CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

雑記

 3月からこっち、日付を追いつつ毎日サンディの日記再訳をしながら偶にイベント関連のことをまとめてみたりして、殆ど毎日ブログ記事を書き続けていた。

 日記が終わり、遠征も日々追い続けるような段階は終えたので、休みだった20日Surfaceを起こさず家の掃除をしたり本を読んだりとゆっくり過ごした。ちょっと腑抜けたような感もある。

 本当はやりたいことがあるので備忘を兼ねてメモ。

 

  • 日記序盤の記事に原文と補足を入れる。トップの記事から飛べる目次一覧のようなものをまとめる。
  • 調べ物関係で最近あったこと…マートンへの問合せ結果、ロープのこと、eBayで手に入れたもののまとめ。
  • 本のこと。山の怪談、エヴェレストの幽霊について書かれた和書がまた増えたこと!
  • SCPのエヴェレスト関係ネタのこと。
  • アルパインクラブの展覧のこと。

 

 …もっとあった気がするんだけどな。あとは完全に趣味振り切りのアウトプットも進めていきたいね~日記再訳中は全然進まなかったから…。

 泊登山も行きたいけど、お盆にかけて繁忙期なのと秋口に連休取りたい気もするので今年の夏山は見送りになりそう。冬山狙って行こうか…本当は冬繁忙期なのでちょっと心苦しいけど…などともやもや。間を取って山に初雪の降る頃に行くかも。

 

 そう、秋の計画。

 英本国のアルパインクラブによって、英国の第一次エヴェレスト遠征から百周年を記念した展覧 Everest: by 'Those Who Were There' が昨日から始まった。

 この展覧では20年代の遠征について一気に見ることができるし、当時の写真のみならず隊員たちの描いた絵や使用した装備、着ていた服…そしてサンディの日記が展示される。

 

 展覧の開催が告知された時、開催それ自体の歓びとあまりにも素晴らしいタイトル、そして2年前から続いている最悪と思えるタイミングでの儘ならない状況に泣いた。

 一応日本からイギリスへの観光ビザでの入国は5月下旬から解禁されているのだけど、まだ入国後と帰国後に10日間ずつの隔離期間が設けられるので、多少短縮する手があるにしてもまあ…きつい。

 自分としては休職一ヶ月でもいいくらいなのだけど、その後絶対に針の筵に座ることになるし、流石に自分に非があるそれに耐えられるほど強くも図々しくもない。そもそも今の職場環境がとても安心して働ける状態ではなく、いっそもうこのタイミングで辞めてしまい、アルパインクラブの展示を見て…それと出来ればマートンアーカイブも訪れてから帰国、隔離が明けて11月から転職してしまおうかとも思っていた。

 

 ところがそれから数週間でちょっと状況が変わった。

 すっかり忘れ果てていたワーキングホリデーの存在を思い出したのだった。正直なところ難しいと思う、イギリスのビザは高倍率の抽選で当選しないと行けないから…でも行きたい、行きたくて仕方ない。2022-24年のビザを取って滞在できたら、第二次~第三次遠征の百周年記念に向けた動きを現地で経験できる。

 まあワーホリでなくても、コロナ禍が落ち着いた上で訪れるイベントを絞れば何もできないわけではないし、2024年の春前後に絞った半年滞在とかも不可能ではないのだけど…でも英語をもっと理解できるようになりたいし、どうせやるなら現地へ飛び込んで死に物狂いでやってみたい。自分を追い詰めるのが下手というのもあるし、やるなら最高の形で追い込んでやりたい。

 イギリスに暮らしてみたいという夢はあったけど、とてもこんな英語力と能力じゃあ無理だと思っていた。本気で追い込みもしないで。だけどワーホリビザは語学力の制限がないし、就労可能なので現地で働くという経験もできる貴重なビザだ、本当にいい機会になるはずなんだ…エヴェレストに登れるだけのお金を身体が動く内に貯めるという、正直余裕のない貯蓄計画が崩れるだけの価値はある。

 サンディが最後の楽しい日々を送った街で暮らしてみたい。彼が心血を注いだボートレースを見てみたい。マロリーが青春の一幕を過ごした山を、その類稀なクライマーとしての腕を磨いた壁を訪れてみたい。彼らの生まれ育った街を訪れてみたい。マロリーとサンディの生きた国で季節を送ってみたい。

 彼らのことを催されるであろう数々のイベントで知りたいのと同時に、彼らの生きた場所で私も少しだけ自分の人生を過ごしてみたい。そして彼らの言葉をもっと知りたいと思う…言葉のニュアンスをきちんと拾うのは同じ日本語を使っている人相手でも難しいことだけど、それでもきっといくらかは…と思う。

 今年サンディの日記を再訳していて、2年前に訳した時より随分多くのことを読み取れるようになったと感じた。それは予備知識が増えたことによって行間を埋められる部分が増えた結果でもあるし、deepL の登場によってたたき台となる自動翻訳文がかなり良くなったおかげでもある。今年出会ったサンディは、2年前に出会った彼の印象よりももっと感情豊かで、もっと強い自制心でもってその激しい感情を抑え込んでいた。これが実像に近づいている印象なのか、逆に遠ざかってしまったのかは別の話なんだけどね…このあたりの所感はまた日記まとめの記事にでも。何にせよ、語学力の進歩によって感じ方が変化したわけではなさそうなのは情けない話である。

 

 焦ったところで申し込めるのは来年1月なので、まずは今月の初心者セミナーに参加してどんなものか聞いてくる。それで思っていたのと違うなと感じたら、それはそれで次の動き方を考えていけばいいだけだしね。

 ただイギリスでのワーホリを本気で狙うならまだ秋に転職するわけにはいかないので…一旦頭を冷やすという意味でも良かったかなとは思う。しかし申し込み時点で30歳までの年齢制限があるし自分ももう20代後半なので、抽選倍率を思うと現実的にはかなり厳しい…まあ目標があれば頑張りやすくなるし、英語を伸ばしたり貯蓄の努力をしたりして悪いことも無いのでちょっと頑張ってみたいところ。

 あと幸いにもキャンセル分の解凍済ワクチンを回していただけることになって来月上旬には二回目の接種も済む予定なので、隔離期間さえほぼ0になってくれれば何とか10月くらいに展覧も…行きたいなあ、本当に…。

 

 日々目の前の仕事を頑張りつつ、出来るだけのことを進めていきたいものです。

 

 

 

 

 ここからは本当にどうでもいい自分の近況のメモ~ちょっと暗いけど自分の庭だしいいか! 多分言語化しないといつまでもぼんやり暗いので、整理も兼ねて。こういうところに書き連ねるにはずるいことも分かっているけど、内側で反芻し続けるのももう限界近い。

 

 

 最近というほど最近でもないのだけど、結構精神的にくたびれてしまっているのを感じる。暑さが増して食欲が落ちているのに引きずられている分もあるかもしれないけど、それを加味してもかなり疲れている。

 原因としてまず浮かぶのは、やりたいことはあるのにどれも実現できるか分からなかったり、実現できそうでも何時になるか分からないせいでフラストレーションがたまっていること。

 

 「チベットへ旅して1924年隊も使った北東稜ベースキャンプからエヴェレストを見たい」。

 これは恐らく来春に実現できるのではないかと思う。でも本当は去年の春行く予定で一昨年の冬から楽しみにしていたことだから、ずっとずっともどかしくてきりきりしている。唯一ほぼ確実に実現できると思えることなのでもう少しゆったり構えてもいいと思うのだけどね。

 

 「エヴェレストへ登る、もしくはお金以外の理由できちんと諦めをつけるために、十分身体の動く内に1000万貯める」。

 笑われそうだけど本当に、これをきっちり決着つけるか、貯める云々以前に飽きて執着をなくすかしないと死んでも死にきれない。前職に比べたら随分収入は良くなったし暮らしていくだけなら問題ないのだけど、この目標があるからいつも切羽詰まった気持ちだ。マロリーとサンディの足取りを辿りたい、彼らの見たものを見たい、生きた世界の解像度を少しでも上げたいという願望は、大真面目に…少なくともデスゾーンを見据えている。

 

 「展覧 Everest: by 'Those Who Were There' を見に行きたい」。

 時期的にはこれが一番近いね。隔離の状況次第だ…ギリギリ何とかなるかどうかかな、秋って。本当に行きたくて仕方ない。

 

 「イギリスで2022~24年にワーキングホリデーしたい」。

 エヴェレストより直近で厳しいのは多分これ、壁は抽選だけなんだけどその抽選が難しい。完全ランダムなのでお祈りするしかないし、努力の入る余地が無いので一番キリキリしているかもしれない。自分のせいで物事が上手くいかないのは腹立たしくても呑み込めるけど、完全に運というのは…上手くいかなかったときの虚無とフラストレーションをどうしたらいいのか、未だによく分からない。

 

 すべて上手くいったら本当にいいのだけど。疲れ切って死体みたいになった半分の己を引きずりながら、やりたいことのためにもう半分の己が走り回っているような気分。

 

 死ぬまでにやりたいことが色々あって、青臭くて希死念慮の強い自分がエヴェレストで死にたいと叫び続けている。行き詰まったら首を吊ればいい、30歳になったら死んでしまおうとさえ思っていた自分がそう考えるようになったのは前向きなことかもしれない。褒められたことじゃないのは分かっているけど、呼吸ひとつするにも力の要る世界で、ぞっとするほど星の美しい無機的な高みで、敬愛する人々の傍で「ああ素晴らしい人生だった!」と笑って終わりたい。自分自身だったものを(少なくともシーズン外は)俗世から隔離されたそこヘ置いてきて、霊魂というものがあるなら虹の谷に永住権が欲しいものだと、そんなことをずっと願っている。嘘みたいに美しい朝と夜に、モンスーンのエヴェレストに、夕焼けに燃える頂に立つにはそれしかない。死者の特権への夢を手放せない。

 時々行動力があるなどと言われるけど、それは多分背景にこういう早死に願望や、いざとなれば自分で命を絶って終わりにすれば片が付くという思考があるからだと思う。老後のことなんかこれっぽっちも考えていやしないから、そりゃあ定年までにいくら貯めようと目標を立て、結婚や育児のことを加味しながら真面目に堅実に生きている人たちよりはフットワーク軽くなるよという話。

 でもねこういうこと言っている奴ほどずるずる生きると思うよ…30歳までに1000万円貯めるとか現状殆ど不可能だし、こういうことを繰り返してだらだら生きていそうで嫌になるけど…。

 

 まあそういう長期的な鬱屈はそれこそ10代の頃から沁みついているので、今更つべこべ言うことでもない。それよりももっと最近の出来事が精神的にかなりストレスになり続けている。

 

 ワーホリを望む理由は先にも色々と書いたしそれらが主な動機だけど、本当はあんまり前向きじゃない理由もあることを認めなきゃいけない。

 今いる環境から距離を置きたい、そういう願望がかなり強くなっている。

 

 職場環境が良くないというのは大きな理由になっている。自分自身はここ数日寧ろ上手くいっているくらいだけど、直属の上司が給与に関わる嫌がらせを受けたり(少なくとも本人はそう捉えている)、自分の居場所も上層部の機嫌次第であるという小さな会社故の悪い部分が本当に怖くて落ち着かない。あまり悪口のようなことを書き連ねるのも大人げないので控えておくけど、自分が擦り減り切って精神を壊す前に離れたい。離れること自体はそれこそ本当にやろうと思えばいつでもできるし最悪実家に帰ることも出来るのだけど、イギリスで2年間暮らせることになったから現環境を飛び出すというのは、うん、正直なところ魅力的で開放的な筋なんだ。

 それに元々ひとところに長くいられないタイプのような気がしていて…というのも人間関係が面倒くさくなってしまいやすい。誰かと関わり続けると、自分が失敗して迷惑をかけたこと、やらかして恥ずかしい思いをしたことなどによる負債が溜まっていくように感じる。だから多分、特段反りの合うわけでもない人たちと関わり続けるなら3年が限界。せめてエリア内異動くらいは欲しい…となると現環境で定年目指して働き続けるとか、会社が存続し続けると仮定しても…うーん、想像できないな! 友人は狭く深くなのだけど。

 

 それからもうひとつ、会社だけでなくいっそ神戸から離れてもいいかなという気がしている。

 

 元々神戸に来た理由が、大学時代を過ごした京都は夏が暑すぎるので海に開けた場所で就職したいという希望があったのと、友人と遊べる場所に暮らしたいという希望からだった。

 割に近いところで暮らすようになったので顔を合わせやすくなったし、お家ぐるみで良くしていただいて本当に本当に幸せなことだと思っている。自分ももう実家を出て随分になるしあまり帰省しないタイプでもあるから、この友人の家のことは第二の実家みたいだとさえ思っている。

 

 だけどコロナ禍の中で、どうしてもワクチンについての考え方が合わないことが分かってしまった。それに加えて年明け以降に発生した動画配信に関する諸々の出来事から、自分なりに自身を説得しようとし続けているにも拘らずかなりのストレスや怒りを抱え込んでしまっていて、他のフラストレーションなどとも重なった結果いま結構苦しくなっている。

 ワクチンに関することって今じゃ思想みたいなものだ。私は中高時代からの付き合いが長い友人に薬剤師の子も看護師の子もいるから、彼女たちから教えてもらう前線のこと、ワクチンや薬が作られ今出回るまでの背景、そうしたことも聞いた上でワクチンに肯定的な考え方をしている。

 第二の実家みたいだと話した友人とは同郷じゃないし学校でのバックグラウンドは共有していないけど、本当にウマが合うと感じたし、もう十年来の付き合いになる。人付き合いを三年前後ですぱすぱリセット掛けるタイプの自分には本当に珍しいことだ。彼女のものの考え方が好きだったけど、ワクチンについて…それから陰謀論に近いところの配信者関係のこと(とそれとは別の配信関係で発覚した感覚)が全く合わないと気づいてしまった。

 

 深刻そうな言い回しをしてしまったけど、正直友達やその家族くらいの関係ならワクチンや陰謀論に関して見解統一する必要性なんて無いと思う。世帯を共にする家族とか、巻き込んでくるならともかくね。

 これだって「そういう考え方なんだね」でスルーすればいいと思っている。思っているけど、そういう声は最前線で頑張っている友人たちや、その後ろで必死に動いて誰かを助けようとする人々の尽力を、適当なこと言って金儲けのために煽る輩とそいつらに踊らされている輩とで馬鹿にしているものと感じる。腹が立つ。憎悪する。その憎悪の対象の中に、お世話になっている大事なはずの友人やその家族がいることになる。これはダブルスタンダードになるかというところで、反対側の岸には同郷の友人たちがいるのが見える。自分自身はその側にいる。腹を立てながら悲しくなる。

 とある陰謀論や反ワク等の動画の配信者に友人がリプを飛ばしているのをたまたま見てしまった時、自分でもちょっと驚くくらいショックだった。気が合うといっても他人は他人、人のことなんて分かるはずないんだと学ぶには良い機会だったかもしれないけど。

 批判のようなことを書いてしまったけどそもそもは煽動する輩が悪いのであって、声が大きすぎて実害出しているパターンなどを除けばつけこまれ踊らされている人々を憎悪するのは本来矛先が違うと考えている。だけどやっぱり前線の友人たちを思うと衆愚憎悪に繋がった憎さも簡単に顔を出すし、それ以上に大事に思う人たちが不安につけこんで儲ける輩に踊らされているのがすごく悔しい。

 でもそれだけだ。面と向かって批判を叩きつける気はないし、何なら気力も気概もない。過干渉を嫌う思考が、友人くらいの距離感で思想を闘わせる必要はないと言う。

 

 配信関係のことは…もうワクチンのくだりだけで疲れちゃったしくだくだ書くのはやめておくけど、お正月の配信から引きずっているからもう半年に渡る憂鬱だ。

 私は大事に思う友人がコメントや切り抜きでおもちゃみたいな扱われ方をしているみたいで物凄く嫌だったし、ラノベオタクたちの全体的な下品さ、「視聴者は配信者をおもちゃにするのが当たり前」という私からすれば呆れるような "常識" にほとほとうんざりした。

 これ嫌だな…と思う気持ちをだましだまし見ていたけど途中で耐えられなくなって、同郷の友人に通話を繋いでもらいながら見ていた。それでも配信のために色々準備しているのを見ていたし、自分も当日まで配信を楽しみにしていたから無理やりにでも「楽しかった」と言って終わりたかったけど、最後には通話を繋いだまま泣き出してしまうくらい嫌だった。

 私は私がプライベートでも知る素敵な人と沢山のファンが交流する機会ができるのだという意味でもこの配信を楽しみにしてきたし、自分の大事に思う存在が他のファンからも大事にされるものと当たり前に信じていた。でも蓋を開けてみたら、そこには声の大きい下品な大衆がいた。大事な友達が下品さの的にされていることが嫌で嫌で仕方なかったし、本人がそれに頓着していないのも正直なところ嫌だった(メンタルが強いのはよく知っているし、神経質で傷つくよりはいいと思うけど)。

 配信のコメントで声の大きい人たちが狂信している作品のことを、殆ど「読めない」の域まで触りたくなくなった。これまでずっと買って読み続けていたし、友人の絵が好きなので続刊も購入はするだろうけど、二度と中身を読むことはない気がする。作品は何も悪くないと分かっているんだけど。

 さすがにそれ以来配信を見に行っていないけど、コメントはますます酷くなっているとも聞いた。イギリス人ならいいニュースだとでも言うだろう。

 

 普通は他人なんて「合わない」だらけでやっていくものだから気にしないことなのに、長年「合う」と思っていた人と大きくズレた瞬間、こんなにもしんどいことなのかと思った。

 

 ここまで疲れてしまうと、するっと縁を切ってしまうのが沁みついた自分のやり方だった。学校繋がりだろうがSNS繋がりだろうが、人だろうがジャンルだろうがそんな感じ。だけど流石にもう十年になろうという付き合いで、信じられないほどお世話になっている人たちとこんなことですぱっと縁を切ろうなんて気にもなれないから、ここに来てやっと初めて友人関係上に発生した問題や煩わしさの類に対して踏ん張ろうとしているように思う。

 完全に気持ちや考え方が合うなんてこと無いのだ。他人は他人。自分が神経質になる部分でズレが発生したとして、確かにこれが一つ屋根の下で暮らしていて毎日何時間も顔を突き合わせるなら大問題かもしれないけど全然そんなことないんだから…ちゃんと自分の中で消化して、理屈をつけて納得しようと、飲み込もうとしている。

 それでも消化不良を起こしているから半年ももやもやしているんだけどね。でもまだ頑張ってみる。少なくともこんな終わり方は嫌だ、嫌いなものに振り回されて終わるなんて結末は癪でもある。そうやって踏ん張る努力はしているけど、痛みから距離を置きたいという心の反応が余計に遠い地への投身を希求している自覚がある。

 

 憎悪とか強い言葉を使いすぎた気がするけど、それだけ引きずり続けている業腹なことを婉曲表現で書くにはちょっと疲れすぎた。もう少し早めに言語化してやった方がマシだったのかな。

 優しい人で在れたらそもそもこんな問題は発生しないことを思うと恥ずかしいし、書きながらつくづく感情的だと反省。しなやかな強さを備えた優しさが欲しいとわがままを言ってみる。

 

 何につけても、逃げ出したい衝動には「やむを得ず」というものに甘えたがる思考があるように思う。ポジティブな展望を沢山抱いているワーホリへの希望に、そんな後ろめたい甘えを混ぜたくはないのだけど…。上手く整理しきれるだろうか。

 

 精神的に潔癖症な部分がワーホリへの動機を完璧なものにしたがっているけど、まあサンディだって遠征参加への強い希望の背景にはやらかした不倫スキャンダルから距離を置きたいという動機もあったみたいだからね。あまりうじうじと思い詰めないようにしようなどと考えつつ、敬愛する人物の傷を持ってくる狡さはこれっきりにしたいなと思うのでした。うーん人間!

 

 

 それと最後に、これは落ち込みの一因になっているかも微妙なところだけど…と書き始めたところで、うーんこれは何だ…という顔をしている。

 失恋したかもしれないというのが率直な言い方だけど、そもそも恋愛感情かどうかさえも微妙すぎたのでよく分からない。あまりに分からなさすぎて落ち込むべきなのかも不明。何だろうねこれは。人として、これまでに誰かに対して感じたことのある好意のどれともちょっと違う感じでとても好きだと思っているのは間違いないのだけど。

 ただ仮に恋愛感情だったとして、自分が誰かのことを特別好きになったとしたら物凄く嫉妬深い嫌な奴になったり、その上失恋でもしようものなら誰かしらを憎く思ったりするのじゃないかと危惧していたけど、そんなことは全然なかったのは安心している。恋愛じゃなかったからだと言われればそれまでだけどね。

 物凄く恋愛感情を抱きにくい、抱いたとしてもそれが本当に恋愛感情なのか断定するのが難しいタイプらしい自分が、少なくともその可能性を追うような好意を抱いたほど素敵な人が特別に思う人物なのだ。だからきっとその人も素晴らしい人なのだろうし、この先どう進むにしても、自分のとても大切だと思うこの人に…生きていくには優しすぎるくらいに思えるその人に、ほんとうに心穏やかに幸福でいてほしいと思った。

 言葉にしてみてもあまりにも綺麗すぎて、流石にこれが本懐の全てとは思っていない。自虐のようだけど自分はもっと陰湿なはずなのに、驚くことに今のところこんな感じなのだ。本懐は急いで蓋をしてしまって一旦沈めているから拾い上げられずにいるだけなのか、それとも本当にただの恋愛誤認であって自分の外側に存在する感情によって大きく左右されるものではないから落ち着いているだけなのか…。

 ただ強いて言うなら無力感に近いものはあるかもしれない。自分が特別大切に思う人の特別になりたいと、そういう願望はあったのかもしれない。世間でよく言う恋のような両思いになりたいとか結婚したいとかの衝動は殆ど無くて(本当に恋愛感情か疑う一因)、ただ自分がその人に見出しているように、私も好きなその人にとって特別で代替のきかない素敵な唯一になりたいと…そしてそれが叶わなかったことによる無力感、この人の隣にいるのは私じゃないんだなーという感じの気持ち。特別というだけなら恋愛関係とは違うもの、たとえば親友とかでも成立するんだけど、性質も似た価値ある存在として傍にいたいという願いをじっと見てみるとやっぱり恋愛感情のような気はする。

 でも最初から自分は相応しいだけの価値を持っていないという自認があったし早死に願望と恋愛感情の同時進行は結婚に繋がらないとしても無責任なようにも思うので、あの人に見出すべき素晴らしい人が現れたのは本当に喜ばしいことだと思っている。それに私の特別に思う人の語る感情はほんとうに素敵で、ああこの人のことを心から好きだと感じていられてほんとうによかったな…と思った。

 今この一文を打っていて、もしや失恋したのかなと思って以来初めて涙が流れた。うーん…やっぱり恋だったのかもしれない?

 でも涙が出るということは、他に何が埋まっていたとしてもこれこそが根幹になる本懐なんだろうなあ。

 恋愛かどうかは曖昧だけど深い敬愛と非常に近い感情なのは間違いないので、というよりも恋愛の有無は別にしてその人への感情で敬愛が大きいのは確かなので、今後とも心から好きでいられるであろうことは幸いだと思う。

 他人のことなんて分からないと、何度も何度も書いている。サンディやマロリーのことを考える時でもそうだし、今同じ時代を生きていて、両手の指が埋まるほどの付き合いになっている友人たち相手でもそう。言葉をどんどん圧縮できるくらいバックグラウンドを共有していたとしても、致命的なズレというやつはある日突然出てくるのだろうし、人と人である以上その可能性が0になる相手は…存在しない気もする。

 ましてこの人はそんな指が埋まるほどの付き合いを重ねていないので、私はきっとこの人のことを殆ど知らないと思う。もしかするとすごい誤解をしているかもしれない、お互いにね。それに、私はその人の考えや感性と自分のそれらが驚くほど重なり合うとも思っていない。形として提示してもらえばある程度の理解はできているかもしれないけど、その人の深みのある柔らかさや繊細な優しさと完全に調和するには、私はひねくれすぎているし悲しいほど浅薄で軽率だ。

 だけど、それでも心からその人を好きだと思った。今この瞬間も変わらないし、この先もそう思い続けているのかもしれない。変わらずにいてほしいなと思う。

 この人と言葉を交わす中で、自分の知らない自分を知る瞬間がいくつもあった。それが真実自分の姿かは分からないけど、少しでもそう在りたいと思った。この人と話していると、自分が何かとても素敵なもののような気さえした。全くのほんとうにはなれなくても、せめて少しでも嘘でなければいいと…それは強制される苦しさとは無縁な、自然と背筋が伸びるすごく良い感覚で、その先には初めて見る景色があるような気がした。

 ほんとうに素晴らしい人と出会って、感情につけるべき適切な名前は分からないけど人として心から好きになったということを、自分の生涯の中でもきっととびきり恵まれた幸せな出来事のひとつだと思っている。もっと時間が経ってからでもそう感じられていたらいいな。

 落ち込む出来事なのかよく分からずにいたけど、こうして言語化してみるとちょっと無力感があるくらいで、全体的には心の温かく穏やかになる出来事の中のワンシーンなのだろうな…と思える。言語化されない思考の海に浸ってしまうような夜にはこの淵から落ち込むこともあるかもしれないけど、万事が喜ばしい方向に進んでほしいと心から願っている。

 

 夜も更けたのでおしまい。うわーすっかり長くなってしまった、この文字が全部小説になってくれたらいいのになあ!