CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

STARGAZER: 3rd Stage

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これの続き。

 


 

3rd stage: The night that all time broke out

 

"It is wonderful that five thousand years have now elapsed since the creation of the world, and still it is undecided whether or not there has ever been an instance of the spirit of any person appearing after death. All argument is against it; but all belief is for it."

  ──Samuel Johnson, 31st March 1778

 

 

 二〇二四年 四月十九日

 

 水筒二本に、良い匂いの湯気を立てる紅茶が注がれていく。咎める声は無く、ただ蓋を閉めるまでその手元をじっと見つめているだけだった。不躾な警戒に苦笑しながらも、掠れ声は「寒いですねえ」と呑気に呟いて西の空を見やる。よく晴れているが、午後は崩れそうだ。骨の髄まで凍みるような、キンと痛む朝だった。

 肌を切る寒風や飛ばされてくる小石、そして強烈な日光から顔を守るために、バラクラバを引き上げゴーグルを下ろせば、肌や目の色も血の気も分かったものではない。二本足の思考する葦たちは、ただ粛々と命懸けの行程を歩きだす。一行は輝く頂とキャンプⅡに背を向けると、ノースコル目指してトレースを下り始めた。

 

 八〇〇〇メートル峰ともなると、登山者は高所順応のため昼の内に標高の高い場所へ登り、低いところへ下りて眠り、そして更に高い場所へ登るという手順を踏む。この山の頂を踏むのに最短でもおよそ一ヶ月はかかると言われるのは、その三歩進んで二歩下がることを繰り返すような歩みを、気紛れな天候の隙を突いて進めていくことになるからだ。それ以上に日程を縮めるのならば、安全性を大きく削りながら登ることになる。

 一行が最初にアタック・ベースキャンプに到達してから、既に十日が経過していた。毎日行動できたとしても基本的に七日かかる行程であることを思えば、凡そ順調な旅路と言える。彼らは昨日キャンプⅡに到達して一泊し、そして今、順応のため再びキャンプⅠまで戻ってきていた。だというのに気温計の赤はといえば、これまでに見たことないほど小さく縮こまり震え上がっていた。

 午後はキャンプでテントにこもり、体を休めゆっくり過ごすのも悪くはなかった。これが最初のキャンプⅠ到達であればそうすべきところだが、今日は下りてきたところである。サンディの助けもあって、パーティーの体力には思いのほか余裕があった。

「もしよかったら」と、彼は進んで引き受けた余分な荷を下ろしながら提案した。「このキャンプの裏手に、なかなか楽しい岩場(クラッグ)があるんです。散歩がてら、軽くクライミングでもしませんか」

 ガイドの案内した岩場は、キャンプから二十分ほど歩いて行ったところにあった。「軽く」の基準が違うのではないかという懸念は杞憂に終わり、上まで登り切るだけならば確かに手頃な岩場だった。

 高さよりも幅があり、どことなく城塞を連想させる趣があった。しかし岩肌は起伏に富み、基礎部はウォールでなくクラッグになっている。その先は、殆どクライミングとは言えない程度の簡易なルートを三点支持で登っていくことも、やり応えのあるバリエーションをこなしながら登り詰めることも可能らしい。テントにこもって貴重な燃料を消費するよりも、荷を下ろし、気楽に登りながら体を温め酸素を回すのは、実に良い提案だった。

 岩肌を眺めていると、ルートの候補ラインがいくらでも見えてくる。久しぶりに目指す場所へのプレッシャーから離れて登れることに、エリオットは自然と心浮き立つのを感じた。

 各々下見を始めて十分ほど経過した頃だろうか、サンディがエリオットへ歩み寄り、話しかけてきた。

「皆さんの中で、一番クライミングが得意なのはあなただそうですね。リードも?」

「俺がすることが多い。悪いな、岩場さえも任せっきりにしている」

「とんでもない。簡単なクラッグやチムニーならともかく、戦艦の首をひとりでリードする気はありません。頼りにしていますよ」

 彼は横に並んで岩場を仰ぐと、ちょっと試すようなことをしますねと断った。仲間のことを知りたいんですと笑い、淡い眼でじっと岩を見つめる。何故か教師に並び立たれた学生のような心持ちになり、思わず背筋が伸びた。

「オブザベーション」いつもより低い声が掛かる。「このパーティーが、各人ソロで登攀可能な最短ルートは」

「クラッグから右手のフェイスをほぼ直上、テラスまで。左へ渡ったら、あのハング下から延びるクラック目指し四五度右上……ローズとノルのソロなら、そのまま行けばいい。ただルートじゃなくて時間の最短なら、先のクラックの肩で右手へ抜けて回る方が速いと思う。俺とお前は折れを無視して直上した方が時間も距離も短いはずだ。一番易しいルートで登っても悪くないが、あれは結構遠回りになりそうだ」

 既に想定していたルートだった。そつなく答えると、サンディが頷く。

「同感だ。では、あの易しい道が使えないと仮定しよう。トップまでの荷揚げを前提とした場合の最短ルートを」

「それならさっきと同じようにテラスまで。そこからは右手のフェイスを登り続け、レッジがあるからここにも支点を置いてやればいい。てっぺんが右肩上がりだから若干ルートは長くなるけど、そんなに難しいものじゃない」

「では午後の天候が怪しく、既に風は強くなっているとする。安全と時間の釣り合いを見て選びたいルートは」

「さっきと同じで……いや、西風だったらテラスの左端まで移って、コーナーを風除けにしたい。ただ支点設置が一ヶ所増えるから、西以外から吹く風ならさっきのルートで良い」

 期待通りだったのか、サンディが目元と声に満足そうな色を乗せて頷く。生徒の答えを喜ぶ教師のような振舞いだった。

「いいね。君がソロで登って一番楽しめそうなのは?」

「クラッグの一番低くなっているあそこからランジ、直登してレッジに行き当たったら登らずにフィンガーチップでトラバース、そのままスクイーズチムニーへ滑り込んでなるべく登ってから出てハンド、シンハンドでやっつける」

「なるほど、チャレンジャーだな」

 身体は入るがまともに身動きが取れない狭さのチムニーをスクイーズチムニーと呼ぶ。非常な不快感を覚えるクライマーが多いこのポイントが面白いと言えば、大抵妙な顔をされる。そんな反応に慣れていたので、平然とした答えに思わず隣を見た。

「好きなのか?」

「練習して損は無いかと」

 涼しい顔をした合理的な返答に流された。

「それでは最後。HVS-5a」

 思わず喉が詰まった。

 HVS-5aはただクライミングの難易度を表す指標だ。しかしエヴェレストにおいて、この値は別の意味を持つ。

 即ち、セカンドステップ。サンディはこの岩場に、なるべくセカンドステップと似たルートを見つけろと言っているも同然だった。

 サンディはただじっと見下ろしてくる。試験官に注視されているようで、ひどく緊張した。

「……グレード自体は、クラッグからレッジをトラバースして右上、そこからステミング、狭くなったら出て……なるべく氷を避けながら登り続ける。最後にあの小さいオーバーハングを右へ迂回して、コーナーを登り切るのが近いとは思う」

 でも、と続ける。

「感覚的な話なら二八〇〇〇フィートで登るのは全く別物だろうし、この標高で同じ難易度を求めるならもっと難易度を高く設定すべきだと思う。セカンドステップに身体を潜らせるような箇所があるとも聞かない、これは難易度を揃えただけの別物だ」

 どうだと見上げると、サンディは笑みを浮かべ頷いた。

「エクセレント。そうだな、登っていたら気づくはずだが、レッジの左上に小さなホールドがあるんだ。それを使って進むと見ての通り、アイスの多いミックスフェイスをほぼ垂直登攀することになる。これを使えば5aでももう少し近くなるだろう」

「ああ、なるほど。それは気づかなかった」

 目を凝らしてみるが、恐らく下からでは単眼鏡でも使わないと見つけられないのだろう。白黒が斑になった壁がほぼ九〇度で聳える様は、小さな岩場とはいえ威圧感がある。それがセカンドステップの感覚に寄せたものになり得るとくれば、尚更のことだった。

「そんなこと聞いたらフリーソロしたくなっちまうな。あの高さでも岩の上に落ちたら十分死ねるし、流石にセルフビレイは取るけど」

「セカンドステップだって、好条件なら梯子やビレイなしの登攀も可能だ。ここで模擬練習するのも効果が無いわけではない」

 エリオットの指先が震えた。

 それはこの山の歴史に残る最大の謎を有利に解くため、鍵や錠ではなく、鍵を回す手を変えるような話だ。

「本気か? 疑似ソロの登攀例があるからには不可能じゃないけど、まさか実践しようだなんて思っていないだろうな」

()は登れる」

 どういう意味だ、と返そうとした瞬間、ふっと背筋が伸びる緊張感が消えた。思わず気の抜けた息を吐くと、ぱたぱたと音がする。見ればサンディが素直な感嘆に目を丸くしながら、二重グローブに膨れた手で拍手していた。

「ここは初見ですよね? 正直驚きました」

「クライミングは得意なんだ、とりわけルートファインディングはね。実際に登り切れたらオンサイトだけど、随分助言を貰ってしまった気がするからこれ以上は喋らないぞ」

「あ……それは悪いことをしました」

「いいよ、素敵な岩場を教えてもらったし。このスケールの中に驚くほどルートが見出せるんだ、クラッグを歩き回るだけでも十分楽しめそうなくらいだよ。イギリスに持ち帰りたいくらいさ」

 頭の中で次々と登攀ラインを引いては潰し、潰した以上にまた引いていくエリオットを暫し眺め、サンディが何故か懐かしげなものを含んだ声色で呟いた。

「あなただったら縦横無尽に歩けそうですね。隠者の房探しなんて楽しめそうだ」

「隠者の……どこにあるか知っているのか?」

 一九二四年の遠征隊が設営したキャンプⅠの上に岩場があり、そこにチベット仏教のラマが籠っていた「隠者の房」があると言われていたらしい。恵まれない天候による停滞中、隊員のアーヴィンとシェビアがその房を探して岩場を探索したことがあったというが、結局彼らは噂に聞くその房を見つけられなかった。

 エリオットの反応に、サンディは束の間眉間にしわを寄せたが、すぐにちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「やっぱり御存知でしたか」

「自分から振っておいて。場所は知らないよ。どうせお前も読んだことあるんだろ、〝サンディ〟の日記で楽しそうだったから印象に残っていたんだ。あそこで修行していたザトゥル・リンボチェだって、瞑想中に洞穴の入口にイエティが現れたら招き入れてお茶を出そうなんて、随分素敵なお坊さんだと思ったもんだし」

「……そんな話が」

 エリオットにとっては夢のある話だった。浮かれた気持ちを隠し切れない様に、サンディは苦笑いしながら返す。

「うん……まあ、興味があるのなら、帰りに位置くらいはご案内しましょう。でも僕が最後に訪れたのは随分昔のことですから、今どうなっているかは分かりませんよ」

「昔と言っても知れているだろう。お前、俺たちよりもだいぶ若いんじゃないか。何年前の話さ」

「さあ。でもあなたでしたら、仮に廃墟のような瓦礫の山になっていたとしても楽しめそうですね。今でこそ此処も賑やかな山ですが、静かな観光だってどうして悪くないものですよ」

 楽しみましょうね、と手を振って、青いウィンドブレーカーはクラッグへ足を掛けた。オンサイトを狙うならのんびりしていられない、隠者の房はさて置いてひとまず登りきろうと、エリオットも岩場へと駆けた。

 

 お目当ての登攀ルートを完登し穏やかな心持ちで下りてくると、岩場に動く鮮やかな点を眺めた。一番クライミングの経験が浅いローズは、サンディとビレイしつつコツでも教わっていたのか、時折何か話しながら一緒に登っていたが、今は肩の上がるウォールの頂上を歩いている。オリバーも完登し、遠目にも満足げな様子で下りてくるところだ。そしてサンディは、フリーソロするには危うく思われる箇所を選びながら二度目の登攀を試みていた。

 エリオットは改めてサンディの岩登りをじっと観察しながら、先刻ローズと組んでいた登攀の光景を思い出す。彼はリードロープこそつけていたものの、それは後続を登らせるため、自己確保さえも時間と手間の無駄、必要ないとばかりの様子だった。素晴らしい技術の持ち主であることはエリオット自身が他の誰より認めたが、同時にその登り方が死への恐怖心を完全に置き去りにしているように思えて、狂気じみたそのクライミングは何となく好きになれなかった。

 そして今、最初に彼のクライミングを見た時と同様、それは蛇のしなやかさを思わせた。いつ突風に襲われるかも分からない中、最も近いバンドまで七メートル以上のフェイス。命綱なしでその壁を登っていることに気がついた瞬間は、ぎょっとして寒さの中でなお冷や汗が滲んだ。しかしあまりにも危なげない姿に、自然と肝が冷える感覚は消えいってしまう。もはや緊張感すらなく、微かな嫌悪感こそ抱きながらも、ただ素晴らしいクライミングに見入るばかりだった。

 サンディは、彼なら力任せにやっても十分上手くいくであろう場所でも、あくまで柔軟性に富んだバランスとリズム感を重視した登り方を取っている。すいすいと滑らかに腕と脚を伸ばし、ぐっと屈めた背が伸ばされたと思う間にあれよあれよと、若蛇の這うが如く高度を上げていく。正しく、素晴らしく美しい、ダイナミックさを備えた惚れ惚れするようなクライミング。動画で見たことは無いが、写真と著述で残された伝説を思い起こすには十分だった。

 ――あれは、ジョージ・マロリーのクライミングだ。

 見たことのないものを確信するのもおかしな話だが、まるで亡霊の登攀を見ているようでさえあった。サンディにマロリーの幽霊が憑いているのではないかという妄想さえ脳裏をよぎったほどだ。

 ただ、これまで気がつかなかった違和感があった。次の取っ掛かりが遠い時、あるいは比較的しっかりした足場を踏めている時などに、サンディは一瞬強く力を籠めようとしているように見えるのだ。そのまま腕力と脚力に任せて体を引き上げるのならともかく、次の瞬間には意図して力を抜き、またこれまでの調子に戻る。人間一人が力を込めたとてそうそう崩れるほど脆い場所でもなし、妙な動き方だった。

 マロリーは、クライミングを音楽や舞に喩えたという。サンディのクライミングは確かに蛇のように美しくリズム感もあるのだが、そこから音楽や舞を読み取るには、この一瞬の妙な動きが妨げになっているような印象だった。レガート、グラツィオーソ、カンタービレ、そんな指示の並ぶ楽譜を演奏しようとして、癖でリゾルートやエネルジコをかけてしまいそうになるのを排除しながら、よくよく聴くとやや拙さが残るのに気づく演奏をしているようだった。

 観察していると、下りきったオリバーが寄ってきて隣に並んだ。用を訊くより先に、何とはなしに疑問が口をついて出る。

「あいつ、誰にクライミングを教わったんだろうな」

「随分上手いもんだな」

「全くだ。よほど腕が良くて厳しい師匠についたんだろう、大人になってから元々の癖をきつく叩き直されたに違いない」

「癖?」

「多分次のクラックでやるよ……ほらジャミング。右腕だ」

 指した先をオリバーの目が追う。注目の先、サンディは細いクラックに右手を突っ込んだ。掌を内に向けて岩肌を抑え、そのまま腕に重みを預けて一気に体を引き上げようと――しかけて、一瞬力を抜く。その間に仕切り直しのように改めて岩壁との接点を意識すると、今度は重みを分散させながらぬるりと壁面を滑るように高度を上げた。注視していなければ気がつかないが、一度気がつくと強迫観念じみた姿にも見える。

「ああ、本当だ。なまじ腕力も体力もあるから、力任せなクライミングをする癖があったんだろうよ。若い初心者がよくやる手だ」

「多分ね。それでもよほど体幹がしっかりしていないとああはいかないけど……幽霊にでも師事したんじゃないか」

 エリオットの言葉に、明るい茶色の目がからかい半分の笑みを浮かべた。

「またオカルト話かい」

WWⅡよりは年季の入った幽霊譚さ、ラベルの文字もはっきり読めるくらいのね」

 ただその幽霊の正体を訊いたところで、サンディは適当に答えを濁すのだろう。とかく自分の身元に繋がりそうなものに関する言及は避けるのだと分かるようになっていた。その割に怪談じみた空想へ繋がる標はわざとらしいほど置いて行くのが気にかかるが、これも訊いたところで躱されるに違いない。

 考え込み始めた思考を遮ったのは、オリバーの咳払いだった。

「ところでローズがどこに行ったか知っているか?」

「そういえば見当たらないな。まあ黙っていなくなる理由を突っ込むなんて野暮極まりないだろ」

「それもそうなんだが、万が一ということもあるだろう」

 キャンプ付近の岩場でうっかり転落、死亡事故発生。無いと言い切れる物事など殆どない。名だたるクライマーだって、存外近所の登り慣れた岸壁で落下死しているものなのだ。

 幸か不幸かオリバーの勘は冴えたもので、とりわけ嫌な予感は大抵当たるものだった。自然と険しくなる顔で振り仰いだ。高い頭の向こうで、空は灰色に渦巻き始めている。

「嫌なこと言うなよ、俺はウォールの上を見てくるから」

「任せた。俺はクラッグから探す、サンディはここいらにも詳しいだろうから、もう少し広い範囲を見てもらおう」

 

  ///

 

 その頃ローズは、少し困ったことになっていた。話は二十分ほど前に遡る。

 用を足そうと岩場を離れたローズは、戻る道すがら一人の登山者に目を引きつけられた。しかし最初はそれが人だとは思わなかった。ただ踏み慣らされたトレースから逸れた岩上に佇む影の黒さが異常なほどで、視界の端に紛れ込んだその一点だけが、世界の一切の光から遮られたような不吉さを纏っていたからだ。雪雲に煙る気怠げな陽の下で、ただの人影がこれほどまでに黒々としていることがあるのだろうか?

 つい立ち止まり遠目に見つめると、驚くべきことに彼女の視線に気がついたのか、岩に掛けていた彼は突如振り向くなり真っ直ぐに向かってきたのだった。

 ローズが戸惑っている間につかつか歩み寄ってきた男は、無機的なほど整った貌に大層綺麗な笑みを張りつかせていた。

「こんにちは。何か御用ですか」

 滑らかな黒い肌と黒髪に、これまた底の見えない目をした青年だった。長身痩躯、ひどく整った彫りの深い顔にインドかパキスタンからの登山者だろうかと考えて、意味のないことだと思い直す。身につけた装備までもが殆ど黒一色で、その佇まいは極端に色素の薄い身体に極彩色のウェアを纏ったサンディとは真逆の異様さと、どこか似た雰囲気のする不気味さを持っていた。本心のよく分からない笑みを湛えているところまで似ているが、こちらは深淵を覗くような、曖昧さで覆い隠した底知れない空恐ろしさがあった。

「いえ、此処で黒一色のウェアなんて珍しいと思って。じろじろ見たりして失礼だったわ、ごめんなさい」

「いいや、当然の感覚さ。目を引くのは分かって着ている」

 何故だろうと思いはするが、突っ込む気は起こらなかった。物腰は穏やかだが、何となく人を食ったようで関わりたくない。本能が仲間のいる岩場へ戻ろうと手を引くのに逆らわず、無難な挨拶で逃げるように踵を返した。

 ところがローズが歩き始めると男も後をついてくる。キャンプ地へ戻ろうとするのは何もおかしなことではないが、自然と足取りは早くなった。

「行き会ったついでだ、ちょっと話を聞きたまえよ。君はこんな噂を知っているかな」

 薄い酸素の中、速足に軽く息を上げる彼女の横を悠々と歩きながら、涼しい顔をして男は勝手に喋り始める。

「イエティ、かの有名なヒマラヤに棲まう雪男の正体は、遥かな宇宙からやって来た巨大な蟲だという話さ」

「それは初耳ね。イエティの毛皮として伝わるものは熊の毛皮だったと聞いたけど、それに比べると突飛な見解だわ」

 失礼かと思いつつ素っ気ない返事を返すと、男は貼りつけた笑みをにやにやと意地の悪いものへ変えていく。

「ふむ。あるいは雪男とは孤独な亡霊のことで、置き去りにされた者、落ちた者、行き倒れになった遭難者を狙ってヒマラヤを闊歩しているんだとか。なに、目ぼしい遭難者がいなくなれば作ればいいだけさ。雪男なら簡単なことだろう? 疲れ切っている獲物のザイルを、ちょいと引くだけで良いのだから」

 寂しがりで幽霊みたいな顔色をした仲間ならいる。エリオットはオカルト好きな割に気が小さいところがあるから、彼の装いと併せて気味悪さを感じているのだろう。気持ちは分からないでもないが、非現実的な話だった。この話で絡まれたのが自分で良かったと思う。

「ゴーストなんて現実的じゃない。私はオカルトなことは嫌いなのだけど、あなたはお好きなのね。私の連れと気が合いそうだわ」

 少なくともローズの周囲に害意を持った者はいない、それで十分だった。いるとしたら今隣にいる胡散臭い男くらいで、それも昼間から明瞭に喋り歩き回るからには生きた人間だろう。もしも亡霊なんてものが本当にいて遭難させようと手招き足引きしてくるのなら、その時に考えれば良い話だった。

 その後も男は喋り続け、曖昧な相槌を打ち続けたが、話は頭に入らなかった。隙あらば足を掬おうとする新雪が鬱陶しい。大した距離ではないはずなのにキャンプがひどく遠く感じられ、幽霊の(かいな)のようにぼんやりと視界を遮る靄の奥、ようやくオレンジ色の天幕が目に入った瞬間には、それが暗闇にただひとつ灯る燈火にも思えるほどだった。

「それじゃ、このあたりで。連れを待たせているの」

 男はキャンプに張られたテントのいずれかに戻るだろう。自分は早く岩場へ戻ろうと爪先を向けると、男はとびきりの、そして一等気味の悪いニタリ、とした笑みを浮かべ、唇にさよならを滑らせた。

「ところで、山でいきなりおかしな話を吹っかけてくる輩には気をつけないといけないよ」

 黒い風がするりと脇をすり抜ける。キャンプ周辺を巻いたガスの向こうへ溶けるかのように、男は一歩大きく踏み込んだ。

「相手が人間とは限らないんだからね。それでは失礼、彼によろしく」

「彼? どういう……」

 瞬間、男の姿は音もなく掻き消えた。この程度のガスがあの黒を一瞬で見失わせるなど、有り得ないはずだった。

 思わず釣り込まれるように一歩踏み出し――

 ――下ろした足が、地を踏むことは無かった。

 落ちた右足に引かれるがまま視線が傾ぐ。ガスが薄くなった隙から、底の見えない奈落が口を覗かせる。え、と小さく漏れた驚きは他人の声のようで、そのまま耳の裏へと置き去りにした。

 次の瞬間、ぐうっと首が締まった。

「ローズ!」

 目を覚ますような強い声が耳朶を打つと同時に、身体が浮くほど強い力で首根っこを後ろへ引かれた。

 反射的に振りほどこうと身をよじり、ぎょっとした――あまりにも真っ白い顔が目と鼻の先にあった。

 捻った足元で、アイゼンがゲイターを引っ掛ける。そのまま踏ん張れなくなった身体は、もんどりうって倒れ込んだ。

 雪の上に崩れたまま咳込むローズを、顔をこわばらせたサンディが覗き込んでいた。

「ま、間に合って良かった……心臓が跳ねるかと思いましたよ、自殺するためにこの山へ来ていたんですか?」

「違う!」

 声を出したせいでまた咽る。サンディが背をさすりながら手荒さを謝るが、自分がどこにいたかを見れば到底詰る気になれなかった。

「が……崖?」

「雪庇ですよ、ちょうどそこが崩れた端だ」

 サンディが指す先で、突き出た雪は凍傷の鼻を削がれたように荒れた断面を晒していた。乳を水に溶かしたような靄が、谷底から吹き上がっては渦を巻き、黒々とした底へ至る穴を見せてはまた白く道を掻き消す。フードを掴む手があと一秒でも遅ければどうなっていたことか、想像したくもない。

「どうしてあんなところを歩いていたんですか。そこまで濃いガスでもないでしょう」

 出会った日のことを思い出しているのだろう。きっと雪庇への警戒が甘すぎると呆れられていると思いつつ、ゆるく首を振った。

「今、他のクライマーと話していて……あっちへ消えたから……」

「雪庇の向こうへ? 落ちたんですか」

「違うの、歩いて霧の向こうに消えたのよ。だから当然足場が続いていると思って踏み込んだら、あなたに引っ張られて……」

「崖っぷちに踏み込もうとしていた、と」

 サンディは立ち上がりながら、怪訝そうに雪庇の乗った崖の縁を見やる。ローズの目から見ても、その端で大人の体重を支えられるような強い足場ではなかった。

「きっと幽霊でも見たのでしょう。よくある話です」

「幻覚と会話するほど疲れてないわよ、まして幽霊なんて信じないからね。ほら、足跡だってあるわよ」

「本当だ。じゃあ霧の向こうで落ちて……」

 ここで落ちたのならまず助からないが、万が一ということもあるからと、サンディは放り出してあったザイルを掴んだ。

 スノーボラードを作れるような雪質ではなかった。仕方なく小ぶりな岩で保険のようなビレイをかけ、雪庇へと向かう彼が、あれと声を上げた。

「おかしいな、崩れてもいないのに途中で足跡が消えている」

 呼び声を張り上げてみるも、返事は無かった。五里霧中とまではいかないが、依然立ちこめるガスのために谷底までは見晴らしがきかない。

 雪庇を越えて懸垂下降しようとするサンディを止めようと決めたのは、岩が遠いせいでそのザイルがあまりにも長く伸びている懸念と、あの黒い登山者の言動ゆえだった。

「サンディ、すっきりしないけど戻りましょう。それ以上行ったらきっと踏み抜くわ、一応確保はしているけど自分の体格考えてね」

「そう、ですね」

 支点には彼自身あまり自信が無かったのだろう、首を傾げながらも大人しく引き返してきた。ザイルの回収を手伝いながら、すっきりしないという面持ちの顔を見上げた。

「お礼言ってなかったわ、ありがとう。あなたが引っ張ってくれなかったら死んでいたかも。何かご用だった?」

「戻ってくるのが遅かったので様子を見に来たんです、見つけたと思ったらいきなり宙に踏み込むから肝が冷えましたよ……さあ、二人も心配しています、戻りましょう」

 促す彼自身が、心残りそうに崖の方を振り向いた。救助隊員でも警察でもないのに、奇跡的に生きているかもしれない人間を見捨てるようで気分が悪いという考えは、ここでは随分お人好しに思える。その優しさが気の毒で、しばし迷った挙句、先の出来事をきちんと話すことにした。

「教えておいて無責任なようだけど、気にしない方がいいわよ。不審者だったし」

「そうなんですか?」

 エリオットとオリバーの元へ向かいながら、黒い男のこと、彼の語っていたことを詳しく教えるにつれ、サンディの目はみるみる呆れの色を濃くしていった。

「僕が言うのも何ですが、ローズはもう少し人を疑った方がいいのでは?」

「疑っているから適当に聞き流したのよ。それに私がエリオットくらい疑り深かったら、あなたきっとあの夜に突き返されていたわよ。仕事は几帳面に、性根は鷹揚に。そうあるべきだと思わない?」

「違いありません」

 笑って、彼は小さく溜息を吐いた。

「まったく、エヴェレストで不審者とは……もうこの山も冒険の世界でなく、観光地になってしまったということでしょうかね」

 その声には、彼が過ごした筈のない昔日を懐かしむような響きがあった。ローズたちよりももっと年上の、白くなった髭を凍らせて歩むようなベテランから聞く方がしっくりくる言葉だった。

「技術の進歩もガイドやポーターの仕事も素晴らしいものですが、この頂が暇人でもお金と健康さえ持ち合わせていれば目指せるハードルになってしまったのは、僕個人としてはあまり喜ばしくありませんね。多分皆さんが思っているよりも多いんですよ、不審者の話」

 嫌な話をしてしまいましたねと苦笑する。こちらに気がついたのか、岩場から向かってくる二つの人影に手を振りながら、ローズは何とはなしに満足な心持ちがわいてくるのを感じた。

「私、やっぱりあなたのことは信用していいと思うな」

「いきなりどうしました」

「あなたはおかしなところもあるけど、笑い方は人間だから」

「はあ。よく笑う幽霊だったようですね」

 

  ///

 

 キャンプを包むような靄雲は日没と共にふっつりと切れ、朝の予想とは裏腹に煌々と照る月を天に掲げていた。

 ランタンシェードを囲みながらビスケットとチーズをかじり、スープで流し込む簡素な夕食だった。消費した分のエネルギーを胃に収めるのにも苦労が出てくる。どうにか全て飲み込み、蜂蜜入りの熱いお茶を飲んでいると、相変わらずカップを使う気もなさそうなサンディが、所在なげに懐中電灯をくるくる弄びながら輪に加わってくる。

 昼の出来事を話し合い、改めて無事を喜び合った。まさか自分たちのパーティーから幽霊話じみた経験をする者が出るなんて、それもよりによってローズとは、と笑いながらも不審者を警戒することを確認すると、話題が途切れて沈黙が挟まった。

 甘い匂いとのんびり茶を啜る音が風に乗る中、ふと口火を切ったのはサンディだった。

「ところで皆さん、不気味な話といえば、ヒマラヤ七不思議というものをご存知でしょうか」

 ぐるりと三人を見渡すが、誰も思い当たる様子はない。エリオットとオリバーが首を横に振り、ローズは軽く傾げ、イエティ、虹の谷、エヴェレストの亡霊と三つ呟く。

「あなたが言いたいのは、科学的な説明がなされる事柄を面白く呼んだもののこと? それとも全く足のないゴーストストーリーのことかしら。昼の黒い人は、イエティの正体は蟲か幽霊だと思っているそうだけど」

 オカルトな話なら多分彼が得意だけどね、と彼女は茶目っ気のある笑みでパーティー唯一の文系を見る。エリオットは咳払いして、エヴェレストの幽霊譚の記憶を引っ張り出した。

「イエティの正体は、俺は熊だと思うけど。……その中のいくつかは、スマイスの幻のアンザイレンを引いた〝誰か〟、スコットとハストンのデスゾーンビバークを助けた〝第三者〟、食べ物を求めペンバ・ドルジェへと手を伸ばしてくる遭難者の影のような亡霊あたりだろう」

 ちらとサンディの顔を見ると、彼は何を考えているのやら、にこにこと大層機嫌の良い笑みを浮かべている。オリバーは知っている話なのだろう、訳知り顔でにやついていた。

「誰の経験かはっきりしているんだ。有名な話なの?」

「まずスマイスはアルプスやヒマラヤでの登山で有名だ、著作も多い。マロリーに感銘を受けた登山家の一人で、一九三三年の遠征に参加し、偉大な先達の旅路をなぞってエヴェレストへ挑んだ。頂上を目指す途中パートナーが体調不良で離脱、その先は独りで登っていたんだが、いない筈の〝誰か〟にザイルを引かれ、共にケンダル・ミントケーキを分け合ったそうだ。

 次の話、スコットとハストンは一九七五年に高難易度のエヴェレスト南西壁初登攀を達成した登山家だ。だけど登頂が遅れて日没までにキャンプへ帰り着けず、デスゾーンで一晩ビバークする羽目に陥った。それがどれだけ危うい状況なのかは分かるだろ? その上食料も燃料も酸素も尽きて死を待つばかりになった時、やっぱりいないはずの〝誰か〟が、体温を保つための助言や提案をしてくれたというんだ。似たような話が他にいくつもある」

 二つの話に、ローズが意外そうな顔をする。

「へえ、エヴェレストの亡霊なんて虹の谷をちょっと言い換えたようなものだと思っていたけど、案外元気な幽霊譚もあるのね。しかもちょっといい話みたいじゃない」

「まあ最後まで聞きなよ。三つ目の話を経験したペンパ・ドルジェはギネス記録保持者なんだ、エヴェレストを八時間十分で登り切ったという恐るべきシェルパさ。彼はサウスコルの岩山で、黒い影のような霊たちが両手を伸ばして食べ物を求めてきたという。彼の考えるところでは、この山に殺された登山者たちの魂じゃないかということだ」

 極限状況下で見た幻であってほしいものだとエリオットは思う。デスゾーンまで登ってくる人間の一定数は山の下よりは上で死にたい人間だろうが、死んでなお飢えに苦しむとなればまた別の話だ。草木も生えぬ、死者と死者になりうる生者とそれらを追って上がってきた烏くらいしかいない雪と氷と岩の世界に縛られるのは、いくら強靭な精神の持ち主でも苦しかろう。

 エリオットの話に合わせてオリバーが頷いた。

「多くのシェルパは、エヴェレストの亡霊たちは適切に弔われるまでこの山から逃げたり離れたりすることは出来ないと考えているそうだからな。この山での死亡率が落ちているとはいえ、年々幽霊の巣窟になっているには違いないだろう。なんせ此処へ誰かの弔いに来る人間なんて殆どいないからな」

 二人の言葉に、いかにもイギリス人の喜びそうな話ねとパーティーきっての現実家が楽しそうに笑う。ともすれば不謹慎とも取れる邪気のない発言は、全員の笑みと解れた空気でもって迎えられた。

「そして現在その最古参のイギリス人は、恐らくアンドルー・アーヴィンだろうってことさ。飢えた数多の影たちはともかく、度々現れる親切な幽霊の正体は彼だと考えている人間もいる」

「あれ、マロリーは違うのか」

「彼は九九年に英国国教会式の祈りで埋葬されたから、多分。あとは遺体のない葬儀が適切な弔いであることを祈るばかりだよ。まあとにかく、真相は何であれ、エヴェレストの極高所でその場にいないはずの人間を見たり、声や足音を聞いたりって話は多いらしいけど……七不思議としてまとまったものは聞いたことが無いな」

「ふうん、私としては酸欠やストレスが原因じゃないかと思いたくなってしまうけどね。で、サンディの知る七不思議はこれにイエティでも加えたものなの?」

 三人のやり取りを面白そうに見守っていたサンディは、振られた質問を静かに否定した。

「ううん、ちょっと違いますね。恐らく最近流れ始めたばかりの話なので、まだあまり広まっていないのかもしれません」

「ほう、それは興味深いな。俺はこういう与太話が大好きなんだ、是非とも教えてくれよ」

 身を乗り出したオリバーが、新しい煙草を手探りながら興味津々といった風に目を輝かせる。ローズも信じるかは別として関心があるようで、エリオットも語り手に期待の眼差しを向けた。

 三対の注目を浴びて、サンディは一瞬緊張したように――少なくともエリオットにはそう映った――喉を鳴らしたが、細かな仕草はすぐ僻地の闇に沈んだ。星月夜とはいえ、いきなりランタンが消えれば当然のことだった。

 しかし瞬きした次の瞬間、暗がりにぼうっと浮かび上がった光景は、思わずぞっと背筋を粟立てるものだった。

 語り手の彫りの深い目元に落ちる影は底なしに陰鬱で、僅かに覗く不思議なほど雪焼けしないままの真っ白な肌と相まって、非生物的な印象を与えた。到底血が通っているようには見えないほどの、しかし整った容貌を想像させるに足る切り取られたような肌に刻まれた表情はあまりにも薄く、人形でなければ幽鬼もかくやという有様だった。

 その眼が確かに濡れて光っていなければ、十日以上を共にした記憶を見失って飛び退く者がいたかもしれない。しかしたとえその双眸が生きていたとしても、幽界の切れ目を通じて異端者と視線が合うかのような光景が不気味なことには変わりなかった。それは彼らの故郷に棲む霧と石のゴーストではなく、氷雪と岩の空に閉じ込められたレイスの眼差しだった。

 

 ――ひとつ、

 

 低い声が数え、暗闇に人差し指が立てられる。

 

 ひとつ、

  頂に祀られる象頭・蛸脚・蛇肌の神。

 

 ふたつ、

  デスゾーンに生える人知及ばぬおぞましい茸。

 

 みっつ、

  実はまだ生きているジョージ・マロリーの遺体。

 

 よっつ、

  自分の屍体を探し彷徨うサンディ・アーヴィンの亡霊。

 

 いつつ、

  シーズンの度に姿を変える遭難者の遺体。

 

 むっつ、

  ごみ山に潜む人肉の缶詰。

 

 ななつ、

  全ての不思議を知った者は冒涜的な知識と引き換えに正気を失う。

 

 こんな話です、と青い氷のような瞳は三人の顔をじっと窺った。その視線もふっと伏せられ、間もなくカチリ、と小さな音と共にヘッドライトが灯される。ランタンシェードが被せられれば、穏やかな光の環の中にはややこわばった表情の三人と、いつも通りの笑みを目元に湛えたサンディがいるばかりだった。

 彼はじっと聞き手の反応を窺っているようだったが、オリバーと視線が合うと微かにその眼を見開いた。表情は殆ど分からない、にもかかわらず酷く興奮しているように見えて、予感のような恐怖に襲われたエリオットは追って隣の男を振り仰いだが、彼はただ取り繕うように浮かべられた苦笑を湛えているだけだった。

 くだらない、という言葉と一緒に全て飲み込もうとした。しかし意思に反して、不安は口を突いて沈黙を破る。

「なるほど、詩情の欠片もない下手くそな作り話だな。作り手はどうやら怪談も昔話も聞いたことが無いようだ」

「む、そうでしょうか。僕はこの話を知った時、ずいぶん怖い思いをしたのですが」

 話が下手なのは本当だ、と心の中で呟く。サンディは子供っぽくむくれてみせたらしかった。その仕草を見てのことだろう、ローズが笑いだすとますます拗ねたようだが、半分はふざけているにしても残り半分は本気らしい。ばしばしと力強い音に背を叩かれなければ、いつまでそっぽを向いていたか分からない。

「気にしなさんな、俺は結構怖かったぜ。絶対話の元になる、具体的な何かがあったんだろうなってところが特に」

 煙草を咥えたオリバーが、左手にライターを灯しながら言う。流れる煙に咽せながら、ローズが小さく手を振った。

「笑ってごめんなさい、演出は上手よ。あなたってああして暗い中にじっとしていると本当に幽霊みたいね、柄にもなくちょっと怖かったわ」

「さて、どうでしょう。ゴーストを疑うなら握手でもしてみますか? アームレスリングの方がお好みとあらば、レディ相手でも張り切らせていただきますが」

 怖かったと聞いて機嫌を良くしたらしいサンディが、恐らくにやりと強気に笑って右手を差し出す。ローズもそれに応えるように笑い、冗談めいてぱきぱきと指を鳴らしながらも掌を上にして差し出した。

「多分負けず嫌いはお互い様じゃないかしら。ここは握手にしておきましょう」

 それもそうだと頷いたサンディとがっちり手を握り合うと、どちらからともなくみしみしと力を籠めていく。大人げないことに、すぐに互いが負けず嫌いだと認め合う結果になった。ゴーストだなんてとんでもないと、華奢な手が大きな手を軽く引っ叩く。

 学生のようにふざける二人の背後で、オリバーは黙って微笑み、エリオットはどこか上の空だった。

 

  ///

 

 エリオットは寝つけないまま、何度目か分からない寝返りを打った。腕時計の針が弱々しく光って告げるには、午前二時を回ったところらしい。外は高度に伴う当然の風と一緒に、天候悪化の先触れである不気味な音がひょうひょうと天幕を撫でては駆け抜けていく。耳栓をしていても、不思議と通り抜けて胃の腑を気持ち悪くするような雄叫びだった。

 シュラフの中ぐっすり眠っている仲間たちを見て、能天気な奴らだと溜息をついた。睡眠中の脱水と浅い呼吸は、高山病を引き起こす原因として上位に上がるものだ。そんなの知ったことではないとばかりの熟睡ぶりが、今はもう一つの意味で羨望と呆れを齎していた。

 それもこれもサンディのせいだ、と胸中で呟く。頭ごなしに下手くそと批判したが、それはあまりにも具体的だったからだ。嘘を吐いているくせに、いやに生々しいのだ。

 エリオットは、あの七不思議は明らかに何かを見た人間が、恐らくフェイクを混ぜて吹聴していると考えていた。ではどこが嘘なのか。

 ひとつ。山頂には、最近になって登頂記念におかしな像が置かれたのかもしれない。そもそもこの山の南側に広がるネパールで盛んなヒンドゥー教を思うがいい。西洋人の目から見て奇怪なその像が、彼らの神を象ったものである可能性は高いだろう。

 ふたつ。森林限界なんてとっくに超えているデスゾーンにキノコとはおかしな話だが、登山者が増えた昨今、植生の変化や破壊が標高二六〇〇〇フィートにも何らかの影響を及ぼしているのかもしれない。あるいは食料の置き去りか……不自然な行為ではあるのだが。

 いつつ。エヴェレストで天候の大荒れ、誰かの手による遅れた埋葬、もしくは不謹慎だが屍体泥棒や追剥などがあったなら、死の領域に置き去りになっている遺体たちの様子にも変化が起こるだろう。かの有名なグリーンブーツもいつしか姿を消したというではないか。もしかするとゴラクに啄まれた傷を大袈裟に言っただけかもしれない。いくらでも説明がつく。

 むっつ。これはいかにも「ありそう」な怪談だ。フェイクかもしれないが、食べ残しの、あるいは強風で取り落としたコンビーフ缶を、極高度の精神状態で人肉と思い込んだ者がいてもおかしくはない話だ。大体エヴェレストでいないはずの人間の姿を見ただの声を聞いただのと言うのは、酸欠やストレスに原因が見出せそうなものなのである。

 ななつ目は、それこそ下手くそな怪談の締めくくりだろう。考えるだけ馬鹿らしかった。

 明らかにフェイクなのは、みっつ目とよっつ目。まだ生きているジョージ・マロリーの遺体と、自分の遺体を探して彷徨うサンディ・アーヴィンの亡霊だった。何しろ彼らは百年前に死んだ人間だ、絶対に有り得ない。それに、この山において最も有名な人物である彼らの霊が出るのなら、とっくに話題になっているはずだ。今時子供でも信じないさと鼻で笑うが、心ざわつく話でもあった。

 十中八九、この七不思議を考えたのはサンディだと睨んでいた。きっとオリバーも気づいているだろうにと、八つ当たりじみた苛立ちすら感じる。恨みがましい目を向けられているとも知らず呑気にいびきをかきながら眠る山男は、サンディがどうしてそんな七不思議を語ったのかなんて考えもしないのだろう。いや、ただ暇潰しに即興で話して聞かせただけだと思っているのかもしれない。そして実際その可能性は高そうだと、エリオット自身思っていた。

 ならば、自分が本当に気にかかっているのは。その答えまで辿り着いて、彼はのそりとシュラフを抜け出した。

 

 深夜のキャンプに灯る人工の光はエリオットが手にするライトのみで、まばらに見えるテントも全て黒い眠りについていた。

 強風に流れる雲の切れ間には稜線の間から噴き出したかのような天の川が零れていく。眩い乳の流れを横切って、しんと静まり返った二人用テントの入口を見下ろした。

 サンディの拠点は明るい朝に見ると型の古さや補修跡が目立つが、曇りがちな星灯りの下では、最もありふれたオレンジ色をした、最も見失いがちなテントの一つでしかなかった。中は真っ暗で、そこで人が寝ていると思っていてもなお生き物の気配らしきものが全く感じられない。

 少し躊躇したのには、遠慮だけでなく恐怖もあった。何も盗むつもりなど無いが、こんなにも栄光の手が欲しいことはなかった。しかし感情以上に、音を立てまいと巻きつけたソフトシェルを裂き骨を噛むような寒風に耐え兼ね、エリオットはそろそろとフライシートを捲った。

 静かに下ろしたフロントジップの隙間から覗き込む。暗闇に慣れた目は、手狭な内部を見て取る。荷の扱いは几帳面かと思いきや存外散らかった印象で、子供部屋のようだとさえ思った。しかしよく見ると物が多いわけでもなく、ザックにしまったままの装備も多いらしいと推測できる。出されている品の整理が甘いので散らかっているように見えるだけで、妙な空間だった。

 しかしそれもすぐに意識の外に追いやられる。荷物の向こうに見えるシュラフは確かに膨らんでいたが、ずっと見つめていても全く上下していないようだった。

「…………」

 本当に生きているのだろうかという疑いさえ抱きながら、ブーツを脱いで静かに上がり込む。がさつく天幕の立てる音も、吼える風にかき消されていた。

 いくら二人用の広さがあるといえども、テント内は人間が数時間過ごしている割に寒いように思えた。緊張に息を潜めながら、凍みる寒気に身を震わせる。

 臆病風に吹かれているのだと言い聞かせてシュラフの隣まで回り込むと、サンディは確かにその中で目を閉じていた。アイマスクも耳当てもしておらず、しかし眠っている最中もバラクラバを引き上げたまま、二四六〇〇フィートを超えるこの薄い空気の中でよくも子供のように熟睡できるものだと感心する。

 しかしあまりにも置物じみて微動だにしない姿に、段々と不安の方が増していく。彼は非常に山慣れしており、恐らくパーティーの誰より若く元気いっぱいでもあったが、数時間前まで健康そうだったからと言って高所での突然死が無いとは言い切れない。振り返ってみれば、サンディも連日完全なコンディションを保っているとは言えない。彼とて二つのベースキャンプでは体調不良を訴えたり、元気が無さそうな様子を見せたりすることもあったのだ。そしてエヴェレストの亡霊というワードを脳裏から振り払うこともまた出来なかった。

 だからこれは彼の身を心配してのことなのだと言い訳して、彼の口元に手を伸ばした、その瞬間だった。

「夜更けの悪戯としてはあまり感心しませんね、ミスター」

 低い声と共にバチリ、と目が開かれて、睨まれたエリオットは情けなくも小さく悲鳴を上げた。尻もちをついた拍子にガス缶を突き飛ばし、クッカーとぶつかって甲高い音を立てた。束の間縮み上がり、次にはド、ド、ド、と口から飛び出さんばかりに激しく脈打つ心臓は、このまま血圧が上がりすぎて破裂してしまうのではないかと思われるほどだった。

「わ、るい、起こしたか」

 上擦った声でつっかえながらどうにか言う間に、テントの主は身を起こした。

「まだ眠っていませんでしたので、そこはお気になさらず。あなたこそ寝つけないのですか」

「……そんなところ」

 天気も悪くなりそうだし、ともごもご付け足すが、言うべきことが他にあるのは分かっていた。

 サンディはランタンの灯りを小さくつけ、いつものお返しとばかりにうんと胡散臭いものを見る目を向けてきた。崩されたチタンクッカーとストーブを直しつつ、まだ顔色を悪くしたまま気まずげに目を逸らしている侵入者に溜息を吐く。どこか冷ややかな色さえあるのにますます萎縮する姿を見て、更に呆れを混ぜて言った。

「ココアでもいれましょうか?」

「いや……結構。気持ちだけもらうよ」

「でしょうね。それで、どうしてこちらに? 強盗に走らねばならないほど困っているようには見えませんが、僕が起きていなかったら何をするつもりだったので?」

 適当なことを言って誤魔化したかったが、流石に今回は己が悪いと自覚がある。たまたま眠っていなかったとはいえ、深夜にテントへ何者かが侵入してきて、たとえそれが数日行動を共にした相手だとしても手を伸ばしてきたとあらば、それは呼吸を確かめようとしたのも、口を塞ごうとしたのも、首を絞めようとしたのも同じことだ。もしも立場が逆だったとしたらどれほどの恐怖か、想像するに難くない。そしてすぐさまサンディをパーティーから追い出すだろう。ベースキャンプへ戻るなら警察に突き出しても誰も文句を言うまい。彼がしでかしたのは、それほどのことだった。

 冷静になってみると、エリオット自身どうしてこんな非常識なことをしたのか分からなくなってきた。たとえ暗がりで幽鬼のように見えたとしても、眠る姿に生気を見出せなかったとしても、テントの中が無人の冷たさであったとしても、現にサンディはこうしてランタンの光に正しく影を落とし、明瞭に語っているではないか。さすれば曖昧な恐怖は、臆病さの生み出した幻に過ぎない。惨めさに浸りながら本当のことを告白するのは、エリオットには罰と言って良い羞恥と苦痛を齎した。

「……二人には言うなよ。怪談の時、お前の幽霊みたいな顔を見てちょっと変なことを考えただけだ」

「へえ? こんなに元気いっぱい山登りに励んで、荷揚げまでこなしている亡霊がいたら、なかなか愉快で便利ですね。そして幽霊屋敷へ夜更けに一人で忍び込むとは、貴方は随分と好奇心旺盛、勇猛果敢、素晴らしいブルドッグだ。是非とも血統書を拝見したいものです」

 常より手厳しいしっぺ返しに、返す言葉もなく俯いた。今更愚かな行動を悔いても遅かった。これで自分は目的を達することが出来ないどころか、ベースキャンプから刑務所行きかもしれない。少なくとも明日の朝、仲間たちに嫌な話をせざるを得ないだろう。彼らの旅路まで断つことになる。言い訳の余地はなかった。

 血の気は引くばかりで、古びた天幕を打つ風音さえも遠かった。テントの中に立ちこめる沈黙は荷より重く、きっと頂よりも苦しかった。

 はて、どれほど経ったのだろう。風の轟音にまじり、鼓膜をくすぐる微かな音にふと気がついた。

 くつくつと押し殺したような笑いが降ってくる。見ればサンディは、我慢できないといった風に肩を震わせていた。エリオットの呆気にとられた顔が面白かったのか、目が合うとけらけらと声をあげて笑いだす。やりこめる風でも意地悪でもなく、ただおかしくて仕方ないといった素直な明るい様子に、エリオットはしばしば思っていたことを口にした。

「サンディ、怒っていいんだぞ」

「うん、あなたが悪意を持って侵入してきていたのなら流石に怒っていたと思います。いやなに、僕の話を下手くそとまで言ってくれたのに、こんなことをするほど怖がってくれていたのかと思うと嬉しくてですね。本当のところ、ああいうお喋りは得意ではないのです。あなたの見立ては正解ですよ」

 あっけらかんと言ってのけるのに、ようやく彼は侵入者が手を伸ばしてきたことにすら恐怖していなかったと気がついた。これはオリバー以上に肝が据わっているか、死と隣り合わせの世界で過ごしすぎて少し精神がおかしくなっているのだろうと思うほかなかった。

 ひとしきり笑って落ち着いたサンディは、警察に突き出したりしないから安心してくださいとまで言い切る。

「そうですね、怖がってくれたのならひとつ種明かしをしましょうか。僕の顔が幽霊みたいだと言ったでしょう、あれ、月光を利用しているんです。雪が飛んで黒い岩を背後にして、僕はよく満ちた月の正面に座る。するとランタンの明るさに慣れた目には、顔が青白く暗闇に浮いて見える。それだけのことですよ。怪談は得意ではありませんがこれは持ちネタでね、せめて演出くらいはと、いつもあの場所で話すことにしているんです」

 ご機嫌なしたり顔を見ているうちに、悪いことをしたという意識こそ消えないものの、段々と気恥ずかしさもこみ上げてくる。負けたらさっさと手を引くのがなけなしのプライドというもの、完敗を認めてお暇しようと咳払いした。

「よく分かったよ、俺は幽霊みたいなお前が生きていることを確かめられたらそれで充分なんだ。でもお前が怒ってないとしても俺が悪いことをしたのには違いないよ、勝手をして本当にすまなかった」

 せっかくなら体温を確かめて安心して眠りたいと思い、インナーグローブを外した右手を差し出すと、サンディは何故か一瞬躊躇う素振りを見せた。が、次の瞬間には悪戯を思いついた子供のように目を細めて握手の求めに応じてきた。

 グローブを外した彼の手は、予想通りとはいえやはり真っ白だった。何十年も陽と風雪に晒された屍蝋のような――それでもいかにもスポーツマンといった印象の力強さがあるのは、目元に比べれば生気を感じられる。しかしその手のひらは、ひどくささくれ立っている……否、まるで肉が削れた傷に、そのまま白いテクスチャが貼られているかのように見えた。恐らく躊躇ったのは、この傷のためだろう。

「酷いでしょう? 随分昔のものなので、ちっとも痛くはないんですけどね」

「……まあ、指が揃っているだけ良いんじゃないか。欠けたらクライミングにも、機械弄りにも不都合だろう」

 それは確かにと頷いた彼は、揺れる指先を見つめている視線に気がついて笑う。

「ついでに言っておきましょうか。体質で爪が割れやすいんです、ただのコートの色ですから怖がることはありませんよ」

 先手を打たれ、正直なところ顔色を読まれた腹立たしさよりもほっとした。ランタンの絞った灯りでは確信こそ持てなかったものの、その爪は黒ずんだ紫色にしか見えなかったからだ。これで芯を添えれば、疵は酷いが美しい栄光の手と見間違えるだろう。実に栄光の名に相応しい立派な手ではないか。

 他に気にかかるのは、数日前に負ったと思しき指先の火傷がろくに手当てされた風もないことくらいだった。恐らく調理時に負ったのだろう、まだ痛みそうな傷を刺激しないように気をつけてやろう。エリオットのそんなささやかな気遣いは、肌が触れ合った瞬間に吹き飛んでしまった。

 触れた感触は滑らか、これは良い。しかし尋常でなく冷たかった。それはただ四肢の末端が冷えているという程度でなく、外で風雪に吹き曝されている凍った小石をひとつ、素手で無遠慮に握り込んだようなものだった。

 あまりの冷たさに驚いて手を引っ込めると、サンディはしてやったりとばかりの笑みを浮かべたようだった。

「ふふ、びっくりしました? 元々冷え性なので、山に登っていると防寒着を着けていてもこれで困ります」

「嘘だ」

「本当ですよ」

 恐る恐るもう一度手を差し出すとまた力強く握られる。その強さは到底儚いエーテルのものではなかったが、体温もまた冷え性などという言葉で済まされるものではないとまざまざ実感させられることになった。エリオットの指先が震えるのは、体温を吸い取られるせいではなかった。

 ――脈があれば。逃げるように指をほどき、その手首を握ろうとすると、白い手はすっと引っ込められた。

「はい、そこまで」

「どうして」

 睨みつけるエリオットの中からは、自分が不法侵入者だという罪悪感と結びついた遠慮はもうすっかり消えてしまっていた。サンディはひらひら振った白い手をポケットに突っ込むと、わざと怪談の時のような無表情をつくってみせた。

「駄目ですよ、ここで脈の有無なんか確かめてしまったらそれこそ下手な怪談になってしまうでしょう。興醒めですよ、ね? オカルト好きとしてもがっかりじゃありませんか」

「……そういうことをするから、お前のこと信用できると思う度に信じられなくなるんだ」

 ふざけているのは分かっていても、つい険の強い言い方になる。自分も手を引っ込めて不機嫌を隠さずそっぽを向くと、サンディはぱっと人懐っこい空気を取り戻して赤毛の下を覗き込んだ。

「怒っていますか、エリオット」

「別に。機会さえあればケンブリッジたるものオックスフォードを叩き潰すのが義務なんでね、逆も然りだろう」

「おや、僕はオックスフォード生だなんて言った覚えはありませんよ」

「元、だろうけどな。そういうことにしておいた方が嬉しいくせに」

 正解だったようで、サンディはちょっと照れたように頷いた。少し違う色が含まれていた気もするが、顔が殆ど隠れているせいか、それが何なのかを幽けき光の中で見極めることはできなかった。

 すっかり長居してしまったと腰を浮かせながら、そういえばサンディ自身のことばかり気にしていて七不思議について全く聞いていないなと思い出す。気にするまでもないことだと思いつつ、二人の登山家の話が眠りの妨げになりそうで尋ねた。

「あの七不思議、お前が考えたんだろう」

「いいえ、人から聞いた話ですよ」

「嘘だ」

「はい、嘘です」

 サンディはにこりと微笑んで素直に認めた。思わずまじまじと見つめれば真っ直ぐ見返してくる眼に、確かに嘘を吐いている様子はなかった。そこに狂気の光が見出せれば、どれだけ分かりやすかったことだろう。

「何を見たんだ、お前は」

「あなたたちも見ることになるかもしれませんよ」

「上手くなってきたじゃないか、怪談」

 良い奴だが、時々人のからかい方に愉快犯じみたところがあるらしい。エリオットは翌日、この晩のサンディの印象を日記にそう書いた。

 エリオットが去る段になっても、全く眠そうな様子も疲れた気配もない彼に、ちょっと待ってろと言い残して自分たちのテントに戻る。ザックの内ポケットから薄い文庫本を取り出し引き返すと、軽く持ち上げたドアから差し出した。

「流石に此処に何冊も本を持ってくるのは無理だったんだけど。寝つきが悪いなら暇潰しになるだろう、怪談じゃないが貸してやるよ。多分気に入ると思う」

 ほら、と本を揺らすとサンディはやや困惑気味に受け取ったが、ぱらぱらと中を見るなり、申し訳なさと怪訝さの濃い声で言う。

「……お気持ちは有難いのですが、僕、読書はあまりしない方で。お返しするときに感想を言えなくても、どうぞ気を悪くしないでくださいね」

「うん、サンディならそう言うだろうな。本当に荷物になるだけならこれまで通り俺が持つけど……その小説に出てくるジョージ・エマースンは、マロリーがモデルなんだぞ」

 その言葉にサンディは分かりやすいほど目を輝かせ、『眺めのいい部屋』を強く握った。

 おやすみを交わして空を見上げる。厚い雲の合間に微かに光る天の川は満ち足りぬ月を浮かべ、その流れを西へと移していた。

 

「おかえり」

 シュラフに潜ろうとすると、隣から小さく潜めた声が掛けられた。

「起こしたか?」

 てっきり朝まで起きないものと思っていたオリバーからの迎えは意外なものだった。彼はエリオットの言葉には答えず続ける。

「サンディのところに遊びに行っていたのか」

「別に。用を足しただけだよ」

「お前、あいつに深入りするつもりか?」

「聞けよ。深入りだなんて、そんなつもりは……」

 ない、と言い切りたかったが語尾は窄んだ。そんなエリオットの様子に、赤い光の中でヘーゼルの目が物憂げに細められる。

「エリオット、これはちゃらんぽらん野郎の寝言だと思ってもらっても構わないし先輩からの忠告と取ってくれてもいいんだがな。世界にゃ小説より奇怪な出来事は山ほどあるもんだぞ」

「立派なヴィンテージだな、寝言は上品らしい」

「あのなあ。サンディの七不思議は概ね事実だろうと言っているんだ」

 やはり同じ考えだったかと頷く。オリバーは知る由もなかったが、「あなたたちも見ることになるかもしれませんよ」というサンディの言葉は、怖がらせるためというより事実を口にしているだけのような気もしていた。

「俺もそう思っているよ。殆ど信じていないのはローズくらいだろう。貴婦人に誑かされて夢見てる山男どもより、よっぽど現実的で地に足がついてるもんだぜ、英国淑女は」

 たとえ山にいたとしても、幽霊を見ていたとしてもな、とどこまでいっても現実主義者の寝顔を見る。ただ頂を踏むことだけを見据えている彼女は、七不思議のことなんてもうすっかり忘れているかのようにぐっすり眠り続けていた。

 オリバーは茶化されても真面目な顔で天井を睨んでいた。少し間をおいて、抑えた声で言う。

「俺も旅が長いから、相応に色々なものを見たしちょっと珍しい体験もしてきたつもりだ。可能なら遭いたくない類のこともな。今回もまたその手じゃないかと思い始めているよ」

「なんだよ、ノルまで怪談を始めるつもりか? サンディを呼んできてやろうか」

「いや、あいつに俺の持ちネタを話すつもりは今のところないんでね。だが恐らく気づかれているだろう、顔色を読まれた気がする」

 つい油断した、せっかく程よく距離を取っていたのに、これでまたろくでもないことに巻き込まれるのは嫌だなあとぼやく。

 大抵飄々としていて、問題が立ちはだかったところでのらりくらりかわすか、焦ることも憂うことも無く淡々と対処していく先輩の姿ばかりを見てきたエリオットは、彼の想定しているらしい深刻さに困惑した。自分もサンディのことを警戒しているが、オリバーの想定は何かもっと根本的な前提から違うような気がした。

「何だよ、あいつそんなに厄介なの」

「分からん、が恐らくは。サンディの正体が何であれ、少なくとも今は敵意はないだろうが、それとこれとは別の話だ。山羊の歌に憑き纏われた善良な星ってのは確かに存在する」

「正体って、そんな化物みたいに……」

 握った手の白い冷たさを思い出して微かに身震いした。

 三人ともが彼のことを「良い奴」だと思っている。なのにどうしてこうも不気味なのか。不審者としての警戒だけだったのがいよいよオカルトじみてきたのを感じて、馬鹿らしいと首を振った。怪奇譚は好きな方だが、フォーティアン・タイムズを鵜呑みにするかはまた別の話だ。

「本当かどうかは分からないけど、あいつ読み書きがひどく苦手らしいよ」

「うん? いきなり何だ」

 オリバーは、最も有名な「サンディ」がディスレクシアを抱えていたらしいことを知らなかった。

「……何かサンディに知られたくないことがあったら、小さな癖字で回りくどく長々と、悪魔との契約書の如く書いたらいいってこと」

 それじゃおやすみと、シュラフに潜り込んでヘッドライトを消す。テントを巻く風はますます強さを増しているようで、寝坊を決め込みアイマスクをつけた。

 サンディの正体、と懐で反芻する。

「サンディ・アーヴィンの役を演じたがっている子供、或いは親類、もしくは自分がアーヴィンだと信じている狂人ってところじゃないのか」

 かの人が百年近く前に亡くなった人間だという限界を除けば念入りなことだと、胸騒ぎを抑えながら納得しようとする。

 落ち着かない気持ちとは裏腹に、オリバーのいびきを聞く間もなくすとんと眠りに沈んでいった。

 


 

天地創造以後すでに五千年経つが、誰か特定の人物の霊魂が死後に出現した事例がこれまで果して一つでもあったか否かの問題がまだ未決定であることは奇妙な話だ。すべての論証はそれを否定するが、すべての信仰はそれを肯定する」

(『ジョンソン博士の言葉』より 中野好之編訳)

 

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