CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

オールドテントの待ち人

 エヴェレストの亡霊と茶をしばく胡乱な幽霊譚。

 

 

 標高8000メートルを超えるデスゾーン、北東稜キャンプⅣに程近い山腹にて、奇妙なテントが目についた。岩と岩の隙間に挟まるように、隠れるように、よくもそんなところに張れたものだと驚嘆する。隠れるように? 一体何から? いや決まっている、風だ。吹き荒れる嵐のような、というのではまだ足りない、ジェット気流を叩きつけられるが如き暴風から、その脆弱な拠点を隠すためだ。

 しかし妙な光景だった。風除けを意識すること自体は分かるが、キャンプから幾分離れたこのような場所にテントを張るなど。この岩の隙間はテントを張るより、虹の谷に半分仲間入りしている人間が最後の望みをかけて滑り込むような場所に思えるのだが。

 もしや滑落した遭難者がビバークしていたのではないか。中にはすっかり凍りつき、茶けたミイラが歯をむき出しにして眠っているのではないか。そんな想像がよぎりぞっとするが、もう数歩下ってみると、岩の向こうに人の脚が見えた。その傍に揺れる手が確かに意思を持って動いているのを見てほっとした。少なくとも生きた主がいるようだ。

 何となくまっすぐ近づくのはためらわれて――というのも、こんな場所に拠点を構えるなんて、大方変人か事情持ちには違いないのだから――そうっと上方へ回り込むように歩を進めた。

 間もなくして岩壁の傍に座り込む背中が見えた。かなりがっしりした男性らしく、広い背の上で吹き曝しの短い金髪が風になびいていた。たしかにロンブク氷河まで切れ落ちた急斜面は絶景ポイントだが、突風にやられれば底まで転げ落ちる可能性は否めない。誰しもある程度の緊張感は維持する場所なのに、彼はぼんやりと、妙にのんびり構えているように見えた。

「やあ、こんにちは」

 突然声をかけられて飛び上がりそうなほど驚いたが、疲労という重荷が愚かな反応を防いでくれた。座り込んでいた彼は、果敢にも大きく腰をひねるとこちらを見上げてにっこり微笑んだ。

「はじめましてかな。散策のお邪魔になっていないといいのだけれど」

 掠れ声の礼儀正しい挨拶に、応えて酸素装置のマウスピースを外した。

「こちらこそ。お騒がせするつもりはなかったのですが」

「とんでもない、僕はただ座っているだけですよ」

 そう言って彼は推し量るような短い沈黙ののち、お疲れでしょう、よかったらどうぞと隣を指し示した。

 招かれた岩陰は、確かに絶景を望む特等席だった。矛盾するようだが、高みへ登れば登るほど、近づくほどに空は深みを増す。宙に底は、果てはないのだと突きつけてくる有様が恐ろしいと感じる人も多いようだが、個人的には馴れ合いめいた埃っぽい柔らかさよりも遥かに好ましかった。現代社会の光から隔絶されたチベット高原の黒いキャンバスに、氷河と高峰が白々と浮き上がる様は毎日目にしていてもなお息をのむ。しかしいつ稜線を駆け落ちるような風に背を押されるかと思うと、とても心からくつろげるものではなかった。

「ひょっとしたら遺体を目にすることになるかと思ってどきどきしていましたよ。この景色がお好きで?」

 わざわざこんなところへテントを張る理由が分からず間抜けな話を振ると、呼んだ割に自分から口を開くわけでもなかった青年は小さく首を振った。

「ここにいるしかないだけですよ。可能ならもう少し高いところへ行きたいかな」

 そういって彼は北西の山腹を見上げたが、返答を聞いても、彼がここにいる背景はさっぱり分からなかった。左手に細かな傷のついたマグを握り、その立派な体躯でよく見えないが、右手では身体と岩の狭い隙間でバーナーとクッカーをいじっているようだった。こちらを馬鹿にしているわけではなく、ただ単純に説明する必要性を感じていないように見えた。向けられる当惑にも一向気がつかない様子で、静かにマグの中身をひと口含む所作には品があるが、浮世離れした背景の持ち主なのだろうか。じろじろ見ていたせいで、ふとこちらへ寄越された視線が合うと気まずいものがこみ上げるも、彼は別に嫌がる風でもなく、ただ人見知りそうに次の言葉を期待するような微笑みを浮かべるだけだった。

 彼の佇まいはどことなく暢気で、やはりこの山につきものの緊張感というものが全く感じられなかった。口数は少ないながらも人好きのする雰囲気をまとい、明るい青い瞳からもその陽気な気質が窺えたが、印象の割にはなんだか妙に黒々として見えるのが不思議だった。

 青年の姿は全体的に妙に白っぽく映るが、自分は雪盲を起こしかけているのだろうか。たしかにこの山の陽射しは想像を絶するほど苛烈で危険だ。彼の肌も随分白かったのだろうが、ここへ至るまでの道程で遠慮のない日光と風と乾燥に手酷くやられたらしい。顔全体がひどく焼け爛れており、とりわけ皮の剥けてしまった額や頬、鼻先などは、見るからに痛々しかった。鼻筋と頬には酸素を吸うためのマウスピースを圧しつけた痕が傷になっていて、大方この酷い苦痛を厭い、じっと過ごす時間くらいは酸素を吸わないことを選んでいるのだろうと推測した。尋常ではないが、全く有り得ないとも言い切れない。シャイながらも懐っこい、そしていたずら好きそうな笑みは愛嬌に溢れているが、今にもその唇が割れて血を滴らせるのではないかと気が気でなかった。しかしそんな散々な有様でなお、その顔立ち自体はハンサムで、恐らくは成人しているだろうに、いまだ可愛がられる子供のような雰囲気があった。

 彼を見ていると何か引っかかるものがあった。この青年を知っているような気がするのだ。まだ随分若そうだが、記事に取り上げられたりするような華やかな功績あるクライマーなのだろうか。

 薄い酸素と疲労のせいか、思考がまともに進んでいない気がしていた。沈黙に痺れを切らしたのか、青年はとうとう自分から口火を切った。

「失礼、お名前をうかがっても?」

 ちょっと間の悪そうな様は、妙に昔気質だと感じた。問われるまま名乗ったが、西洋のものではない響きは彼には聞き取りがたかったらしい。何度か音韻を真似ようとしていたがお手上げだとばかり、苦笑しながら愛称などないかと訊いてくる人懐っこさは好ましかった。

 逆に彼の名を問うと、何故か顔色を窺うような目を向けられた。

「サンディ、と」

 青年はちょっと間を置いて答えた。

 彼の隣に佇むカーキ色のテントは、あまりエヴェレストらしからぬ地味さだった。型もあまりにも古風で、こんなもの今時オートキャンプ場でも見かけない。おまけに随分と傷んでいるようで、誰が見てもリペアするより新しく軽いものを買うべきと口をそろえそうな代物だった。随分古いテントのようですが、と切り出そうとして、余計な世話だと気がついた。

「すっかり落ち着いていらっしゃるようですが、いつからここに?」

「さあ、どうだったかな。六月だったとは思うけど」

 これには驚愕した。本当に覚えていないなどということがあるだろうか? 此処は長いあいだ人間が過ごせる高度ではないし、こんな場所で幾晩も過ごすというのも正気の沙汰ではなかった。

「もうすぐにモンスーンが来るじゃありませんか。のんびりしていたら登頂できなくなりますよ」

「ああ大丈夫、僕は人を待っているだけなので」

 のんびりとマグを傾けながらサンディは言った。

「仲間のサポートですか」

「まあそんなところかな。あなたは?」

「私は登頂を目指しているところですよ」

「ああ、なるほど」

 気のない返事だったが、サンディはこちらに無関心というわけでもないようだった。束の間何かを思い悩むそぶりを見せた後、どこからともなく取り出したティーバッグをふたつ、煮え立つクッカーの中へ沈めてくるくるかき混ぜた。

「お茶でもいかがですか」

「そんな、悪いんじゃありませんか」

「構いませんよ。せっかくのお客様だし、時間ならいくらでもあるんだ」

 サンディはずれた答えを返しながら、丁寧な手つきでお茶を注いだ。変わった人物だと思うが親切を断れず、差し出された新品らしいマグを受け取った。冷まそうと口元に近づけると、マスカテルフレーバーにまざって独特な匂いが鼻を突いた。

「お酒?」

「ブランデーを少し。思い込みでも身体が温まりますから」

 言われた瞬間、何故忘れていたのか不思議なくらいの、痛みさえ感じなくなる寒さを思い出した。震えることさえ許さないほどの冷たさに身をこごめ、吐息に乗って逃がす温もりにまで怯える感覚に襲われながら、湯気を立てる暗い水面に鼻先を寄せ稜線を思った。泊まるには辺鄙な場所だが、キャンプからの距離自体はさほど遠くもない。まあ少しならよかろうと、熱い液体を喉へ流し込んだ。凍りついた臓腑が少し和らいだ、気がする。

「それで、登頂アタックの予定はいつだったんですか」

 問われてはっとした。喉もひきつるような緊張が、登頂という言葉を聞いた瞬間金縛りのとけるように緩み、春の水を流すように声が出た。

「明日です。今年は天気に恵まれないシーズンだったでしょう、すっかり遅くなってしまいましたが何とか間に合いそうでほっとしていますよ」

「そうですか。焦る必要はありませんから、どうぞ存分にこの山を楽しんでくださいね」

 サンディの含みのある言い方は気になるが、テントが視界に入ってからというもの彼にはおかしなところばかりで、すべてを明るみへ引き出すにはくたびれすぎていた。この山の薄い酸素で過ごす数ヶ月は、会話するという高度な感覚を鈍らせるに十分なのだ。

 曖昧な相槌を返すわたしを見る彼の表情に、思い違いでなければ憐憫や悲哀のようなものを感じた。そんなものを向けられる理由がさっぱり分からず、ただ逃げるように問い返した。

「あなたのお仲間も登頂を目指しているのでしょう。その方は今どちらに」

「さあ、どこだろう。僕には分からないや」

 それはのんびりと答えるような言葉ではないはずだった。計画の全体を把握していないなどということもあるまい。やり取りを交わすほどに不安が募りゆくのを自覚しながらも、愚かなことにまた問いを重ねてしまった。

「連絡がつかないんですか」

「ええ。僕にはここで待つことしかできない」

「嫌な話をするようですが、遭難した可能性は……」

「きっとそうでしょうね」

 ルーチンのようにクッカーをかき回しながら、サンディは寂しそうに微笑んだ。癖なのか寒がりなのか、胸につくほど寄せたままの膝を抱え、彼はまた北西の高みへ遠い目を向けた。

「僕の相棒はね、本当に立派なクライマーだったんです。遭難なんて、滑落なんてするはずのない人だったんだ。一体どこにいるのやら、もう随分待っているのにまだ帰ってこないだなんて」

 懐かしむような声色は、妙に古い記憶を呼び起こすようだった。どうしてそんな言い方をするのだろうと訝しみ、しかし目の前にありそうな答えが掴めないことに、歩いても歩いても進まない夢のような苛立ちを覚えた。わたしは本当は寝袋の中にいて、酸素が足りない割には複雑な夢でも見ているのだろうか。

 黙り込んでいると、隣で心地よい水音がした。視界の端から白い手が伸びてきて、おかわりをどうぞ、とマグに熱い湯気を立てる液体が注がれた。半ば上の空で呑み込んだ瞬間喉が灼けるように熱くなり、それが気持ちばかりの紅茶で割った濃いブランデーだと気がついたが、今更どうしようもなかった。

「その、まだ日が浅いのであれば」いっそ早く脳が痺れてしまえばいいと念じながら言った。「探しに行ったり、捜索を依頼したりとか……」

「無理、無理。だって僕はここから動けないんだもの。無線だって持っていないし、他の仲間はとっくに帰ってしまった。だから待つしかないんだ」

 サンディは立ち上がろうとするそぶりを見せたが、その腰と足は地に縫い留められてしまったかのように動かないらしかった。演技だろうと疑う。しかし傷だらけになった鋲靴の底とズボンには、確かに古い雪氷がまとわりつき凍りついていた。身じろぎながらも胸へつくほど寄せたままの膝は、抱え込めば自然と背が丸くなる。朦朧とする意識の中、それでも必死に暖を求めるようなその姿は、疲れ果て座り込んだまま二度と目覚めなくなった哀れな凍死者そっくりだった。

 もう勘弁してほしかった。冗談にしたってひどすぎる。ここへ来たのは六月だろうなんて涼しい顔をして、一体どの六月の話をしているというのか。

 死人の帰りを夢見る変人ならまだいい。しかし意識から締め出していた黒い燠―― ぶ き み の一言がふいごに吹かれたように燃え上がり、今すぐ逃げろと大声で喚き立てていた。ああ、思えば最近は何かから逃げてばかりな気がする……。

 にもかかわらず、一目散に背を向ける冷たさを思いとどまってしまった。警鐘はいわば理性の叫びであり、恐らく本能的なものは、この得体の知れない青年にさしたる危険はないと判断していた。もう少しで穏やかな口実が得られるのなら、刺激するリスクを冒したくもなかった。さりとてどうしたら良いのかも分からず、空回りする思考を制御できずに黙り込んでしまった。

 ひどく緊張する沈黙はどれほど続いただろうか。透明な溜息がひとつ薄い空気を震わせると、サンディはじっとこちらを見つめた。気を悪くしたのかと思ったが、どうやらそういうわけではないらしい。

「あなたのそれは致命的なものらしいね」

 批判ではなく、ただそう思ったのが口をついて出ただけといった風だった。

「なんのことです」

「気の進まない決断を半端にしがちってこと。雪崩の危険に向き合うしかないのであれば、陽が高くなる前に危険地帯を通過してしまうか、その日は停滞するか、どちらかにすべきでしょう。あなたは朝から雪面を観察し散々考え込んだ後、十時も回ってから乗り込んでいくような節があるように思います」

「そんなこと……」

 ない、とは言い切れなかった。いかにも自分がしでかしそうなことで、サンディはどこから見ていたのかとさえ思った。いや、そんなことはあったはずがないのだ。ないのに、ゆるんだ雪が滑り落ち迫ってくる光景がぞっとするほど鮮やかに思い描けた。目が潰れるほど眩い世界が一瞬で陰り、全身を叩きつけられるような衝撃、圧し潰された四肢が、肋があっけなく折れ、ぐしゃりと陥没した頭蓋がアンモナイト諸共埋められるイメージが――。

 潰れ落ち込んだ暗闇を、ぼっと吹くような音が払った。驚き瞬けば、風に荒ぶるバーナーの火を守るように、サンディがぼろジャケットの裾で簡単な覆いを立てるところだった。白い海の灯台守……。

 ぱちん、と冷たいさざ波がはじけた。

「望むなら止めませんが、つらいことをわざわざ見つめる必要はないと思いますよ」

 暗い花弁を添えた指がゆるりと落ちた。その向こうに浮くまるい瞳、青いような黒いような底なしの淵は、エヴェレストの空そのものだった。きっと彼は、この宙を見つめすぎておかしくなってしまったのだ。

「あなたは、どうしてここに」

「どうして。それは経緯、それとも目的?」

 答える前に、傷ついた唇の端には楽しげな思いつきが閃いていた。

「まあどちらでもいいや、'Because it's there' ということでどうでしょう」

 彼は愉快そうにけらけら笑った。ひとり分の笑い声が、稜線から吹き下ろす風に響きの尾を残して落ちていった。

 悪夢に醒めた深夜のように、なんだかぼうっとしてしまって、掠れた声のあとをぼんやり眺めた。

 なるほど、天気や季節、月の満ち欠けによる変化はあるだろう。己のように人が通りかかることも、言葉を交わすことも稀にあるのかもしれない。だがそれにしたって、ここでひとり待ち続けるというのは、あまりにも耐えがたい業に思われた。

 ほんの少しお邪魔するだけだから、生きて帰った人々はこの世界を正気の物差しで語るのだ。たとえ下界では半分狂人のように扱われようとも。ある場所を旅行で訪れることと死ぬまで住み続けることは、まるで意味合いが違うではないか。デスゾーンは百年前から人間の侵入を許しているが、決して人間の生存を許したわけではない。こんなところに何ヶ月も、何年もいたら、瞳にうつるほどこの天球を見つめていたら、たとえ月を見なくたって気が狂ってしまう。

「あなたは、ずっとここに」

「うん」

「これからも?」

「相棒が帰ってくるまではね」

「本当に帰ってくるんですか」

「帰ってきますよ、必ず」

 言いながら、落ちた指は寂しげにザイルの端に触れていた。暗くてよく見えないが、無残に引き千切れているに違いない。そのザイルがもう一度結ばれる奇跡が起こるならば何よりだが、そんなビジョンは全く思い描けなかった。

 夢の中で輪郭をなぞるような、胡乱な問答を交わしてきた。問いも答えも妙に手ごたえがなく、サンディと名乗るこのひとが何なのか分からないままだ。それでも親切で義理堅い彼がこのまま待ち続けることを想像すると、いてもたってもいられない思いだった。

「でも、ずっと待っているのに来ないんでしょう。そんな靴を履いて! ここはエヴェレストですよ。待ち人があなたを置いて先に帰ってしまった可能性も」

「まさか」

 サンディは初めて不快感を露わにした。ぴた、と止まった指先が、凍った礫へと重みをかけた。あの怖い眼がひたりとわたしを見据え、ずいと迫る宙に呑まれた。

「あの人が僕を置いていくなんて、それこそありえない。絶対にそんなことしない人なんです。僕だって、彼を置いてこれ以上遠くへは決して行かない」

 黒々とした瞳に、やつれた頬に、死者のかんばせには誇りと懐かしさが満ち満ちていた。ぼろぼろの蒼い唇は綻び、脈なき血の筋を溢しながら、きっと最期まで呼んでいたその名をささやいた。

「知っているでしょう、名前と顔くらいは」

 その瞬間、ようやく思い出した。彼の話している人物のことではない。目の前の青年は、この山をめぐる歴史の中で最も有名な男の隣にいた学生の顔をしていた。

「失礼、そろそろキャンプへ戻らないと」

 ひどい口実だったが、幸いにして地平線の色は確かに変わっていた。サンディは地平を見やると、本心から驚いたようだった。

「ああ本当だ。随分引き留めてすみませんでしたね。あなたさえよければ、またいつでもおいでください。あの人が戻ってくるまでは、僕はずっとここにいますから」

 もう二度と会いたくなかった。己のためにも彼らのためにも、次があるべきではないはずだった。衝動的に燃え上がった同情、あるいは憐憫の炎は、その傲慢さの報いを受けたようにすっかり吹き消されてしまって、今はただ荒廃したキャンプ跡地のように、みすぼらしい燻りの跡を残すばかりだった。

 寒さは忘れていたというのに、陽の眩しさときたら意識せずとも沁みて堪らず、あまりの痛みに涙が出そうだった。女神のヴェールより薄い大気を透した光は強く、せっかく雪が覆い隠している現実までもを照らし出してしまう。身に迫る現実の厳しさに忘れかけていた伝承が、黴臭い記憶の墓土をぼろぼろと崩しながら湿った死臭を漂わせ、今おぞましくも立ち上がりつつあった。

「ねえ」

 逃げるように稜線を目指す背を、控えめな声が引き留めた。

 おそるおそる振り返ると、これまで何度もそうしてきたかのように、彼は大きく腰をひねってこちらを振り仰いでいた。晴れの極高所にほんの刹那、低く射す薔薇色に染まり微笑むその頬はまるで生者のようだった。しかしやわらかな咲顔のなかでやはり瞳だけが暗く、見果てぬ底に迷子の悲しみを湛えていた。

「ねえ、もしもあの人と会ったら、僕はここにいるって伝えてくれませんか。テントも寝袋もあるし、熱いお茶もミントケーキも用意しています、いつまででも待っているから、どうか気をつけて来るようにって」

「ええ、会えれば……」

 まさかもう見つかっているなどと――とうに簡易ミサが執り行われ、再び埋葬されたなどと、言えるはずもなかった。かの魂はまだこの山にとどまっているのだろうか? 言い伝えでは、正しく埋葬された魂は山を離れるのではなかったろうか?

 緊張が顔に出ていたらしい。サンディはあの人好きのする笑みを浮かべると、ごく優しい調子で付け足した。

「焦らなくても大丈夫。時間ならいくらでもあるんだ。僕たちも、きみたちもね」

 


 

  • サンディも語り手も幽霊。語り手はまだ無自覚だったが。
  • 物語は夜の出来事だが、ざっと読んでいると昼の出来事に思えるよう意識して書いた。粗雑だけど叙述トリックめいたものを遊んでみようという実験。二人とも幽霊らしく論理や認識が破綻しているので、永遠に尽きないガスを燃やし、月を太陽のように、夜明けを日没のように眺めながら、どこからともなくわいてくるお茶やウィスキーを飲んで、のんびりと質疑応答を重ねている。
  • シェルパの伝承にある帰れない幽霊の話もn回目だが、今回のサンディは毒にも薬にもならない地縛霊系ゴースト。自分が死んだ場所で、ずっと相棒が迎えに来てくれるのを待ち続けている。最期については『そして謎は残った』のラストシーンベースの設定なので、はぐれた後ひとりでキャンプへ辿りつこうとして移動してしまったことを不誠実だったように思って後悔している。彼は帰ってくる、自分も置いていかないという話になった時「これ以上遠くへは」と言っているのはそのあたり。
  • ↑これはちょっと触れ方が嫌な感じになってしまったので補足しておきたいのですが、仮に史実でアーヴィンがそのような行動を選択していたとして、それが恥ずべきことなどとは全く思っていません。日没後のデスゾーンで滑落事故を起こし先輩とはぐれ、ザイルも千切れた上に呼んでも返事がない、そんな状況で救助を諦め、何とかひとりで帰り着こうとすることの何が悪いものか。この話では、あくまで帰れない幽霊が合流しようとした時に待ち合わせになったはずの場所から移動してしまったことを悔やんでいるくらいのニュアンスでもいいと思っています。
  • サンディは視点人物のように歩き回れる幽霊がいるのも分かっているので相棒は動けると信じ待ち続けているが、恐らく迎えは来ないだろう。多分ハッピーエンドは訪れないがバッドエンドもない。メタ的に、少なくとも現段階では終わりのない話。
  • 他の話の多くより敬語が雑なのは胡乱さか、あるいは先輩風かもしれない。
  • 動けないし害意もないので視える生者が話しかけたところで殺されたりはしないが、お茶やガスも幻の類なので、話し相手以上の助けにもならないだろう。作家や探偵気取りには願ってもない相手に違いない。
  • 段々噛み合わなさが浮き彫りになっていく隠者めいた雰囲気の紳士と酒というキーワードは、ジョーン・エイケンの『マーマレードの酒』を読み返して影響されたところが大きい。……という点は最初から自覚があったが、途中で数ヶ月放置してから最後まで書き終えてもう一度読み返したらちょっと流れが影響されすぎていて、オマージュ作品として置くべきかと思う。数ある怪奇幻想短篇集の中でも一番お気に入りの、ちくま文庫西崎憲編訳『怪奇小説日和』収録作。邦訳作品が希少なマロリーの友人コティー・サンダースことアン・ブリッジの『遭難』も収録されている。