CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

1924.06.09

 マロリーとサンディがキャンプに戻っている気配がない。

 帰らぬ二人の捜索のため、オデルがキャンプⅤへ登る。

 

【朝】

 キャンプⅣのオデルとハザードは夜明けと共に起床し、サンディの双眼鏡で頂上付近を探した。しかし未だにマロリーとサンディの姿が見えない。誰も気づかないうちに二人がキャンプⅥへ戻っていたのならば良いが、それより高いところでテントもなく夜を明かせた可能性は無きに等しかった。1924年6月8日は全体的によく晴れて風が弱く新雪も少ない登山日和だったが、ひどく寒かったのだ。

 オデルとハザードはいくつかの合図を決め、夜なら懐中電灯の点滅、昼なら雪上に敷いた寝袋の置き方で信号を送ることにした。

 

【午前中~日没まで】

 ノートンはキャンプⅢの中心に望遠鏡を据え、陽が出ているあいだはずっと隊員が交替で山の上を見張っていた。

 時々ノエルたち隊員は望遠鏡を覗くポーターたちに声を掛け、「クッチ・デクタ?(何か見えるか?)」と尋ねたが、毎回彼らは首を振って「クッチ・ナヒン、サヒブ(全く何も見えません)」と答えた。

 

【11時】

 キャンプⅢのノートンが、キャンプⅣに待機しているオデルへ宛てて「君から合図がないのは惨事を意味するのではないか」という短信を送る。

 ノートンはオデルに、キャンプⅥへ続く北東稜の監視をその日中ずっと続け、陽が暮れてから2時間は見張りも置くように指示した。また、その日のうちにキャンプⅣへ戻る能力が十分にある場合は除いて、誰もマロリーとサンディを救助しに登らないよう念押しした。

 オデルの支援任務は翌6月10日の16時までということになった。これは主に彼の為に明確な期限を設けるためであり、英国人だろうがチベット人だろうが、救えないものを救うというごくごく僅かな可能性に賭けてこれ以上一人でも命を危険に晒すわけにいかないという指針を定めなければならないためでもあった。

 ノートンはオデルに捜索のためできることをするよう、(彼の難しい立場を慮りながら)指示したが、山へ更に人を送ることを嫌がっていた。モンスーン到来の兆候が出ていたので尚のことである。

 

 

【12時10分】

 ノートンからの指示を待たず、オデルと二人のポーター(ニマ・トゥンドゥップとミンマ)がキャンプⅤへ出発。

 

【15時25分】

 オデルとポーター二名がキャンプⅤへ到着。非常にハイペースな登攀と言える。

 キャンプⅤは、オデルが最後に見た時と全く変わっていなかった。マロリーもサンディも、ここへ戻ってきていないのだ。

 翌朝に全てが懸かっていた。残る望みは二人が今日もキャンプⅥに滞在していることだったが、9日中ずっとキャンプⅥからは何の合図もなく、人がいる気配もない。見通しは絶望的だった。

 

【午後】

 シャビアがシェルパの一団を連れてキャンプⅡからⅢへ上がってきた。キャンプをたたみ、山からの撤退を始めるためだった。

 

【夜】

 キャンプⅤは猛烈な寒さと強風に見舞われた。オデルはテントの中でありったけの服を着て寝袋2つにくるまっていたが、それでも寒さに震え続けて一睡も出来なかった。どこかでマロリーとサンディがこの風寒に晒されていることを考えるとぞっとした。

 ヒングストンは日記にキャンプⅢの張り詰めた様子、「実に不安な一日」のことを綴った。どんなに遅くても二人は今朝キャンプⅣに下りているはずだが全く姿が見えず、オデルが苦労したことからも分かるように、山は雲に覆われ厳しい風が吹いている。何を取っても死者が出たことを示唆しており、ヒングストンもノートンも遠征が悲惨な終わり方を迎えることを認めていた。