CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

Ghostlier Wanderers

 "Blood and Sand, Our Beloved Blue Paths!" のタイトルで、遠征中のエピソードを拾ったものを中心とした短篇を集めた連作が出来たら面白いかな…と思って書いていた中の一篇。Roll pL/Ray と同じシリーズなので本当に短い。

 遠征が終わり、皆が帰途についた後のエヴェレストの短い幽霊話。

 

 


 

 

 

 一九二四年七月九日

 

「迷ったかもしれない」

 言葉の悲惨さに対し、口調は軽かった。辺りを見渡す仕草も、どことなく呑気なものだ。

「困ることが?」

「いいや、ちっとも」

 そう答えた彼はひょいと谷底を見下ろして、下ってみようかと言った。まるでヒースの丘を散策するような調子だ。当の彼からの教えを思い出し、首を傾げた。

「迷ったら尾根に登るべき、では」

「登っても下りても変わらないさ」

 なるほど、それもそうだ。身軽に礫を渡る彼について、僕も崖のような山腹を下り始めた。轟くような音が氷河から吹き上げ、そのまま身体をすり抜けていく。モンスーンの季節には珍しいことだろう、今日のデスゾーンは久しぶりに星の光る青空が広がっていた。爽快、その一言がぴったりだ。

「何処まで行くおつもりで?」

「決まってないよ。見送りが終わった今、我々が間に合わせるべきことなどひとつも無いだろう」

 投げる声も返る声も、希薄な空気の中でよく透った。肌や粘膜が痛むことも、沈む陽に焦ることもない。此処では何もかもが塵ひとつなくキンと澄んでいて、この上なく気持ちがいい。あれほどにも苦しんでいた日々の記憶は遠く、僕たちは今とても自由だった。自然と口元が綻ぶ。もうそのせいで血を流すこともないのだ。

「それなら僕たち、迷ったわけではありませんね」

「ふふ、確かに。俺たちは帰る場所も目的地もないだけだな」

 でも居場所はあることを、二人とも知っていた。そう、悲観することなんて何もないのだ。

 そして彼は突然立ち止ると、くるりと振り向いた。

「サンディ、何処へ行きたい」

 僕は考え込んだ。想うのは知る場所のことではなく、あの夜のことだった。ザイルが切れ、相棒と分かたれ彷徨う独りの夜。衰弱した身体を刺す冷たさと、苦痛に足を引きずりながら勘だけを頼りにキャンプを目指す絶望、座り込み見上げた空のぞっとするような星々。凍死は楽な死に方かもしれないけど、絶望を噛み締める時間が長すぎた。もしも隣にこの人がいてくれたなら、結末は変わらなかったとしてもどんなに慰められただろう。だから彼と一緒なら何処でも良かった、けど。

「それなら、植物の見えるところ。このままでは緑色を忘れてしまうと思いませんか」

「それはいい。ではどちらへ向かおうか」

 微笑むジョージに促されポケットを探ると、くしゃくしゃの地図が出てきた。白紙の残る不完全なものだが、寧ろ今は都合が良かった。僕たちにはその空白を埋める時間がたっぷりあるのだ。

 ルートを探し、提案する自分の声が浮き立っているのがよく分かった。興奮のままに喋る僕の話に相槌を打ちながら、ジョージが東に広がる峰々を、そして広大なチベット高原を見やった。素晴らしい展望から臨む世界は広大だが、僕たちが歩き回れるのはせいぜい氷河の末端までだろう。動ける場が変わっただけで、限界ある身であることに変わりはない。それでも今感じているのは、一ヶ月前の僕なら頬が熱くなるほどの高揚だった。

 さあ、その氷河の出口に咲く花はあるだろうか。緑は遠く、今の僕たちには見つけられないものかもしれない。僕たちはこの山で誰よりも自由だけど、その代わりに山から離れることは出来ない。仮に懐かしい色を摘もうとて、今や野に咲く一輪でさえ高嶺の花より遥か、きっとこの手は届かない。それでも、この人との旅に目的の達成が必要不可欠というわけではないことはとうに知っていた。僕たちに必要なのは、吐き切るための最後の一息だった。

「行こうか、サンディ」

 頷いて、目ぼしい岩の頭へ大きく跳んだ。

 氷河の末まで行ったら、次は他の山へ行ってもいい。ここにはピーク一五だけではない、未踏の八〇〇〇メートル峰や名もなき高峰が数えきれないほどある。そしてこの高みで踊るような足取りは、僕たちが酸素と引き換えに得た最高の呪いだ。

 この人となら何処まででも行ける。好奇心を薪に、僕たちはヒマラヤという箱庭の果てまで彷徨いゆくのだ。

 ――Blood and sand, our beloved blue paths!

 

 

 


 

 

メモ

  • タイトルについて。"blood and sand" は驚きや怒りを覚えた時の感嘆符。bloody hell の丁寧な言い方。嗚呼、我らが美しき青の旅路よ!