1924.06.06
マロリー・サンディペアがキャンプⅤへ出立した日。彼らは8人のポーターを伴って、ノース・コルの更に先へと進んでいった。
この日の朝、オデルとハザードは2人のために、炒めたイワシの缶詰・ビスケット・チョコレート・お茶の朝食を用意した。
マロリーとサンディは朝7時30分にノートンに別れを告げた。この時雪盲で目が見えないノートンは、暗闇の中に置かれたままテントの入り口から2人に手を振って送り出しながら、はっきりした不安を覚えたという。
「マロリーとアーヴィンにさよならを言った」
「マロリーたちについての最後の記憶は、握手をし、祝福の言葉をかけたことだった、というのは二人の小さな隊が雪のこぶや氷のクレヴァスの間を縫ってコルに向かうのが私には想像でしか見えなかったからだ」
しかし2人が実際に出発したのは1時間以上経った8時40分頃だったらしい。(アタックに持っていったカメラのフィルムが現像されない限り)生きている彼らの姿を収めた最後の写真を撮影したオデルの記述では「私たちがさよならを言う中、一行は静かに去っていき、まもなく姿が見えなくなった」。
その後、ポーターを伴い登ってきた医師ヒングストンの護衛でノートンは17時にキャンプⅢまで下ろされる。マロリーとサンディもどうやら順調に進んだようで、同時刻にキャンプⅤから4人のポーターがキャンプⅣへ戻り、オデルにマロリーからの「ここは風もなく、期待できそうだ」という手紙を届けた。
この日、マロリーとサンディが持って行った装備のリストが以下の通り。
■マロリー
そして外套のポケットと首から提げた2つの小袋に、雑多な小物を入れていた。
- 爪切り鋏
- ペンナイフ
- 「スワン・ヴェスタ」印のマッチ1箱
- 予備の紐類
- チューブ入りワセリン
- ハンカチ2枚(それぞれ暗赤色・緑・青の柄と赤・青・黄の柄。どちらもGLMの刺繍が入っていた。)
他、装備の一覧を書いた紙切れと手紙が3通。
- 4/2付、ロンドンにいる弟トラフォードから
- 4/12付、コロンボにいる姉メアリーから
- ステラ・コブデン=サンダーソンから(ステラはマロリーが講演で訪れたニューヨークで出会った女性。手紙の内容は他愛もない噂話などで、マロリーはルースにもこの人の話をしている。この手紙をアタックに際して持っていたのは、封筒の裏に酸素ボンベの圧力をメモしていたからだった。)
■サンディ
基本的にマロリーと同じような服装。 他、
- シャクルトン外套
- 半ズボン
- 巻きゲートル
- フェルトの帽子(日光避けのため目深に被っていた。)
■8名のポーター
それぞれ約11kgの荷を背負っていた。
- 寝袋
- 固形燃料
- 予備の酸素ボンベ
- 食料(量は少なめで、高カロリーの軽食が中心。チョコレート、ジンジャークッキー、マカロニ、ハムとタンの薄切り、ケンダルのミントケーキ、紅茶)
マロリーとサンディもそれぞれ酸素装置を背負っていたが、酸素ボンベが不足しているためキャンプⅥ(最終キャンプ)までは使わないことにしていた。つまりその高度まで、ただの11kgの重荷を背負って登るわけである。参考までに述べると、今では基本的にノースコルの現代キャンプⅠ(≒伝統キャンプⅣ)から酸素を吸い始めるようだ。
上記のマロリーの装備一覧は『沈黙の山嶺 下』に記載のあるものだが、恐らく99年に見つかった遺体から回収されたものがベースとなっているのだろう。Getty Images に写真があるのでリンクを貼っておくけど、99年の調査遠征隊による『そして謎は残った』にも掲載がある。
鋲靴。古典的だけど、岩場を歩くにはそんなに悪くもなかったという話も。
マロリーの遺体から回収されたロープ。巻いていたマロリーの腰には酷い出血痕があり、彼とサンディはこのロープでアンザイレンしたまま滑落したことが分かる。
左の手袋。この上から重ねて別のグローブを着けていたはずだが、滑落停止を掛けようと斜面にしがみついて出来た傷が酷かったそうなので、アウターグローブはボロボロだったのだと思う。
ゴーグル。これがポケットに入っていたことで、彼らの事故発生は日没後=そんな時間まで外にいたからには登頂を果たしていたのでは、という推論の根拠となっている。ただしこれは予備のゴーグルで、事故当時身につけていたものは岩で切ったりしてどこかへ行ってしまったという可能性もある。
名前の刺繍入りハンカチ。75年を経てもなおこんなに鮮やかだった。
懐中時計。針はもうない。
腕時計。針が事故発生時刻の手掛かりになると目されたが、そうはいかなかった。
シャツの洗濯票。マロリーの遺体を見つけた99年の隊員たちは思った――「どうしてマロリーがアーヴィンのシャツを着ているんだ?」 彼らは見つかるとすればサンディの遺体だと思っていたのだ。
スワン・ヴェスタ印のマッチ。
先のリストで爪切り鋏と言っているのは恐らくこれのことだろう。
刃の刻印から辿ったところ、サミュエル・スタニフォースの LambFoot Pocket Knife がこのポケットナイフの後継モデルではないかと思われる。
酷い乾燥と日焼けに見舞われる高所において、隊員たちが鼻先や指先にワセリンを塗る習慣を身につけたことは皮膚のダメージにかなりの効果を齎したらしい。ただし頻繁に顔を洗ったり、こそこそ水浴びをしに行ったりしていたサンディは例外だ。
サンディについては遺体が見つかっていないため、凡そ同じという前提で、オデルが撮影した彼らの最後の写真から分かることを足している記述らしく思える。
ノースコルを離れる支度をしているマロリー(左)とサンディ(右)。支度しているマロリーを、ポケットに両手を突っ込んだサンディが待っている。
コルを発つマロリー・サンディとポーターたち。
昨日でサンディの日記が終わり、今日でマロリーとサンディの姿を収めた写真が最後となる。アタック前夜となる続きはまた明日。
※この記事は主にウェイド・デイヴィス『沈黙の山嶺 下』をベースにしています。記事内の発言の訳もオリジナルのものではなく同書より引用したものです。