CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

STARGAZER: 4th Stage

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これの続き。

 


 

4th stage: The long afternoon of Himalaya

 

"Irvine, our blue-eyed boy from Oxford, is much younger than any of us, and is really a very good sort, neither bumptious by virtue of his "blue" nor squashed by the age of the rest of us."

  ──Howard Somervell, 1924

 

 

 二〇二四年五月七日

 

 テントから顔を出すと、起き抜けの目に鋭く冴えた冷気が刺さった。ひりひりする目を擦りながら見渡せば、天上に広がるは万年雪に閉ざされた山嶺が噛む黒い快晴。夜半の嵐が嘘のような凪に浮く明けの明星が、仄青く白んでいく東の際に輝いている。朝焼けは悪天候の前兆というが、西も同様に澄んだ色彩をたたえていた。五日間の停滞を経て、久しぶりの山行日和になりそうだった。この陽が沈んだ夜には、もっと高い場所で眠ることになるだろう。

 一日の始まりが全員にとって気持ちの良いものだったことは間違いない。しかしこの日を振り返るに当たって、四人はそれぞれに心の内に引っ掛かる小骨のような居住まいの悪さを感じるだろう。パーティーにとって、長い山行の中でも指折りの厄日だった。それさえも全てが終わってから振り返れば平穏な事件だったことは、正気で考えれば恐ろしいことである。

 

  ///

 

 ローズにとって、午前のうすら寒い思いを抱くこの出来事は、この先も煙と微かな肉の焦げる臭いと共に苦い思いを齎すものになりそうだ。思いがけず嫌な過去を連想させるその光景が、弟を思わせる人物の手によって引き起こされたのは、全くの偶然であり無関係なこととはいえ、酷な巡り合わせではあったのかもしれない。

 

 一行は早朝に出立し、あっという間に白さを増していく陽の中を進んでいた。最初の一マイルは細いトレースがついていたが、その先を掻き消すほどに降り積もった雪は深く柔らかく、陽が高くなるにつれゆるんで、嫌なベタ雪に変わっていく。当然きついラッセルをしながら登る羽目になった。今朝は一段とサンディの元気が良く、相変わらず無尽蔵な体力を備えているとしか思えない彼が進んで先頭を引き受けた結果、四人は同じキャンプで眠ったチームが追いついてくることもないまま標高を上げていた。

 雪を掻き分けながら進んでいるとは思えない、順調な歩みを二時間ほど続けた頃だろうか。まだまだ行けるとスコップを振り回すサンディに組みつくようにして、それでも少し休めと男性陣が交代を説得していた。男子校のような騒ぎは、通りすがりの人間が目にすれば愉快な意地の張り合いと映るのかもしれない。深く考えなければ確かにその通りだった。ローズは敢えて思考を止め、微笑ましい思いで見守りながらトレースを辿る。女だからと怠けはしないし彼らも甘やかさない。彼女がその騒ぎに加わらないのは、今背負っている荷を譲るには面倒な結わえ方をしているというだけのことだった。

 傍観に徹していたとはいえ、気を取られ注意が疎かになっていたのだろう。彼らの声に重なるように、足元でガツンと嫌な音を立てた。アイゼンの歯が何か固く滑るものを踏み、軽くスリップしたのだ。転倒こそしなかったが、ラッセルで浅くなった雪に潜む岩の先端へ金属を擦りつけるような、硬質な不快感が足裏を伝う。嫌悪感にサングラスとバラクラバの下で顔をしかめるが、さて不快な障害物は一体何かと雪を払ってみれば、それは雪の白さの中で不思議に視線を引くような、それと同時に目を逸らしたくなるような、奇妙な銀色に陽を照り返す「何か」だった。

「ローズ、大丈夫ですか」

「ありがとう。埋もれていたものに躓いちゃっただけよ、多分ゴミかな」

 説得され、渋々ながら先頭をエリオットに譲ったサンディが、彼女のスリップに気がついたらしい。様子を見に引き返してくる青い姿に答えながら、スピッツェにつつかれても傷つく気配のないそれを拾い上げてみると、どうやら手で取り回す何かしらの道具のようだった。高所の強い陽を照り返してギラギラ光る素材は重みがあり、間違いなく金属ではあるのだが、磨き上げたブリキともステンレスとも銀細工ともつかない。重さからして大部分がチタンやアルミで作られていることは無さそうだ。未だかつて見たことのない形をしており、何に使うものか目的も定かではない。先端らしい部分は何やら貝殻のような形状をしているが、玩具にしては随分と重厚で、外観こそシンプルだが中身は複雑な機構が仕込まれているようだった。

「懐中電灯……じゃないか、何これ?」

 不思議なものを掌で転がしながら、自然と首が傾いだ。これ以上関わりたくないと小声にごねる本能を抑え、くるりと引っ繰り返してみる。そういえば湿度の高い雪の中に埋もれていたのに、取り上げただけでほろほろと全ての雪片が落ちてしまったのも不思議だ。幾何学的な曲線の金属板が描く紋様と、眩暈を起こしそうな流線形のフォルムの成せる業だろうか。

 それにしても分からない。ここまで重量のある余分な荷を持ち込んでくる酔狂はあまりいないだろうが、一体これは何に使う道具なのだろうか。

濾過器? 違う、ここは銃把みたい。まさか銃のレプリカだったりして……)

「何だったんですか? 缶でも落ちて――あっ」

 厚いグローブにもたつきながら観察していると、小さく声を上げたサンディがぱっと駆け寄ってきた。重いザックと疲れているであろう身体で、自ら刻んだトレースを散らし、尋常ならざる様子で迫り来る。そして呆気にとられるローズの手から問題のオブジェクトを取り上げると、氷河へ切れ落ちた急斜面の彼方へと勢いつけて投げ込んでしまった。

「あっ、ちょっと⁉ もっと見たかったのに!」

 慌てて覗き込むが、ザックを背負ったままとはいえ、その強肩に全力で投げられた小さな物体を追えるはずなどなかった。

 つい非難を込めて振り返ったが、サンディは表情が見えずとも分かる緊張した様子で崖下を見つめていた。その姿に、そういえば彼が理由なく無礼を働くわけ無いと思い直す。薄い酸素でひとつ深呼吸し、高い頭を仰いだ。

「説明してくれるわね?」

「危なかったものですから、つい。手荒なことをしてすみません、でもいけませんよ、此処であんなものを触っては」

 乾いた声で淡々と、さして悪びれた様子もなく、彼はいつものようにポケットに両手を突っ込んでローズに並び立った。その視線を追って、澄んだ金属音を響かせながら跳ねていく銀の照り返しを見送る。

「あれが何だか知っているの?」

「さあ。でも危険性に見合うほど有用なものでないことは知っていますよ……ほら、ちゃんとサングラスを掛けてよくご覧なさい。上手くいけば面白いものが見られますよ」

 貝殻のような物体は、強風に耐えて残る雪に埋まることなく岩に弾かれながら、遥かな氷河めがけて落ちていく。幾度も跳ねながら芥子より小さな点となり、こおん、こおんと谷にこだまする幽けき音のみとなる。それすらもやがて、青白い氷の上に憩っていた(ゴラク)たちのサークル目掛け溶けるように消えていった。

 完全に見失ったと思い数拍、閃光がちかりとサングラス越しに目を焼いた。次の瞬間、どうっと轟音とどろかせて氷河は河岸から半ばまで崩壊し、束の間上がった蒼い爆炎と共に奈落の底へと落ちて行った。

「わあ……」

「っふふ、あはははは」

 思わず嘆息を漏らしたローズの隣で、サンディがこらえきれないといった風に笑い声をあげ、ガイ・フォークス・ナイトを祝う子供のように盛んに拍手した。先程までの緊張感はすっかり霧消し、きっとグラスの下の目を興奮に輝かせていることだろう。

 微かに肉の焦げるにおいを嗅いだようにも思い、身震いと共に気のせいだと振り払う。壮観ではあったが、無邪気に喜ぶには恐ろしい光景だった。大きな火は好きではない。

 間もなく巻き上げられた雪煙が晴れ、黒々としたラントクルフトとクレバスが白日にぽっかりと虚ろを晒す頃になって、ようやくサンディはくすくすと落ち着いた笑いを取り戻した。

「ああ愉快だった。ねえどうです、エヴェレストで見る花火も悪くないでしょう? ふふ、それにしても随分上手くいったなあ! 今日は冴えているぞ。存外まだクリケットもいけるらしいな」

「上手くいった?」

 互いに表情が見えないせいだろうか。ローズのおとなしさに気がつかないまま、試合に勝ったかのように浮かれているサンディに問うと、彼は大きく頷いた。

「はい。失敗すると、いくらぶつけたところでうんともすんとも言わないんです。あんな不発弾が氷河に乗ってしまうのでは、何百年後かに後顧の憂いが残るでしょう?」

 遊んでいるだけじゃないんですよとおどけて胸を張るが、どこか取り繕ったような印象があった。普段慎重に、あるいは恐怖感が麻痺しているかのような冷静さで行動する彼には珍しく、興奮のあまり浮足立っているようで少し心配になる姿だった。随分しっかりした子だと思っていたが、案外学生らしい軽率なところもあるのかもしれない。

 褒めてほしいのか、あるいはローズも楽しんでいることを信じ切っているのか、サンディはちょっと期待した様子で見つめてくる。時々弟のような振舞いをする子だった。

「今回はこれで済んだかもしれないけど、あなたはこれまでにもあの変なものを拾ったことあるのね。この山にあんな危険なものがいくつも転がっているなんて、聞いたことないわよ」

 水を差すのも悪い気がして遠回しに非難するが、伝わらなかったらしい。却ってますます得意げな調子で笑うのが、ゴーグルとバラクラバに隠されていてなお分かった。

「滅多に落ちているものではありませんからね、ある意味ラッキーだったと思えばいいかと。僕も北東稜で見たのは初めて……で……」

 そこでサンディは、ふと口を噤んだ。浮足立った空気は一瞬にして鳴りを潜め、またあの張り詰めた緊張感が戻ろうとしているようだった。

 どうしたのと声を掛けようとした矢先、空気を震わせたのは引き返してきたオリバーだった。

「おい、怪我でもしたのか」

 いつまでも立ち止まっている二人に気がついて心配そうに戻ってきた彼に、サンディが心配ないと手を振った。

「すみません、ただの道草ですよ。ほらあそこ、すごい崩落だから……さあ、もう行きましょう。見るべきものは見ましたからね」

「うん……」

 気を取り直したように高みへ向き直ったサンディはいつもと変わらない様子で、話を蒸し返す機を失った。横目に氷河を見下ろしながら、また一歩一歩登っていく。いつまでも焦げ臭さが付き纏うようで、晴れやかな景観の中を歩みながらも気分は落ち込んでいくばかりだった。

 理由は分かっている。昔火事で家族を亡くしたから、それだけだった。遠い昔の炎も家族もとうに朧な記憶となってしまったが、サンディの人懐っこい振舞いと姉のようだという言葉は、永遠に小さいままの弟の成長を想像させるものだった。ローズが何かとサンディに突っかかるエリオットを窘めたり、日を重ねても輪に入ってくるのにちょっと人見知りの気配を見せるこの新顔を積極的に迎えに行ったりとよく構うのは、彼女が面倒見の良いタイプでサンディが気持ちのいい仲間であるというのみならず、何となく彼に対し姉のように振舞ってみたいという気持ちが働くのもあった。

 それがよりにもよってサンディの手で火事を連想させる光景が引き起こされ、ゴラクの群れが、家族が恐らく死んだのを見せられるのは、なかなか堪えるものだった。これまで他人への振舞いが温厚なので誤解していただけで、案外躊躇いも情緒もない行動を取れるタイプなのだろうか。エリオットは彼のことを警戒しすぎだと思うが、たった一ヶ月程度で人を理解できるわけがないのだと突きつけられたようで、少し寂しさにも似た痛みを感じた。彼がゴラクの群れに気がついていなかったことを願うしかない。

 この河はあの巨大な洞を抱えたまま、百年単位でゆっくりと流れていくのだろうか。それとも長い年月のうちに、また凍り積もりして塞がっていくものだろうか。見渡すかぎりに目を凝らしても、雪上で羽根を休めていた鴉はもうどこにも見当たらなかった。

 

  ///

 

 この日収穫した憂鬱という果実について述べるなら、オリバーの負った重みのことは、拾った柘榴の中身が辰砂の粒だと気づいてしまった類と形容すべきだろうか。何せこれは物理的な恐怖や衝撃を伴わない。気がつき思い巡らせさえしなければ、ちょっとした怪談に仕立てられる程度の、ただの日常風景の話なのだから。

 

 十一時になろうという頃、この辺りで休憩にしましょうというサンディの言葉でザックを下ろした。

 いつも通り三人が火を起こす傍ら、サンディは傷だらけの防水袋を抱えてふらっと立ち去っていった。朝食は誰より早く起きて一人で済ませ、昼は目の届くところで背を向けて食べるか、こうして逃げ隠れするようにどこかで済ませ、夜は必ず自分のテントで一人きり。他人と飲食を共にするのが苦手な人間は一定数いるものだが、彼のそれはひどく徹底されており、潔癖症ではないかと疑うほどだった。エリオットはサンディのこの習慣をひどく嫌っているが、責めると他でもないサンディ自身がひどく申し訳なさそうな顔をするので、結局無理強いも出来ないまま慣れてしまったらしい。ローズはそういうタイプなのだと最初から流しており、オリバーも最初は彼女と同じ考えだったのだが、今ではエリオットのフォローに回るべきだったかと後悔していた。

 怪談話を披露された翌日だったと記憶している。悪天候のため停滞し、パーティーはサンディも交えてテントにこもり、計画の見直しやルート上の危険地点などについて相談していた。サンディは最近登って下りてきたばかりかと思うほど詳しく、実際それまでの行程で彼の助言が蛇の酒漬ではないことを確認していたので、ただただ助かるばかりだった。正直なところ、初めて彼が訪れた夜に自負していた能力に誇張が無いとは思っていなかったのだ。おとぎ話で妖精を拾うように、とんでもない逸材を得たものだが、その陰の不自然さにはとっくに気がついていた。今日もそうだ、二時間も休みなしにラッセルし続けてまだやれると意地を張るなんて、絶対にありえないとまでは言い切れないが「おかしい」。しかも後続が追いついてこないほど速いペースを維持していた。何度訊いてもまだまだ行けると言うので二時間も面白半分に様子見したが、あの体格でザックを背負ったままだ、足も随分沈んで苦労しただろうに。補足しておくと、彼の荷を引き受けなかったのは意地悪ではなく、本人がこれも背負ったままで出来るから任せろと得意げに意気込んでいたからである。

 それらは単純に、偏執症めいた強い拘りがある性格傾向と、厳しい鍛錬の賜物、あるいは極端に疲労を感じにくい体質というだけの話なのかもしれない。しかしブラックボックスが残されたままの現状、三人ともが、それぞれにサンディはおかしいと分かっているだろう。しかしオリバーのそれは、恐らくエリオットとローズの視点とは少し性質を異にしていた。

 あの日に気がついたのは、サンディが差し向かいで話したがっているということだった。その原因が怪談を聞かされた時の反応にあることも分かっていた。隠し事が多い様子の割に、隠すこと自体は上手くないと見える。暴かれたいのか伏せたいのか、秘密主義の目的が分からないのは確かに不快で、エリオットが怒る気持ちも理解できた。しかしオリバーの差し当たっての問題は、サンディと二人きりの状況を避けることにあった。

 オリバーと二人きりになったら、多分彼は怪談絡みの話をするだろう。もっと露骨で、後戻りできない形で。それは可能ならば避けたかった。オリバーはただ、後輩たちと無事に登頂し、つつがなく下山したいだけなのだ。サンディが抱えているものが、その意図するところが何であれ、冒涜的なオカルト話に付き合うつもりは無かった。

 サンディを避けはしないが、二人になる状況を巧妙に避けていることに、彼は気がついているだろうか。そして避けるためにサンディの挙動によく注意を払うようになったことで、どんどん疑いの目は強くなっていた。

 衣食住は生活の基本であり、三大欲求は生物の土台である。登山において衣食住はやや特殊な形を取るが、その原型は変わらない。しかしサンディのそれは、どうにも真似事の感が拭えなかった。一応彼の言い分に矛盾は無いのだが、オリバーはその中に多かれ少なかれ嘘が混ざっていることを確信していた。

 端的に言って、サンディの存在は「清潔」だった。生物としての人間、そして登山という活動に当然付き纏う汚れと穢れが感じられないのだ。清潔自体は好ましいものだが、度が過ぎれば非人間的な嫌悪感に繋がる。穢れに繋がる生物として当然の機能や欲が備わっていないような印象を受けるのに、食欲だけは露骨に見せてくるのがパフォーマンスじみており、行動的な不気味の谷があるとすれば斯くもというところだった。こうなると本当に水筒の中身を飲んでいるかも怪しい。勿論あからさまにすべきでない欲もあるのだが、一ヶ月も行動を共にする中でここまで無いもののように動けるのかは怪しく思っていた。頭の回る男だ、もしかすると露骨な不自然さはわざと演出しており、全部隠そうと思ったらこのように隠せるのかもしれない。それならば尚のこと、妙な秘密主義の意図が謎だった。

 そういうわけで、エリオットのように露骨に態度に出さないだけで、オリバーもかなりサンディを警戒していた。ついでに言うなら、あの後輩は何だかんだ品のいいぼんぼん気質が抜けないので、あまり下衆な勘繰りも出来ないだろうと考えている。本気で怒ったり突っかかったりしている彼には悪いが、怪我をしない程度にサンディの注意を引いてくれるのは有難かった。

 そんなオリバーが今、一人でサンディを探しに歩いていた。理由は単純で、午前中にラッセルの続きを引き受けたもののぐんぐん上がってくる気温に参り気味のエリオットと、珍しく元気のないローズを使い走りにするのは気が引けたからだった。放っておいてもサンディは戻ってくるのだが、気を抜いているであろう彼にこっそり近寄る機会は、オリバーにとってチャンスでもあった。

 ポケットに言い訳を詰めて、すっかり見慣れた〝オールドブルー〟のウィンドブレーカーを探す。といってもラッセルしながら進んでくるような状況下、南へひとり歩いて行くトレースを辿るのは楽な仕事だった。迷いのない足取りは途中で西寄りに進路を取ると、急な雪面を少し下っていく。明らかに目的地を定めている様子に、オリバーは自然と足音を殺していた。

 滑らかな雪面に刻まれた道は、この山の縮図めいたシルエットをした黒い岩の塊を目指して巻いているらしかった。ゆっくり近づいていくオリバーの顔面に、轟と唸る一陣の風が叩きつけられた。

「……したら全部……ね、面白いでしょう……」

 神経質になっていた耳に、切るような突風に乗って掠れた声音が聞こえた。目的の人物は、岩の向こう側にいるらしい。しかし誰と話しているのだろう。

「それから……ですよ? でも……じゃないか……ああ本当だ……っふふ、あははは」

 随分親しげな調子で、サンディの朗らかな笑い声ばかりが聞こえる。いつぞやのキャンプのように、山での顔馴染みと話し込んでいるのだろうか。これから下方のキャンプへ下りるなら、ここまで他チームのトレースを見ていなくても不思議ではない。

「……けど、きっと良い……を見つけたと。あなたにも……ああ、楽しみだな……」

 声音は高くなり低くなりしながら、くすくすと浮かれた笑いを含み、絶えることがない。丁寧な調子ではあるが、長年の友人と話すような気の置けない雰囲気があった。

「今度こそ会えるよ、サンディ」

 嫌だな、とオリバーが顔をしかめたのはこの時だった。ついと足を止めて耳をそばだてる。

「ええ、そのためにやれるだけのことはやっています。もしこれでも駄目だったら……またやり直すだけだ。まだ大丈夫ですよ。心配しないで……」

「でも、もう時間がない」

「……うん。多分あと数回で……ごめんなさい、僕のせいだ、ごめんなさい……」

 明るかった声はあっという間にトーンが落ち、酷く追い詰められたような震え声になっていた。

「お前はよくやっているよ。謝るのは上手くいった時か、本当に失敗した時でいい」

 慰めるようなサンディの声が言う。

「そう、ですね。いえ、大丈夫、必ずそこまで行きますから……でも、本当に上手くやれるでしょうか」

「大丈夫さ、ナーバスになるなんてらしくもないじゃないか。今度こそは、きっと全てが上手くいくよ」

「ああ、あなたがそう言うのなら。よかった。早く会いたい……会いたいな、会いたい……会いたいよ……どうして僕はまだ……」

 続いていた独り芝居の会話は、引きつったような声で会いたいと呟くばかりになってしまった。

「サンディ?」

 追い詰められたように繰り返し続ける声に、流石に心配になって名前を呼んだ。ぴたりと声がやみ、ゴアテックスの擦れる音、続いて雪を散らす音が代わった。

「やあオリバー。どうしました?」

 そして思った通り、岩陰からサンディがひょこっと顔を出した。しかし彼は何かを思い詰めた風でもなく、至っていつも通りの、人好きのする目を輝かせた陽気な青年としてそこに立っていた。

 彼はやって来た連れ合いが一人なのを見てとると、その目に微かな期待と緊張を浮かべたようだった。オリバーは面食らいながらも、素知らぬ顔で手を振ることに決めた。じっと見上げてくる空恐ろしい目の色に応える気はない。

「いや、取り込み中なら後でいい」

「いいえ?」

「え?」

 二人で間抜けな声を上げて、妙な沈黙が挟まった。何を言っているんだという視線がかち合う。幻聴を聞いていたのだろうか。一瞬疑い、すぐ打ち消した。曇った声だけならばともかく、あんな会話を聞くなんて考えにくい。

 サンディは全く意味が飲み込めていない顔でオリバーを見上げていたが、その難しそうな表情を見ると、困惑気味に口を開いた。

「えっと……お昼を食べていたんですけど、もう済んだから大丈夫です。呼びに来てくれたんですか? それとも何か、個人的なお話でしょうか」

「……おう。呼びに来ただけだ、変なこと言って悪かったな。ちっとぼんやりしていたみたいだ」

「そうですか。いえ、こちらこそ随分間の抜けた返事をしてしまった気がします、恥ずかしいな。すぐに行きますよ」

 サンディは微かに期待外れの感を抱いたのかもしれないが、素直に立ち上がると背を向けた。その手に握られている防水袋の嵩が、立ち去る時よりも減っているのを見て密かにほっとする。オリバーは彼にはついて行かず、岩場の更に南方へ歩を進めた。

「あれ、一緒に行かないんですか」

 不思議そうに振り返ったサンディに、ポケットを叩いてみせた。

「おうよ、ちょいと雉撃ちに」

「あはは、これは失礼……え、ここで?」

「いやいや、流石に人が飯食うような場所で撃つつもりは無いさ。そら、変な趣味がないなら行った行った」

 あからさまにぎょっとしたサンディを笑ってあしらった。人払いするなら勢いで押し切るのが良い。

 足音が遠ざかってから注意深く辺りを見回すが、サンディひとり以外に誰かがいた形跡はなかった。足音もなし、人影もなし。自分も歩いてきたのと同じ方向からの足跡が三列重なって、この岩陰で途切れているだけだった。

 岩には少し深い横穴のような窪みがあり、座って休むのに良さそうだった。サンディもここに座り込んでいたのだろうと考え、同じようにしてみる。岩の窪みに嵌まるようにして背を預けると、黒い岩の額に縁取られた空と稜線のコントラストが美しい、しかし見慣れたシンプルな書き割りが展開される。そしてその稜線の向こう側には、かの恐ろしい南西壁を臨むような塩梅になった。サンディはあちらも登ったことがあるのだろうか。

 独り言だったのだろうか、と考える。確かに独り言の多い人間など珍しくもない。独り暮らしなら尚更その傾向はあるし、サンディの話に家族の影が一切ないあたり彼もそうなのだろう……いや、ローズが嬉しそうに姉のようだと言われたと話していたか。それとて曖昧なニュアンスらしいが。

 気になるのは誰かと会話するような調子だったことと、まるでそんなお喋りはしていなかったかのようにとぼけたことだった。隠し事をしている風でもなかったので本当に無意識だったのかもしれないが、そうなれば尚のことあの独り言は気味が悪かった。

(南西壁で仲間でも亡くしたのかねえ)

 岩壁は冷たいが滑らかで、つい眠気を誘うほど気持ちのいい角度だった。風よけもついて、陽が射したとしたらぬくく心地よい椅子になりそうだ。多分この隠れ家めいた岩自体、庭のようにこの山域を歩くと自称する彼お気に入りの四阿なのだろう。

 雉を撃つ代わりに煙草を一服しながら、正体不明の仲間について暫し考え込んだ。全く、独り言だけならば良かったのだが。オリバーの憂鬱と懸念はこの一幕で加速しただけであって、今に始まったことではない。

 今度こそ、会いたい、とサンディは言っていた。彼は屍体の引き揚げを目的に登っているのだろうか。たとえば昔――といっても彼の歳ではほんの数年前だろうが――この山で亡くした仲間を置き去りにしてきたとしよう。あるいは姉が遭難死したのかもしれない。その遺体を引き揚げたいが、金か危険性か、何かしらの理由で周囲は協力を拒む。仕方がないので自分一人の力で下ろそうと、お下がりの装備で切り詰めながら登山経験を積んできた。そしていよいよ迎えに行くため一人で登るが失敗し、そんな成果を上げられなかった引き揚げの試みを数度繰り返している。酷い負荷をかけ続ける中で身体に無理が出ていて、挑戦できるのは恐らくあと数回が限度。今度こそはと思っているが、つい先行き長い孤独の閑暇に耐えかねて同行者を求めてきた。泣ける話だ、一応筋も通る。エリオットは今季の単独登頂挑戦者がいるなんて聞いていないと訝っていたが、仲間に入ろうとしたサンディがその場で目的を偽っただけで、単独であっても登頂を目的としているわけではないのなら、下界でもさして話題にならないだろう。あとはいつ彼がそれを切り出してくるかという問題だけだ。

 それならば悩むべくはサンディの目的に手を貸すか否かというだけなので、あとの二人に判断を委ねれば良いと思っていた。オリバーの目的もまた登頂ではない。

 しかし今彼の頭を占めているのは、そんな健気な美談ではなかった。

 狂信者。魔術師。生贄。儀式。邪神崇拝。召喚。

 おぞましい単語がぐるぐる回り、蠕動し、あの夜から一秒たりとも気を抜くことを許さない。夢の中にまで追ってくるのだからたまったものではなかった。最初から風変わりな男だとは思っていたが、それだけであれと願うにはもう手遅れだ。エリオットは下手くそだと酷評したが、オリバーからすれば逃げ場のない世界で聞かされるにあたってこんな恐ろしい話もなかなかない。サンディは確実に、この世の陰に陽向に蠢く混沌と冒涜の片鱗を知っている。馬鹿みたいな妄想だと人は笑うだろう。笑える人間は幸いだ。死ぬまで笑っていられることを願おうじゃないか。後輩たちが笑顔で家へ帰れれば良いのだが。

 それでも今のところサンディに悪意は見えないので、素知らぬふりをしてパーティーに置いているのだ。いずれきちんと話し合うべきだろうが、オリバーにはまだ心の準備と覚悟が出来ていなかった。

 時計に目をやり、そろそろ潮時かと立ち上がる。その時、肘が何かに当たって引っ繰り返す音がした。

 おやと振り返ってよく見ると、窪みの中でちょうど影が深くなっている場所に何かが転がっていた。拾い上げてみると、それはフルーツの缶詰だった。確かにサンディが数日前に差し入れてくれたものと同じだと思い当たる。首を傾げつつ、どこから出てきたのかと窪みの中に目を凝らして、ぞっとした。

 窪みの奥、背もたれのように使っていた斜面は、よく見ると天然の台座のようになっていた。天井より八インチほど低いところで、突然奥行きが増しているのである。ひときわ深い暗闇になっている台座上には、コンビーフ缶、ショートブレッドの袋、重石を乗せたティーバッグが並べられていた。端の不自然に空いた空間には、恐らく今手にしているフルーツ缶が置かれていたのだろう。供物を並べた祭壇のようだった。何しろそれらの奥に、隅に重石を乗せた古い写真と折りたたまれた紙が一枚ずつ寝かされている。まるで家庭祭壇か、仏壇の原形のようだった。

 緊張に唾を呑む。今振り返ったらそこにサンディが立っている気がして恐ろしかった。

「何しているんですか」

 という声が聞こえ、その顎を打つ構えで振り返って苦笑いした。誰もいない、白と青。

 岩から抜け出し、本当にサンディが戻ってきていないことを確認する。今頃はエリオットとローズのもとで、元気のない彼らの世話を焼いていることだろう。どうかそのままそちらにいてくれと願いながら、改めて二枚の紙を手に取ってみた。

 写真の方は傷みが激しいが、オリバーも知っているものだった。この山に登る人間ならば、多分誰でも目にしたことがある一葉。ボッティチェリの絵画のように丸いアーチを帯びた美しい目が印象的な、大変容貌の整った男のバストアップ――あの忌まわしい夜にも名が出た最も有名な登山家、ジョージ・マロリーの最も知られたスナップだった。サイズからして、どうやら本のページを切り取ったものらしい。オリバーはエリオットと違って登山史への興味が強いわけではないが、流石にこの山で謎の最期を遂げた自国の英雄の顔くらいは知っている。エヴェレストの歴史について紐解くのなら、必ず見ることになる顔である。何となくそれだけではない既視感も覚えるが、長考する余裕はなさそうだった。何故ここにあるのかはよく分からないが、この写真自体は別段奇怪なものでもない。サンディが彼の熱心なファンで、ひっそりと感傷的に悼んでいるのかもしれない。それならフリーク同士、案外エリオットと気が合いそうなものだ。

 続いて折りたたまれた紙を慎重に開いてみる。こちらは古びているものの、写真ほどには傷んでいない。内心恐れながら開いたが、二つ折りにされた内側には黒いインクで〝god〟の三文字が綴られているだけだった。ここにあるからには、恐らくサンディの字だろう。GodでもA/The godでもなく? 違和感はあるものの、それ以上に気になるものに目が引き寄せられた。

 字に重なるようにして、何か小さく乾いたものが挟まれていた。触れたら崩れそうな気がして、紙ごと目を寄せる。何かに浸かって固まった繊維の束? 黒っぽい……違う、赤黒く汚れた砂色の毛のかたまり……。

 ――血に塗れたサンディの髪。

 連想を妄想と言いきれず、放り投げたくなるのを堪えて元の場所に戻した。

 少なくとも今はまだ、何も気づいていないふりを続けるべきだ。

 

  ///

 

 この一日を振り返るにあたって、エリオットは死ぬまで冷たい蒼さの中を過る黒の不吉さを思い出さずにはいられないだろう。ローズ、オリバー、そしてサンディが自分の憂鬱に重ねてこの事件をも負ったことを思えば、確かにエリオットは荷の種類こそ少なかったが、重みと中身に関して言えば随分危うい厄災を拾ったものである。

 

 気温は山行を開始してから急速に上がっていた。日焼け止めの効能も虚しく鼻先が剥けると察するような、ぎらぎらと白い陽射しだった。バラクラバを上げれば遮れるのだが、酸素の薄さと暑さゆえにそれも厳しいものだった。

「暑い……」

 エリオットの口から、つい意味のない愚痴が零れた。視線を上げれば、巨大なザックが三つ連なっている。遅れを取りはしないものの、彼の足取りはパーティーで一番重かった。

 昼休憩を挟み、隊列の先頭は再びサンディが務めていた。トレースが重なる分最後尾は楽なのだが、それでも南中前後の陽射しは辛いものだった。ヒドゥンクレバスを警戒して、足跡と重なるようにアックスを突き立てた穴も細かに連なっている。見た目に反して陽にも強いらしいサンディが、恐るべき集中力で神経を遣う作業を引き受けてくれるのは非常に有難いことだった。しかしそれでもしんどい理由には、足場の悪さも一役買っていた。この標高では泥にこそならないものの、ただでさえ深く柔らかかった新雪は融解によって更に歩きづらいものとなり、足に纏わりついてはひどく疲労させてくる。

 もう一つ言い訳を挙げるなら、時折吹きつける突風が大層厄介だった。正午を回ってからはとりわけ酷いもので、もう何度も横殴りの風を巨大なザックに受けてはたたらを踏んでいる。それでも転げ落ちるような狭いリッジではないので、パーティーはアンザイレンせずに進んでいた。この引率は慎重だが、余程腕に自信があると見える。

 さて、この山における死神が何色をしているか問えば、人の答えは凡そ三択だろう。エリオットは危うくその全てを認める羽目になるところだった。

 昼休憩を挟み、一時間ほど進んできた頃だった。次のキャンプまでもうそれほど距離は無いが、その残り少しが驚くほど長い。エリオットは幾度目かの強風に煽られてよろけ、トレースから少しだけ外れたところで踏みとどまった。本当にろくでもない日だと舌打ちして、まっさらな雪面へスピッツェを強く突き立てた。腹立ちまぎれの軽率な行為が何を招き得るのか、山では常に警戒しなければならなかったのに。

「――ん?」

 手に伝わる感覚がおかしい、と思った時には遅かった。

 ぐらっと身体が傾ぐ。風に煽られたのとも、吹き溜まりを踏みつけたのとも違う、硬いけれど脆い砂糖菓子が、歯を立てられてぼろりと崩れるような感覚だった。

 スノーブリッジを踏み抜いたと気づいた時には、もはや手遅れだった。浮遊感を認識する間に、エリオットの視界は白から青みがかった影へ、そして闇に切り替わる。その身は荷物諸共、ひゅうっと奈落に吸い込まれていた。

 咄嗟にアックスを前方へ突き出した。がつんと手応えがあった。ピックが氷壁を削る振動を決して逃さないよう、ヘッドとグリップを握り締めて引き寄せ、足を曲げる。何も考えられず、目を閉じることもできず、反射で滑落停止姿勢を取ったまま固まって落ち続けた。

 はて、どれほど経っただろう。やがて鈍い衝撃が脳を揺らすと、嵌まり込むような感覚と共に落下が止まるのが分かった。

 恐る恐る状態を確かめてみると、アックスが嚙んだことよりも、狭いクレバスの隙間で荷物がつっかえたことが幸いしたらしい。らしいというのも辺りは暗く、サングラスを外しても視覚で拾える情報はごく限られたものだった。少しみじろぎしてみた感覚では、ザックの上部を背面の壁に押しつけ、右アイゼンの底で半端に向かいの壁を突っ張っている状態で止まっているように思えた。ぱらぱらと顔に降りかかる雪片を吐きながら、浮いていた左足を慎重に伸ばす。壁は滑るが、蹴り込んだアイゼンの前爪は問題なく刺さってくれた。ピックが固定されているのを確認してから右足も少し下ろし、Vの字に折り曲がっていた身体をLに近いところまで緩めてやる。そのうち腱が吊りそうな姿勢だったが、膝で突っ張ってやるには与えられた空間が広すぎた。それでも今すぐ底まで落ちる危険は回避できたことに安堵し、ほうっと息を吐いた。

 見上げると、空は随分高く、細長く切り取られていた。天の川のようなスカイブルーに、恐らく二〇メートル強は落ちてしまったらしいと見当をつける。大抵のクレバスは深さ十メートル程度なので、怪我をしなかったのは幸いだが随分運の悪いことだった。続いてぐるりと見回すが、幅があまりないことも相まって、辺りは目が慣れても十分に暗かった。

 おーい、と声を上げてみる。しかし腹部を折り曲げ喉を反らす姿勢では、大した叫びにはならなかった。ホイッスルならば吹けるはずだが、この肝心な時に襟元から奥へ入り込んだか首の後ろへ回ってしまったようで、グローブを重ねた左手だけで取り出すのは難しそうだった。

(さて、どうしようか)

 ひとまず体勢は安定させられたが、このままでは干からびたコールドサンドとして人知れず骨を埋めることになる。這い上がるか死ぬかの二択だが、この高さをT規格アックスで登るには背中の荷が重すぎて、不可能とは思わないが酷く骨が折れそうだった。ビレイは取れていないので、動いた折にバランスを崩して更に落ちる可能性もある。仲間には悪いが、ここは大人しくセルフレスキューを待つのが正解だろう。体力温存のためにも精神的に耐えるためにも、慌てず騒がず落ち着きを保つべき場面だった。

 ポケットからヘッドライトを引っ張り出すと、灯りを空へ向けて腹の上に乗せる。念のためビーコンも発信モードに切り替え、ゆっくりと白く薄い息を吐いた。地上は登っていると暑いほどだったが、クレバスの中は流石に冷える。じっとしていれば尚更だ。低体温症を起こす前に気づいてくれると良いのだが。

 

 おーい、という声に目を開いた時には、幸いにしてまだ体温は保たれていた。おーい、ともう一度呼び声がして、逆光の影がくるくると灯りを持った手を振る。

 大丈夫だと、エリオットもライトを握り左手を振り返した。単純に姿勢のせいで上手く声が出ないだけなのだが、上ではどうやら怪我をしていると勘違いしたらしく、慌ただしげに頭が引っ込んだ。後が怖いのでそんなに騒がないでくれと思いつつ、すぐに気づいてもらえて引き上げの準備が始まったことに心底ほっとした。時計を見たところ、落ちてからまだ二十分程度らしい。これなら足がもたずに痙攣を起こして外れることも無いだろう。

 元よりパニックを通り越して頭が冷えているとはいえ、安心すれば周囲の状況をじっくり観察する余裕も出てきた。観光スポットとなっているわけでもないクレバスの内部に滞在するなど、危険なこともあってなかなか経験できる状況ではない。細く光る空も、いつもとは全く違った見え方で乙なものだ。生憎ローズと違って手近なところにカメラを携えているわけではないが、どうにかスマートフォンで見上げるアングルを数枚撮影して良しとした。

 続いてヘッドライトの出力を上げると、バランスを崩さないようにそっと下を覗き込んで驚かされた。二〇メートルそこらでは到底足りない、このクレバスは底が照らせないほど深かった。下るにつれて幅こそ細くなっていくようだが、その深さときたら果てが想像できないほどだ。一塊の氷が割れたというよりも、割れた水面が閉じていく瞬間に凍ったような光景だった。

 潜るほど急速に濃くなる青みがかった闇は、当たり前だが海にも似ている。恐ろしいほどの深みを眺めながら宙ぶらりんの手を揺らし、今、自分は波にのまれ溺れようとしているのだと想像してみた。ポーがメヱルストロウムにて綴ったような……巨大な塊としての水に呑み込まれる寸前の一瞬が、限りある永遠という矛盾の形で引き延ばされているのだと。すると自分がつっかえている氷壁は急速に透明度を増しながら、薄氷一枚の下で激しく轟き渦巻いて、あたかも巨大な生命の如く蠢いているように思えてきた。

 すぐ足元を巨大な鋏を振るう影が泳ぎ、それから触肢を伴った象の鼻のような、あるいは蝸牛のような殻を背負った巨大な影がぬうっと浮かび、すぐに消えたような気がして、思わず口元を綻ばせた。ぞっとするような妄想だが、まったく有り得ない話だった。気紛れにそちらへフラッシュを焚くと、自然が作ったとは思えないテクノロジカルな影がぱっと浮かび上がったように見えて驚かされる。ルポルタージュ記事としてフォーティアン・タイムズに寄稿したら喜ぶかもしれない。それとも太古の昔、この山がまだ海の底だった頃には、このような巨大な蟹や寄居虫(やどかり)のような生物が、金属の柱が乱立する黄色い砂地を跋扈していたのだろうか。ネモ船長だって鼻で笑うに違いない。

「救助経験――」

 高みから声が降ってきて、物思いから醒め顔を上げた。

「――落ち着け――多分――」

「――信じて――行くから――」

「ビレイ――短すぎ――」

「大丈夫――それより――引き上げ――」

 途切れ途切れの会話が、内緒話のように氷の隙間から降り続ける。全てを聞き取れはしなかったが、谷底の蹄が立てる音が山上までよく響くように、外の声もクレバスの深みまで美しいほど透った。

 もしも此処が救助不能な、現世との断絶の底であればどんな気分だったろうか。青みがかった光を帯びる壁に万が一の登攀ルートを引きながら、そんな呑気で新しい考えに思い馳せる。実際そのような痛ましい事故の前例もあるし、何を思ったところで豪運を発揮できない限り干からびて凍るしかないのだが。それにしても、今のように遥か上空から投げられる仲間の声が、苦渋の判断のもと自分を置いて行く決断を下すものだったとしたら……。

 そんな不毛なことをぼんやり空想していると、黒い人影が一つ、ひょっこりと底抜けの蒼を切り抜いた。ヘッドライトをつけた彼、あるいは彼女が合図するようにアックスを握った手を振っている。恐らく今から下降してくるのだろう。随分と手際の良い準備に感心しながら、エリオットもまた居場所を知らせるように振り返した。頷くようにライトを揺らした影はおもむろに、

「――え」

 ――クレバスの中へ、たんっとその身を投げ出した。

 ザイル二本がひゅるりと宙にたなびき、影は真っ直ぐに落ちてくる。響いた悲鳴はローズのものだろうか。全ての音が遠く、あらゆる動きがスローモーションのようによく見えた。

 影はクレバスの間を落下しながら器用に身体をひねると、振り上げていた両アックスを氷壁に力いっぱい打ち込んだ。すぐにアイゼンの爪先も蹴り込み、四肢で精一杯ブレーキを掛けつつ一瞬で迫ってくる。ガリガリと音を立てて硬質な氷片が砕ける様は、火花の散りそうなほどだ。

 それでも勢いはなかなか緩まず、エリオットは自分のことを棚に上げてぞっと背筋を凍らせた。影が尾を引くザイルの長さに、もう余裕がないと気がついてしまったのだ。今こんな勢いで落ちていたら、ビレイしていようが怪我は免れない。腰椎を折るか内臓破裂を起こすか、最悪死んでもおかしくなかった。

 わざわざ逆光に目を凝らさずとも、こんなことをするのはサンディしか有り得なかった。見えていたところで、エリオットには何もできなかった。サンディは十分に恐ろしい勢いのまま、まっすぐに落ちてきて――すぐ隣まで――そこでぐんっとザイルが張られ、とうとうひったくるような乱暴さで止められた。更に落ちようとした身体が腰部を吊り上げるように引かれ、衝撃に耐えきれずアックスが氷壁から浮き、身体が折れるように仰け反った。Vの字を引っ繰り返したように――青いジャケットの屍体が宙吊りで――ぶらりぶらりと揺れていてさ――見ているだけで吐きそうになる吊られ方だった、どうして自分を助けに来た奴が目の前で重傷を負うところを、もしかしたら死んだかもしれないところを見ているんだ?

 宙吊りになったクライマーを見下ろしている数秒は、自分が落ちている数秒よりも、助けを待つ数十分よりも、ずっとずっと長く感じた。そう、ほんの数秒のことだった。

「よっ、と」

 サンディは――平然と起き上がった。

 彼は何事も無かったかのように、勢いつけて折れた上半身を起こした。そのまま再びアックスを打ち直し、通常のアイスクライミングのように氷壁に張りつく。そして数手登り返して寄ってくると、顔中に自分が砕き散らした氷片を乗せて固まっているエリオットを照らし、当たり前の心配に満ちて上擦る声を上げたのだった。

「エリオット、大丈夫ですか⁉」

「お、おう」

 思わず頷き返すが、内心それどころではなかった。

「怪我は? 骨折していませんか? 痛いところは? 寒かったでしょう、もう大丈夫です、ごめんなさい死なないで、すぐ引き上げますから、大丈夫、大丈夫だから――」

「いや、窮屈で大声出ないだけだから平気……それよりお前何……何だよさっきの……」

 早口に畳みかけてくるサンディがパニックを起こしかけているように見えたので、大丈夫だと親指を立てる。笑えたかは自身が無かった。寧ろ騒ぎたいのはこっちで、お前こそ大丈夫なのかと言いたいくらいだった。

 それでもエリオットの言動に安心したのか、サンディは少しだけその目にいつもの落ち着きを取り戻すと、ぎこちなく微笑み返した。

「早かったでしょう。ああ、それにしても無事で本当に良かった! 喋れるなら大丈夫……この深さで確保できたのは幸運でしたね。ちょっと失礼しますよ」

 サンディは喋っている間にもてきぱきとザイルとカラビナを操り、素晴らしいバランス感覚で身を乗り出しながらエリオットの腰にザイルを固定していく。彼ならば、たとえパニックを起こしていたとしても、その手は狂うことなく救助の手順を踏めたことだろう。人の形を保ったまま山で生き延びることに最適化された生物がいるとしたら、彼のようなもののことではないだろうかと思った。なんと頼もしく、……不気味なことだろう。腹部に覆い被さって作業を進めるサンディを見下ろしながら、半ば感心し、半ば恐れのような感情を抱いた。

 間もなくして、ぎゅ、と引くように揺さぶられる。ザイルが解けないことを確認し、サンディは身体を離した。

「もう力を抜いても大丈夫ですよ。ザックを下ろせるなら僕が……ああ結構、預かりますね――いけます、どうぞ!」

 サンディが天へ声を張り上げ信号を送ると、ぐっと腰のザイルが引かれた。ゆっくりと吊り上げられ揺られながら、こっそり肩越しに見下ろす。

 サンディは受け取ったザックをきちんと背負うと、アイスアックスを高く力強く打ち込んだ。こおん……と虚ろな音が、深淵へ不気味にこだまする。ふと見送るように上げられた宙色の眼が、暗闇の中でちかりと星のように光った。

 その光景を目にして、エリオットは初めて己の落ちた深みにぞっとしたのだった。空が高いのと同様に、地もまた深いのだと突きつけられたようだった。

 

 地上に引き上げられて、眩しさに目を瞑った。そういえばサングラスを外していたのだった、そんなことを思い出していると力強く引きずられ抱きしめられる。よかった、と囁くように吐き出した声が誰のものであれ、呑気に過ごしていたのを申し訳なく恥じ入るには十分なものだった。

「怪我は?」

 オリバーの短い問いに首を振り、体勢のせいで声が出ず、ホイッスルも届かなかったのだと説明する。ごく簡単な診察を受けるが、リーシュをかけていた右手首に擦過傷と痣が出来ていたくらいで、特に痛む箇所もない。内臓が痛まないまま出血していたら大変だが、止まった時に巨大なザックがクッションとして機能したおかげでその心配もなさそうだった。

 三人ともが、その信じられない不幸中の幸いを心から喜んだ。オリバーとローズはエリオットをクレバスの縁から引き離し、少し休んでいるようにと促した。

「無事なら何よりだ、なら早くサンディを引き上げねえと。あいつこそ怪我してるだろ、焦りやがって馬鹿野郎が」

「いや、あいつは……」

 エリオットの戸惑い半分の制止は、正面からの強風にかき消された。繋がれたままの黄色いザイルを辿るように、二人は足早に断崖の側へ戻りながら、サンディがビレイに使っている赤いザイルを手繰った。

「ローズ、そっちの赤い方の端固定したまま倍力に切り替えてくれ。先になるべく懸垂で引いてみる」

「了解、でもザックも持っているんでしょ? 私たちのザイルを垂らした方が早いんじゃない」

「それもそうか。すまんがエリオットから剥いできてくれ。おうい、サンディ……うわっ」

 打ち合わせながらクレバスを覗き込んだオリバーが驚いて声を上げた。エリオットの方へ向かいかけたローズがぎょっとして引き返していくが、エリオットは見なくても分かっていた。恐らく、サンディはエリオットのザックを背負ったまま、自力で氷壁を登攀してきていたのだろう。流石にまだ登りきってはおらず、幾度か上と下で声を張り合った後、戸惑い気味のオリバーとローズが残りを引き上げるのをぼんやり眺めていた。

 それでも恐ろしい勢いで登っていたと見える。ザイルを引き始めて間もなく、くたびれた飛行帽が、そしてあの青いウィンドブレーカーが、白銀の中からにゅっと生えてきた。相当な重労働だったはずだが、彼は這い上がるなりまろぶように立ち上がると、結われたザイルもそのままに駆け出そうとした。オリバーが慌てて抑えると、サンディは再び薄くパニックの色を浮かべた顔で彼を見上げた。

「エリオットは? ちゃんと上がれましたよね? 無事ですか、本当に怪我はありませんか。凍傷は……」

「大丈夫、大丈夫だから落ち着け。どこも折ってないし捻ってもいない、凍傷もなし、リーシュが擦れて手首に擦り傷できて終わり。呆れるくらい元気だよ」

 見送っている間に不安になったのか、また堰を切ったように質問攻めにするサンディに、オリバーが面食らったように答えていた。

「ほら、エリオットならあそこにちゃんといるわよ。これまで通り歩けるし、そのザックだってすぐに返せるから安心して」

 落ち着きのないサンディの肩をつついて、ローズが突っ立ったままのエリオットを示した。医者の言葉と、その肩越しに一人で立っているエリオットの姿を見て、サンディはようやく本当に安堵したようだった。エリオットが気恥ずかしさと気まずさのようなものを感じながら手を振ってみると、彼も嬉しそうに笑って小さく振り返してきた。

「あっすみません、僕まで引き上げてもらってしまって……ありがとうございました。重かったでしょうに」

 我にかえったサンディが少し恥ずかしそうに言い、ちょっと間の抜けた空気が流れた。

「二人がかりだったし、そんなでもなかったわよね」

「そういえば思ったより軽かった気がするな」

「……それはよかった。たまには吊り上げてもらうのも楽しいものですね」

 呑気な感想を零しながらエリオットの方へ近寄ってこようとする彼の肩を、オリバーがもう一度制止するように掴んだ。

「待った、それよりお前骨折して……はなさそうだが、内臓やられてないだろうな。アドレナリン切れてから血尿で気づいても遅いぞ、ちょっと診せろ」

「大丈夫、出来ないことはしませんよ。ご心配ありがとうございます、この通りナデシコそのものですよ」

 傷めないよう何か仕込んでいたのだろうか。サンディは腰部を挟むように叩くと、元気だと示すように上半身をいっぱいに曲げたりひねったり跳ねたりしてみせた。引き上げてくれた二人は開いた口が塞がらない程度らしいが、あの恐ろしい吊られ方を目の前にしていたエリオットにとっては、とても見ていられたものではなかった。潰れた内臓を搾る図を想像してしまい、危うく耐えかねて嘔吐しかける。口元を抑えてこみ上げる酸の気配を必死に堪えていると、ようやく医者から解放されたサンディが慌てたように駆け寄ってきた。

「エリオット、僕はあなたに謝らなければなりません」

 もうパニックこそ起こさないだろうが、その声と手は泣き出しそうに震えていた。

「本当にごめんなさい、足場の確認が不十分でした。後続をクレバスに落とすなんて最悪だ。怪我がないから大丈夫なんて思わない、今回はただ運が良かっただけだ、仲間を命の危険に曝してしまうなんてこれじゃあ何のために」

「違う、そういうことじゃない」

 つい遮るように呻いて、会話が噛み合っていないことに気づく。思えば彼は、クレバスの中でも謝罪を口にしていたか。

「いや、お前のミスじゃないよ……俺がトレースからずれたところで、弱い部分を不用意につついたせいだ。それにどうせちょっと天命を縮めたところで……ああいや冗談、友人の前で死ぬのは誰にとっても後味が悪いよ。堪えてないわけじゃないんだ。多分後からくる。反省もしている」

 戻ってきたローズに軽くひっぱたかれて訂正したが、軽薄と罵られても仕方ない態度だった。それまでの印象からは予想外な振舞いだったのか、微かに困惑しているらしいサンディを横目に、オリバーが呆れた口を挟んだ。

「昔からそうだけど、お前妙なところで開き直るよな」

「チキンなくせにって?大事なのは長く生きたかじゃなくてどう生きたかだよ。この山に骨を埋めるなら本望だけど、まだ死ぬつもりは無いから助かった。もし今死んだとしたら」

 と、余計なことを言いかけているのに気がついた。

「……今回エヴェレストへやって来たるはチーム・ナショナルジオグラフィック、撮影したドキュメンタリー映像には謎のナレーションが……ってね」

 おお怖い怖いと茶化すと、ようやくイギリス人らしい笑いが上がった。

 

  ///

 

「なあ、本当に大丈夫なのか」

 キャンプⅡに辿り着きテントを張り終わる頃、エリオットはこっそりサンディに声を掛けた。彼の問いに、サンディは一瞬何を言われているのか分からないような顔をしたが、すぐ思い当たると、嬉しそうに微笑み頷いた。

「ええ、あなたが本当に大丈夫なら、それと同じくらいに。ご心配いたみいります」

「それならいいけど。しかしどうなってんだよあのバンジージャンプ。早く駆けつけようとしてくれたのは嬉しいけど、最悪死んだかと思ってぞっとしたぞ。あんな心臓に悪い特技があるなら先に言ってくれ」

 この言葉には意表を突かれたようで、サンディは一瞬返しに詰まった。サーカスでもない場であれを見せられて驚かないと思っていることが驚きだった。それを世間知らず、命知らずという話で括り続けて良いのだろうか。

 サンディは身に覚えのないことで詰られたような戸惑いを浮かべつつも、エリオットの表情から心配の色も汲んだのか、丁寧に言葉を選びながら口を開いた。

「それは……驚かせたのは悪いことをしました。ええと、あれもネタばらしをしてしまうと単純なことなのですが、簡単ではないので教えるのは難しくて。万が一、仕組みは分かっているからと軽率に真似されるのもちょっと……。ということで仕掛けは誰にも秘密なんです。見逃してくれませんか」

 彼の秘密主義はエリオットの好むところではなかったが、今回は借りが大きすぎる。元より話してくれるかも怪しいのは分かっていたので、大人しく追及の手を引くことにした。

「分かったよ、助けられたのはこっちだ。ひどい迷惑をかけた。ありがとう」

「いいえ。本当のことを言うと、僕のミスではなくて安心してしまいましたよ」

 慰めるように、そして恥じ入るように告白して、彼は続けた。

「でも、誰の手落ちによるものかという点は、その後とる当然の行動には関係ありません。ただ仲間を滑落で失うなんて……もう絶対に、嫌だから」

 彼があそこまで狼狽えていた理由など、問うまでもなかった。血の滲むような声とは、まさにこのことだろう。恐らく唇を噛んで黙りこくってしまった彼にかける言葉を、エリオットは持ち合わせていなかった。

 

  ///

 

 キャンプⅡで迎えた最初の夜は、やや雲のかかった星空の下で始まった。サンディに訊けば、この夜は随分嫌な思いをしたと苦い顔をしたのかもしれない。それがどれほどの苦痛だったかを確かめるすべは、もうないのだけれど。

 

 日中の散々な展開に参り、夜のテントは少々重い空気だった。落ちた直後はけろりとしていたエリオットでさえも、軽率な行動を取ったこととその結果パーティーにかけた迷惑を思って、遅れて実感の追いついてきた情けなさに落ち込んでいた。

 心身共に疲れ果て、堅パンに添えたコンビーフ缶を肴に湯を啜る味気ない夕食を見かねたのだろうか。いつになく情けない顔をしたサンディが、もしよかったらと凍ったシャンパンを差し入れてきた。

「まさかこれまでずっと運んでいたのか?」

 有難さよりもぎょっとして尋ねると、彼は苦笑いして首を振った。

「夕方散歩していた時に話したチームから貰ったんですよ。お酒の好きな人たちだったようで、頑張ってここまで持ってきたはいいけど、やっぱり荷物だから禁酒するって。とはいえ飲まなければ持ち帰るにも重いし、内輪で深酒するのも何だから、是非瓶一本分の重みを引き受けてくれないかと押しつけられてしまいました。僕は体質でアルコール厳禁なので、もしよかったら皆さんでどうぞ。飲まれないのでしたらお返ししてきます」

 本来ならばこんな寒く過酷な環境で疲労している身体にアルコールを流し込むのはよろしくないが、流石に今日は気が滅入っていたのでつい手が伸びた。その反応にどことなく嬉しそうなサンディが、素敵な氷を湯煎する準備を整える間に、ローズが興味津々で瓶を手に取った。

「あら、随分な年代物みたいね。頂き物に失礼だけど大丈夫かしら」

 くるりと回しながらラベルを眺め、首を傾げる。彼女が心配するのも尤もなほど、ラベルは変色して傷み掠れていた。しかしコルクはしっかりして密、瓶ガラスも綺麗である。大切に扱われていたのだろうが、その割にラベルの傷が多いのが気になる。変色は経年によるものだろうが、傷は見たところ殆ど新しいものらしい。運んでいる途中で擦ってしまったのだろうか。

「グラン・クリュのヴィンテージか? こんな古そうな代物は初めて見るが……随分いいシャンパンを分けてくれたもんだな、とんだ気前のいい金持ちらしいじゃないか。どのチームだったんだ」

 隣から判読の難しいラベルに目を凝らし、オリバーが感嘆の声を上げる。粗食にも耐えるが、美味いものは分かる男だった。年は潰れて読めなかったが、産地などからして上物なのは明らかだった。

 問われたサンディは、少し困ったように眉を寄せた。

「ん……そこは内緒にさせてください。同じ頂を目指す人からとだけ。随分な美酒愛好家らしいですが、真剣に高みを目指していましたよ」

「ふうん。まあ言いふらされて気分の良いものでもないのは分かるが、調子に乗って持ってきたものだってのは伝えて良かったのかい」

「だって元々単独行の予定だった僕がシャンパンなんて持っているわけないでしょう。流石に出どころの全く分からないものを勧められませんよ」

「分かってるよ、あんた本当に真面目なんだな」

 弟分を可愛がるような手に飛行帽の頭をわしゃわしゃと撫でられ気恥ずかしそうにしながら、サンディは少しの躊躇いの後、マルチツールの栓抜きを刺した。

 凍ったシャンパンが溶けていくのを今か今かと待ちわび見守るのは、なかなか楽しいものだった。緑柱石の硝子の中で美味しい氷がしゅわしゅわ、ぱちぱちと音を立て始めると、瓶の口しか開いていなくても分かるほどの驚くべき薫香が立ち昇ってくる。せっかくの泡を、香りを逃すのは非常に勿体ないことだが、それでも儚い匂いと音をじっと楽しむのは素晴らしい時間だった。

 やがて十分に溶けると、サンディはそれを三人のマグに注いでいく。細身のグラスが無いのは本当に惜しまれることだった。それでも気品は失わないとばかり、深いゴールドの液体に真珠のような泡が弾け、水面へ浮かびゆく様は黄金色に砕け散る流星雨のようでもあった。辺りはあっという間に、焼きたてのブリオッシュのような素晴らしい香りに包まれた。

 乾杯して口に含み、また驚く。見事に熟れた深い味わいは、シャンパンというよりワインのようだった。青りんごのような白系果実の爽快感と桃のようなまろやかな果実味が、同時に存在しながらも引き立て合う複雑なフレーバー。ただ柔らかに甘いだけでなく、この氷と岩の世界にあって森の下草が混ざり合うような爽やかさを伴っていた。更に熟した洋梨のようなアクセントまでもが加わり、引き締めるようにライムのタッチが重なる。複雑な甘味に浸っている間にも真珠の雨は弾け続け、水晶の欠片のように散りばめられた。やがて口腔を満たす風味は白い花やエキゾチックウッドの甘美なテイストに変化していく。そして最後は白い花の印象を長く引きつつ、薔薇のような、不思議とどこか切ない余韻を残して消えていくのだった。

「美味しい……」

 誰が呟いたか、思わず三人の溜息が重なり笑ってしまう。口々に自分の感じた味わいを形容し、称賛を浴びせながらじっくり楽しむ。この素晴らしい土産を差し入れたサンディも、一緒に飲んでいるかのように嬉しげな目を細めて微笑んでいた。

 これまで飲んだどれと比べるべくもない、実に見事なシャンパンだった。三人で分け合えば大した量でもなし、嗜む程度とはいえ久しぶりのアルコールは身に沁みた。これだけ美味しければ猶更である。程よく酔いが回って気が解れれば、ぽつぽつと会話も弾みだした。

 エリオットが思い出したようにクレバスの中で撮った写真を見せると、場は大いにわいた。「メールストロームを凍らせたようだ」という感想を述べたのは、眉間にしわを寄せたオリバーだった。「ノーチラス号が凍りついていそう」だとローズも賛同し、サンディだけが話についていけていないぼんやりした顔で聞き役に徹していた。

「悪い、興味ない話だったよな」

「ああ、お気になさらず。人の話や声は聞いているだけでも楽しいものですから」

 エリオットの言葉に微笑んで首を振ったサンディは、本心からそう思っているように見えた。この性格で一ヶ月以上も孤独に登り続け、終わりもはっきりしないぬばたまの夜を明かすのは、確かに耐えがたく寂しいことだろう。

「でもクライミングの話の方が楽しいんじゃない」重ねたローザが、勇敢にも嫌な事件の清算に乗り出した。「今日は……驚いたわ、クレバスへ飛び降りるなんて」

「ふふ、奥の手ってやつですよ」

 得意げな笑みで答える様は、やはりどうしようもなく常識からずれている。屋敷の塀から飛び降りた子供が危ないと咎められたのに、勇敢さを誇って胸を張るのと全く同じ調子だ。その能天気さを諫めるように、オリバーが険しい顔で咳払いした。

「怪我がなくて何よりだがね。まさか無傷とは思わなんだ、自力で登り返してくるのを見た時はこっちが腰を抜かすところだったよ」

「ええと、事前に話さなかったのは気が利かなかったと思っています。でもほら、結果としては悪くなかったでしょう」

「まあな。あんたといるとクライミングひとつ取っても驚かされてばかりだ」

 軽く叱られた子供のように肩を竦め、ちょっとした言い訳のように並べる言葉もまた真だった。何を言ったところで、幽霊を鞭打つようなものではないかと思えてくる。だからつい、意地悪な好奇心が、いつもより彼の痛がりそうなところを刺してみたいと口を開いてしまった。

「この間は幽霊話で言いそびれたけどな、正直なところ俺はお前のクライミングがあまり好きじゃない。キャンプⅠのロッククライミングだけじゃない、中間キャンプ前で一緒に登り始めてからずっとだ」

 エリオットの言葉に、暢気に笑っていたサンディがぴくりと眉を動かした。

「……これはちょっと意外だな。理由を訊いても?」

「美しいけど気味が悪い。いや、お前の能力を疑ったり批判したりするわけじゃないよ。むしろ非の打ち所がないと思っているくらいだ。実際今日は命を救われている」

 温厚だが、機嫌の変わり方は気紛れ屋にありがちな、刹那的なタイプの青年だと分かるようになっていた。サンディの表情を窺い、これはまた見事に地雷を踏んだかなと思いながら言葉を足していく。

「でもビレイしていたって、絶対に死なないってことは無いだろ。なのにお前の登り方は自分が死ぬなんて全く考えていないようで、何となく気味が悪い。俺たちの安全確保はちゃんと考えているくせに、自分は完璧な型を真似ているだけで、やっていることがちぐはぐだ。今日だって、俺の安全のことはちょっと尋常じゃないくらい重視してくれたけど、仕掛けがあるにしてもアレがお前に負荷をかけてないわけが……。だからこれはやり方の選択についての非難。お前のクライミングは楽観的という領域を超えて無責任だ、と俺の目には映る。他者に対してじゃない、お前自身に対して。消極的な自殺を見ている気分になる」

 完璧なクライミングで名高きかのジョージ・マロリーも、きっと自身が滑落する可能性なんて殆ど考えていなかったのではないかと思う。絶対に山では落ちないと言われた人だ。だがそんな彼でさえも、決して落ちた経験が無いわけではなく、その末期は滑落死であった。それに山で迂闊なことをする人間によって、登山というものに泥を塗られることをひどく嫌っていた。当然彼も命綱を使っていたような場所でこなすクライミングにおいてビレイの手間を削るなど、正気の沙汰とは思えなかった。ましてあの人に心酔していると思しきサンディが。

「まあそんなこと無いって言われたら終わりなんだけど。登り方自体は惚れ惚れするくらい見事だし、批判しといて何だけどお前が落ちるところなんて想像できないよ。だからその実力故に死への恐怖なんて感じないと言われても、俺の実力じゃ驕りだと切り捨てることは出来ない。俺には触れられない世界の話なんだろう」

 上手いけど安全確保が甘すぎて怖い。言ってしまえばそれだけの話で、それさえ抜いてしまえば、残るのはサンディという常識はずれなクライマーへの驚嘆と異端への拒否感、そして無謀なほどの勇敢さと技量に対する嫉妬まじりの羨望だけだった。

「それでもお前のクライミングは本当に変なんだ、自覚があるのか知らないけどさ。安全を軽んじるようなところを抜いたら、素晴らしく上手いけど信じられないほど古臭いし。マロリーのクライミングも、きっとこんな感じだったんだろうと思わされるよ。もっとも凡人としては、お前のそれも無責任ではなく楽観であってほしいと思うけどね。俺が言いたいのはこれくらい」

「そうですか」

 長広舌への返答は短い一言だったが、先程まで気色ばんでいたサンディの目は、これまでに見たこと無いほどの喜色に満ちていた。オリバーが小さくふき出して、からかうようにその脇をつついた。

「随分嬉しそうだな」

「マロリーのように登ると言われて嬉しくないクライマーがいるものか!」

 最高の誉め言葉だと、「サンディ」を名乗る彼は断言した。光栄だとくすぐったそうに浮かれる様は酒に酔うより尚明るく、都合のいい耳だとエリオットはぼやく。するとサンディは向き直って、少しだけ真面目そうに付け足した。

「いえ、批判は甘んじて受けますよ、油断しているつもりはありませんが。しかしクレバスを踏み抜いても落ち着き払っている人に言われるとは思わなかったな」

 軽くやり返す言葉に無言で肩を竦めるが、すっかり機嫌の良くなった彼はちっとも気にかけていなかった。またくすくすと笑いながら、子供のように爪先を揺らしている。

「それにしても、自分が死ぬなんて全く考えてないよう、か。うん、違いない。首に縄をかけたところで、蹴る椅子が無ければ問題にならないんですよ。俺は落ちない。僕は死なない。心配ご無用だ」

 言っていることは普通ならば傲慢そのものなのに、彼が言うと実力に裏打ちされた正当な自信に思えてくる。羨望と嫉妬を自覚してひっそり溜息をついた男は、当のサンディが話題を切り替えにかかったことに内心安堵した。

「ところで、皆さんはどうして身命を賭してこの山に?」

 見知らぬ者が顔を合わせれば早々に出そうな疑問を、そういえばまだ話していなかったなと、問われた三人が顔を見合わせる。それが皆ばらばらなのよと、可笑しそうにローズが口火を切った。

「多分私が一番単純かな。世界一高い場所に登りたかった、ただそれだけよ。誰かさんも誘ってくれたことだし、丁度いい切っ掛けだったの」

 単純に高い場所と緊張感が好きなのよと、明るく笑った。

「もうこの山に冒険は残されてないって言う人もいるし、確かに未踏峰だった時代や五十年前に比べたら危険も未知も減っている。でも冒険は危険を冒すことだけを意味するわけでもないし、初めて挑む高みなら、私にとってそれは十分にわくわくする冒険よ。これ以上に生きている実感を得られる瞬間はない。人が多いから冒険がないなんていうのは、ちょっと鈍すぎるわね」

「なるほど。確かに、人がこの極点のことを知りつくしているかのような顔をするのは甚だ傲慢なことですね」

「自分は違うとでも言いたげだな」

「とんでもない。そんな驕りを抱いていたら、成し遂げられるはずのことも成せなくなりますよ。楽観は必ずしも悪ではありませんが、油断は禁物です」

 恐ろしいくらいのクライミングをしてのける彼が真面目くさった顔でそんなことを言うのは、どうにも可笑しかった。

「あんたの登山思想を聞かせてもらうのも面白そうだな」

「そんな大したものは持ち合わせていませんよ。語れるとしたら、先輩からの受け売りばかりだ」

「クライミングの師匠?」

 エリオットの口出しに、サンディは意表を突かれたように目を見開いたが、すぐにあの浮かれたような笑みを浮かべた。多分それは「憧れの人物について問われたような」とでも形容すべきものなのだろう。どうやら登山もクライミングも、随分と素晴らしい人物に師事していたらしい。

「……ふふ、そうですね。興味があるならいずれお話ししましょう、でも今は皆さんの登る理由を知りたい気分です」

 いかにも喋りたくて仕方ない様子だったが、今は堪えるらしい。話の続きを促し、滑る眼差しがオリバーと合う。

「俺は既に南東稜から登頂したことがあってね。今回も登頂できれば何よりだが、自分が登り詰めるためというよりも、可愛い後輩たちのサポートと、医療スタッフとして同行することにしたのさ。初エヴェレストにもかかわらず、北東から身内だけのスピード型パーティーで挑みたがる方向音痴の馬鹿がいたもんでね」

 二人の視線を受けて、余計なことを言うなと零す。しかし時既に遅し、サンディはオリバーに合わせてまっすぐに興味の眼差しを向けてきた。

「では、この遠征はエリオットが中心になって計画したんですね」

 その言葉に、エリオットはむすっとしたまま頷いた。

「この通りの少人数だ、確かに発端ではあるけど中心とは言えないくらい、仕事は分担されると同時に兼ねられているよ。リーダーって柄でもない」

「でも発起人には違いないでしょう。どうしてはるばるこちらまで?」

 その様ときたら、先祖代々の立派な庭園を自慢したくて仕方ない、緑の手の若旦那を思わせるものだった。

 本当は喋りたくなかったが、サンディの素直な期待の目につい心揺らいだ。アルコールが入って、多少警戒が緩んでいたのかもしれない。踏み込むことを許すラインだけは慎重に見極めながらも、エリオットは重い口を開いた。

「俺が此処へ来たのは、探しものがあるからだ。正直なところ見つかるとは思っていないけど、おかげで北から登らないことには意味がないし、大人数の数珠繋ぎキャラバンも避けたくてね」

 迂遠な答えに、しかしサンディは思わぬ反応を見せた。

「それは……何を探しているんですか」

 心なしか、彼の声はひりつくような緊張の糸を一本張ったようだった。じっと見据えてくる宙色の眼からは、浮かれた期待の色はすっかり消え去っていた。

 自分は何か、サンディの神経を逆なでするようなことを言ってしまったのだろうか。いや、言ったに違いない。彼なら凡その検討がつくに決まっているし、今の言い方だけであればある種の誤解を招き、不興を買う可能性があるのも承知して然るべきだった。

 エリオットは継ぐ言葉に迷う。他人に自分の探しものを、その意図を明かしたくはなかった。しかし幸いかな、言葉を詰まらせた彼の肩を叩き、オリバーが口を挟んできた。

「聞いても無駄だぜサンディ。こいつは俺にもローズにも、その大事な探し物が何なのか教えてくれないんだ」

 まったく頑固者で嫌味な奴だぜと小突きながら、軽くつねってくる。助け舟に感謝しながら、何食わぬ顔でとぼけることにした。

「帰り道で探せばいいからな。ローズがこれだけ登りたがっているんだ、山頂に立たないことには落ち着いて探しものなんて出来やしないさ。だから登頂したら……その時は、話すかどうか考えるよ」

「そうですか……」

 サンディは納得していない風だが、これ以上突っかかることもないと思ったのか、案外大人しく引き下がった。

 何となく彼の登る理由を聞きそびれてしまう。ローズかオリバーが訊いてくれればいいのにと思ったが、二人も触れかねているようだった。

 話題は散漫に流れていき、星辰の傾きと共に慌ただしい一日の終わりが近づいていく。サンディが手首に目をやり、そろそろお開きでしょうかねと呟いた。高度相応の性能を備えているが、他の装備に違わず、遺品のように疵の多い品だった。

 こぢんまりと広げた道具を片付け、荷物を整え、各々に寝支度を始める。ローズはテントの裏手にしゃがみ、解凍に使った水でシャンパンボトルを濯いでいた。空のボトルはそこまで重くないが、それこそ一グラム単位で重みを気にする登山において進んで背負いたいものではない。確かにこの高度まで酒瓶を持ってくるなど酔狂なことで、普通はベースキャンプに置いておくのが関の山だろう。恥じているというからにはこちらから探りを入れるのも失礼だが、一体どのグループだったのだろうと他の灯りを見やる。赤に黄に緑に、まばらな光をはらむドームの上には、怖いくらいの星を散りばめた黒い天球が広がっていた。

 見慣れたとはいえ、物凄い光景だ。ひとりで見上げるには巨大すぎる概念だ。ここまで光の点が多いと、有名な一等星も却って見つけにくい。そもそもあれは冬の星だ、イギリスよりはここらの方が観測しやすいといっても、五月に入った今見つかるものだろうか。そんな気紛れで鋸歯のような地平を眺めていると、何かを探すようにきょろきょろしながらサンディがやって来た。

「やあローズ、洗い物をしてくれていたんですね。しんどいでしょう」

 残りは僕がやりますよと続けながら、長身を折り曲げてしゃがみこんでいるローズの手元を覗き込んできた。

「ありがとう、もうこれで終わりよ。段々沢山食べられなくなってきているし、洗い物はちょっと楽になるわね」

 ボトルの水気を切っている間に、サンディは先んじてクッカーを拭きながらまとめてくれていた。

「それより、何か言いたいことか相談でもあるんじゃない。どうしたの」

 作業しながらちらちら向けてくるもの言いたげな視線を見かねて尋ねると、サンディは深刻そうな沈黙を挟んだ。

「……ええと、その瓶をどうするつもりなのか知りたくて」

「これを?」

 拍子抜けして、ローズは思わずその面をまじまじと見た。だがからかっているわけではなく、至って大真面目らしい。

「そうね、多分ここで空き缶あたりと一緒に纏めておいて、下山時に回収することになるでしょうね。何か困る?」

 今しがた洗ったばかりの瓶を改めるが、中身はともかく、空になったガラス瓶に大した価値があるとは思えなかった。そんな大層な代物なら、元の持ち主たちもザックの中でラベルが傷だらけになるような扱いはしないだろう。彼女の至極真っ当な答えに、サンディは何故か少し暗い顔をした。

「やっぱり捨てますよね。ねえローズ、要らないのならその瓶は僕が貰ってもいいですか」

「ええ? ひと口も飲まなかったのに、ごみだけ押しつけるわけにいかないわよ」

「ごみじゃない」

 酷く機嫌を損ねた低い声に、ローズはぎょっとして顔を上げた。サンディの言っていることも表情も、大切にしている宝物を侮辱された子供そのものだった。しかし視線が合うと彼は我にかえって、ぱっと取り繕うような笑顔を浮かべた。

「あー……あの、実は綺麗なラベルや王冠を集めるのが好きで。そんな古そうなものは珍しいから……だから、その瓶が欲しいんです。すみません、あんまり自分らしくない趣味だと思っているから恥ずかしくて、つい」

 アンティーク愛好家なんて柄でもないでしょう、と彼は肩を竦めて、顔色を窺うような目を向けてきた。

 ローズは物問いたげにじっとその様を見つめていた。が、追及はやめにしたのだろう。ふっと笑うと、傷ついたエメラルドのように瓶を差し出した。

「ううん、こちらこそ無神経なことしちゃった。私は芸術や美術はからきしだから、この美しさに気づけなかったのね。ラベルに中身を零さなくてよかったわ、どうぞ」

 優しく瓶を差し出すローズの言葉に、サンディもどこか安堵した様子で受け取った。そのまま随分と大事そうに抱えると、丁寧に早口な礼を言いながら、いそいそと自分のテントに引っ込んでいった。恐らく瓶からラベルを剥がす作業にかかるのだろう。もしも彼の言葉が本心などということがあれば、だが。

「機転は利いても役者は大根」

「エリオット」

 天幕の向こう側で呟かれた余計な一言に、ローズが軽く釘を刺した。

 寝床を整えながらこっそり聞き耳を立てていたエリオットは、もしもサンディがシャンパンに何か混ぜ物をしていて、証拠隠滅の為に持ち去ろうとしているのだとしたらどうするつもりだと思った。最初の頃なら多分口にしていただろうが、今となってはそんな疑いを明言してわざわざ険悪さの種を撒くほどの気も無かった。そもそも本気で心配するなら、ローズはともかくエリオットとオリバーは口にしていない。他者からの貰い物である以上、サンディ本人だけではなくその人を見る目も信じた上での行動だったし、彼自身もそこは分かっているだろう。

 だからきっと、最初はフリではなく本当に上機嫌なくらいだったはずなのだ。彼は信頼を得られることを喜ぶ性質のようだから。しかし今や、アルコールを入れて全体の空気が和らいでいったのに反し、サンディは随分と気が立っているようだった。無論、呆れるほど動じない普段と比べればという程度ではある。日中のトラブル続きについては、彼はとっくに気持ちを整理して過去のものにしているのだ。少なくとも今のところは自分の発言が悪かったと分かっているエリオットは、さてどうしたものかと天幕の向こうを見つめた。

 最初の夜に睨まれた時よりも尚たちが悪かった。彼は多分、触れられたくない傷が多すぎて、譲れないものが大切すぎる類の人間だ。平素あの振舞いで!

 

  ///

 

「変わった理由で登るんですね、探し物のために高いお金と随分な労力をかけて此処まで来るなんて。調査隊を組んでいるわけでもないのに」

 整ったテントの傍ら、ドーム状に張られた黒い天幕に無数の穴を穿ったような星河一天の宙を見上げていると、闇から湧くようにサンディが話しかけてきた。彼の誠実さに少し驚きながら、エリオットはその言葉に首を振った。

「俺はそういうことが出来るタイプじゃないよ」

 そうですか、という呟きは、本題に触れることに慎重になっているようでもあった。どこに行っていたのか、背後から寄ってきた彼は並び立つが、人見知りが二人きりになってしまったような、気まずい沈黙がおりる。訊きたいことなら、お互いに沢山あるはずだった。

 落ちる星がないものかと、ぬばたまの闇を見つめ続ける。珍しく風の弱い夜だった。しかし静けさは決して心地よいものではなく、ひりひりと肌を焼く。隣人は今、どんな表情をしているのだろう。こんな時に煙草が欲しいものだと、ふと思った。

 やがて耐えかねたか、低くざらついた音が小声に夜気を這った。

この山(エヴェレスト)でサンディと言われて一人しか浮かばないというのなら、北稜(ここ)での重要な探し物の心当たりはかなり絞られると思いませんか」

「そうかもな、当たってるのかは知らないけど。たとえば俺の友達が昔此処で死んで、その遺品を探しに来たかもしれないだろ? オリバーが亡霊じゃなければ、そんな事実は無いんだけどさ」

 サンディはいつものように両手をポケットに突っ込んでいたが、両の拳がぐっと握られたのが分かった。

「……あなたの探し物は、あなただけではきっと見つけられない」

「うん、さっきも言ったけど期待はしていない。でも探しに行くこと自体に意味が無いというわけでもない」

 苦りきった声をウィローのように流す。

 遥々イギリスからこの山まで来たからには、無論それだけの理由がある。隣の男が名乗るのと同じあだ名を持っていた青年が同じ場所にいた頃とは比較にならないほど楽になった旅路ではあるが、未だ動機も曖昧なままに来られる場所ではない。問われれば答えそのものに迷いはなく、揺れるのはどう答えるかだけだった。まるでいつもと立場が逆になったような棘と受け流しだった。

 納得しかねます、と掠れ声は呟いた。

「よく分かりませんね。探し物は見つけるべくして探すものでは?」

「そうでもないと思うよ。探すこと自体に意味が無く、見つからない探しものが無駄だというのなら、聖杯探索の物語において尊いのはガラハッドただ一人となってしまう」

「詭弁です。あなたの探し物は、あなたにとって見つけ出すほどの価値が無いものなんだ。それが聖杯ではないか、あなたが騎士ではないかだ」

 サンディがここまで強く人の意見を否定するのは珍しかった。子供のようにむきになりかけるのを、慎重に言葉を選ぶことで抑えようとしているような調子だった。

「その二択なら後者だ、俺は多分空の星を掬う力を持っていない。でも俺は自分の探しているものを尊く思うし、見つけ出すことに大きな意味があるのも確かだ。完全に諦めたわけでもない」

 この答えに、サンディは何を思ったか少し黙り込んだ。暫くエリオットの言葉を反芻するように考え込み――そして静かに首を振って、こういう比喩や議論はあまり得意ではないけど、と呟いた。

「それでも、最も価値ある騎士はガラハッドだ。若くても、老いていたとしても。あなたの構え方は甘えだ、受け入れるわけにはいかない」

「別に説得したいわけじゃないよ。お前の登る理由が何であれ、俺たちに害のあるものじゃなければ批判する義理なんて無いし」

「…………」

 サンディは何か言い返したそうにしていたが、上手く言葉に出来なかったのだろうか、不貞腐れたように黙り込んでしまった。だからといって、彼を言い負かしたのだという気にはならなかった。宙の星までもが自分を詰っているような気がした。

 エリオットは、サンディが自分は怒っていると伝えてくるほどの憤慨を、疑念を、何も解決できていないという自覚があった。進んで蟠りを解消しようとしてくれた彼の誠実さを、不誠実にやり過ごしてしまったとさえ思った。

 率直に言えば、サンディが怒るとは思わなかったのだ。テントに忍び込んだ時すらあそこまで寛容だった彼が、あの言葉でここまで怒るなどとは。それでも不興を買うことは予想して然るべきだったが、まさかこんなことになるとは素面でも思わなかっただろう。

 どうしようか、内心迷った。仲間内に不和を抱えることがどれほどのリスクかは理解しているつもりだった。こんな言い逃れのような言葉を並べずとも、サンディだったらエリオットの探しものを笑い飛ばすことだけはするまい。余計に怒ったり、最悪パーティーからの離脱を宣言したりする可能性はあるが、猜疑心を抱えてアンザイレンするよりはましかもしれない。

 それでも、結局口を噤むことを選んだ。エリオットにとって、この山に登る理由、探しものは本当に大切なものだった。サンディが頑なに身元を明かすことを拒むのなら、こちらが本懐を明かす義理も無いだろう。代わりに問いを一つ投げ返した。

「そこまで言うあなたは、何故山に登るのか。お前の目的だって、探し物じゃないのか?」

 さもなくば、終わった舞台の墓守役だ。

 深青の眼は、ちょうど雲の塊に隠されている頂をじっと見つめた。束の間、その横顔に、その瞳に迷子の姿を見たような気がして、はっと息を呑む。

 しかしエリオットが何か言う前に、サンディは答える言葉を拾い上げたようだった。

「僕が登るのは、そこにエヴェレストがあるから(b e c a u s e i t' s t h e r e)……でした……きっと。今は、やり遂げねばならないことがあるからです」

 曖昧な物言いは、エリオットにとって意外なものだった。この山域を何度も登っていると言うからには、最初からもっと明確な思い入れを持つ理由があるとばかり思っていたのだ。

「自分の意思で始めたんじゃないのか」

「いいえ、僕の意志です。僕が選んだことだ。他の誰に依るものでもありません」

 気を取り直したような断言は、どこか悲壮な痛ましささえ感じる。嘘ではないのだろう、事実でもあるのだろう。しかし何かボタンを掛け違えているような気持ち悪さを感じてしまうのは、二人の「サンディ」を重ねる意識が働いてしまうからだろうか。思考を誘導されているようで癪な気もしつつ、エリオットは重ねて問う。

「始まりは誰かに突き飛ばされたか、引き摺られたかじゃないのか」

 サンディは、少し悲しそうにも見える様子で首を振った。

「誰がこの背を押し、両の手を引いたとて、踏み込んだ以上は僕の責任です。たとえそこが地獄であろうとも、明けない夜闇を盲目のうちに這うような道程であったとしても、僕が選んだ旅だ。それは誰にでも当てはまるものではないでしょうか」

「じゃあ、お前の登山は辛いものなのか」

「大丈夫ですよ……そもそも登山は苦難と分けて語れないものでしょう。それに、僕はまるっきり独りぼっちというわけでもありませんから」

「死の陰の谷を、共に往く存在があると?」

「はい。ええと、それにほら、時々こうして道連れが得られることもありますしね」

 茶目っ気のあることを言うが、向けられた笑顔はぎこちないものだった。得た道連れが良き隣人かは一考する必要が出てしまったと思っているに違いない。

 何にせよ、痛ましい姿だと感じた。当たる人の絶えて久しい古い暖炉が、消えない熾火をただひとつ抱いて、それゆえに朽ちずにいられぬような佇まいだった。

「でもお前は――」

「はい、そこまで」

 畳みかけようとするエリオットを遮り、天幕の入口が持ち上がると、ローズが割って入った。

「もう遅いわよ。あなたたちは早起きが得意かもしれないけど、私とノルはそうでもないんだから消灯時間にさせてほしいな」

 時計を見たエリオットとサンディは揃って目を見開く。ローズの制止も尤もだった。

「ああ、本当だ。それでは僕は失礼します、二人ともおやすみなさい」

サンディはちょっと恥ずかしそうに会釈すると、ぼろのテントに飛び込んでしまった。

 続いてエリオットが自分のテントに入ろうとすると、通せんぼするようにローザが立ちはだかった。ぴしゃりと垂れ幕を下ろした彼女は、灰色の目を細めて苛々と指先を揺らした。

「きついわね、目端の利くいい子なのに。あなた、いつの間にそんな意地悪なおじいちゃんか、お姑さんみたいになったの?」

「俺は別にそんなつもりじゃ……」

「じゃあエレメンタリーかしら。ちょっと目に余るわよ、どうしてノルが何も言わないのか不思議なくらい」

 つい怯むエリオットに追い打ちをかける彼女の言い分にも一理ある。サンディとの言い合いが転校してきた同級生とのそれなら、ローズに正論で責められるのは歳の近い先生に怒られている気分だった。反射的に委縮したところで、はいはいと大人しく聞く気はない。

「エリオット、あなたまだサンディを疑っているの?」

「当然。名前も顔も明かさない、食事も共にしない奴を信用する方がどうかしている。瓶の言い訳だって、まさか信じてるわけじゃないだろ。なあローズ、君は可哀想だからといってお人好しが過ぎるんじゃないか。人間は犬猫とは違うんだぜ」

「可哀想? サンディのどこが可哀想だっていうの」

「そんなの俺は知らないよ、時々寂しそうにしているところなんかじゃないの。君の方がよっぽど感じていると思ったんだがなあ」

 言われれば思い当たる節はあるのか、ローズは一層サンディを慮ってエリオットに詰る目を向けるので、却ってばつの悪い思いをする。

「そんな顔するなよ、俺が悪者みたいだろ」

「……分かってる、分かってるけど、私はあなたたちみたいに割り切った性悪説には乗れない」

「それを責めたつもりはない。一人くらいは性善説で動く奴がいた方がいいよ。ノルの本懐は知らないけど、俺は俺の考えとして、あいつを信用しきれないだけだから」

 全員が全員、あの新入りに全幅の信頼を置くのは危険だと思っている。それと同時に、彼が本当に悪意も罪もない寂しがりで善良な登山者だったとしたら、全員が強い警戒心を抱くのはあまりにも酷い仕打ちだという思いはあった。この一ヶ月で彼から受けた恩恵はあまりにも大きく、見合うだけのものを返せている自覚はなかった。

「……これはサンディには内緒にしてほしいんだけど、あいつのことは本当に良い奴だと思っているよ。強盗でもする気なら、こんな極所でやるよりよっぽど良い狩場があるはずだし。彼自身とんでもなく有能で、帽子の中に蜂の一、二匹は飼っていそうだけど面白いし、いつも一生懸命で親切だ。最初にあいつの同行に折れたのは、民主主義と好奇心からだったけどね。今日だって、きっと元から心証は良くないだろう俺のことでも、ちょっと驚くくらいの必死さで助けに来てくれた。分かってるだろうけど、あいつはクレバスに下りてきた時もパニックを起こしかけていたよ……手元は正確だったけど、多分経験を積んでいるから動けただけだ。俺はあれが演技だとは思わない」

 あれが必死になっているふりをしているだけだったというのなら、相手がこちらの想定より一枚は上手だったものと諦められる。エリオットも、彼の善性だけは信じられるようになっているのだ。

「ただ、そんな人間がどうして素性を隠したがるのかが分からないんだ。善意で動いている奴が、こちらにとって害なき善人であるとは限らない。俺の中でサンディは信用できると思うほどに、疑わしさが増していく。知らない悪魔より知っている悪魔の方がましではあるけど、呼び込まない幸いに勝るものはない」

「百年前のアーヴィンに憧れているとかじゃないかしら。後輩としては嬉しいくらいね」

「それならそれでいいんだけどな。子供っぽいだけだ」

 しっかりしている割に、妙に世間ずれしていない印象があるのも事実だった。可愛い子じゃないのと、ローズがやっと笑みを見せた。

「ま、あなたたちが常に一線を引いて警戒しているからこそ私は安心して信用できるというのもある。損な役回りを押し付けているわね」

「別に。君が素直にあいつを信じているからこそ、俺だってちょっと強めの疑いをかけられるんだ。無事下山してから、あいつに謝るのが誰になるかってだけの話さ」

 謝ることになってほしいもんだねと、心から思った。

 


 

「アーヴィン、オックスフォードから来た我らが仲間たる青い目をした青年は、私たちの誰よりも若いが、同時に実に素晴らしく優れた人物で、その〝青さ〟という長所から傲慢になることもなければ、他隊員の歳を理由に押し潰されることもない」

 

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