CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

日記:コミティアのこと

 今日は自分の日記とか雑感とか。

 

 4/11、名古屋コミティアへ遊びに行ってきました。

 

 以前から興味はあったのですが、初コミティアでした。

 元々サブカルのオタクだったので、イベントや同人誌といえば版権モノ、夏コミ・冬コミ級とまではいわずとも長い列に並んで入場し、人混みを縫って買い物をするイメージが強くありました。コミティアはそこまでじゃない、まったりした雰囲気でいいよと友人から教えてもらっていたものの腰が重く…。漸く実際に行ってみたいなと思った頃には、コロナでイベント関係も滅茶苦茶になっていました。

 今回も県境をひとつ跨ぐという距離感ではないのでちょっと不安ではあったのですが、どうしてもお会いしたい方が参加されており、迎えさせていただきたい本があったので、きっちり対策した上でひとりスッと新幹線に。宿直明けに急いで帰宅してから猛烈な勢いで化粧と着替えを済ませ、通勤路の半分をとんぼ返りしたのであった。お土産を手にした旅路はいつでも楽しいものです。 

  

 名古屋駅で降りたのは大学時代の一回きりかな? いつも帰省、あるいは首都圏へ遊びに行く時などに車窓から駅ビルなどを眺めるだけだったので、新幹線ホームから在来線ホームへ上がってきた時、あの緑とオレンジの車両を見てあ~そうか名古屋も東海道線だよな~と懐かしく思ったり。でも快速なんて便利なものは浜松には無いので知らない子。

 電車を乗り継ぎながら、高揚と、良い意味での緊張が高まるのを感じていた。顔を合わせたことの無い、でも言葉を交わしたことのある誰かに会いに行くのは何年ぶりだろう? そもそも人混みが嫌いでイベント経験も片手の指ほどすら無いので、何年ぶりというより何人目という感覚の方が近かったかもしれない。

 

 え~~~、ちょっと自分語りみたいなことをしてしまうけど。

 自分は人のことを褒めることはできて、人の作るものを好きだと言えても、人に対して好きだと言葉にするのはすごく苦手。好きな人たちはいるけど、それをストレートに表現するかという段になると、自己肯定感の低さというか、自己嫌悪というか、卑屈さというか、そういうものに凄く邪魔をされる。

 まあこの辺の話をするとすごく暗くなるし、言葉で一人一人にきみのことが好きだと言わなくても平素の言動で伝わっている筈だから、別段問題もないのでやめておく。でも容貌内面共にコンプレックスや自己嫌悪の塊であることが、好意的か敵対的かで言えば前者…とか、恩義がある、仕事で助けられていて有難い、という程度を超えて、もっと心からすっと出てくる率直さで誰かをとても好きになることを、ひどく邪魔していると思う。マスクをして顔を合わせることが許される状況は正直有難い。特に初対面は。

 あと新しい環境に入った時、書類上だと実態以上に良く見えてしまいがちで、でも実際より高い期待を向けてくる目を否定するのも悪いかと思って黙って流して、頑張っても後からとろくささとか精神的に脆い部分とか…色々出てきてやらかすのが、人を騙しているみたいですごく嫌になる。だから数字や実績などで自分でも確実だと納得できる以上の、曖昧な褒めや高評価、期待を受けるのが物凄く怖い。後々失望されるときの落差のことばかり考えてしまう。

 

 おお、暗い!笑

 

 だけど最近、それは本当に自分のことだろうかと思うほど、とても優しくてうつくしい目で見ていただくことがあり。それは自然に背筋がすっと伸びるような、恥じない振る舞いをしようと思えるような、多分すごく良いもので…嫌なプレッシャーや不安や罪悪感にならないのが不思議な、実像以上によいものである像だった。多分本音で動いている部分を拾い上げてくれた像だから、自分でも丸っきり嘘だとは思わなかったのかな? あなたがそう見てくれるのなら私はかく在りたいと、そう思えるような身に余るほどの言葉をたくさん頂いて。

 いつもならこれだけよい目で見られると怖くなりそうなもので、少なくとも対面で名乗るなんてことは絶対に避けようと思うのだけど。でも今回は、こんな目を、心を持っている、作品を作っているのはどんな方なのだろう、一目お会いしたい、お話してみたいという気持ちが勝って、お休みを取って行ってみることにしたのでした。

 (追記:後から思ったのだけど、この恐怖感などの有無は性能についてなのかそうでないかの違いかも。最初から考え方や姿勢を見つめてくれる人がどれほどいただろう。社会は人間の性能を見る場所で、学校もそれらを重視する。)

 

 ちょっと遠目にブースの位置を確認してから、緊張とそわそわを持て余しつつ反対側の端からふらふら回り始めて…。杏仁豆腐のさくらんぼを最後まで取っておくタイプなんだ。そわそわを抱えるのが楽しくて、うん。あと普通に人見知りしやすいので緊張していたから、会場に着いてからもう一段、心の準備がしたかった。

 その道中でも素敵な出会いがありました。ドローン空撮の廃墟写真集とか、鉛筆のタッチが優しい絵本たちとか…。お財布を見ながら千円札多すぎやろと思っていたけど、多くて困ることは無いですね。何度も参加されている方が、今回はとても人が少なくて閑散としていると仰っていましたが、午後入場の開始からも少し経っていたこともあって静かにゆっくり回れて良かったです。人見知りにはスマホを触っているサークル主さんが多いのもありがたかったかな…。

 

  お会いしたかったのは、とても優しくて真摯なまなざしと、内側深くへの潜り方を知っている方で。日常の中で押し殺されがちなものを大切に持ち続けている、とても強い方。日常の中で無意識に目を逸らしていたり、輪郭が取れずにいた柔らかいものに気づかせてもらえることばかりで、お話していると自分ひとりでは潜れなかったような深いところまで辿り着けるような、そんな人との出会いという幸運が未だに信じがたいほどです。

 よくイベント等で作家さんやSNSで交流してきた人に会った感想で聞かれるものに「実在したんだ…」があるし自分にも覚えがあるけど、今回はもっと違った感覚でいた。創作の方向性の話でもあるだろうし、こちらのしてきた話による部分もある気がする。初めての感覚だから、まだあの高揚や期待をきちんと掴めていないのかもしれない。人に会いたいって、不思議な感情だ。

 

 会場をぐるっと回って、いよいよだ、という時、心臓が随分駆け足になっていた。でもブースに座っていらっしゃる方がとても優しそうで(それまでの交流でとても優しい方なのは分かっているつもりだったけど)、ただただお会いできて嬉しいと、そういうプラスの感情でいっぱいになってお声掛け出来ました。

 とっても素敵な方で、思い返すとまだふわふわする。とても穏やかに迎えてくださって嬉しかった…。ご挨拶と、お礼と、お土産をお渡しして、本とポストカードを…などとぐるぐるする頭でお声掛けしたのに、お手紙や素敵なプレゼントまで頂いてしまって、お取り置きまでしていただいていて。

 初めて会う人と接する時に恐怖感を意識しなかったのって、それこそ自己嫌悪が生まれるより前のことじゃないかと思う。話し始めてすぐその恐怖感が打ち消されるのも本当に珍しいことで…でもあの時確かに照れてどきどきしてはいたけど、怖くはなかったし、ただただ温かくて嬉しい時間を過ごした。その優しさや綺麗なものは本当に自分に向けられているのかと、本当に私が受け取っていいのかと、今思い返してもちょっと不思議で幸福な気持ちになるし、涙が滲む。

 まったく呆れるほどお喋りが下手なもので、反省点もあるし、その場で緊張して言えなくなりそうなことを手紙にしたためておくべきだったんじゃないかとも思うのだけど…でも対面で何かを伝えられるっていいものだな~と改めて感じました。ちゃんと伝えられていただろうか。

 嬉しくて随分長居してしまったけれど(見て回られている方にもお邪魔だったと思います…すみません!)、沢山お話しできてとっても幸せでした。

 ……日記というより私信じみてきたな!

 大事にしたい言葉をひとつ残らずずっと抱えていられたらいいのに、緊張や照れでどきどきしている時なんかは特に、感情でくるんで持ち帰ってきた星の取り出し方が分からなくなってしまうことが多くて。こういう部分は手紙とかメールとか、文字で残るものだといつでも確かに見返せていいですね。きっとそれも写真と同じで、その瞬間を完全に正確に想起することは難しくなっていくのだけど…。 

 あと自分が好きで大切に思っている作品を手にしていく知らない人々を見られるのがなんとも良かった! これは現実のイベントならではですね。

 

 もっと言葉にしたいことがあるけど、でも自分の中だけで大事に抱きしめておきたいのか、ひとりだけに伝えたいのか、ここに書き留めておきたいのか…まだ分からないので、今日は保留。それでも沢山の鮮やかさと温度を書き留めておきたくなってしまって…このページの上と下を行ったり来たりしている内に、書き始めた時は快晴だった空から激しい雨が降り注いでいます。

 

  たまたま学生時代から周囲に創作をする人たちがいて、それは学校での繋がりだったり、ネットで見た作品が素敵で感想を送ったところから交流が続いていたり色々だけど…その中には商業ラインで活躍している人たちもいるし、趣味で創作している人でも哲学的な思考を持っているというか…彼女たちとの会話はとても刺激的で、狭くても深い交友関係に満足している。その満足した交友関係の外側へ敢えて踏み出さないまま何年も過ごしていたので、今回の出会いはある意味事件みたいなものだったのかなあ。星を拾うような、とびっきりの事件だったと思う。

 Twitterの公開アカウントを作ったのは友人たちとの通話での成り行きだったけど、動かしていて本当によかった。サバンナの真ん中でテント張って暮らして、時たま旅人が通りかかれば嬉しいくらいの気分で調べもののことなどツイートしていたのですが、本当に…見つけてくれてありがとう、という気持ちです。

 別れの名残惜しさは喜ぶべきことなのだろうな。あと他サークルさんを既に見て回っていたので、お別れしてそのまま会場を出たことで、電車・新幹線まで余韻に浸っていられたのがとても良かったです。

 

 ネットで嫌なものを見てくさくさすることもあるけど、おかげさまで出会えた素晴らしい人、素晴らしいものも沢山あることだと実感します。勤務先がまさに淀んだ小さな水槽といった空気の小さな会社で、ずっとずっと息苦しかったけど、そんな中で出会う心の澄むもの、救われるものってほんとうに美しい!

 傷の無い時に飲む薬は、毒にこそならずとも大きな効果を齎すことも無く。(でもいつか、ずっと後で傷ついた時に癒してくれることもあるのは、心の内へ取り込む薬が薬品より融通の効くところだと思います。)毎日、傷ついたり病んだりしながら過ごすのはきついものだけど、でもこういうカタルシスというべきかな…大きく揺さぶられる気持ちのいい感情が得られるなら、無駄ではないなあと思ったり。

  

 戦利品、と言うにはのどかでとても穏やかな戦だったけど、これまで知らなかった素敵な作品と出会えて、そして紙で手に取りたかった本を作者さんから受け取ることが出来て、本当によかった。

 以前友人からコミティアで発行していた同人誌を頂いたことがあったのですが、ブースに並べられたこれらの本と、その後ろにいる彼女が見たいな…そして手に取っていく人たちを見たいな…とも思いました。色々大変そうだけど、いつかまた参加してくれた時には遊びに行きたいなあ。

 

 帰りは新幹線で京都駅まで戻り、その友人と待ち合わせ、夕食を食べてから京都駅の大空広場を散歩して、少しお喋りしたり、パンを買ったりなどして別れました。

 黙々と食べていても美味しいものは美味しいけど、早く気兼ねなくお喋りしながら食事をしたり、お泊りしたりしたいなー。ゆっくりお茶をしてみたい方も増えました。それに医療従事者の友人たちとは遠方であることもあって長いこと会えていないので、ワクチンの普及が待ち遠しいです。Twitterやディスコードがあるだけ有難いよほんと。

 

 それとこの日は誕生日の翌日だったこともあって、色々なお祝いを頂いたのがすごく嬉しかった。

 9日朝は宿直明けの直帰がてらケーキを買い、10日の0時に友人からお祝いの言葉を貰って朝には家族から、11日の朝に別の友人から絵を受け取り、昼に会場でお祝いを頂き、夜にもお祝いの言葉、12日にも更にまた別の友人から祝ってもらって、なんだか4日間ずっと誕生日みたいな良い日々を過ごしました。何なら8日にサンディが誕生日という話をしていたので5日間くらいハッピーバースデーしていた。本当に幸せなことです。ありがとうございます。みんなありがと~!

 

 本当にもったいないほど素晴らしい一日で、最近続いていた嫌なことですっかり落ち込んでいた気持ちが綺麗に持ち直しました。毎日が今日だったらいいのに、と言ったらそれは贅沢すぎるよ! って言われて、本当にその通りだ。それほどの一日があったことがとっても幸福でした。

 

 帰ってからは日課のサンディの日記翻訳をして、連日の睡眠不足もあってすぐ眠り。

 昨日仕事を終えて帰宅してから、ようやく腰を据えて一冊ずつ読み始められました。 

 

 

 読んでいた中で、どうしようもなく心を掴まれて…と言うのは正しい表現なのかな…ええと…。

 自分はシナリオのある何かを読む・見る時、感情移入して没入することをとても楽しむタイプ。移入できなくても面白いものはあるし、そんな時は登場人物の傍に寄って物語を追っている気がする。

 距離を置いて楽しむことが多いのはホラーや怪談で、あれは登場人物に移入したり寄り添ってドキドキする系統のものと、シナリオのために用意された駒の動きを楽しむものがあると思っている。これは作品の性質と言うより自分の気質やタイミングの問題で、たとえば映画ミッドサマーを気楽なニート期間に見た自分は後者として楽しんだけど、精神的に追い詰められていた転職後などに見ていたら、もっとダニーに寄り添ってカタルシスを得られたんじゃないかな…と思ったりする。

 それぞれ良さがあるとはいえ、基本的には移入して物語を辿るのが好きなのだけど、この移入は視点人物の思考や感情をトレースするものであり、普段自分主体で行う思考を他者に合わせ添わせるものだと思う。ある意味他人になろうとする力が働いている。

 自分の苦手なものに、映像的な恐怖とWWⅡ以降の戦争映画があり…前者は単純にどっきりに弱いとかそんなものだけど、後者はものすごく辛くなってしまうのにまだ耐えられないから。国家規模の動きや権力者たちの駆け引きは楽しめるし、職業軍人の話も大概平気。戦時中の美しいエピソードや、いわゆるほのぼのネタも好きで、あと単純に戦闘機が格好いいとかそういうのはある。ただどうしても民間から徴兵された兵士たちの苦しみとか、恐怖とか、悲しみとか…家族のこと、友人のこと…人の柔らかくて優しい部分が殺されていく景色…そういうものを提示された時、未だに耐えられなくなってしまう。

 これは強烈に移入しすぎるのが原因の耐えがたさだと思うけど、それでもやっぱり他人は「他人」。知らない誰か、架空人物、彼らに心引き裂かれそうなくらいの思いをしても、それは私が私自身の痛みに泣いているのではなくて、こんなところにいてほしくない、終わってほしくない他人に何もできないまま、隣で泣いているのに近いのだと思う。

 

 だから迎えた本の中で、トレースしようと力を加えるまでもなく、"自分の" 感傷、傷、悲嘆、怒り、悲哀、…そういうものに見事に重なり、動揺するほどの作品と出会ってしまって…びっくりしたのと嬉しかったのと、共鳴するように痛みが揺さぶられて、涙が止まらなかった。

 

 書籍の帯や謳い文句で時々見かける「これは私だ」系のフレーズ。あれは部分的に自分と同じ、あるいは普遍化したものを巧く内包し描写しているというニュアンスと捉えていて、枝葉の先を写した時にまで細やかに綺麗に重なるなんて思っていなかった。普遍化は形あったものを液体にして、他人の器にも上手く流し込めるようにしたようなものだと思う。

 だから今回、梢の先の新芽くらいは違うかもしれないけど、でも本当に「これは私だ」とさえ思わないほどのものを見てしまって…衝撃だった。だって自分がたった今の自分の感情を書き出したものを見て、表層意識で「これは私だ」と思うほどの哲学的思考を、私は持ち合わせていない。噛み砕くことも、寄せることも、流し込むこともないまま、ただ読むだけで、自分の中のものとイコールで揺さぶられた。

 凄い読書体験をしてしまった、と思った。でも読書というよりもっと感覚的なものだと思う…。自分の中にある、でもきちんと向き合って輪郭を取ったり、言語化したり、そもそも正面から向き合って認めることさえもまだ上手くできていない部分を、信じられないほどの重なり方で昇華されたものがそこにある、と感じた。

 他者の感情や思考を自分の方へ寄せすぎているかも、という懸念もあるにはあるのだけれど、今回ばかりはあまりにもそのまま重なって涙が止まらなかった。

 

 感傷に触れるのは痛いから、自分の感傷と近しい他人の感傷に触れる時もかなり警戒する。

 マロリーとサンディのことに触れる時、感傷的な語り口のものもあるけど、その人の感傷への流れ方はどういう思考や性格を背景としているのか、そんなことがかなり気になってしまう。

 安い感傷への敵意は多分不毛だし、自分だってたまたま彼らのことには深く立ち入ろうとして思い入れを持っているだけで、他のことについて同じようなことをしているのだろう。そもそも自分のこの感傷だってひどく安いのかもしれない。そうは思っても目にした時反射的に警戒するのは変わりなくて、煽りたいだけのもの、表面的なものなどを見るよりは、淡々と事実や研究の話をして、定型文でトラジェディーを語ってくれる方がまだマシだと思ってしまう。すごく利己的なんだけどね、結局これは自分が傷つきたくないというだけの話なので。

 そんな感じだから、信頼して感傷を話せる人、この人の話や感情をもっと聞きたいと思える他者に出会った時、すごくすごく嬉しかった。

 そしてその人の本の中で出会った一篇で、こんな経験をして。

 すごく不思議。こんな経験、本当にあるんだなあ。

 これだけじゃない響きに、震えにじっくり身を任せて、いくらかでも言葉に出来たら…と思います。全てを言葉にする必要はないと思うけど、伝えたいことはきちんと伝えられるようになりたいな。

 

 

 あ、そうだ。今回のコミティアは事前に参加サークルのことを殆ど調べず、当日もパンフを見ずにふらふらしていたので、ジャンルや配置どころかどんな作品があるのかさえ殆ど知らないまま歩き回っていたのだけど、旅行記が1ジャンル? テーマ? としてまとまっているのがいいなあと。

 去年の5~6月に行く予定だったエヴェレスト北東稜ベースキャンプは今年も行けないけど、来年はどうだろう? もし行けたら、写真メインに本1冊作ってみてもいいかな…と、コミティア旅行記ブースを見ながら思いました。カメラ勉強せねば。

 やりたいことが色々あって、そのくせ完遂への執着が薄いのは短所かもしれないけど、趣味においてどのくらいの大きさになるのか分からないケルンに石を積んでいく作業もあまり嫌いではないと思う今日この頃です。完成しなくても、そこに誰かがいたという痕跡、積んだ石は崩れるまで残っている。 ひとりで歩く道しるべとしては、ケルンが必ずしも完成している必要性はないだろう。