CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

Ghostlier Wanderers

 "Blood and Sand, Our Beloved Blue Paths!" のタイトルで、遠征中のエピソードを拾ったものを中心とした短篇を集めた連作が出来たら面白いかな…と思って書いていた中の一篇。Roll pL/Ray と同じシリーズなので本当に短い。

 遠征が終わり、皆が帰途についた後のエヴェレストの短い幽霊話。

 

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雑記

 3月からこっち、日付を追いつつ毎日サンディの日記再訳をしながら偶にイベント関連のことをまとめてみたりして、殆ど毎日ブログ記事を書き続けていた。

 日記が終わり、遠征も日々追い続けるような段階は終えたので、休みだった20日Surfaceを起こさず家の掃除をしたり本を読んだりとゆっくり過ごした。ちょっと腑抜けたような感もある。

 本当はやりたいことがあるので備忘を兼ねてメモ。

 

  • 日記序盤の記事に原文と補足を入れる。トップの記事から飛べる目次一覧のようなものをまとめる。
  • 調べ物関係で最近あったこと…マートンへの問合せ結果、ロープのこと、eBayで手に入れたもののまとめ。
  • 本のこと。山の怪談、エヴェレストの幽霊について書かれた和書がまた増えたこと!
  • SCPのエヴェレスト関係ネタのこと。
  • アルパインクラブの展覧のこと。

 

 …もっとあった気がするんだけどな。あとは完全に趣味振り切りのアウトプットも進めていきたいね~日記再訳中は全然進まなかったから…。

 泊登山も行きたいけど、お盆にかけて繁忙期なのと秋口に連休取りたい気もするので今年の夏山は見送りになりそう。冬山狙って行こうか…本当は冬繁忙期なのでちょっと心苦しいけど…などともやもや。間を取って山に初雪の降る頃に行くかも。

 

 そう、秋の計画。

 英本国のアルパインクラブによって、英国の第一次エヴェレスト遠征から百周年を記念した展覧 Everest: by 'Those Who Were There' が昨日から始まった。

 この展覧では20年代の遠征について一気に見ることができるし、当時の写真のみならず隊員たちの描いた絵や使用した装備、着ていた服…そしてサンディの日記が展示される。

 

 展覧の開催が告知された時、開催それ自体の歓びとあまりにも素晴らしいタイトル、そして2年前から続いている最悪と思えるタイミングでの儘ならない状況に泣いた。

 一応日本からイギリスへの観光ビザでの入国は5月下旬から解禁されているのだけど、まだ入国後と帰国後に10日間ずつの隔離期間が設けられるので、多少短縮する手があるにしてもまあ…きつい。

 自分としては休職一ヶ月でもいいくらいなのだけど、その後絶対に針の筵に座ることになるし、流石に自分に非があるそれに耐えられるほど強くも図々しくもない。そもそも今の職場環境がとても安心して働ける状態ではなく、いっそもうこのタイミングで辞めてしまい、アルパインクラブの展示を見て…それと出来ればマートンアーカイブも訪れてから帰国、隔離が明けて11月から転職してしまおうかとも思っていた。

 

 ところがそれから数週間でちょっと状況が変わった。

 すっかり忘れ果てていたワーキングホリデーの存在を思い出したのだった。正直なところ難しいと思う、イギリスのビザは高倍率の抽選で当選しないと行けないから…でも行きたい、行きたくて仕方ない。2022-24年のビザを取って滞在できたら、第二次~第三次遠征の百周年記念に向けた動きを現地で経験できる。

 まあワーホリでなくても、コロナ禍が落ち着いた上で訪れるイベントを絞れば何もできないわけではないし、2024年の春前後に絞った半年滞在とかも不可能ではないのだけど…でも英語をもっと理解できるようになりたいし、どうせやるなら現地へ飛び込んで死に物狂いでやってみたい。自分を追い詰めるのが下手というのもあるし、やるなら最高の形で追い込んでやりたい。

 イギリスに暮らしてみたいという夢はあったけど、とてもこんな英語力と能力じゃあ無理だと思っていた。本気で追い込みもしないで。だけどワーホリビザは語学力の制限がないし、就労可能なので現地で働くという経験もできる貴重なビザだ、本当にいい機会になるはずなんだ…エヴェレストに登れるだけのお金を身体が動く内に貯めるという、正直余裕のない貯蓄計画が崩れるだけの価値はある。

 サンディが最後の楽しい日々を送った街で暮らしてみたい。彼が心血を注いだボートレースを見てみたい。マロリーが青春の一幕を過ごした山を、その類稀なクライマーとしての腕を磨いた壁を訪れてみたい。彼らの生まれ育った街を訪れてみたい。マロリーとサンディの生きた国で季節を送ってみたい。

 彼らのことを催されるであろう数々のイベントで知りたいのと同時に、彼らの生きた場所で私も少しだけ自分の人生を過ごしてみたい。そして彼らの言葉をもっと知りたいと思う…言葉のニュアンスをきちんと拾うのは同じ日本語を使っている人相手でも難しいことだけど、それでもきっといくらかは…と思う。

 今年サンディの日記を再訳していて、2年前に訳した時より随分多くのことを読み取れるようになったと感じた。それは予備知識が増えたことによって行間を埋められる部分が増えた結果でもあるし、deepL の登場によってたたき台となる自動翻訳文がかなり良くなったおかげでもある。今年出会ったサンディは、2年前に出会った彼の印象よりももっと感情豊かで、もっと強い自制心でもってその激しい感情を抑え込んでいた。これが実像に近づいている印象なのか、逆に遠ざかってしまったのかは別の話なんだけどね…このあたりの所感はまた日記まとめの記事にでも。何にせよ、語学力の進歩によって感じ方が変化したわけではなさそうなのは情けない話である。

 

 焦ったところで申し込めるのは来年1月なので、まずは今月の初心者セミナーに参加してどんなものか聞いてくる。それで思っていたのと違うなと感じたら、それはそれで次の動き方を考えていけばいいだけだしね。

 ただイギリスでのワーホリを本気で狙うならまだ秋に転職するわけにはいかないので…一旦頭を冷やすという意味でも良かったかなとは思う。しかし申し込み時点で30歳までの年齢制限があるし自分ももう20代後半なので、抽選倍率を思うと現実的にはかなり厳しい…まあ目標があれば頑張りやすくなるし、英語を伸ばしたり貯蓄の努力をしたりして悪いことも無いのでちょっと頑張ってみたいところ。

 あと幸いにもキャンセル分の解凍済ワクチンを回していただけることになって来月上旬には二回目の接種も済む予定なので、隔離期間さえほぼ0になってくれれば何とか10月くらいに展覧も…行きたいなあ、本当に…。

 

 日々目の前の仕事を頑張りつつ、出来るだけのことを進めていきたいものです。

 

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18th/Jun 2021

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 マロリー・サンディペアの遭難から10日。

 マロリーの38歳の誕生日、になるはずでした。

 

 今回過程記録がそこそこ残っているので続きに残しておく。

 真面目な話は4月8日にしたばかりだし、デイリー更新で十分に嚙みしめているからこの記事はサクッといくよ。

 

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絵まとめ(遠征・史実寄り)

 6月8日ということで、前の記事でまとめたSingles~以外の比較的現実ベースな絵のまとめ。2018年の秋~冬くらいから描き始めている。

 対になるもの以外は基本的に古いものからだけど、PCが壊れて無理やりサルベージした折に日付データが飛んだものがかなりあるのでちょっと曖昧。写真トレスも何枚かあったけどそちらは権利関係上出せないのでお蔵入り…自力で描けるようになったら頑張りたいね、"マロリーが乗っている観覧車みたいな遊具を回すサンディ" の写真が実在するんですよ。

 マロリーはアウトプットの形がふらふらしまくっているけど、本当に人としてのイメージが掴み難くて困っていた。アナログの方が速いので、そちらで試行錯誤していたものが圧倒的に多い。

 そもそもこの2人はCoCシナリオのNPCとしてのデザインが先行している。シナリオのために調べているうちに史実にものめり込み、ちょっと迷ったけどNPCたちと殆ど同じアバターを現実の出来事に近い文脈でも使うようになったという経緯。デフォルメが強いのは主にそういうわけで。

 すっごい懐かしくて外へ出すには恥ずかしさもあるけど思い入れが強いし、僻地においてはメジャージャンル以上に「存在しない神作より存在する拙作」が身に沁みるので置いておく。

 

 だいぶ長いので続きから

 

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Singles to Heaven

 1924年遠征の超ざっくり漫画。

 "ジョージ・マロリーとサンディ・アーヴィンが未踏峰エヴェレストに挑む話"はずっとしていたけど、ツイートだとまとまりが無さすぎるのが気になっていた&漫画が欲しい気持ちが極まって2020年2月に描いたもの。対外的には今後何かしらで興味を持つ人がいたら見つけてくれたらいいかなと思っていたくらい。

 

【天国への片道切符2枚】 

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 補足

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 続きにラフ+イメージカット落書き
  

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📷

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 1枚の絵にじっくり取り組めないタイプなので基本的に1~2日で仕上がりということにしてしまうのですが、珍しく時間をかけて描けました。楽しかったー!

 下地になっているのは、自分がTwitterでマロリーが機械音痴だったという話(カメラの扱いを説明してもらったにも拘らず乾板を逆に入れたせいで、ヒマラヤ奥地への一ヶ月間の偵察を丸っと無駄にしたことがある。この記事参照)を呟いていた時のフォロワーさんのツイート。

 

 

  自動翻訳でも十分に分かる。めっちゃ可愛いやんな!!

 

 このツイートが何日も頭の中で幸せにぐるぐるした結果、そこから発展した幻覚が念写まで至ったので許可を頂いて描いた次第です。酪梨さんありがとうございました!

 機械音痴でそそっかしいマロリー&機械の天才で写真の腕もいいサンディという、この点において対照的な二人の微笑ましいわちゃわちゃ最高~! サバンナにおいて他者の脳から生み出されるワンシーンがどれほどの破壊力と昂揚を齎すものか、メジャージャンルにいた頃は知る由もなかったレベルで噛みしめ続けています。いやそれにしても可愛いな…。

 

 ひとつだけ失敗したなと思っているのが、マロリーは機械音痴の節があってそそっかしいだけで、 別に写真の腕自体が悪いというわけでもないだろうという点。実際マロリーが撮影した写真で、今でも関連書籍や記事で引用されているものはあります。だけど今回単純に写真下手くそ選手権みたいになってしまってちょっと申し訳ないかな…電子機器が苦手感と、おっちょこちょいっぷりの延長で失敗していると捉えてもらえると少し気が楽になる感じのアウトプットです。

 あとは折角だから本職である教師としての一枚があっても良かったかな~とか。ここはまた別の機会に。

 

 さて色々と小ネタというか、元ネタありきのオマージュや語呂遊びのようなものを混ぜ込んでいるのでメモ。自己満みたいなものだけどこういうの好きなんだ。

 

  • サンディの服。ジャケットは船上で撮影されたマロリーとのツーショットで着ているスーツをアレンジしたもの。インナーは幼少期の家族写真で着ているものをほんのり意識。前者はちょくちょく見かけるけど後者は多分現状では見るのが難しい。
  • 写真①⑦。酪梨さんのツイートから。
  • 写真②。サンディが1923~24年の冬にミューレンでスキーの練習をしていた時の写真で被っている帽子が可愛いのでちょっと意識。これは 'Fearless on Everest' や 'The Wildest Dream' あたりに掲載されている。「午前中は晴れていたのに段々荒れてくる雪の未踏峰(なんちゃって)」「サンディにとって初めての雪山行」は1924年6月8日のエヴェレストと彼らをスケールダウンしたパロディ。
  • 写真③。遠征中にサンディがお酒をとても喜んでいるのと、シャンパンの出てくる場面が印象深いので。24年遠征においてベースキャンプ到達以降の隊員たちは嗜好品に飢えており、チョコレートの欠片を見れば陰謀を疑って疑心暗鬼になるような節もあったとのことなので、お酒とおつまみを背負って行って山で杯を交わすような登り方も出来たら楽しいだろうな~と。山でへべれけになるまで飲むべきではないと思うが。イギリスだと泥酔の表現として get pissed がよく使われるらしいけど、今回はちょっと大人しめの表現にしておきました。
  • 写真④。オンサイトとは、クライミングにおいて課題となる登攀対象(岩や壁など)について、事前にルート知識を仕入れたり、他人が登るところを見たりせずに、ひとりで、一度で登り切る(途中で落ちたらアウト)ことを指すもので、完登の中でも最もレベルが高いとされるもの。24年のマロリーとサンディの関係は師弟と表現されることが多く、その通りサンディは岩登りや登山についてマロリーから教わっていたことが日記からも読み取れる。外岩は基本的にボルダリングより難しいので、それをオンサイト出来るようになったとあれば師匠も誇らしいだろう。あとイギリス人の「not bad」は「good」の意だと聞きました。
  • 写真⑤。これは完全にお遊び、チベット絡みというだけ。一応サンディの日記でキツネを見たという言及はあるけど、チベットスナギツネかどうかは不明。そして向こうのゲームでは日本と違って笑ったら負けではなく、先に瞬きをしたり目を逸らしたりした方が負けらしいと完成してから知りました。うーん、これは逆にシャイなサンディくんが不利になる勝負なのでは…? まあ笑ったら目を瞑るかもしれませんしね。
  • 写真⑥。5月にベースキャンプで撮影された有名な24年遠征の集合写真のパロディ。これは少なくとも3枚撮影されていて、それとは別に6月に撮影された集合写真もあるけど、そちらはマロリーとサンディの遭難後に撮ったのでなんだかすかすかで空白に心抉られるような思いをする。複数枚撮影・人数の欠けという表現で、2枚の集合写真を重ねてみた。穏便な形でね。
  • 写真⑧。マロリーとサンディは同郷で、当時も地元では我らがチェシャー出身の男たちが世界の最高峰にタッグ組んで登るに違いないという空気があったようだ。新聞の見出しにも踊っていたりする。そしてマロリーはケンブリッジで、サンディはオックスフォードでボート部に所属し活躍していた。かなり水に馴染みあるバックグラウンドなのに接点が山だったから、偶には海の絵でも。まあ遠征中でも一緒に川で水浴びしています、一緒には写っていないだけで。
  • 写真⑨。マロリーの家族。詰められていないところなのでアウトプットに躊躇があるから1枚だけにしたけど、現パロなら絶対他の何よりも家族写真を撮るよな~と思っていました。カメラのこと教わっていい写真を撮りまくるパパになりそうだ。これは24年の感覚で描いているので、長女クレアが9歳、次女ベリッジが7歳、長男ジョンが4歳。心が痛くなってきた。
  • 写真⑩。そのまま、ヒマラヤに咲く青いケシ。日本でも高山植物園などで見られるところがあります。ざっくり 5ft 超と書いたけど実際は 1.6m ほどらしい。日本だと全然そこまで大きくならない。
  • 写真⑪。1.ヒースの丘はイギリスの代表的風景のひとつ。2.小説『嵐が丘』はヒースの丘が関わる。24年5月9日にマロリーたちがテントに集まって『人間の精神』に収録されている詩を読み合った中で、『嵐が丘』作者のエミリー・ブロンテの詩についての言及があったのでその掛け。3.マロリーとサンディは登頂を果たしていたとしてもかなり遅い時刻だったはずで、遭難事故が発生したのは日没後だったと見られている。陽がどんどん傾き沈んでいくのは怖かっただろう。怯えなくていい夕景が描きたかった。4.マロリーの綽名に「山のガラハッド」というものがある。またアーサー王物語の編者として有名なのがトマス・マロリー(両者に血縁はない)。この2点からのアーサー王物語との掛け。そして死せる英雄の休む場所としてのアヴァロンのイメージ。

 

 仕込みは多分これで全部かな…? 小ネタを考えるのも、どうしても悲劇のイメージが強い彼らの呑気な一幕を描けるのもすごく楽しかった!

 あと今回は海外の方のツイートが下地になっている以上、日本語で書いた絵の内容はせめて英語でも出すべきだと思って…自動翻訳も使いながら生成したので日本語話者はもう読まずにするっと流してほしいんだけど…ただ日記を訳す時もそうだけど、イギリス英語を意識して訳を取ったり、逆に読み手として気がついたりする瞬間は楽しい。stabilisation とか。言い訳に使うのはよくないけど、文法ミスなどのうち可愛いものはモデル人物の文法や綴りミスが多かった再現くらいで読める範囲だったらいいな…ということもちょっとだけ思いつつヒヤヒヤ。最低限内容だけでも伝わってほしい。

 自分でも気に入った1枚になったと思う。マロリーも最初の頃はよく語られるイメージが強すぎてすまし顔しか描けなかったけど、今回やっと少し短気そうな雰囲気出せてよかった。

 

 最初は99%ネタのつもりで描き始めたけど、いざ筆を動かし始めたらちょっと胸が詰まるようなものもあった。穏やかでありふれた日常を共有することはなく夭逝し、その結末ありきの物語が美しい2人だけど、偶にはこういうただ日々を生きているのを感じるようなフィクションもいいね。

 

 満足したので明日からは悲劇へのカウントダウンが残り1週間といったところの日記へ戻ります。もう6月が来ちゃうよ…。

 

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 2019年5月、六甲高山植物園にて撮影。交通費を浮かせようと夜明け前に出発して家から30km弱六甲を縦走して見に行ったので、到着時のへろへろ具合がなんか雰囲気あって良かったかもしれないね。ちょっと見頃を過ぎてしまって萎れ気味の花も多かったけど素晴らしく綺麗でした。これが目線の高さで咲いているのは凄い光景でしょうね。

 

 追記:入れようと思って忘れていたおまけ

画像

 ゴーグルの下、雪焼け可愛いな~というやつでした。24年みたいな地獄の火傷じゃなくて可愛い程度の雪焼け。

虹の谷へ/1921 ①

 1921年5月10日の朝、印カルカッタ港にひとりのイギリス人が降り立った。彼はいそいそと荷物を送る手続きだけ済ませ、午後には駅に向かう。船から全ての荷を下ろすには一日もかからないけれど、そんなのとても待ちきれないという足取りで……。 

 

 今年はイギリスの第一次エヴェレスト遠征から百年の節目だ。そしてちょうど百年前の今日、ジョージ・マロリーは初めてエヴェレストに挑まんとインドの地に降り立った。

 

 この第一次遠征はそれ以降の遠征と違って登頂を果たすことが目的ではなく、登攀可能なルートを見出すことが主目的となる偵察遠征だった。遠征の開始と終了をどう定義するかにもよるけど、インドからのトレッキング開始~山を下りて隊員が解散する頃合いまでとするなら、第一次遠征はおおよそ1921年5月から9月末といったところ。同じ定義なら1924年の第三次遠征は3月下旬から7月上旬。登頂目的の遠征が夏のモンスーンを挟むことは基本的に無い(はず…)ので長丁場に感じる。英国人隊員は以下の通り。

 

隊長:チャールズ・ハワード=ベリー(39)

登攀隊長:ハロルド・レイバーン(59)

登攀班:ジョージ・マロリー(34)

登攀班:ガイ・ブロック(33)

登攀班:アレクサンダー・ケラス(52)

地質学調査:アレクサンダー・ヘロン(37)

測量班:ヘンリー・モーズヘッド(38)

測量班:オリバー・ウィーラー(31)

医師:アレクサンダー・ウォラストン(48)

カッコ内は1921.05.10時点での年齢。

 

 ここで予防線を張っておくと、自分は1924年遠征、それもサンディのことを最優先にしつつ彼とマロリーを軸にする形で調べているので、1921年及び1922年遠征については詳しくないし、複数資料を照合して詰めているわけでもない。公式報告書も読んでいない有様で、この記事のソースは殆ど『沈黙の山嶺』からとっている(引用部も特筆していない限りここから)。なのでここに誤りがあったり、自分が誤解していたりすると修正する機会が殆どない状態なので、24年の話以上に曖昧度が高いものになっていると思う。お金を取っているわけでもないので、他人の調べ物フックという以上に自分用メモの役割が大きいものと見ておいてほしいところ。断定の形をとっている部分も鵜呑みにしない方がいい。

 

 と言い訳したところで、今回は隊員たちについてマロリーからの(イギリス人らしい毒舌もたっぷりな)評を交えながら紹介。

 念のため補足を兼ねて個人的な所感を述べておくと、マロリーは基本的に寛容な人物だけど、友人など好きな人たちに対し本当に親切で優しい一方で嫌いな人間に対してはかなりずけずけ書くし、浮き沈みが激しい部分にも表れているように良くも悪くも感情的な性格をしている。ここに引いている人物評は彼視点の事実ないし真実かもしれないけど、それで対象人物の全てを知った気になるのは偏り過ぎだ。それにマロリーは自分の感じたことを書いているだけで、公平性を持った彼らの伝記を書こうとしているわけでもない。

 それからマロリーへの批判めいたことを色々書いてしまった気もするけど、彼は天才の典型みたいな尖ったスペックを持ち合わせている人で、とにかく普段はそそっかしくて感情的なのだと思っておいてほしい。悪気が無くてもやらかしやすい人で、そのことを書き添えると批判めいてしまうんだ。そして作家志望だった彼の手紙は情緒たっぷりに遠征の様子を綴っているし、登攀に際しても勿論素晴らしい力を発揮しているけど、今回はその辺りの美しいものや業績を引いてこれるようなテーマではないだけなのだ。

 

1921年の英国人メンバー。後列左~:ブロック、モーズヘッド、ウィーラー、マロリー 前列左~:ヘロン、ウォラストン、ハワード=ベリー、レイバーン。

 

■チャールズ・ハワード=ベリー(隊長)

 1921年遠征隊長。27もの言語に通じ、人脈も幅広かった。遠征を事務面で動かしたエヴェレスト委員会の議長ヤングハズバンドの要請でインドへ赴き下見・交渉、第一次遠征への道を開いた。

 マロリーとは対照的な装いで、『沈黙の山嶺 上』p.366の描写が良い。「ハワード=ベリーは背筋を伸ばし、千鳥格子上着ツイードのズボンをはき、ネクタイと金の懐中時計の鎖をのぞかせ、フェルト帽を粋な角度でかぶっているのに対し、マロリーはいたずら好きそうで、手にはミトンをしたまま、首から襟巻がだらりと下がり、両膝を立てて、まるで子供のようである」。

 そんな恰好からも分かる通り彼は上流階級出身の人物なのだが、マロリーが言うには「地主然とし過ぎていて、保守党らしい偏見を持っているだけでなく人の身分に非常に敏感で、自分と同じ身分にない人たちを……見下している。たとえばロナルドシェイ卿にはたいへん愛想よくする――僕に言わせれば愛想がよ過ぎることもある」。ちなみにマロリーは中流階級の人物だ。

 それにこんなことも言っている。「彼には心を許さないほうがいいと感じたし、実際ある意味で打ち解けることはないと思う。あれは寛大な人間ではない。物知りで、独断的で、自分が知らないことを人が知っているとちっとも気に入らない。口論にならないように、僕は会話で持ち出す内容にとても気をつけている。彼と僕が一緒に足を踏み入れてはいけない分野があるから」……経費削減のため途中でポニーを降りて歩いてくれないかとハワード=ベリーから頼まれた夜、その場では黙っていた感情をぶちまけた妻ルースに宛てた手紙より。

 なおハワード=ベリーも委員会のヒンクスやヤングハズバンドへの手紙で他隊員をよく批判していたが、その矛先としてとりわけ名が挙がるのはマロリーとレイバーンだったというから、お互い相性が悪かったということだろう。

 こうして書き連ねると何だか嫌な人で現地人にも厳しそうに思えるが、彼はチベットの人々のことを親切で温かくもてなしてくれたと大変好意的に書き綴っている(マロリーが機嫌の悪かった時にチベットのことを「不愉快な人々が住む不愉快な国」と言い表したような感想とは対照的)。それに彼はポーターたちの信仰心や儀式を興味と感心と思いやりをもって見ており、彼らが望めば供物を捧げたり、場を火や煙で浄めたりするための小休止も許していた。マロリーからは狭量や偏見を非難されていたが、精神世界に関しては彼は比にならないほど視野が広かったと言えよう。宗教への憎悪が大きな理由となって神権国家チベットを嫌っていたウォラストンはこの点で対照的だが、彼はハワード=ベリーのことがとても好きで尊敬していたという。

 

■ハロルド・レイバーン(登攀リーダー)

 当時すでに登山家として有名だったものの、遠征開始からずっと腹痛と下痢に悩まされた。途中シッキムでの療養を挟み再合流している。隊では「神経質な年寄り」として不評だった。批判的な性格で言い訳がましい、そのうえ指図がましくて少しもユーモアを解さず、落ち着きがなかったそう(ロバから2回落馬して2回頭を蹴られていた)。マロリーは彼のことが好きではなく、ブロックとウィーラーからも敬遠されていた。ハワード=ベリーの批判の矛先もよく向いていたが、レイバーンも彼のことは好きではなく水と油という始末。

 全方位と不仲なのは24年のハザードを連想させるが、オデルは彼の気難しさを我慢出来ていたし、サマヴェルも心配の眼差しを向けていた。レイバーンはどうだったのだろう? 此処は今後の課題。

 形式ばったことが嫌いな辺りはマロリーとも合いそうな気がするけど、それどころではなかった。マロリー曰く、「人を非常にいらいらさせる」「言うことがいつも事実と違っている」「くたびれた、争い好きな年長者で、登山にはまったく向いていない」「ぼけてばかなことをしゃべり、そこにいる意味もなく、衰えきって見ているこちらの胸が痛くなりそうな人物」と散々だ。

 

■ジョージ・マロリー(登攀班)

 24年には唯一3度のエヴェレスト遠征全てに参加しているベテラン隊員として中核を担うマロリーだが、この時点ではヒマラヤの経験が無かった。また20年代の遠征はWWⅠとWWⅡの戦間期で軍OBの人脈が物を言ったという背景から隊員の年齢層が高いことに悩まされており、第三次遠征では22歳のサンディとの対比もあってマロリーも年齢に苦しめられる側の立ち位置となるが、隊員一覧の年齢を見ても感じられる通りこの第一次遠征では若手として採用されている。そして勿論、それ以上に有望なクライマーとして。

 先述のように登攀リーダーのレイバーンが終始体調不良に苛まれたため、クライミングのリードはマロリーが担っていた……つまり実質登攀リーダーはマロリーだったようなものである。

 頂上へのルートを探る偵察では30kmも離れたところから見えないノースコルの存在とそれが登攀の鍵となることを見抜くなど山の天才たる鋭さを発揮しているが、実はこの年はカメラの操作を間違えたりストーブに上手く火が点けられなかったりといった機械音痴エピソードも。一生懸命やって立派にやり遂げたことがあると同時に結構やらかしていて、人間らしさが溢れている。

 実のところマロリーはこの遠征への参加を悩んでおり、最初は妻ルースが大反対だったこともあってもう少しで断るところだった。子供もまだ小さいのだ。結局マロリーをエヴェレスト委員会へ推薦したジェフリー・ヤングから直々に説得されたルースが意見を変えて後押ししたことで参加に踏み切ることになったのだが。戦間期イングランドにあって、マロリー自身、この遠征の先に淀んだ現状を打破するような出世や栄光があると期待していた。なおマロリーは続く1922年と1924年の遠征への参加もかなり悩んでおり、もうあそこへは行きたくないといった旨の心境を綴った手紙も残している。

 それでもノースコルへの試登を行った頃には撤退判断が遅く、頂上への執着を強めているように見える。下界にいれば妻子を何ヶ月も置いて己の命を危険に晒すことに悩んでも、いざ山に近づいてしまえばその頂をまっすぐに見つめてひたむきになってしまう。その執念がやがて彼自身を殺したとも言えるのかもしれない。

 

■ガイ・ブロック(登攀班)

 ブロックが参加したエヴェレスト遠征はこの初回のみだが、彼はマロリーのウィンチェスター校時代からの旧友で登山仲間だった。彼は遠征中も後期に高山病を起こすまで概ね良好な体調を維持し、地形を読み取るコツを心得ていた。登攀ルートを探すための偵察ではマロリーと行動していることが多い。

 マロリーが気分屋で忘れっぽかったのに対し、ブロックはしっかりしていて大抵誰とでも上手くやっていけるタイプだった。陽気さを維持できる精神的に落ち着いたブロックはマロリーの良い仲間だった。

 

■アレクサンダー・ケラス(登攀班)

 エヴェレストで亡くなった人として最も有名なのはマロリーだろうが、彼は20年代の遠征で初めて亡くなったイギリス人というわけではない。その条件付けで言うなら、該当者はケラス博士だ。

 彼は遠征の始まる前に1年近くも調査旅行を行っており、隊に合流した時には疲労困憊、腸炎赤痢の症状が出ていた。しかし忍耐強すぎるほどの彼は、己の体調のことを隊長ハワード=ベリーにも、昔馴染みであるモーズヘッドやウォラストンにも言わずそのまま参加。具合が悪くて横になるところを見せまいと気を遣ったり、あまりにも弱っているところを見せないため他隊員からは遅れて出発するなどしていたが、とうとう極度の疲労が原因となって6月5日に心臓発作を起こし亡くなった。彼の墓はカムパ・ゾンにあり、マロリーとサンディを含む20年代のエヴェレスト遠征における犠牲者の名前を刻んだベースキャンプの碑には当然彼の名もある。

 マロリーがケラスと初めて会ったのは5月11日にベンガル知事のロナルドシェイ卿が主催したパーティーだったが、彼は遅刻して来た。それも野外活動用の服を着てずぶ濡れというしわくちゃな格好、なんとここまで6kmも歩いて来ていたのだ。形式ばったことの嫌いなマロリーは、ケラスを初めて見た時からすっかり気に入ってしまった。「ケラスはもう大好きになった。紛れもないスコットランド人で言葉遣いがぶっきらぼう――全体にぶっきらぼうだ。あの盛大な晩餐会にみんなが着席してから十分後に入ってきて、それもひどく乱れた格好だった……ケラスの姿かたちは、茶番劇に登場する錬金術師の見本として完璧だと思う。とても小柄で背が低く、やせていて猫背で、胸板も薄い。頭は……まさに牛乳瓶の底のような眼鏡と、先のとがった長いひげで不恰好に見える」。彼の死に最も動揺したのもマロリーだった。

 

■アレクサンダー・ヘロン(地質学調査)

 ポーターの統率に非常にすぐれていた。また彼の地質学的な発見は非常に大きなもので、22年の遠征にも参加しようとしていたのだが、遠征隊の地理調査と彼の弁明や態度がチベット側の神経を逆撫でしたため、以後はヘロンどころか地質学者の参加自体がなくなってしまった。(チベット側から提示された条件を守らずに彼らを怒らせ後に影響する事件は1924年にも発生している。)

 マロリーの初期印象は簡潔――"退屈"。

 

■ヘンリー・モーズヘッド(測量班)

 ここに挙がっている面々の中では唯一チベット語を話せた人物。本格的な登山経験は殆ど無かったものの、ハードな環境下での働きはお墨付きだった。ハワード=ベリーから一人で未知の領域へ送り込んでも大丈夫と太鼓判を押されていた人物である。また1924年隊のハザードは彼の旧知。

 本当にとんでもなく逞しかったそうで、友人からは「ヘラクレスの縮小版」と評されたとのこと。24年遠征で逞しさを評価されるサンディも大姪から「身長6フィートの日焼けしたヘラクレスFearless on Everestより)」なんて言われているけど、モーズヘッドはどこにいても快適さを気にせず、何を食べても、逆に何日も水さえ口にせずとも平気でいたというのだから、これらの点については潔癖症気味で胃腸の強くなかったサンディよりも屈強と言えるかもしれない。100を超えるヒルに群がられてもてんで平気でいたというのだから凄い。「何かが危険だと考えることがまずないので、自分が危険を冒していることに気づかない」とは1913年に探検を共にしたF.M.ベイリーの評。

 マロリーが語るところによれば「とてもいい奴で、少しももったいぶらず、親切で、顏もしぐさも〔彼の〕弟たちとよく似ているが、背はどちらよりもずっと低い」。随分気に入ったようで、モーズヘッドとウォラストンに会えない日が続いた時は恋しがっている。

 そんな彼もビルマで暗殺されて生涯を終える。この事件は未だ未解決だそうで、妹の恋人に恨まれて撃たれた説が強いものの…といったところ。

 

■オリバー・ウィーラー(測量班)

 与えられた任務はエヴェレスト周辺の地理を調べる測量の仕事だったが、登山家としても非常にすぐれ、大変忍耐強い人物だった。若い下士官でありながらWWⅠで壮絶な最前線を生き延び、沢山の死を目の当たりにしてきた彼のメンタルは、今の日本で呑気に暮らしていると冷淡に見えたり理解が難しかったりするほどだ。彼は最終的にマロリー・ブロックと共にノースコルまで登っている。

 マロリーは理由不明だがやたらとカナダ人嫌いで、カナダ出身である初対面のウィーラーについても最初から軽蔑の念を持って接し情け容赦ないことを書いている。遠征初期にルースへ書いた手紙で言うには「ウィーラーとはほとんど話していないが、僕のカナダ人嫌いを知っているね。ウィーラーを好きになるには、まずごくりと唾を飲み込まなければいけないだろう。神様、僕に唾液をください」。

 しかし5月末の手紙ではこうも言っている。「ウィーラーには植民地出身者らしく退屈なところがある」「でも嫌いではない」。実際ウィーラーは退屈な男などではなかったはずだが、マロリーの酷いカナダ人嫌いを思えば、彼に唾液を飲み込ませただけでも立派な人だったのだと思えるほどだ。

 そして七月には、表には出さないもののまた少しずつ考えを変えていた。というのも彼とブロックが比較的温暖なカルタへ偵察に向かっているあいだ、ウィーラーは標高5,800mを超える高所で長期野営しながら、モンスーンの合間で晴れを待ち続ける最も困難な任務を何ヶ月も担っていたのだ。たった一人で! 彼の最大限評価されるべき偉業は、たとえ表向き素直に認めなかったとしても、マロリーの目にも明らかなことだった。

 

■アレクサンダー・ウォラストン(医師)

  この遠征にはアレクサンダーがいっぱいいるけど、ウォラストンはサンディ・ウォラストンと表記されることの方が多いはず。(「金髪のアンディだからサンディ」というサンディ・アーヴィンの愛称がイレギュラーなだけで、本来 Sandy は Alexander / Alexandra の愛称。)

 医師ではあるが健脚で、具合の悪いレイバーンをシッキムへ送り返すのに同行しながらも恐るべき速さで本隊への再合流を果たした。24年にブルース将軍を護送したヒングストンを思わせるが、この時は登攀要員の手を割かれる危険はあるもののサマヴェルも心得があったので、21年の方が万が一の際に抱えるリスクが大きかったように思える。

 マロリーは彼のことも前々から知っており、「とにかく献身的で私欲がない人」と評している。この年の隊の中では最も親しかったそうだ。

 

 

 まとめると、マロリーから見た1921年の隊員で最初から印象が良かったのはブロック・ケラス・モーズヘッドの3名、悪かったのはハワード=ベリー・レイバーン・ヘロン・ウィーラーの4名。ケラスがここから一ヶ月も経たないうちに亡くなることもあり、彼の視点では先が思いやられる。必ずしも個人的な心証の悪さが任務に大きな悪影響を与えるわけではないし、ウィーラーに対しては考えを変えてもいるのだけどね。

 それにしてもこの21年遠征の隊員たちへの印象を踏まえると、24年遠征はサマヴェルを始めとする昔馴染みが沢山いて隊長ブルース将軍のことも好き、初顔合わせとなるサンディ・ビーサム・ハザードへの第一印象も良かったことで、インドに降り立ち皆と顔を合わせたマロリーが元気づくのもよく分かる。

 

 こうした英国人隊員、そして通訳や沢山のポーターたちで構成された隊は、世界の屋根のてっぺんに至る道を探すためインドからチベットへ、そしてエヴェレストへと進み、マロリー・ブロック・ウィーラーはノースコルへの試登を行うことになる。

 しかし万事順調とは言い難かった。

 現地での警戒やポーターたちによる食料盗難を始めとする問題は随時出ていたが、編成に大きく影響するような事件は6月5日――ずっと具合の悪かったケラスが亡くなったのだ。そして同日、ずっと下痢と腹部の激痛に苛まれていたレイバーンをシッキムへ送り返して療養させることになった。

 2人の登攀班員の離脱は確かに痛手だが、結果としてエヴェレストへ登る実働部隊としての中核をマロリーが担う流れを作り出した。これは1921年に限らず、その後の遠征にまでわたる運命の話だ。

 登攀リーダーのレイバーンも年上のケラスもいなくなり、ウィーラーも登山に長けているが彼は測量班員。言い方は悪いけど、「マロリーが登る」ための障害が一気に取り除かれた形だ。ブロックも優れた登り手だったが、歳も殆ど変わらないこの二人を並べるとなれば、どうしても天才であるマロリーに軍配が上がる。

 6月15日、偵察に出ていたマロリーとブロックは、快晴の下でエヴェレストの姿を目の当たりにする。マロリーは岩場で登攀ルートを見出すのが非常に上手かったが、この時彼は30kmも離れたところからたった一目見ただけで、その地点からは隠れている部分に存在するノースコルの存在を言い当てた。その後の遠征、そして現代でも登攀の鍵となる地点である。

 しかしこの時期はモンスーン真っただ中。到底山に登れる時期ではなく、エヴェレストやその周辺を探る偵察にも骨を折ることになる。(3年後の今日どこにいたのかを見れば、この年の到着の遅さは明白というもの。)

 やっとのことでノースコルへ至る道を見つけ(ここが非常に大変で重要だし色々な事件もあったのだけどもっと噛み砕きたいのでまた別の機に)、先述の三人は9月23日ノースコルに登る。マロリーだけはまだ元気だったが、ウィーラーは脚が冷え切っておりブロックは気力があっても体力が追いつかない。マロリーは一人でも登りたそうだったが思いとどまり、ここで引き返した(マロリーは自分より弱い登り手を置いてひとりで登るようなことはしない人物だったと証言されている)。

 しかしここでの描写が綺麗だ…「エヴェレストにすっかり心を奪われていたマロリーは、雪と氷の壁がある程度の風よけになっているとはいえ、それでもすさまじい突風が一行のいるところで吹き荒れているのに気づいていないかのようにウィーラーには見えた。マロリーの髪の毛には氷の結晶ができ、まつ毛にも霜がついていて、その眼はまるで別の空間に落ち着いているかのようだった。」

 撤退しキャンプへ戻ったのが9月25日、あとは皆揃ってインドまでトレッキング…というわけではなく、隊員たちは三々五々に散っていった。マロリーとモーズヘッドは26日にカルタへ向けて出発、ブロックとレイバーンも28日に合流している。マロリーは(そして彼と一緒に最短経路でチベットを横断しダージリンへ戻るつもりだったブロックも)一刻も早く家へ帰りたいあまり、カルタ谷上部のキャンプから物資を撤収する指示をポーターたちに任せ、隊長ハワード=ベリーにもろくすっぽ挨拶せず出発してしまったのだ。ハワード=ベリーはヒンクスとヤングハズバンドに宛ててマロリーとブロックが全く役に立たなかったと怒りの手紙を書いたがやむなしといったところ。

 

 こうした遠征の詳細やこまこましたエピソードについてはまた別記事で。

 マロリーが出会ったポーターのニマのことも書きたいのだ。 

 

  最初の方にも書いたけど、この記事のソースは殆どこの2冊から。ボリュームたっぷりで、マロリーのことと1920年代の遠征を知るのに良い本。何なら1920s遠征の資料として一冊勧めるなら私はこれを推す。

 とても読みやすい本だけどとっつきにくいという方は、まずは訳者の秋元由紀氏によるコラム「沈黙の山嶺・小話集」だけでも是非。マロリーの像で心滅茶苦茶にされるし、濃い人しかいないぞ!

 余談。コラムにもあるけど、マロリーは山と登ることについては天才的に鋭いものの、それ以外ではかなり抜けていてそそっかしくぼんやりしている人だ。機械音痴でもあり、21年遠征では乾板を裏表逆に入れてしまったせいで、一ヶ月ほどもかけて奥まった一帯の貴重な写真を沢山撮ったつもりが全部だめにしてしまうという大失敗もしている。1924年、彼が機械の天才サンディに大きな期待を寄せていたのは尤もだし、自分が疎い酸素装置を使う以上は機械トラブルに対応できる彼が必須となるのも当然。99年に見つかったマロリーがカメラを持っていないのも自然なことに思える。初登頂の証拠写真という重大なものを撮ろうとするなら、自分よりも機械の扱いに長けており、写真の腕もいいサンディに任せない理由は殆ど無いのではないか。