STARGAZER: Prologue / 1st Stage
クトゥルフ神話の文脈で作ったシナリオ「白銀の一等星」を下地にした小説。
元々登山に触れるのはCoCがきっかけだったという話はUndeads of Everestでも少し触れたけど、そのシナリオをベースにした小説。セッションログの小説化みたいな感覚でやっているので、突然自己紹介し始めたりする違和感は半分メタ要素で遊んでいるし、章立ては10合目(+エピローグ)で完結する構成を組んでいるので1つ1つは大体短い。
史実を知っていると元ネタが思い浮かぶようなものを散りばめた、自由研究的な作品でもある。あとこう…ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドの監督インタビューの言葉で引っ繰り返って死んでしまうような話…。
拙いのは分かっていても、恥ずかしながら2年間本当に大事に思っている作品で、外に出さずに終わらせるつもりでいた。けどまあ、Web検索から直接には辿り着けない個人ブログなら残しておいてもいいかな…という気になったので。ヘンリー・ダーガーにはなれなかったよ。
出ない神本より出る駄作とはよく言うけど、確かに読んで暴れたくなるようなものでも、それがフィクションのつもりで書かれている以上は大概存在する有難さが勝るもので。
まだ前半までしか書き終わっていないけど一応ひとつの区切りになるところまでは書けているので、小説中の日付に合わせて2021年に出すことにした。残りは来年か2024年に出す。
本文は続きから。
この世に生きる人は、全て、あの二人の姿をしているのです。
マロリーとアーヴィンは、今も歩き続けているのです。
頂にたどりつこうとして、歩いている。歩き続けている。
――ノエル・オデルのインタビュー(一九八七)
生が荒野の逍遥であるように、死もまた冒険である。
――寺山修司『時代の射手』
魔の山の影を眺めよ。
悪意と深淵のあいだに彷徨いつつ
宇宙のごとく
私語する死霊達。
Prologue: I stood at the summit with M.
'It is the duty of the Alpine Club to climb as near as it can to Heaven!'
──███ █. ███, 19█
「天国になるべく近いところまで登るのが、アルパインクラブの義務です!」
朗々と答えたあの声は、果たして本当に己のものだったろうか?
ああそうだとも。タンドリーチキンにされるかと思うほど暑い、熱い土地。ボンベイ――平穏なる港。その名がしっくりくると感じるにはあまりに凄烈な気候だと思ったが、なるほど、今思えば彼の地もたしかに平穏だと頷ける。門に至るまでの苦難を知らぬ子供が口にした天国、そのなんと穏やかなことだろう!
苦笑しようとして、きっと唇が動いていないことに気がつく。なんて様だろう。顔は雪焼けで爛れ、触れるだけで皮が剥け、唇は乾燥と寒冷でボロボロに割れ、目も開いているつもりなのに何も見えず、頬からは何故か刺すような冷たさが口腔へと吹き込むときた。全身が千切れそうなほど痛くて、でも一体どこが痛いのか、それともあまりの寒さを痛みと感じているのか分からないまま、ただ肌を伝う一瞬の温みが痺れる脳に重傷を訴えていた。
暗闇の中這いずろうとして、指一本とてまともに動かないことを知る。あの人はどこにいるのだろう? ザイルで繋がれたまま落ちるのを見たのだから、きっとそう遠くはない場所に倒れているはずだ。考えたくないが、腕や脚を折ってしまったかもしれない。でも大丈夫、僕が動ければ連れて行けるから――動ければ。
逃げなければ。取り戻さなければ。彼を連れて、抱えて、引きずってでも這ってでも逃げなければ。岩場で身を打ったって、稜線から転げたって、クレバスに落ちたとしても、骨の幾本折ったところで逃げなければならないのだ。頂へ戻らねば。あいつらから彼を取り戻さなくては。逃げねば。あいつらが追ってこないところまで、どこまでも、どこまででも――安全なところへ!
その時、ジジッと無線機のノイズのような音が聞こえた。一瞬希望を持って、しかしその音の語る言語が英語でなければ、ポーターたちの言葉の響きでもないことにがっかりする。落胆した瞬間、パニックに陥っていた思考がふと現実に目を向け始めた。
これ以上、一歩も逃げられないという現実。恐らく此処で殺されるか、凍えきるか、或いは失血で死ぬしかないという事実。
悔しい。キリキリと歯の鳴る音なんて立たなくて、鼓膜を叩くのは氷雪の荒ぶりばかり。この頂に挑むことがもたらすのはオリーブでなくカロンへ繋がる花々、あるいは冠を頂いた髑髏になる可能性は高い。そんなことは承知していたけれど、それでもきっと期待していたのだ。そして何より、こんな終わりは想定していない! こんな馬鹿なことで死んでたまるものか!
されど悲しいかな、いくら喉の奥で息巻いたところで、僕の命は刻一刻と掻き消えようとしている。風前の灯火と言うけれど、未だ消えていないのが不思議な気さえした。
眠ってはならないと分かっている。それでも意識は急速に遠のいていき、あんなにうるさかった嵐でさえも闇の向こうへと霞んでいく。もはや寒いのか暑いのかも分からないほど感覚は鈍く、一枚、二枚とハンカチに覆われていくような心地ですらあった。恐慌状態から脱してなお、悔しさと恐怖だけが混乱という名の匙でぐるぐる掻き回されて頭が割れそうだった。もしかしたら文字通り割れてしまっているのかもしれない。先ほどまで確かに全身が痛かったという記憶はあるのに、今はもうそれすら認識が儘ならなくなっていた。血液と一緒に脳も零れてしまったのなら、流石に僕も無事では済まないだろうが――別の希望は生まれるかもしれない。
そうだ、僕は意識の糸の端を握っていられる最後の瞬間、心臓が幕引きの一拍を打つまで絶望の淵に身を投げたりなんてするものか。無慈悲な貴婦人の気紛れがないとも限らないのだ。
ノイズのような声がしたにもかかわらず、あいつらが未だ下りてきていないことだって幸いの先駆けかもしれない。だからここで僕が耐えきり、帰りが遅いのを心配した誰かが稜線からのスリップ跡を見つけてくれれば。そう、たとえば彼が、登る僕たちの姿を探すよう頼んでいたという――
――ほら、気のせいじゃない。二本足の跫がする。
――神様。奇跡は起きるんだ。
///
ほんの少しの間目を閉じて、耳を澄ましてみた。
僕たちを呼ぶ声も、ヨーデルも聞こえなかった。
次に目を開けて、稜線があるはずの高みに目を凝らした。
僕たちを探す誰かの姿も、キャンプも見えなかった。
ただ轟々と嵐は吹き荒び、ともすれば間近にいる彼の姿すら見えないほどに濃い白ばかり。
どこまでも高く深い、銀の泥濘。ここには道標となる灯りも、星ひとつすらも無かった。
1st stage: The only neat thing to do
'one to depend on for everything perhaps except conversation'
──George L. Mallory, 28th February 1924
強い風に衣を吹き飛ばされた凍礫の斜面は黒い。奈落へ切り落ちた斜面に座って天を仰ぐ此処は、死者のプラネタリウムだ。
今は二月の末か三月初旬だろうか。黒い天幕に針で刺したような星たちが、人の訪れが近いことを知らせる並びで光っている。存外色鮮やかなのはこちらも同じだ。無意味な溜息を吐き、こんもりとした小石の小山に話しかけた。
「何年見上げても美しいものですね、████。あなたにも見えていれば良いのですが」
ケルンにまたひとつ、石を積む。
いつだったか、こんな風に彼と並んで斜面に掛けて、目指す頂を眺めたことがあった気がする。心を擦り減らす度に、時を経る毎に掌から零れていく大切なもの。何を落としたのかは分からなくなってしまうけれど、ひとつ軽くなってしまったことに気づける内はまだマシなのだろう。まだ正気の錨は打たれている。狂気の海で溺れる想像は、高みにいて尚恐ろしかった。此処もかつては海の底だったというではないか。鎖が切れるより先に、零すものが無くなる前に終わらせなければならない。
もう時間が無かった。砂時計を見ることは能わず、ただ盲目のうちに揺らしてみては、すっかり落ちてしまった重心に焦燥を募らせるのだ。
「ねえ████。僕、助けを求めてみようと思うんです……」
静かに呟き、抱いている計画を懺悔のように語りながら、過去に思いを馳せる。
かつて███は語ったという。己は確かに、雲の切れ間に███の姿を見たのだと。最後の壁を越え、神の頂へ迫る黒い影を見たのだと、死ぬまで主張していた。
また彼はこうも語った。嵐の中、戻らぬ██を呼び続けたと。海面の三割強という酸素濃度の中、戻らぬ仲間のために叫び、歌っていたのだと。
……その声を聞くことが叶ったのは、他人の話伝だった。
そのことがどうしようもなく悲しくて。
それでもきっと、嬉しかったのだ。
███はまだ、この山を離れられないけれど。それでも、帰還を促す声があの吹雪の中にあったということを、冷たい闇の中に差し伸べられた手があったのだという事実を知ることができたのは、本当に幸運なことだったと思う。
ただひとつ彼に対し心残りがあるとすれば、その声が届いたことを伝える術がなかったことに尽きる。あの時取れなかった手を掴むことは、もう叶わない。彼に、彼らに何かを語れるとしたら、神の御許でということになるのだろう。
█は――いつになったら、伝えられるだろうか。
███は、いつになったら。
吹雪はやまないまま、今晩もまた月が登る。
///
二〇二四年 四月八日
「吹雪の中で迷った自分を呼ぶ声が聞こえないのは辛いものだけど、迷っているであろう仲間を呼ぶ自分の声が届かないのもさぞ辛いものだろうな」
いきなり何を、という目が声の主に向けられる。轟々と唸る風とその腕が氷雪を猛烈な勢いでナイロン地へ叩きつける音によって、続く溜息はかき消された。
「もしもナーバスになっているのなら、エリオット」ハスキーな女性の声が、呆れを押し込めて言う。「あなたは今すぐ眠る努力をするか、我らがシェフに熱いスープを頼むべきだと思うけど」
「いや結構。流石にノル相手でもこの吹雪の中外に出す気もないし、この高度でテント内調理をする気もない」
「だったら今すぐ眠るべき。どんなに早くたって、明日の朝までは動けないんだから」
もっともだとエリオットが頷くと、赤い前髪が元気のない顔に影を落とした。
標高一八七〇〇フィートに吹く風は常から強い。防音壁など挟まぬ夜の嵐と浅い微睡の中で見た夢の後味は、確かに彼の憂鬱を引き起こす原因となっていた。夢の内容を思い出せないのがまた気持ち悪い。
二〇二四年四月八日、エヴェレスト北東稜は昼過ぎから女神の癇癪に見舞われていた。標高一七〇〇〇フィートに位置するベースキャンプを出立し、二一三〇〇フィートに構えられたアタック・ベースキャンプとのほぼ真ん中にある中間キャンプを目指す最中で立ち往生。もう一息のはずだがホワイトアウトに見舞われ、やむを得ずビバークするパーティーが、吹雪の中でひとつ、瞬く星のような明かりを灯していた。
沈黙が支配するテントの中、ろうそくに仄明るく照らされた人間が三人。一人は赤毛の青年、エリオット。他二人に比べると高価な登山服に身を包み、酷い音を立てる天幕を気味悪そうに見つめている。揺れる炎に照らされる顔は山よりも書斎が馴染む雰囲気で、やや神経質そうな印象を与えた。
それに比べると、シュラフに大柄な体を押し込め眠っている人物はいかにも山男らしい。ノルと呼ばれたこの男、もといオリバーは、どうやら山に入ってから髭を剃っていないようだ。鼾になりがちな寝息に耳を塞げば日焼けしながらも知的な面立ちに気がつくのだが、きっと下ってくる頃には熊もかくやというワイルドな風貌になっていることだろう。
そしてその横であくびを噛み殺したのが、この場で唯一の女性だ。ショートのブルネットに気の強そうな顔と銀灰色の瞳が、どことなく黒猫を連想させる。フェミニンな言葉よりは格好いいという形容がしっくりくる出で立ちで、口に何か放り込むとノートとペンを取り出した。
それを見て、シュラフに潜り込みかけたエリオットが訝しげに眉を寄せる。
「君は寝ないのか」
「このキャンディが消えたらね。あなたも一つどう?」
受け取った飴を含んで暫くすると、エリオットの顔色が良くなってくる。シュラフの中で寝返りを打ち、灯りから顔をそむける。ややあって緊張の緩んだ声が半ば独り言のように呟いた。
「それにしても運が悪いな。ベースキャンプはあんなに晴れていたのに」
「貴婦人の気紛れを恨んでも仕方ないでしょう。急転直下の荒れの中、無事にビバークできただけでも幸運だと思わなきゃ」
実際この山の女神は気分屋極まりなく、現に今も数分前までの嵐が嘘のように外は静まっている。いずれまた吹雪くのだろうが、寝入るならばまたとないチャンスだった。
これ幸い、眠ってしまおうと目を閉じたエリオット。しかしすぐに僅かに頭をもたげると、こわばった顔を仲間に向けた。
「ローズ、君は山でホラーな目に遭ったことがあるかい」
「ゴーストストーリーならちっとも。今度は何?」
ちょっと言葉に詰まる。しかし耳をすませば、風音と聞き間違うはずのない確かな跫が微かに聞こえた。獣ということは無いだろう、恐らく一人だ。まっすぐ近づいてくる。ただ一時の静けさを取り戻しているだけで、すぐにまた荒れるであろう吹雪の夜を彷徨するなど正気の沙汰とは思えなかったが、ストレスで幽霊の足音を聞いているのだとも思われなかった。
「雪男がこっちへ向かっているかもしれないと言ったら信じるか?」
「イエティが実在するとでも? 馬鹿ね、こんなところで吹雪の夜を歩き回る生物がいるわけ……」
とうとう呆れを露わにしたローズがふと固まった。彼女にも聞こえたのだ。幻聴であってほしいという微かな希望は無情にも潰え、引きつった顔を見合わせる。無言のうちにエリオットはハンティングナイフを手に取り、ローズは眠り込んでいるもう一人の仲間を揺り起こそうとした。
全くもって無駄な足掻きだ、と吐き出したいのを堪えた。エリオットはナイフを動くものに向けたことなんて無かったし、オリバーは眠ったが最後、本人が起きるべきだと思う時が来るまで水底の神よろしく目覚めないのが常だった。誠に遺憾なことに、その時は今ではないらしい。
いよいよ問題のものが近づいてくると、フライ越しに揺れる白っぽい光源が見て取れた。獣の線は消えたが、それで緊張が解けるわけでもない。
足音はテントから数フィートのところで止まり、入口の方で少し迷うように足踏みしたらしい。中の様子を窺ってくるような間があいたが、それに応えて開けるつもりもなく、ただナイフの柄を握り締め唾を飲んだ。
フライ越しの奇妙な対峙は、どれほどのものだっただろう。相手はどうやら、テントの主の方から声を掛けてくれることを期待していたらしい。しかしいつまで経っても反応が無いので、やがて焦れたのか、「こんばんは」と掠れた声が降ってきた。英語、男性、恐らくまだ若い――しかし幽霊よりなお恐ろしいのは人間だ。深夜の訪問客など警戒するに越したことは無い。更に息を殺してじっとしていると、天幕の向こうの光が困惑したように揺れた。
「ええと、
その呼び掛けにも答えずにいるとまた暫く間があき、いくらか小さくすぼんだ声が続いた。「返事をしてください、ねえ……」
無視を決め込んでも、彼は段々と心配そうな調子を帯びながら粘り強く呼び掛けてくる。何度も、何度も。還らぬ仲間を呼ぶようだとさえ、思った。
知らぬ顔が泣きそうに歪む様が見えるようだった。その声がどうしようもなく寂しそうだ と感じた瞬間、思わず左手を伸ばしていた。
開けた幕が運命の緞帳だったと、知る由などなかったのだ。
舞台に佇んでいるのは、背の高い青年だった。バラクラバで顔を覆っているため年の頃ははっきりしないが、せいぜい二十代の頭か半ばといったところか。両の手を上着のポケットに突っ込み、荷は背負っていない。スポットライトのような束の間の細い月明かりを、肩の広い立派な体躯のシルエットが黒く切り取っていた。
目が合うと、不安そうに見下ろしていた顔は仲間でも見つけたかのような、痛ましいほどにほっとした笑みを浮かべたらしかった。
「やあ、ごきげんよう。ヒマラヤで迎えるには最高の夜ですね」
ひどく掠れた声が紡ぐ気障ったらしいくらいの挨拶に、不思議と嫌味さは無かった。テントから漏れる光を映す青年の目は、人懐っこく弧を描いている。
「……何の御用でしょうか」
硬い表情で問うエリオットのナイフに気づいたのか、突然の訪問者は敵意など無いという風にポケットから出した両手をひらひらと振った。
「そんな顔しないで、ちょっとしたお節介です。こんなところで夜を明かそうだなんて随分危険だと思いましたので。気は進まないでしょうが、吹雪が弱まっている今のうちに五〇〇フィートほど先にテントを張り直した方がいいですよ」
「はあ?」
夜の雪山、それもいつまた嵐が吹き荒ぶか分からない中をテント撤収だなんてとんでもない。素直すぎるほどの無遠慮なリアクションに、青年は真面目な色を浮かべて足元を見た。
「そこ、半分雪庇の上です。下に氷が張っていますけど、吹雪で重みが増したり朝陽を浴びたりしても崩れないという保証はしかねますよ」
その言葉にぞっと背筋が凍った。慌ててスノーブーツに足を突っ込み、アイゼンも付けないまま表へ出る。靴紐を引きずりながら状況を確認しようとするエリオットに、青年は少し引いたところから手招きすると、テントから僅か五〇フィート下方をすっと指さした。
カーブを描くトレースの傍で切れ落ちた黒い岩肌が、ぐうっと白雪の下に潜り込むように消えている。吹雪の中とはいえ状況確認が甘かったのはとんだ落ち度だが、なるほど、確かに今立っているこの場所は奇跡的に厚い雪庇らしい。だが厚いということは、いつ自重に負けて崩壊するかも分からないということだった。
「この岩を風よけにしていたんですよね。でもこいつはずっと下まで殆ど垂直に切り立った壁のてっぺんなんです、だから此処は殆ど空中みたいなものですよ。崩れてもすぐ岩棚に引っかかるかもしれませんが、運悪くロンブク氷河まで落っこちて何百年も帰れないなんて御免でしょう?」
「……」
絶句して砂上の楼閣ならぬ雪上のテントを見つめる。きちんとブーツを履いて出てきたローズも視線を辿り、流石に青くなった。周囲を見回してもクラックは目につかないが、先ほどまでの吹雪で積もった新雪に覆い隠されているだけだろうか。たとえ今、雹が横殴りに降りつけていたとしたって、此処で悠長に夜を明かすなど自殺願望者の選択だった。
「お手伝いします。一刻も早く移動しましょう」
そう言って、親切な訪問者は手を差し伸べた。
オリバーを起こすなら緊急事態だと叫べば良い、という知見は素晴らしい副産物だった。テントの撤収と再設営は四人がかりで迅速に執り行われた。ザックを背負い、簡単に括った荷物を抱えて五〇〇フィート先まで運び上げ、最後に青年がテントポール、インナーとフライを担いでついてくる。
「そこの岩陰です」という声の近さに驚いて見ると、殿にいたはずの青年は呼吸一つ乱すことなく並び立っていた。驚いている間に彼はさっさと先へ進んでしまい、スノーペグを打ち込み始めたかと思うと、持ち主一行が追いつく頃には雪庇上からそっくり移したようにテントが張り直されていた。風よけの岩も、先ほどのものよりは小さいがこの高度で一晩を明かすには十分だ。申し分なかった。
「手際の良い奴だな」
雪庇に片足をかけていたというのに終始動じないオリバーが、感心したように呟いた。
四人用テントから少し離れたところにはもう一つ、岩壁に挟まれた狭い空間へ滑り込むように二人用サイズのテントが張られている。恐らく青年のものなのだろう、辺りに他のテントが見当たらないということは、驚くべきことに単独行らしい。
拠点の再設営が終わり、ほっと溜息を吐いて点々と刻まれたトレースを目で辿る。改めて此処から見ると、危険極まりない場所にテントを張ったものだと肝が冷える。そして標高一八七〇〇フィートの荒れた夜を、彼はよくも助けに来てくれたものだと。
「あそこの明かりを見てわざわざ来てくれたのか」
「あなた方の運が良かっただけのことです。避けられるはずの死に気がついていない人を放っておくわけにはいきませんから」
「いいや、感謝するよ。そこのテントはあなたのものだろう、明日の朝改めてきちんとお礼をさせてくれ。何時に出立の予定……」
暖まりつつあるテントへ戻ろうと靴を脱ぎながら話を進めるエリオットを、青年はじっと見つめたまま動こうとしない。何か言い淀んでいるのか、それとも値踏みでもしているのか、不躾なほどまっすぐに視線を外さない。
「……何か?」
月と星明かりの下で茫と立ち尽くす姿はどこか薄気味悪く、助けられた手前失礼とは思いながらもつい警戒の色を出すと、青年は一転、その目をへらっと弧にしてテントを指した。
「入口、開けたままだと寒いでしょう。狭いところ恐縮ですが、僕も少しの間だけ入れてもらえませんか?」
やり取りを聞いていたのだろう、ローズもアナウサギのように顔を出した。
「急ぎで欲しい物資でもあるの? 私たちも持ち合わせは限られているけど借りは大きいわ、言うだけ言ってみて」
「ああいえ、そういうわけじゃないんです」ローズの言葉に、青年は声へ心外だといった色を乗せた。「ただ、お願いしたいことがありまして……お疲れのところ、しかも夜分に失礼は承知ですが、少しお話できませんか。無理強いはしませんので、どうか」
高所と乾燥のせいだろうか、かなりの咽頭痛を伴っているであろう酷く掠れた声で丁寧に話す彼は、中に入れるのがお嫌でしたら僕は外から話しますよとまで申し出る。それはあまりに可哀想だと折れたのがローズで、彼女に押し切られる形でエリオットは靴を脱ぐよう促す。ぱっと纏う空気を明るくして礼を口にした青年の向けた背を、エリオットはじっと観察した。
思った通り。気味の悪い男だ、というのがエリオットの抱いた印象だった。先ほどは雪庇からの撤退でそれどころではなかったが、何となく最初から警戒心を煽られたのは意識の外で気がついていたからなのだろう――その姿を構成する全ての要素が、なんともちぐはぐなのだ。
身につけているものの殆どは年季が入っているか、そうでなくともかなり傷めた跡が見受けられる。ヴィンテージじみた古い飛行帽。青いウィンドブレーカーはありふれたものだが少し肩回りが吊り気味で、袖と裾が擦れている。みすぼらしささえ感じる袖口から覗く手袋も指先の生地は薄く、いくら二重にするとはいえこれでは近いうちに凍傷の危険に曝される羽目になるはずだ。青いゴアテックスの下には反対に真っ赤なダウンを着ており、下半身は膝に接ぎをした黒のフリースパンツ、最後に冴えない灰色ウールの靴下。脱いだスノーブーツは黒と蛍光グリーン。この調子では、インナーやザックもてんで滅茶苦茶な取り合わせをしていることだろう。
色だけでなく、軽量化したいのか耐久を優先したいのか、買い手の予算、流行、デザインの趣味嗜好、そうしたあらゆる要素がばらばらなのが、何人もの人間を継ぎ接ぎした怪物のようで気持ち悪かった。何も知らない人間が見ればただの古びたウェアを身に着けた登山者かもしれないが、ことエヴェレスト登山においては正気を疑う姿だった。カトマンズからのヒマラヤ街道トレッキングならばまだしもである。
しかし何よりも目を引くのは、バラクラバに覗くよく光るロイヤルブルーの瞳と、あまりにも白すぎる肌だった。色白という程度ではない、アルビノとも少し違う、血の温みすらも感じさせない蝋のような白。その真っ白な肌がある人物の遺体を連想させ、装備のキメラぶりと合わせてエリオットはひとつの単語を思い浮かべる。
それは死の領域に広がる鮮やかな屍の墓場。腐敗せず吹き曝される歴史の掌から零れた骨。これではまるで、歩く虹の谷――
「うん。俺が連れてきた後輩は三人だったかな」
「何寝ぼけたこと言ってるの、お客さんよ」
「冗談だよ、お礼をするのに朝まで待たなくていいのは朗報だ」
間の抜けたやりとりに我に返った。早くも寝直そうとしていたところを揺すられたオリバーが起き上がると、ただでさえ狭かったテントが更に缶詰じみた圧迫感をもたらす。上手く荷の隙間に身を縮こめ、微笑まし気な色を湛えて眺めていた知らない顔が、お邪魔していますと軽く会釈した。人当たりの良い笑みと態度だが、折り曲げた膝の上でかたく組まれた手に緊張を見て取れた。
「いやはや、キャンプの中間でこの吹雪とは災難でしたね。出発時は快晴が見込まれていたんじゃありませんか?」
「おう、まったくだ。そちらさんも吹雪に巻きこまれたクチか?」
「まあそんなところです。大変な仕事の後で恐縮ですが、実はちょっとお願いしたいことがありまして……」
そこで居住まいを正して、青年は三人の顔を見渡した。
「申し遅れました、僕はサンディといいます。出身はイギリスですが、もうかなり長いことこの地で暮らしていまして。エヴェレストを中心に、ヒマラヤ一帯をぶらぶらしている身です」
「その若さで? 大したもんだな、名の通った登山家なんじゃないか。サンディってのは本名じゃないんだろう」
「ええ、友人や登山仲間からのあだ名ですよ。ほら、金髪だから……それだけです」
言いながらサンディは、帽子とバラクラバを軽く持ち上げてみせた。全く雪焼けしていないどころか無機物のような白い額に、これまた色素の薄い金色の前髪がかかる。
サンディ、とエリオットは口の中で反芻する。確かに不自然なあだ名ではないが、しかし――。
ろくでもない想像を膨らませそうな悪寒を振り払い、不気味なくらいの白の中で快活な笑みを湛える目を見据えた。
「登山に向かない肌だな。一回登ったら酷いやけどになるだろう」
「きちんと対策しなければね。あなたも日焼け止めの効能はよくご存知でしょう?」
まったくだと頷くエリオット自身、日焼け止めを塗ってなおひりつきにやられた苦い思い出は一度や二度では済まない。大体がこの憎らしい赤毛のせいだと思いながら、自分よりもなお白い顔に名乗った。
「いつまでもあなたじゃやりにくいだろう。エリオット・スミスだ」
あ、という顔をして仲間たちが続く。
「ああ、こちらこそ名乗ってなかったな。俺はオリバー・アスター。医者だが半分サバイバルみたいな生活をしているんでね、こっちの面子の中じゃ一番山の経験があるとは思うが……どうやらあんたのが慣れていそうだな。で、彼女がローズ」
「あら、ありがとう。私ローズ・ヒューストンよ、よろしくね。仕事柄この中では経験が浅いけど、地球の背骨を狙うには十分よ」
「これはご丁寧に、ありがとうございます。しかし意外だな、小パーティーだからてっきり職業登山家だとばかり思っていました」
「単独行じゃあるまいし、今時そうとも限らないさ。そっちこそ」
「僕もプロでは……それでは、学生としておきましょうか」
濁した返答に、胡散臭いと呟き睨みつけた。
「本名は名乗らないのか?」
「まだ黙っていた方が面白いと思うんですよね。それに僕はこのあだ名が気に入っているから、サンディと呼んでほしいんです。誓って犯罪者などではありませんので、その点はご心配なく……といっても不審でしょうか」
「まあまあ、偶然行き会っただけの相手に何もかも話す必要は無いだろう。互いにな。それより頼みってのは何だ」
棘をのらりくらり躱し、全く堪える様子のないサンディに苛立ちを募らせるエリオットの肩を叩きながらオリバーが仲裁に入った。その言葉にサンディはおどけた雰囲気を引っ込めて、真剣そうに三人の顔を見渡した。
「ちょっとしたお願い、と言うには我儘なのですが。よかったらこの先、皆さんとご一緒させていただけませんか? この辺りのことには家の庭のように詳しいと自負していますし、体力にも技術にも自信があります。専門のポーターほど荷揚げの訓練を積んだわけではありませんが、足手纏いにはならないと思いますよ」
どうでしょう、という言葉にエリオットでも即断りを投げられなかったのは、先の引っ越しでの働きを目の当たりにしているからだった。目端の利く、体力も技術もある若者がいて困ることは無かった。そもそもが、彼らは三人パーティーで登りたかったわけでもないのだ。
腕組みをしたオリバーが問う。
「仮にオーケーするとして、だ。見返りに何が欲しい」
「お金や物資に関してご迷惑はお掛けしない、と最初に約束しておきましょう」
サンディは、にっと笑みを浮かべたようだった。多分それは、「つりこまれるような」とでも形容するべきものなのだろう。思惑ありきと思うのが疑念による歪んだ認知なのかは確信が持てなかった。
「実のところ今回は単独登頂を目指していたのですが、話し相手がいないというのは思いのほか退屈なもので……僕、自分で思っていたよりお喋り好きらしいんです。二九〇〇〇フィートまで黙々と登り続けるなんて、想像しただけでうんざりしてしまいまして。だから余裕のある夜だけでもいいんです、皆さんの団欒に水を差さない程度にお話しさせてもらえたらなあ、なんて思ってお願いしている次第です」
弁えない希望とは思いますが、と付け足した小声は表情とは裏腹に、控えめで不安そうにも聞こえた。
サンディが顔色を窺うように口を噤むと、テントの中には暫し沈黙がおりた。
受け入れるには互いのことを知らなさすぎたし、そもそもサンディの姿はあまりにも怪しかった。だが蹴るにはあまりにも惜しい四人目なのも、恐らくは事実なのだろう。加えて言うなら、エリオットにとっては嫌な予感と同じくらい奇妙な好奇心が掻き立てられるのも判断に迷う一因だった。
「いいんじゃない、あの吹雪の中を突いて行動できるって頼もしいわよ。この先も長いんだし、話し相手が増えるのも面白いと思う」
口火を切ったのはローズだった。最初から警戒の薄そうな彼女の様子に、エリオットは反射的に渋い顔をする。
「正気か? 大体の動機が怪しすぎるし、仲間に入れろっていうのにまともに顔も見せやしないんだぞ」
「無礼は承知です。が、またすぐ外に出るのでどうぞ寛大な心で見逃してください」
少し困った風な訪問者の様子にローズも苦笑を浮かべつつ、エリオットにはいくらか気遣わしげな目を向けてくる。
「ほら、誰かと違って素直だし? 用心深いのはいいけど、あなたちょっと神経質すぎよ。失礼だけど、こっちには三人分の目と腕があることだし」
「しおらしくしたらいいってものじゃない。今シーズンに単独登頂を目指す奴がいるなんて聞いてないぞ。大体お前、何なんだその装備は。追剥でもして揃えたんじゃないのか」
その瞬間、サンディが向ける視線に刺すような険がこもった。
束の間睨み合いになる。温厚そうな器の中で初めて得た手応え、その不穏さにやはり断ろうかと考える思考を断つように、ローズが眉根を寄せて小突いてくる。
「馬鹿、せめて言い方ってものが……」
「いえ、懸念は当然でしょう」
しかしすぐに穏やかな雰囲気を取り戻し、サンディは冗談めかして擦れの目立つ袖をつまんで見せた。
「でも答えは簡単、お下がりを頂いているんです。登山、特にこの辺りの山にはとかくお金がかかるものでしょう、見栄を張っていられる身分でもないのでね。登るのに問題はありません」
納得いただけましたかと苦笑いする姿は、資金繰りの苦労を恥じらう登山家というありふれたものでしかなかった。装備の粗末さを体力と技術で補っているのだとしたら、それは身の安全や快適さと引き換えに才能ある若い登山家が取れる手のひとつだ。度が過ぎるだけで、思考自体は有り得ないわけでもない。自尊心が傷つくところを無遠慮に突かれて気を悪くするのも、いたって普通の反応だろう。
よし、と何か納得したらしいのはオリバーだった。
「悪いなエリオット、俺もサンディをパーティーに加えるのは賛成だ。逆境に置かれると気心の知れない者とも仲間になるっていうしな。それに俺たちは借りがある……さあどうする、オールド・チャップ」
押し切られるという体裁を取るならここが引き際だった。自他ともに優柔不断と認める人間にとって幸運な状況、というよりも実質オリバーに判断を委ねてゴーサインを出されたも同然だった。見知らぬ悪魔より知っている悪魔ということわざもある。先輩の助け舟に内心感謝しながら、軽く肩を竦め頷いた。
「二対一だ、これ以上は言わないさ」
「いいんですか」
サンディが声を弾ませ身を乗り出した。なるほど、演技でなければ気持ちのいい仲間になるだろう。つい緩みそうになる警戒心の手綱を引き続ける決心を固めながら、半ばわざとらしいほどつっけんどんに言った。
「ここで無理に反対し続けるほどあんたを危険視しているわけでもないよ、ただ怪しいそぶりを見逃さない人間がいるってだけの話だ。俺たち下りてからも隣人であり続けるわけじゃない、そうだろう?」
「うん、慎重なメンバーがいるのは良いことです。でもずっと警戒しているんじゃ余計な負担を強いてしまいますからね、お喋りより行動で示すとしますよ」
棘など無かったような顔して嬉しさを隠さず力強い調子で宣言した最後に、彼は何故か痛ましいほどの安堵の色を滲ませた。
「本当にありがとう、あなた方の寛容さと勇気に感謝します。きっと後悔はさせません。どうぞよろしくお願いします」
お邪魔しました、とテントを出ていく足音はもう一つのテントの方へ吸い込まれていき、すぐに途絶えた。
間もなくろうそくは消され、各々シュラフに潜り込む。再び激しさを増してきた嵐の唸り声に共鳴するように、心のざわつきもまた収まる気配が無い。しかしそれもエリオットだけのようで、早々に寝息を立て始めた二人に続きたい一心で目を閉じた。
それでもやはり眠れぬまま小一時間も経っただろうか。突然どっと揺らすような音が耳朶を打ち、思わず跳ね起きた。わざわざ確認せずとも、距離も方角も間違いようが無かった。サンディが来なければどうなっていたかを思い息が止まる。仮に岩棚に引っ掛かったとして、ツェルトも無しに吹雪の夜を明かせる可能性がどれほどあるというのか。シュラフから抜け落ちないことを祈るほかあるまい。だがその先は? 考えるだに恐ろしかった。
しかし何故だろう、命の恩人であるはずの彼の白い面が雪と共にぼろぼろと崩れ去る様を浮かべてしまうのだ。耐えかねて、エリオットはとうとう抗ヒスタミン剤の封を切った。
「天国になるべく近いところまで登るのが、アルパインクラブの義務です!」
「会話以外の全てにおいて頼りになる人物だ」
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