 

 夜風に睫毛を凍らせながら、胃に無理やりカロリーを流し込んでいく。ダウンスーツに着替えていたサンディは甘やかなカモミールティーを二人分だけ、エリオットも同じだけのダージリンティーを淹れ、テルモスにはお湯を満たした。

 重荷を負う前に、オリバーはローズとエリオットを順に呼び、テントの中で夜更けに書いたメモをこっそり見せた。

 それを読んだローズが呆れ顔をした後、外にいるサンディの方へ心配そうな目を向けたのは、オリバーにとって予想通りのことだった。心配といっても不安を抱いたのではなく、そんな酷い怪我を負っているのを気遣っただけだろう。一応気をつけるわね、と言いながら傾けるマグのお茶は問題の化物が淹れたものなのだから、真に受けていない本心を隠す気すら無いらしい。

 しかし、エリオットがメモを読み終わってもさして顔色を変えないのは意外なことだった。

「何だ、もう少しくらい良い顔すると思っていたんだが」

「おい……まあ、怪我はある意味予想通りというか、可能性はあると思っていた。そこまで酷いものとは思わなかったけど、顔を見せろなんて悪いこと言ったかな」

 少しばつの悪そうな様子だが、彼がオリバーの言い分を鵜呑みにしていないのは明らかだった。きっと怪我の程度については見間違いだとでも思っているに違いない。

「何か知ってるのか、エリオット」

「あいつが何者なのかは知らないけどね。でも今日の日没までは待つって約束したから、俺はもうちょっとだけ様子を見るよ」

 神経質なくせに大事なところで危機感のない仲間に、微かに苛立った。

「何だ、えらく信じているじゃないか。あんなに警戒していたのに」

「最初の夜とは逆になっちまったな。ま、あいつは真面目な墓守だと思うよ。あいつの不審なところにはちゃんと種明かしが用意されているそうだし、全部話すとも言っていた。幽霊話に流されて痛い目を見るつもりはないさ……裏切ったらロンブク氷河へ突き落してやるけど、大丈夫だと思っている」

 オリバーは迷った。今からでも、自分がこれまでに見たことのある冒涜的な存在や、それらの引き起こす混沌の話を少しでもしておくべきだろうか?

「とにかく油断はしないでおくよ、ありがとう」

 メモを返してくるエリオットはもう毒気を抜かれた様子で、諦めて小さく溜息を吐いた。斜に構えてみたところでどうにも坊ちゃん気質の抜けない後輩だ。教えても教えなくてもさして変わらないなら、サンディに警戒を煽る話を聞かれるリスクを負う必要はなかった。それに、これがもしもオリバーの杞憂で済む話ならば、この後輩には無用なプレッシャーとストレスを与える方がリスクになる。

「警戒役交代かな、これは。お前にゃもう見張りは無理だろう、任せとけ」

「悪い、よろしく頼む」

 オリバーからすれば呑気な笑みを浮かべ、エリオットは酸素マスクをつけなおす。テントから這い出れば、サンディと談笑していたらしいローズが手を振ってきた。

 いよいよ全てを背負う時だと思った。この闘いが四人のチーム戦になるのか、あるいは三対一、二対二、一対三になるものか、オリバーには分からなかった。

 

 最終行程で使う酸素装置をセットする作業は、ローズがオリバーを誘ったことで自然と二組に分かれた。

「俺でいいの」

「うん、ちょっと話したいことがあるのでローズに頼んだんです」

「話したいこと?」

 意外な思いでエリオットが訊くとサンディは頷き、あとの二人からは少し離れた盛り雪にエリオットを座らせた。

「それに、あなたには僕がこのくらいの酸素でも平気なのがばれてしまいましたから。高度に合わせて苦しいふりをするのだって、結構気を遣うんですよ」

 そう言ってにやりと笑ってみせるのは冗談のつもりだろうが、十分に化物じみていた。よくよく聞いてみれば、言葉を継ぐ時にだけ深めに息を吸っているようだが、それは酸素ではなく空気の薄さを都合するだけのようで、単語一つ発するにも苦しんでいる自分の話し方と較ぶべきものではない。やはり悪ふざけが過ぎるようだ。

 エリオットが厚い帽子の上からヘルメットを被り、ザックを背負い装備を確認する間に、サンディは一時外されている酸素装置の最終チェックを行う。よしと頷いた彼がダウンスーツのフードを被るのを見て、エリオットは眉をひそめた。

「なあサンディ、メットはどこだよ」

「最初からずっと被っていますよ」

 青い切れ目の瞳は笑って、くたびれた羽毛入りのフードをトントンとつついた。いつも被っている古びた飛行帽は、メット入りの品だったらしい。

「旧式甚だしいんだが本気か?」

「何か問題でも? 場を見て脱いだり被ったりしなくていいから便利ですよ」

「もういいよ、今更だし貸せる予備メットもない。ビレイは取るけど、万が一にも落ちてくれるなよ」

「大丈夫、大丈夫。僕の心配はご無用です。さあ、それよりこいつを取り付けますよ」

 登頂成功に欠かせない機械を抱え、サンディが近寄ってくる。彼が背後でコードやベルトを広げる音を聞きながら、エリオットは促した。

「それで、話したいことって何さ」

 返事はすぐには返ってこなかった。サンディは少し言い淀む素振りを見せながら、静かに口を開いた。

「ねえ、エリオットは酸素装置についてどう思いますか」

「珍しい質問だな。酸素を使うことじゃなくて、酸素装置についてか」

「どちらでもいいですよ」

 ザックの上にフレームをあてがいながら、彼は言う。特に考えたことのなかった問題に、エリオットは少し考え込んだ。

「酸素を使うことについては、別段どうとも思わないよ。スポーツマンシップがどうのこうのという時代はとっくに終わっているし、ただ使えるものを使っているだけ。酸素装置については……重いけど、昔よりは遥かに軽く丈夫になっているんだし、わがまま言ったらいけないかな」

 ふと振り返って、ライトに光る眼を見ながら続ける。

「ジョージ・フィンチやサンディ・アーヴィンの苦労を思ったら、とても文句なんて言えないよ。俺は機械のことは分からないけど、彼の日記を読んだら……なあ?」

 バチン、とベルトを止めたサンディは、お得意の読めない笑みを浮かべていた。

「優等生的な解答ですね。僕の反応を見ようとして鎌をかけているのでしょう」

「本心だよ。俺はマロリーのファンだけど、アーヴィンのファンでもあるんだ」

「ああ、そう……」

 こちらには、何か居住まいの悪そうな様子で言葉を濁した。この話は続けたくないとばかりに、元々手際の良い作業を更に早めている。

「逆にお前はどうなんだよ」

「そうですね……愛憎半ばといったところでしょうか」

 マスクとチューブを表に流し、メーターをチェックしながら、掠れ声は感慨深げな様子で言った。

「憎く思うことも沢山あるけど、こいつが無ければ今の僕もありませんし、何より必要としてくれる人がいましたから。つまり、僕は機械弄りが得意ってことです」

 束の間、エリオットは今背後に立っているのが、曾孫を見る老人であるかのような錯覚を覚えた。幽霊に命綱を握られている想像をデスゾーンで歓迎できるのは、随分なホラー好きか自殺志願者、あるいは度々現れる亡霊の噂を好意的に信じている変わり者だけだろう。生憎と、エリオットはその一員だった。いつでも酸素を吸える準備が整ったマスクを受け取りながら舌を出した。

「お前のそういう言い回しが嫌いだ」

「ふふ、明日の朝までですからお付き合いくださいな」

 温厚な幽霊役者は、ローズとオリバーがまだ作業しているのを見て、自分の装置を自身でセットしようとする。エリオットが手伝おうとすると、慣れているから大丈夫、もう重いものを負っているのだから座っていてくださいと断った。少し寂しい思いでその親切を受け取り、手際の良い作業を見つめる。

 ふと、一枚の写真を思い出す。この山が観光化する前、最後は二人組で登頂を目指していた頃の――百年前の主人公たちを写した、最後の写真。モノクロのカットが現在に重なり、まるで片割れを失った青年を見た思いで、しかしそんなことはあり得ないと振り払う。

「ついでにサンディ氏は、酸素を使うことについてはどうお思いで?」

「いりませんよ、こんなもの」

 きっぱりとそう言い切るので、馬鹿のように目を丸くしてしまった。

「おや、意外でしたか」

「いや、もうちょっと濁すと思っていたし、本気で言っているなら怖いなと」

 エリオットの返答に、サンディはカラビナを通しながら首を傾げた。

「僕の記憶違いでなければ、サンディ・アーヴィンは酸素を使うことに積極的ではなかったのですが」

「ああ、そういうこと。謎掛けはいいが会話をしてくれ、俺は今目の前にいるサンディに訊いているんだ」

「僕だって、他人が使うことについては別段どうとも思いません。ただ僕個人に限るなら答えは同じですよ。意図はともかくね」

「……本当に? 北東稜無酸素登頂を?」

 確かにデスゾーンでこれほど平然としていられるのなら、もう一八〇〇フィートくらいは平気なものなのかもしれない。しかし、人体に殆ど限界と言って良い負荷のかかるこの世界での一〇〇フィートは、下界の一〇〇フィートとはまるでわけが違う。つい疑いを向けると、サンディは意味深そうに目を細めた。

「それでも背負うのが、人と一緒に登るコツってものです。そういった意味では、いらないという答えは不適切かもしれませんね。少なくとも今は必要、と訂正します」

 結局ひとりで全てを済ませてしまったサンディが、暗い頂を見上げる。月を失った宙には星ばかりが光り、雪に薄い影を落としている。その姿に、やはり寂しい背中だと思った。彼の纏う寂しさは天涯孤独の身ゆえと想像していたが、きっと本質はそこではない。その隣にいたはずの、絶対に欠かせないもう一人がいないからだ。今ここにはいない魂の片割れ、彼が本当にザイルを結ぶべき相手が。

「なあ、お前のパートナーは――」

「本を後ろから読むのは如何かと」

 静かな声に遮られた瞬間、教師からズルを咎められた気分になった。

 サンディまで自分の言葉に少し驚いたようで、彼は戸惑い半分といった表情で振り向くと、柔らかい言葉を付け足した。

「……僕のパートナーなら、そう言ったんじゃないかと思いました」

「……そうだな、飛ばし読みは失礼だ。ちゃんと順を追っていくことにするよ」

 サンディは微笑み、厚いグローブに包まれた手を差し出した。

「ありがとう。それでは、行きましょうか」

 力強い手を握り立ち上がる。気のせいだろうか、その手は少し緊張しているようだった。

 

  ///

 

 他隊の姿が見当たらない夜を行くのは二度目だった。否、あの時はまだサンディをパーティーに加えていなかったのだから、正確には初めてと言うべきだろうか。

 酸素を吸うといっても、身体が欲しがるだけ十分に与えてやれるわけではない。苦しさのあまり、ほんの少し進んでは立ち止まり、息を継いではまた一歩一歩進む、呆れるほどゆっくりした歩みで高度を上げていく。歩く時間よりも、立ち止まって必死に深く息を吸い込む時間の方が長くなっていた。

 既に月も沈んだ夜とはいえ、雪は白く明るく浮き上がり、星の眼差しと人工の灯りに照らされては細かにきらきら輝いていた。四人かたまっていても孤独感の募る光景である。冷え切って締まった雪は、たとえクラストして蹴り込む度に深く砕けようとも、昼の弛んでべとつく雪より歩きやすい。先頭のサンディもゆっくり進んでいるが、それも恐らく後続を焦らせないため、驚かさないための行動だと知っているエリオットには、奇妙に手加減されている居心地の悪さがあった。そして今の彼が知ることではないが、オリバーもまた同じ推測を立て、そこに罠が仕掛けられていないか疑い、いっそ自分が先頭に立ってしまった方が疲労しないのではないかと考えていたのである。天候は登頂日和かもしれないが、純粋に頂を見据えられているのはローズ唯一人だった。

 フシュ、フシュ、と酸素装置の立てる音が不安定なリズムを刻む。百年前、この高度を無酸素で進んだ人たちがいた。そして今より遥かに重い装置を背負い、世界のてっぺんまで辿り着いたかもしれない人たちも。前者は稜線を進むことを避けて、現在ノートンクーロワールと呼ばれているスラヴの斜面を進み、頂上まであと僅かというところで帰ることを選んだ。そして後者は恐らく、現在北東稜メジャールートでも採用しているようにファーストステップ・セカンドステップと呼称される崖を選び、果たして越えたか越えまいか、帰らぬ人となった。いずれも失敗すれば死に直結する、精神的にも負荷の大きいポイントであるという点は大差ない。

 現代キャンプⅢから五〇〇フィートだけ高度を上げると、最終日最初の壁、ファーストステップにぶつかる。セカンドステップに較べれば易しい課題だが、この高度で崖を登るという行為自体が、否応なく命を燃やす実感を与えてくるものだ。

 崖の手前で小休憩を兼ねながら、雪の状態と登攀ルートを確認する。結論から言えば、登るにはうってつけであった。アイゼンをきちんと蹴り込めるほど雪が多く、よく締まっているらしい。うっかり剥離しかけた氷にビレイ用ペグを打つようなへまをしなければ、問題なく乗り越えられるだろう。

 サンディはいつもと同じように積極的に意見を出すが、それでもどこか一歩引いているようだった。それはチームメンバーの調子をよく観察しているようであり、あるいは何か物思いに気を取られているようでもあった。オリバーが牽制するように警戒を強めているのを見てとり、エリオットとローズは視線を交わしてこっそり肩を竦めた。

「大丈夫か、サンディ。あんまり気にするなよ」

 相談をするふりを装って近寄り小声に尋ねると、サンディは何を言われているのか分からないという様子を見せた。てっきりオリバーに気を遣ったのだと答えると思っていたエリオットは、その反応に却って不安になった。

「気が散ってるだろ。頼むから集中してくれ、お前がどう思っているかは知らないけどこっちはこのクライミングに気を張っているし、命が懸かってるんだ」

「ああ、そう見えたのならすみません。問題ありませんよ、この壁を越えずして先がないことくらい分かっています」

 言いながら自分でも頼りないと思ったのか、逡巡しながらも彼は言葉を付け足した。

「ただ、この場所があまり好きではないんです」

「ここが? セカンドステップじゃなくて?」

「……仲間を不安にさせるようなことを言ってはいけませんね。大丈夫、個人的に嫌な思い出があるだけです。昔の話ですから、今日は本当に心配いりませんよ」

 ザイルを手繰りながら、彼はおどけて親指を立てた。その背後にはスノーテラスへと繋がる急斜面がすっぱり切れ落ち、全てを飲み込むような黒い宙が永遠に広がっていた。地を不気味に震わすような風が吹き上げ、引き結んで痛む唇を無遠慮に撫で、フードの隙から指を差し入れては掻き回してくる。滑ったのはどちらだったのかなどと、訊けるはずもなかった。僕は一体、誰でしょうか――掠れた声と酸素装置のブレスが鼓膜の内でぐるぐる回る。

 さて、結論から言えば、ファーストステップを無事登り切るのに高度相応以上の困難はなかった。しかしこれまで大抵の難所で先頭を切っていたサンディは、今回エリオットにその役割を強く譲った。彼曰く「今日はクライマックスの晴れ舞台なのですから、僕もチームメンバーとして補助はしますが主役は最初からの隊員で張ってください」と。オリバーとしてもその方が安心で、ローズも彼の言い分に納得しているのだろう、反対意見は出なかった。

 本当に今日がクライマックスなのだろうか。そんな疑問が微かにエリオットの意識の端を掠めたが、酸欠に一、二度喘ぐだけで、霧の尾のような思考は掻き消えてしまった。代わりに今このチームは意見のやり取りが不十分だという不安に襲われ、しかし登攀計画には問題ないと言い聞かせる。ひとり食い下がり、真意を聞き出そうと腹を決めるには、此処の空気はあまりにも薄かった。その不安すらも、歩みを進めるうちにすぐ削ぎ落されてしまうのである。持てるものを限界まで削ぎ落として己が足場を捉える世界で、一度掴み損ねた手を握るのは本当に難しいことだった。

 

 昇天日の第一関門を越えた一行は更に先へ進む。ペテロの門をパスしたところで、この美しい銀の地獄はまだまだ終わらない。更に高度を二五〇フィート上げたところで、とうとう姿を現すのが北東稜ルート最大の難所として名高いポイント――セカンドステップだ。山頂まで高低差僅か九〇〇フィートという地点に位置する石灰岩の岩場で、上部はほぼ垂直になっている。現在では登攀を補助するために、一九七五年に中国隊が掛けた二本のアルミ梯子や、フィックスロープが設置されている。それでも基部に立てば、その威圧感は凄まじいものだった。

 膝を折って絶壁を見上げ、休憩を取る。水分はいくら摂っても足りないほどだが、とうに咥内も火傷と乾燥に爛れていた。痛む喉へお湯を流し込み内臓を温めながら、厳粛な顔をした岩の佇まいを焼きつける。事前予想よりも白い印象を受けるが、果たして凶と転ぶか吉と転ぶか。比較的登りやすいコンディションに見えるが、全員登り切るまで到底安心する気にはなれなさそうだ。課題の分析はいつだって楽しく夢中になれるものだが、先だっての不安を忘れ去ったエリオットの関心はセカンドステップそのものではなく、そこでの物語にあった。

 仰げば夜空に吸い込まれるような幻想は、希薄な酸素の中で現実だと錯覚できそうなほどリアルに感じられる。それとも、現実の輪郭こそが幻覚の如く溶けてしまっているのだろうか。見上げながら落ちていくような浮遊感に浸っていると、青い足音がそっと隣に並んだ。

「怖いですか」

 マスクを外し、彼が抑えた声で問うた。

「わくわくするね」

 素直な感想を口にすると、掠れた笑い声が愉快そうに風に乗った。本当のことだった。エリオットにとってのセカンドステップは、己が眼前に聳える地獄の門ではない。これは百年前の物語の鍵になる名シーン、見せ場の大舞台だった。憧れの場所である。こんなにも空気が薄くなければ、深い感嘆の溜息でも吐いていたことだろう。

「お前こそどうなんだ」

「怖くないのは確かです。でも少し緊張しているのかも」

「慣れているんじゃないのか」

「まあね。でも今回は特別ですから」

「特別?」

 サンディは答えなかった。藍色の眼は、ライトを反射してぎらぎら光る梯子と、その近くに設置されたフィックスロープを眺めていた。

「言うまでもないことですが、あの梯子はマロリーが掛けたものではありません。彼は梯子など使わず、自らの手と足で登り切ってみせたのですから」

 つとライトがずれ、もう少し山腹に近い方を見やった。きっとあちらには、補助装置を設置するには向かない理由があるのだろう。人工物のない自然のままの絶壁は、百年前と変わらぬ姿をしていた。百年前、この壁を乗り越えた二人がいた。いたはずなのだ。

「マロリーほど美しく岩を屈服させてしまう登山家は、滅多に出るものではありません。装備や環境が整っていくことで、地上で最も高い頂に登ること自体は随分楽になりました。けれども初めてこのステップに足を掛けた彼のクライミングを超えるものは、きっともう現れないのでしょうね……」

 サンディはまるで自身で見てきたかのように、うっとりと懐かしむような調子で言う。平気そうな顔をして、案外彼も苦しいのではないか。疑いを抱こうとも、彼の言葉が淀みなく流れているのは事実だった。

 銀のない壁面がふっと闇に沈んだ。ライトの灯りを落とし、サンディは不思議なほど穏やかな調子で問いかけた。

「エリオット。あなたは、マロリーとサンディは登頂を果たしたと思いますか」

 エリオットは迷いなく頷いた。

「そう信じたい」

「この迫り出した艦首も乗り越えたと、今でも思っていますか」

「そうだな。ファーストステップもセカンドステップも登攀し、サードステップを越えて頂上へ至り、キャンプへ戻る途中で滑落死したと……そう思いたい」

 彼らがセカンドステップを回避して進んだ可能性も零ではない。サンディが言いたいのはそういうことだろうか。

「マロリーにはセカンドステップを越える能力が十分あった。アーヴィンだって、彼について登りきったと思っている。思いたいよ。俺はオデルの証言を信じている」

 その答えに、サンディはちょっと首を傾げて、あの皮肉げな眼差しを寄越した。冷ややかな唇から、自傷めいた音が紡がれる。

「でも装備は今よりずっと粗末だし、サンディは殆ど素人だ。可能性は低いのでしょう。オデルは何か見間違えたのかもしれませんよ」

「それは分かっているよ、オデルが証言を変えたことがあるのも無論承知。それでも俺はあの二人が共に頂上に立ったと信じたい。一番星が頂に輝いていてほしいと願うのは当然だろう……彼らが得られたものといったら、それしかないんじゃないかと……」

 すぼまる言葉に、青フードの中身は小さく笑ったようだった。浮くような震えを帯びた声が零れる。

「ちょっとセンチメンタルすぎませんか」

「俺は夢と感傷だけでここまで来たようなもんだから。軟弱だと思うだろ」

 サンディは静かに首を振り、立てた襟の下で確かに微笑んだ。彼の眼は星のように、不思議と暗い場所でこそよく光る。そこにもう皮肉の棘はなく、瞳には嵐の前の凪にも似た穏やかな色を浮かべていた。

「いいえ、ありがとう。これで決まりだ」

「……サンディ?」

 彼はすっきりと吹っ切れたような――いいや、最後の枷を外してしまったかのような――空気を纏い、朗らかに手を差し伸べた。

「さあ、行きましょうか。梯子が掛けられていても、このステップが危険なポイントであることに変わりはないのですから」

 出立時と同じ光景。差し出された手を握り、酸素の重みを感じながら立ち上がった。厚いグローブ越しに温度など感じようもない。しかし保温性に優れた黒い生地の下には、あの手があるはずだった。クレマチスの花弁添ゆる氷雪めいた、白く冷たい手。掌の荒れは滑落時に斜面へしがみつこうとした時にできる擦り傷に似ていたと、今更のように思った。

 

 岩塊の基部では、既にローズとオリバーが緊張した空気を纏い待っていた。これが真っ当な反応だと思い出し、憧れの舞台に心浮き立っている自分と慣れ切ってしまっているサンディが突然おかしなものに見えてくる。気がつかぬ内に道から外れ、知らないリッジへ迷い出たところで目的の尾根を彼岸に見るような思い。しかしサンディは気にも留めないようで、落ち着き払って異端の口火を切った。

「さて、どう登りますか」

 ローズたちの視線がエリオットへ流れたので、自然と全員の目が集まった。エリオットもマスクを浮かせ、グローブで膨れた手で課題を指す。

「まずそこの出っ張りに足を掛けて、一番下の梯子へ。登り切ってから、メインの手掛かりはあの……」

 咳をしながら説明するラインを目で追い、ローズとオリバーも頷いている。時間の余裕はある代わりに視界が悪い中での、堅実なルート設定。ドラマチックな歴史の一幕を再現、とはいかないが、舞台そのものが十分にトラジェディーの要素を備えているのだ。素直に実演してみせる義理は無い。サンディも一緒にてっぺんまでの道筋をなぞり、最後にひとつ頷いた。

「うん、いいでしょう。そのルートで問題なく越えられるはずです、丁寧にやれば大丈夫ですよ。後続はまだまだ来ませんから、落ち着いて登ってください」

「……サンディ?」

 知らず眉根が寄った。背後に立つ二人からも、酸素が黙らせているだけの困惑した空気を感じる。恐怖か興奮か、初めて挑む高峰を遥かに見上げる時によく似た緊張が、蛇のように背筋を這い上がってきていた。

 とうとうその冷たい尾が首に絡みついた時、不意にサンディが見下ろしてきた。その瞬間、エリオットは朝の寒気とはまた違う、つい身の竦むような恐怖の冷水を浴びせられた。

「ねえ、あなたの追っている人たちが最後に負った荷の重さをご存知ですか」

「外套や小物を込みで、二十……五ポンド以下、だったと思うけど」

「では僕が今、あなたたちの分の酸素を三本と、ウェアや他の道具を背負って少し重みが勝るくらいですね。道具も身体も良くなっている分、ハンデは必要でしょう」

 サンディはにっこり微笑むと、数フィート離れた別の基部へとすたすた歩いて行った。

「それでは皆さん、上でお会いしましょう!」

 明朗な声と共に、青いフードがぱっと落ちた。

 サンディは酸素装置のマスクを外し、アイスアックスをリーシュに括って腰へ流し、カラビナを結わえたザイルを一纏めにして片付けていた。一つでも間違いがあれば命を落とすこの難所で、万が一と言うには可能性の高い死から身を守り得るものを、彼は全て使えないようにしていた。仲間の為の予備ボンベを詰めたザックと、ただの荷物となった酸素装置を背負い、ハンデばかりの姿で死の崖を見上げる。痛む喉が引き攣った。

「――何、を」

「いい年だ、雪が多い。こんなに白くて、登りやすくて、女神の頂が手招きしているようだ……まるで一九二四年六月にそっくりじゃないか」

 その眼にひたと見据えられ、背筋が伸びた。ああ、宙の色だ。高みに登り詰めてしまった者だけが仰ぐことの叶う、空を抜けて見えてしまった宙が今、丸いふたつの穴から覗いていた。

「オブザベーション。先駆者の助けなしに挑むならどこを登る?」

 いつか聞いた、教師のような声色。

 梯子とボルトを無いものと仮定――違う、敢えて避けねばならない。それでもルートは見える。確かにこの雪なら登るのが不可能な壁ではない、サンディなら可能かもしれない。だが。

 ――セカンドステップ、バリエーションルート、無酸素、一切のビレイなし。

 アルパインルートでありながら、実質フリーソロをしようとでもいうかのような命懸けの条件たち。冗談だと思いたかった。

「おい、ふざけるな」

 こわばった声に、サンディは束の間、意外そうに目を見開いた。そしてすぐ――破顔したのか、それとも顔をしかめたのか、エリオットには分からなかった。

「とんでもない! 大真面目ですよ僕は。ずっと、ね」

 ただそう答えた声だけは、確かにいつもの彼だった。

 サンディは元気よく手を振ると、そのまま張り出した岩を握り身体を引き上げた。その大きく伸ばした腕に触れ、飛行帽が柔らかく凹むのが見えてしまった。

「お前っ、メットが入ってるなんて嘘吐いたな!」

「マロリーに倣うなら被っても良いが、サンディは違ったからな」

 サンディは何でもないことのように言い、次の出っ張りへと手を伸ばした。

 セカンドステップだって、好条件なら梯子やビレイなしの登攀も可能だ――彼は確かに、そう言っていた。自分なら出来るとも。だがまさか、重荷を負って無酸素で実行するなんて。

 力強い脚は爪先を蹴り込み、更なる高みへしなやかに這っていく。冬眠を知らぬ蛇の滑らかさで、いつになく速いペースだった。とても綺麗で、不思議なほどマロリーを思わせ、しかし奇妙な躊躇があり、舞に喩えるにはぎこちないクライミング。レガート、グラツィオーソ、カンタービレ……時折手癖が出る。エネルジコ、リゾルート……ああでも、コーダにラメンタービレの指示が無い保証がどこにあろう? たとえ彼が楽に呼吸する術を心得ていたとしても、きっと無理をしている。此処はどうしようもなく冷たい場所だ。嫌でも知っているのだ、この辺りには凍りついた遺体がいくらでもあって、踏み入った以上はいつその仲間入りをしてもおかしくないのだと。見ていられなかった。

 やめて、と聞こえた細い声に背を押されるように、エリオットはふらりと一歩踏み出していた。調子良く登る命知らずの初手と同じように冷たい岩壁に触れ、恐る恐る見上げる。眼球の奥が引き攣ったその時には、絶壁を泳ぐ青い背へ叫んでいた。

「そんなこと、マロリーが許さない」

「――何だって」

 澄み切った空気は恐ろしいほどに透った。透明に降る声は刺すようで、肩越しに向けられた視線は竦み上がるほど冷たかった。しかし怖気づいた心は今、それ以上の衝動に突き動かされていた。

「マロリーは危険な登山を、危険なクライミングを冒す人間を憎んでいた! 知らないとは言わせない!」

 瞬間、フードの内で舌打ちされたような気がした。下からでは見えないホールドに指をかけ、身体を大きく捻った藍色の眼がふたつ、ぞっとするような星の海に凛と燃えていた。

「君が彼の何を知っているというんだ。そっちこそ知った風な口をきくな」

 ゆらり、と一瞬その身体が宙に浮いたように見えた――幽霊のように。しかし瞬きする間に、彼は一気に高い足場を捉え、安定した姿勢を取り戻しているのだった。鋭い爪は今、軽やかな点と点で凍った岩を渡ってゆく。

 エリオットは、自身から伸びた震える指先が果敢にも次の一手を辿ろうとするのを、他人事のように視界の端へ収めていた。人間の手は数秒宙をさまよい……そしてとうとう、情けなさと安堵と共に梯子を握った。どうしても駄目だった。自信とか、勇気とかいう問題ではない。まっとうな正気を備えた人間の出来ることではないという話だ。

 肺の底まで吸ってさえ酸素は足りないのに、息はもうほとんど止まりそうだった。鼓膜の内でノイズが膨れ、どこまでも膨れ、それがある一点に達した瞬間、死に際の星が潮の如く引くような沈黙。真っ黒い影を落としてぎらぎら照る月はどこにも見えないのに、ライトを浴びた雪だけはちらちらと、いやに鋭く光っていた。その神経質な瞬きは全て帆立のような卑しい好奇心を詰めた眼球で、今晩の演目を見届けようと、じいっと無機的な注目を注いでいた。花道を、そして舞台を食い入るように見つめる無機質な眼、眼、眼。環視の中、青い人影は更に右手へトラバースしようと腕を伸ばした。

「やめろ」夜気に凍る喉から、とうとう制止が溢れた。冷たい手が選んだ道は美しいが、最上部は酷い火傷を負った白肌のようだった。「そっちは無理だ」

 サンディはもう振り返ることも無く、ただあのレイスのように透明な声だけが遠く降ってきた。

「俺なら問題ない」

 そう言われ、エリオットは後に思えば愚かにも黙り込んでしまった。無理だと感じたことが、ちょっとした魔法にかけられたような気の迷いに思えたのだ。他ならぬ彼自身が問題ないと言っているのだ。サンディは滑落などというミスは犯さない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)という信頼は、無意識に楽譜の最終頁から目を逸らさせてしまった。

 ハーケンを打ち込む音が足元から響き、一瞬我にかえった。気がつけば、自らは梯子の上端に登り詰めていた。強張った手で尖った岩を握り、バンドを一歩、右手へトラバースする。腰に絡み軽く引く感触に、何故自分はザイルなど結ばれているのだろうと、不思議な思いさえした。目の前に唯ひとり、人の形をしたまったくの自由がいるのに。そんな感傷の誤りに気がつけぬほど、エリオットの脳はとうに酸欠と熱にやられてしまっていたのだろう。

 もはや彼の意識は雪に潜む無数の眼のひとつ、違いといえばただ温かな血を巡らせていることだけだった。重荷を負ってなお軽やかなあの人がよく見える場所へ行きたい。この神懸かり的なクライミングを見届けたい。その一心は、あっという間にエリオットを夢見心地へ引き戻していた。強い手に肩口を掴まれなければ、そのままバンドの端までふらふら進んで、隣の尖塔に囲われたレッジにまで足を掛けていたに違いない。

 掴まれた肩を更に強く引かれ、がくんと首が上向く。左手の切れた宙の中に、モノクロームの伝説を見たと思った。

「どうして」

 間もなく登り詰めようとする影に問うて張る声の震えには、今や恐怖を上回ろうとする興奮の色が滲んでいた。

「どうしてそこまでして登るんだ、お前は」

「俺は――僕は」

 最後の一手を掛けようと伸ばす指が、凍った岩に触れる。確かに頂を掴んだサンディは、小さく首を傾け見下ろした。

 視線が交錯する一瞬、透ける宙の色は、故国の春空に似て見えた。

「僕は、証明しなければならない。信じてもらうには……この話を信じさせるには、僕が、あの人を――」

 

 

ぱきんっ

 

 

 と小気味よい音が、聞こえるはずは無かった。

 次の瞬間、彼が力を込めて握った氷が岩肌から剥がれる様が。

 ふわりと夜気を孕んだウィンドブレーカーの膨れる様が、止まるほどゆっくり流れて見えた。

 そしてすべての音が消えた次の瞬間、釣瓶落としもかくやとばかり――悲劇のフィルムは一気に回り始めた。

 嘘のように落ちていく身体が擦れ違う一瞬。

 星へ伸ばされた腕の下、表情など見えるはずもなく。

 岩壁から離れた身体は重力に引かれ、悲鳴を上げることも無く勢いを増していく。

 飛び出した岩にぶつかった右脚が、体勢を崩した。

 下になった頭が、尖った岩に打ちつけられた。

 零れた緋と金髪が、妙に鮮やかに見えた気がした。

 脱げた帽子を追い抜き、力の抜けた手が宙にひらと踊り、

 跳ねた肩口が切られ、ザックが外れる。

 眼を庇った右腕の肉を削がれ、腹を裂かれながら基部へ――しかし勢いづいた身体はまだ止まらない。

 跳ねた身はまだ転げ落ちて――墜ちて――――……

 ひしゃげた彗星は六〇に加えて更に一六、七フィートを転がり、崖のような雪面に生えた岩へ叩きつけられてようやく止まった。

 

 誰一人、声を発せなかった。風さえも遠く凍りついた時間の先に、こおん――と虚ろな音はよく響いた。

 ハーケンを打ったエリオットは梯子も無視して、我知らず滑るように岩壁を下っていた。心許ない岩にザイルのループを引っ掛け命綱に、震える膝でスリップ跡を辿る。

 希望を抱いていたとは言わない。あの高さから速度を殺すものもメットも無しに、飛行帽、外れたザック、くたびれたダウン、そんなものが落下者の命を守るだなんて、期待するだけ馬鹿らしかった。若き天才は、謎を謎として抱いたまま、永遠に沈黙してしまったのだ。

「サンディ」

 痛ましく投げ出された身体の傍らへ屈み込んだ。嗚呼、今初めてその白い貌を見て――息を呑んだ。

 その驚愕は、他の全てを意識から消し去った。

 有り得ない。除外した不可能がそこに在った。

 認めざるを得なかった、この物語は――

「エリオット、ちょいと離れてろ」

 ぐいと肩を引く手で、エリオットは我に返った。振り仰げば、フードの下から険しい目で、睨むように見下ろすオリバーが立っていた。

「ノル、サンディは……彼は」

「考えるな、上でローズと大人しくしていろ」

 割り込むように屈み込んだオリバーは、ヒステリーでも起こしそうな興奮に光る眼と青い顔をしたエリオットを、緩い支点を確保するしっかり者の方へと強引に押しやった。それでも居座ろうとするのを、医学の基礎も分からない奴は邪魔だと一喝してようやく追い払った。

 この神経質な後輩は、強引にでも遠ざけるしかなかった。彼、いや彼らに医学の心得が無いのは幸運なことだったと、パーティー唯一の医者は横たわる身体を睨みながら思う。

 遠目にもおかしな光景だった。後輩たちは恐らく、潰れひしゃげ、モノクロの大地に血をぶちまけた悲惨な墜落屍体と見るだろう。しかし医者の目から――そしてきな臭い土地で随分なものも見てきた目から――言わせてもらえば、それは明らかに出血量が少なかった。それに、夜闇で色味がはっきりしないことを加味しても、明らかにその血は黒すぎる。生きた人間の頭蓋から、こんなにも暗い血が出るものか。

 やはり、まともな人間ではない。あのクライミングだって、最後に失敗したとはいえ凡そ化物でなければ出来ない曲芸だ。確信を持って、いつでもアックスを振れるようグリップを握り締め、慎重にしゃがみ込む。浮かぶ可能性は二つ。人間のような姿をした極端に血の量が少ない「何か」か、元々死んでいた人間らしきものか、だ。普通の人間なら鼻で笑うような可能性も、今や不可能と除外することなど出来なかった。

 呼吸と脈の停止より、右の腕と脚がおかしな方向へ折れ曲がっていることに少しだけ安心してしまった。痛みを伴う心地悪さに蓋をして、ざっと状態を見ていく。頬の裂傷は異常だが、今は然程問題ではない。額にも裂傷、右側頭部は頭蓋陥没。頸椎骨折。右大腿骨・腓骨、右上腕骨骨折。右肘脱臼。手根は複雑骨折。右第二・三指欠損。肋多数骨折、確実に内臓破裂を起こしている。その他、比較的傷の少ない左半身も含め裂傷や擦過傷は数知れず。そこまで確認して、まだ柔らかな身体を軽く引っ繰り返す。折れた頸の上に手を添えて、心を殺し傾ける。後頭部――

「――ッ」

 口を突こうとした叫び声をぎりぎりで飲み込んだ。

 大きな古疵がぱっくりと口を開けていた。血に汚れた金髪の中で砕け割れている頭蓋骨は、しかし前頭の傷と違って新たな血潮を流してはいない。赤黒く固まった古い血がこびりつく雪より白い骨の中、抉れるように崩れ傷ついた後頭葉が、百年前からそう在ったかのように収まっているその様は、まるで廃墟に忘れ去られた硝子の標本瓶を覗くかのような感覚を齎した。

 この異常な屍体を氷河へ突き飛ばして逃げたくなるのを堪え、検死と信じたい行為を続ける。確かに一ヶ月以上を共にしてきた。笑い合い、腹を探りながらも大いに助けられ、これまで害というほどの害など成していない。だがアンザイレンした仲間に対し薄情と思われようとも、常識から逸脱した数々の状況はあまりにも恐ろしかった。こんなにも寒いのに冷や汗が止まらない。

 ――もしもこの屍体が、ひとつでも生命の兆候を見せたなら。

 恐ろしい傷を下に寝かせ、そっと瞼を押し上げた。

 ライトが照らす胡乱な宙の中 きゅ、と瞳孔が縮んだ。

 

「死んでいる、見ての通りさ。不幸中の幸いかね、即死だったろう。全身折れたり潰れたりしているから、運ぶにもこっちの骨が折れるぞ」

 アックスを逆手に戻ってきたオリバーは、言葉も交わさず立ち尽くしていたらしい二人に問うた。

「どうする」

「おろそう」

 即答したのはローズだった。一番頂上に執着していたはずの彼女の答えに、何食わぬ顔でザイルを回収する手が一瞬止まった。

「こんな好天、次はいつ巡ってくるか分からないぞ。寄り道はしたが、今から続きを登れば酸素も足りる」

「分かってる。これで登頂できなかったら、私はきっと心底悔しいでしょうね。もしかしたら後悔するかも」

 身勝手だよね、と優しい彼女は微かな苦笑いを浮かべた。折れた四肢を投げ出したままの墜落屍体を痛ましい思いで見やり、それでも、と続ける。

「それでも、サンディをここへ置いていくのは……私は、とてもつらい。戻ってきて、まだ今のままいるのなら良いかもしれないけど、風に転がされて消えたり、下界に下りてからあの姿が晒されたりでもしてみなさい。私はずっと選択を悔やむし、頂上の蒼さを思う度に歓びなんて霞むくらいにやり直したくなるわ。友人をこのまま置いて行きたくはない」

 事前に自分が死んだら置いて行けと言われていたのなら、選択はまた変わっていたのかもしれないと思う。言わなかっただけで、サンディ自身その前提でいたのかもしれないとも考える――否、八〇〇〇メートル峰が連なるこの山域に慣れていると言うからには、万が一の際に引き揚げることを期待している方が不自然だ。決して都合よく考えようとしているわけではなく、ただ現実的な思考パターンの可能性だ。そもそもこの領域に遺体が放置されているのは、引き上げが極端に困難で、下界へ帰さんとする試みがしばしば新たな屍体を増やすせいなのだから。

 ローズは死後の世界や幽霊の類は信じていない。此処にサンディを置いて行ったからといって、彼の魂や恨みがこうこうといったことは考えていない。それでも尚、身を切ってでもすぐに引き揚げたいと思うのは、もっと現実的な親愛の情だからだった。

「それに彼ね、前に私のことを姉さんみたいに親切と言っていたのよ。そんなこと言われたら、尚更こんなところへ置き去りにはできないじゃない。家族に繋がるものを出されたら、ねえ」

「実の弟ならまだしもだ。忘れていないだろう、俺たちはこいつと出会ってからまだ二ヶ月も経っていない」

「分かってるわ。どうしたのよ、そんな意地悪な言い方して……今朝のメモといい、ちょっとおかしいわよ」

 訝しむローズに、オリバーはいらいらと首を振った。

「おかしいのはお前だ。頼むからここに来てぶれないでくれ、ローズ。頂上をこんな間近にして、勝手な行動をした新入りを下ろすためにチャンスをふいにするのか?」

 初めて見るオリバーの掴みかからんばかりの様子にローズはいささか面食らったが、意見を翻すこともなければ怯みもしなかった。

「登頂を諦めたわけじゃないの。確かに頂上は近いけど、下るだけならキャンプだって遠くはないでしょう。ここまでサンディの助けもあって順調だった、物資にも体力にも余裕はある。チャンスはまた巡ってくる。これは早登りゲームじゃないんだから、それでいいじゃない」

「だがもう五月も後半だ」

「ご親切にどうも、カレンダーなら間に合ってますけど」徐々にローズまでもが微かに苛立ちの色を見せ始め、咳込みながらも強い調子で続けた。

「ねえ、そんなにあの子を下ろしたくないのは〝気味が悪い〟から? じゃあ教えてあげる、サンディがゴラクを殺した理由! 彼、クライミングパートナーをこの山で亡くしているんですって。その遺体がゴラクに荒らされていると聞いてからどうしても我慢がならないって、すごく後悔しているみたいだった。デスゾーンで遺体を回収できないのは彼の責任じゃないのに、自分がパートナーの亡骸を守らないといけなかったと思っているんでしょうね。いくつも隠し事はしているけど優しい子なのよ、分かるでしょう……そんな彼自身を、絶対ゴラクの嘴に晒したくない」

 オリバーは迷った。屍体の異常さを、昨晩のやり取りの全てを話してしまおうか?

 しかしローズは精々話半分にしか聞くまい。全てを信じたところで、これから先へ進むのに、仲間が死んだ今以上に酷い動揺を齎したくはなかった。手札が悪すぎる。説得は失敗していた。

「……お前は?」

 押し黙ったまま立ち尽くしているもう一人に水を向けると、じっと横たわる屍体を見つめていた視線がやっとオリバーに向いた。思いがけず据わった目に抱いた嫌な予感は、いつものように的中する。

「俺も……置いて行きたくない」

 重なる返答に、内心舌打ちした。悲惨な事故を見たせいだろうか、エリオットの顔色はローズよりも青く表情も硬いが、声色に滲む意思もまた固いようだった。

「意外だな。此処がどこだか分かっているんだろうな、キャプテン」

「ああ。自己責任の世界だ、しかもあんな危険なクライミングを、パーティーメンバーにすら黙って決行して落ちている。それで死んだなら自業自得だ、俺たちが無理を押しておろすことは無いと思う……」

 エリオットは己の冷静さを証明しようとでもいう風に、サンディを置いて行く言い訳のように聞こえる言葉を並べ、間違いないと噛みしめる。

 感情的に、感傷的になりやすい自覚があるからこそ、大きな決断を下すときはロジカルに思考するよう努め、時に冷徹な判断をしなければならないことも分かっていた。このパーティーなら「デスゾーンで死んだ者は切り捨てるべきだ」。何もこの先何年、何十年と野晒しにすると決めたわけではない。まだ息があるならまだしも、死人を今すぐ下ろすために、これ以上ないチャンスを逃し、代わりに犠牲者を増やすリスクを負うことは無いという話だ。たとえ自分の最大の目的が登頂を果たすことではなかったとしても、登頂がパーティーの目標に含まれ、生きて帰る気がある以上は。そもそも、帰路でこの屍体が姿を消している可能性の方が低いだろう。

 一番登頂に執心しているローズは、真っ先にサンディを下ろす決断を下した。しかしオリバーは真っ当に断固反対派。二人の意見が割れている以上、最初の夜のようにはいかない。パーティーの行動はエリオットの投票で決まる。エリオットが反対すれば、ローズも今生きている者を必要以上の危険に曝してまで、危険極まりない屍体の引き揚げを強行することは無いだろう。

 今は、死亡者は此処へ置いて行くべきだと判断した。

 ……そして、全てを打ち消すようにかぶりを振った。

「でも、だめなんだ。サンディは(・・・・・)……」

 ふと、口を噤んだ。

 ざり、と岩を引っ掻く音がしたような――背後から。

 後続のクライマーが追いついてきたのだろうか。いいや違う、今エリオットが背にしているのは奈落の淵だ。振り返って見たものは、悪夢かB級ホラー映画のそれだった。

 先の千切れた指が蠢く。右腕を動かそうとして、痙攣を起こしたように震えるにとどまる。その代わり、奇跡的に折れていなかった左腕を岩に突いた。ゆっくり上半身が持ち上がる動きは、ぐらり、ゆらりと軸の定まりなく、それも当然のことで、肋骨が滅茶苦茶に折れている胴を、辛うじて支える背骨は頸部で折れている。ぐちゃぐちゃに破裂した内臓を詰めた上半身に、ぶらんと背中側へ倒れ込んだ頭が重そうに引きずり上げられて背を叩いていた。なんとか上半身を安定させると、今度は血塗れの左腕がふらふらと、喘ぐように宙をかいた。赤い指は手探りに、折れた頸の先で揺れる潰れた林檎を無造作に掴み、広い肩の間へ載せ、がくんっと揺れた拍子に喉に詰まった血の塊を吐き出した。

 それは恐らく立ち上がろうとして、しかし砕けた身体ではかなわずべしゃりと倒れ込んだ。そして伏せたまま、緩慢な動作で斜面へ左手を伸ばし、山肌を掴むと、ずる、ずるり、と上半身を引き上げようとしていた……稜線へ登ろうとしている?

 眼下の光景に声も出せぬまま、息すらつけぬまま一歩後退った時、足元で雪の塊がぼろりと崩れた。勾配を転げる雪塊の核氷は弾みをつけ、血に塗れた額をコツンと打った。屍体の動きが一瞬止まる。そしてのろのろと上半身をもたげ、死んだはずの――死んでいるはずのサンディが、凍った睫毛を重たそうに震わせ、ゆっくりと蒼い瞼を持ち上げると、ぼんやりした眼差しを向けてきた。

 何が起こったのか理解できていないのだろうか。全身の傷を痛がる気配すらもなく座り込み、ただ安定の悪い首を抑えながら立ち尽くす大人たちを見上げる姿は、寝起きの子供、或いは屍体のような無防備さだった。

 

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「――あ、」

 不思議そうに三人を見上げる顔が、段々とこわばっていく。焦点を結んだ眼が、初めて心の底からの動揺を露わにした。

「あ、はは……おどろきましたか? なーんて……」

 言ってる場合じゃありませんよねえ、と震える声で呟いて、笑おうとした唇は泣きそうに引きつり歪むだけだった。

 サンディは、稜線から見下ろす三対の目に追い詰められているかのように後退ろうとした。潰れた脚が捻られる度に、落ちそうな頭がぐらぐら揺れて、かすれた声が零れ落ちていく。

「ちがう……ちがう、こんなはずない、こんなはずじゃない! だって、俺が落ちるわけがない! 俺は落ちないんだ(・・・・・・・・)! また僕が落ちて……ちがうんだ、これは……こんなはずじゃ……しんじて……ただ、僕は……」

 混乱に見開かれた眼は、やがて冷たすぎる沈黙に耐えかねたように、微かに伏せられた。

 知らず、一歩踏み出していた。

 思わず、左手を伸ばしていた。

 出会ったあの日と同じだった。ナイフもアックスも握っていない手を、震えながら差し出していた。

 しかし、歩み寄らんとする足音と星から落ちる影は、今宵はただサンディをより錯乱させ、おびやかすばかりらしかった。まるで今から何時ぞやの鴉よろしく、崩れた脳髄をもう一度丁寧に叩き潰されようとでもしているかのように、サンディは到底動けるようには見えない身体で必死に距離を取ろうとし、折れた頸をいやだと揺らした。

「はは……どうしよう……」

 血をぱたぱたと滴らせる荒れた唇が、譫言のようにその名を呟く。

「ねえどうしましょう、困ったなあ、ねえ、ジョージ――」

 途方に暮れた眼が、頂の西を仰いだ。

 次の瞬間、がくんっと上半身が後ろへと倒れ込んだ。

 引きずった腕の崩した赤黒い雪諸共、その身はより暗い方へと滑り落ちていく。

 ひとりぼっちで放り出された、子供の顔をして。

 岩陰の吹き溜まり、厚い雪の中に半ば埋もれ止まった屍体は、今度こそ動き出す気配など無かった。

 無言のうちにアイスペグを打ち直したエリオットの肩を、大きな手が掴んだ。

「まだ、あいつをキャンプへ連れ帰ると?」

「……うん。まだ生きてる、きっと」

 鉄臭い道へ降りるためのザイルを繰る手を止めないエリオットの肩を揺さぶり、オリバーは低く凄んだ。

「これが約束か? 日没まで待って、これ以上何があると?」

「ノル」

「分からないとは言わせないぞ。まともな人間じゃない。信じたくないかもしれないが、あいつは……化物だ」

「それでもだ。頼む、オリバー。俺が此処に来たのは……」

 喉が詰まったように言い淀む。汚れた雪の上へ力なく投げ出された手を取れるなら、今から自分のすることが禁忌の黄泉下りでも構わなかった。

「覚えてるだろ、あいつは俺を助けるためにクレバスの中へ飛び込んできた。もう二度と仲間を滑落で失うのは嫌だって、パニック起こしかけていて……そりゃあそうだ、サンディ(・・・・)なら最悪のトラウマになっているだろうさ! 俺はサンディを滑落で失うのも嫌だ。絶対にそれだけは、嫌だ」

 何を口走っているのか分からなくなってきて、薄い薄い空気を肺の奥まで吸い込む。喉の奥がツンと痛むのは冷気のせいなのか、それとも今自分は泣いているのか、エリオットにはわからなかった。

「なあ、頼むよ。もしも俺が死にかけている時にあんたが俺を助けてくれるというのなら、いまサンディも助けさせてくれ。そのせいでこの後何か酷い目に遭うのなら、俺のことは置いて行っていいから」

 その必死の頼みは、オリバーには世迷言のようにも思えた。青臭い思い詰め方に深い溜息を吐いて、隣に厳しい眼差しをじろりと向けた。

「ローズ」

「ごめん、ノル。医師はあなたしかいない。死んだ人を弔うのなら、私たちは多分同じくらいのことができるけど、動いて喋る人の手当てはそうじゃないから」

 だからお願い、と冷静そうに見える彼女も重ねた。しかしそうは言っても、岩陰に斃れているものは、動いて喋った点以外どう見ても屍体でしかないのだ。医者(オリバー))に出来るのはせいぜい出来の悪いエンバーミング程度だろうと、彼自身思った。

「……分かったよ」

 しかし医者の沈黙は、存外短かった。ぱっと上がった緑と灰の眼差しに、オリバーは苦笑いを浮かべそうになる口元を不機嫌そうに歪めていた。

「生きている人間は手当てするもんだ。動いて喋った以上、腹括るさ。お前らに任せて、俺だけ離脱するわけにもいかない。二対一より三対一の方がマシだろ」

 後輩たちは、ほっと溜息を吐いて顔を見合わせた。そして次の瞬間には降下を始めようとするエリオットの支点を補強しながら、ふとローズが振り返った。

「私たちが帰らなかったら夢見が悪くなる、とは言わないんだ」

 オリバーは彼女を一睨みし、次いで奈落へ急斜面を一蹴り、トンと下った赤い姿を見やった。

「その代わりエリオット、お前の隠し事は全部話すと約束しろ。でなけりゃ俺はおっかなくて、化物の手当ては出来ない」

「分かった。……ありがとう、ノル」

 顏も上げずに声だけ返し、クライマーは更に数フィートを急ぎ飛び降りていった。

 半ば脅し、妥協してなお条件こそつけたものの、正直なところオリバーも毒気の芯を抜かれてしまっていた。他二人のどちらかが難色を示したならともかく、多数決に運命を任せても悪くないと思う自分がいて内心呆れてしまう。

 サンディの錯乱は演技ではあるまい。混乱しきった中で、あの青年は自分たちに危害を加える意図をにおわせることを一言たりとも口にせず、ただただ己の失態と、自分たちの反応に狼狽しきりな様子だった。

 それに、彼が途方に暮れた眼で呟いた名にはオリバーも覚えがあった。エリオットが何度か話していた登山史上最大の謎と照らし合わせれば、サンディが悪意を抱いている可能性は、オリバーが危惧するほどには高くないのかもしれなかった。

 少しでも早く引き上げようと、震える手で救助用のザイルとカラビナを展開しようとしている姿に、彼はとうとうリーダー権限を使わなかったなと思う。ローズに滑車を組んでおくよう頼むと自らも蜘蛛の糸を掴み、オリバーも同じ道を下った。

「どいてろ、邪魔だ」

 落ち着いているとは言えない素人を再び押しのけ、医者は不自然に出血量の少ない傷の処置に取り掛からんと試みる。全く何から手をつけたら良いものか、死人の手当てなど初めてのことだった。潰れた頭部を覆い、折れた頸と腕脚、潰れた腹部を支え、少しでも負荷の掛からぬよう運ぶことを考えるべきだろうか。先のエリオットを放置していたら、その腕の中で頭が捥げ落ちていた可能性さえあったほどに傷んだ屍体だ。入るものならザックの中に押し込めてしまいたいくらいだと、半ば自棄を起こした回路で思考巡らせる医者の隣、所在なげにおろおろしているエリオットを、ローズが優しく呼んだ。

「エリオット、怪我人は休ませるものよ。少なくとも喋る元気が出るまではね」

 そして稜線から、小さなカラビナに何かを結わえてザイルを伝い落とさせた。見てみれば、それは彼女がいつも応急手当て用にポケットに入れている、個包装になったガーゼパッドだった。

「今のあなたに果たせる役割は、私と一緒に他の登山者が追いついてくる前にキャンプⅢ……ううん、二六〇〇〇フィートより下まで引き返して、岩陰にでも快適なテントを張りなおすことだと思うけど、どう?」

 そう言って彼女は、オリバーが稜線に置いて行ったザックを抱えてみせた。

 なるほど、三人は他の登山者が登ってくる前に、意識不明の成人男性を担いでファーストステップを下りなければならなかった。預かりものを医者へ渡して、エリオットは一足先に、星に近い稜線へと登り返した。

 サンディのザイルを拝借し、赤と黄のウィンドブレーカーはファーストステップの整備に足を急がせた。いつの間にか風もひたりと止み、頂を包むは金属的沈黙。ヒマラヤの夜明けはまだ遠い。

 


 

「僕は高度が少しつらい時でも僕自身が立派にやってのけることを願っている」

 

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おまけ

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