CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

ある登山家の遺稿

 エヴェレストの創作幽霊譚バックアップ。

 死体がずうっとついてきたら怖いだろうな~でも可愛げのある幽霊と登るのは単独行の魅力とペアの魅力をちょっとずつ混ぜた塩梅になりそうでいいな……というような考えからの話。

 個を確立したままの幽霊も好きだし、集合概念や複数要素がまじり合ったキメラめいた幽霊もまた良いもの。

 

 


 

 

 女手ひとつで兄弟2人を育ててくれた母は大層信心深く、また今時珍しいくらい迷信深い人であった。わたしが37で死ぬと予言したのは、生家の裏に暖簾を出していた女占い師であったという。わたしは5歳、まだ父は健在で、弟は神様のもとにいた頃だった。

 わたしはそんなこと気にするのもくだらないと笑う科学の脳を備えながらも、忌々しいことに、精神は絶えず迷信のことを気に掛けていた。若い頃は却って何をしても死なないという勇気を与えてくれた予言は、好奇心の赴くままにわたしを危険な土地へと誘った。中でも登山に夢中になり、次々と危険な山域へ挑む勇気を人は褒め称えたが、何ということはない、それは実力に裏打ちされた楽観ではなく、ただの辻占いの言葉ひとつだというのだから笑ってしまう。しかしその祝福は、年を追う毎に心を苛む十三階段へと変質していったのである。

 そしてとうとう37回目の誕生日を迎え、つつがなく半年が過ぎた冬、わたしはいっそ死に場所を求めるつもりでエヴェレストへ挑んだのであった。対外的には過去の登攀記録を認められ、冬季単独登頂を目指すという体裁であった。危険な試みではあるものの、ここで死ななければ、数年来の馬鹿みたいな悪夢から解放されるという望みもあったのである。わたしの本当の目的を知る者はただ一人、兄の分まで長く生きると予言された、腹違いの弟だけであった。

 此度の単独行に際し、わたしはベースキャンプまでの助けを、この弟とまだ年若いシェルパの青年カルマ・ダワにのみ依っていた。心優しい2人を地上の人すべてのように思い、長い準備を通じて十分なお別れを済ませてから、わたしは孤独な旅路――死出の途へと踏み出したのである。

 状況相応に時間はかかるものの、山行は途中までは意外なほど順調に進んでいた。その具合といったら、神様がわたしを少しでも早く引き上げ、かの頂上に立たせようとしてくれているかのようであった。この旅の性質を忘れ、つい楽観的になりかけたほどである。

 

 そんなわたしと彼の出会いは、初めて7000メートルを超えた黄昏時だった。

 設営を終えたキャンプを少し見て回っている折から、一体の遺体を見つけたのである。遠目の観察では、それは随分と古い服装をしているようだった。茶色い布地は、経年と環境による脱色だけが原因ではあるまい。いつ亡くなったものか、どこから来たのかは分からないが、わたしはそっと十字を切って立ち去った。崖下まで下りて行って死体を見ようというのは、不謹慎に思ったのだ。ただ安らかに眠ってほしいと祈り、そしてあれは明日の己の姿かと思いもした。

 異常に気がついたのは、その2日後だった。身体を慣らすため高度を下げていたわたしは、このキャンプに程近い急斜面に、また古い遺体が横たわっているのを見つけたのである。まさか同じものではあるまいが。そう思いつつも不安に駆られ、わたしはザイルを取ってくると、慎重にロンブク氷河へ切れ落ちた斜面を下りていった。

 その古い遺体は、まだ歳若い青年らしかった。ぼろきれのようなカーキのジャケットに、元は青かったらしいマフラーを巻いている。慎重は6フィートを超えて大柄な印象だったが、凍死体ゆえ全体的にほっそりした印象でもある。長年陽と風に晒された肌から色は抜けきって、雪と紛うほどに真っ白だった。帽子だったと思しき端切れの引っ掛かった頭には未だ金色の髪が光り、この青年が恐らくは白人であったと伝えてくる。その頬には痛ましい孔が空いており、ゴラクたちの襲撃があったことを教えてくれていた。

 そこではたと疑問を抱く。わたしは何故、彼を若いと認識したのだろう。デスゾーンの遺体とて、全く傷まないわけではない。彼の貌にも生前の面影など無く、今や浮いた骨に白い皮が貼りついているだけだというのに。

 少なからず気味悪く思うと同時に、わたしは彼に対し不思議な懐かしさも感じていた。その姿は、およそ百年前エヴェレストで亡くなった青年、かのマロリーと共に登った若きアーヴィンを思わせたのだ。だが彼が眠るにはここは低すぎる。そんな筈はなかった。

 その夜はよく眠れなかった。折悪く、山に入ってから初めて空が荒れ続け、次に移動できたのは更に3日後であった。キャンプに留まるあいだ、速くあの遺体から離れたいような、逆にもっと、ずっと一緒にいたいような、おかしな気分を存分に味わう羽目になった。

 ようやく天候が回復するとさっさと荷をまとめ、再び高度を上げていった。また先の、最初の遺体を見つけたキャンプへ戻ってきたことになる。わたしは迷ったが、結局気になって、ザイルを手に崖の方へ赴いた。そこにはあの古い凍死体が横たわっているはずだ。

 ところが、そこには何もなかった。確かに場所を間違えるはずはない。この数日の悪天候で落ちてしまったのだろうか? すっきりしないものを抱えながらも、わたしはその晩よく眠った。

 あくる日も午後早いうちから崩れそうだったので停滞した。朝のうちに身体をほぐそうと散策に出た足は、自然とまた崖の方へ向いていた。そしてわたしは見てしまった。あの死体が転がっているのである。最初にこのキャンプで見たものと同じか、確信は持てなかった。それがおかしいのだ――その居場所と姿勢だけは、あの最初の遺体とは違うのだから。絶対に違うと確信できないことに気がつき狼狽えたが、やがてその原因に思い当たった。今見ている死体は、昨日の朝までご近所だったあの青年の遺体によく似ているように思えたのだ。立て続けに出会ったことで、印象を重ねてしまっておかしなことになっているに違いない。今夜を共にするこの隣人は、きっと更に上の方から転がり落ちてきてしまったボディCなのだろう。

 そう理屈づけながらも、直感に嘘を吐き続けることは出来なかった。それからたった15分後、わたしは再びザイルを手に崖下りを始めていたのである。ザイルを緩める度に、心臓は痛いほど高鳴った。

横たわるというよりは転がり込んだと言うべき印象で、彼はそこにいた。古い砂色と青のきれ、真っ白な肉体、痛ましい傷に金髪。アーヴィンを思わせる彼に相違なかった。

 気温のせいでなく、わたしの全身は冷え切って無様な音を立てた。誰か傍にいてほしいと、この時ほど思ったことはない。死体が落ちるのはまだ分かる。だが登る道理がどこにあろう。それでも不思議なことに、彼と一緒にいたいというあの気持ちも確かに胸の内で息づいているのであった。しかしその頬に触れる勇気はなく、ほうほうの体でその場を離れ、テントに閉じこもった。彼がわたしを殺すのだろうか?

 

 2日後、更に高度を上げるとまた同じことが起こった。到着した晩まではたしかにいないのだが、夜が明けて氷河を覗き込むと、そこには必ず彼がいるのである。まるで夜闇に紛れ、わたしの後をつけてきているかのように。

 ある朝の出立時などは、思い切って見送りの影がないかと振り返ってみた。珍しく凪いだ稜線のしじまに、亡霊の人見知りな眼差しを感じたことを気のせいと言い切れはしない。

 

 そんな山行が続き、彼のことを見慣れるうちに、今度は親しみがひときわ強くなってきた。単独行の良さを邪魔することなく、それでいて程よく傍にいてくれる。害を成すわけでもなく、ただひっそりとついてくる青年は、風変わりだがなかなか良い相棒だった。彼もまた、この頂に挑んだ者なのだ。

 高度順応のため、天候が悪くなくとも停滞を選択した日など、わたしはザイルと熱いお茶の入った水筒を手に近寄って行って、良きティータイムを共にすることもあった。静かな隣人は、良き話し相手だった。彼の口は語らずとも、その姿は雄弁に、謎めいた物語を広げてみせてくれた。互いの人見知りが打ち解けるにつれ、わたしたちは夢中になって語らった。

 彼の名はサンディ。生前の名は教えてくれないが、かのサンディ・アーヴィンを思わせ、またその名がしっくりくる美しい金髪からそう呼んでいる。彼はわたしより若いが、ずっと昔にこの山へ挑んだ大先輩だ。悲しい事故で命を落としたが、その魂はシェルパの伝承通りこの山に留まり、夜にはその朽ちかけた身に戻って動きもする。加えて言えば、珍しい時期に独りで登ってきたわたしについてくる寂しがり屋でもある。立派な体躯に反し案外シャイで、話が出来るようになるには時間が掛かったが、語り始めれば実に愉快な男だ。わたしのすすめる茶や菓子を丁重に断るが、代わりに何かエーテルかマナのようなものを吸っているのかもしれない。なるほど、必ずしもお茶会でお茶を飲む必要は無いらしい。

 彼は時々こうして誰かのあとをつけてみるが、大抵は気づかず、残りも気づかぬふりと見ぬふりをするばかりで、ひどく寂しかったそうだ。好天の昼に訪れるわたしを、彼はいつだって家族のように嬉しそうに迎えてくれた。心なしか彼の貌は少しずつ肉づき、柔らかな笑みを浮かべつつあるようにさえ見えていた。

 

 さて、何も友人とのお喋りに現を抜かしていたばかりではない。キャンプとキャンプを行きつ戻りつし、年はとうに明け、わたしはいよいよ8000メートルの壁を踏み越えた。その一週間ほど後、初めてデスゾーンに眠った夜のことである。用を足すため外に出た時、何の気なしにひょいと北を見やると、

 ――そこには白い貌の青年が、金の髪を風になびかせ佇んでいた。

 彼はじっとテントを、わたしの方を見つめていた。ふと目が合うとにっこり微笑み、軽く手を振ってみせた。その夜のことは、他に記憶がない。

 彼は確かに、アンドルー・アーヴィンだった。

 

 翌日は事前の予想に反し天候が崩れたため、テントにこもって過ごした。それでもずっと引きこもっているわけにもいかず、偶には外に出る。朝一番、すっかり油断してドアを開けた時には、ちょっと離れた岩に腰掛ける人の姿に、情けなくもベースキャンプまで届くような悲鳴を上げるところだった。そしてすっかり日が昇ってからも、テントから這い出て視線を上げると、確かに彼がそこにいるのである。

 サンディはこちらを見ていたり、いなかったり、まるでキャンプにもう一人登山者がいるかのように振舞っていた。荒れる空と利かない視界の中に、不思議とその姿ははっきり見えていた。古風なミリタリージャケット、鮮やかな空色のマフラー、真っ白な肌と、あの輝くような金髪。暴風の中で尚、その佇まいは春の陽気に遊ぶようで、時々帽子を被っていることもあったが、大抵は風に吹かれるがままにしていた。わたしに向ける眼差しは親愛のこもったものだったが、人見知りそうに話しかけるのをためらっている様子だった。わたしから声を掛けてくるのを待っていたのだろう。

 こんな状況では到底このまま上へは行けないと判断し、デスゾーンでの消耗を補うため一旦下ることにした。その結果分かったのは、サンディが昼でも夜でも歩き回り、生者の如く微笑むのは、デスゾーンに構えたキャンプⅣに限られるということだった。その早すぎる死を迎えた地点に関係があったのか、あるいは人の適応限界に意味があったのかは分からない。確かなのは、キャンプⅢまで下りると彼は再び静かで雄弁な屍体となり、またキャンプⅣに入った時にはシャイで古風な様子の青年になったという点のみだ。

 参ったことに、彼を恐ろしいと感じ逃げ出したかったのは最初の内だけで、結局のところ、あの一緒にいたい、語らいたいという衝動には勝てなかったのである。こう言うと、わたしのことを軽率だと思うだろうか。しかし、あの人恋しそうな寂しい微笑を無視し続けられるというのなら、わたしはその人のことをこそサンディより怖ろしく思う。

 今度こそ頂上アタックをかける気でキャンプⅣへ上がった日、わたしはとうとう意を決して――否、我慢できなくなって、彼に話しかけた。希薄な空気の中、ボンベも背負わず近づいてくるわたしを見て、彼はそれを望んでいたはずなのに、少々怯んだようであった。それでも人恋しさには勝てなかったか、逃げることはなくじっと見つめてくる目は青く、はにかんだ微笑を浮かべて穏やかに迎えてくれた。

「こんにちは」そう言って、気の利いた言葉を用意していなかったと気がついた。「ああ……サンディと呼び続けても?」

 緊張していたらしい彼は、それはもう嬉しそうな明るい笑みを咲かせると強く頷いた。その様はまるっきり生者と見紛うほどだったが、明るい虹彩の中に広がる闇はあまりにも暗く、彼は死者なのだと知らしめていた。それからもう一点、彼は話すことができないようだった。トントンとマフラー越しの白い喉を突きながら、申し訳なさそうに眉を寄せるのである。しかし言葉は使えずとも、その表情とジェスチャーは十分に豊かだった。

 わたしのテントへ招待すると、彼はひどく落ち着かない様子でついてきた。彼の脱いだ旧式の鋲靴は、ドアを閉める前に革の切れと化した。帽子を抱きかかえ、長身を抱き込むようにして、客人は物珍しそうにテント内を見回していた。そうだろう、彼の時代とはすっかり様変わりしている筈なのだから。彼の隠す気のない好奇心に応え、わたしは様々な道具について説明してやった。それに一々驚きを示すので、こちらとしても甲斐があるというものだ。実に気持ちのいい客人で、礼儀正しい友人だった。

 数時間も楽しく過ごしたあと、わたしは彼に、一番欲しいものを帰りにあげようかと言った。ここまでの旅のかなりの部分を共にした寂しい彼に、何か贈り物がしたかったのだ。すると興味深そうにカメラを触っていた彼は、本当にいいのかと言わんばかり、驚きと興奮に見開いた目を向けてきた。子供っぽいくらいの仕草にわたしもつい笑って、約束だと請け合った。わたしからの贈り物の提案に、彼は何度も何度も、その声の出ない口でわたしの名とお礼を繰り返すのだった。喜びのあまり泣きそうなほどで、今思えばあの時の彼はどこか弟に似ていたような気もする。これだけ喜んでくれるなら、カメラのひとつなど惜しくもない。わたしだって嬉しかった。

 

 いよいよ頂へ向け出発する夜明け前。星空の下、歩き出そうとするわたしに、サンディはついていっても良いかと尋ねるそぶりを見せたので、アンザイレンしなくても良いのならば構わないと伝えた。彼は何か霊的な力が働いているからひとりでも大丈夫だろうし、わたしとしても単独登頂を果たせるものなら果たしたかったのだ。本当なら会話も御法度だが、死者との話ゆえご勘弁願いたい。

 星の瞬く北東稜を慎重に登っていき、少し距離を置いてサンディがついてくる。彼の身体が影を落とすことは先日確認していたが、雪上に足跡を刻みながらも苦しげでなく、淡々とアックスもなく歩む様は、ゾンビの類というよりは亡霊の方がしっくりくるものだった。しかし間もなくして振り返る余裕など消え去り、わたしはただ風音と、酸素装置のシューシュー言う音を聞きながら、無心に一歩一歩を進めていくことになる。

 おまえは37で死ぬという予言が的中するなら、今日だと思った。背後にいる天使のような色彩を持った青年が幸運の印であればと、深雪に足場を切りながらひっそり願ったものである。祈り通じてか、わたしは3つのステップを無事に乗り越え、今まさに夜明けの花色に染まる頂に立たんとしていた。

 

 ああ、まったく――生涯で最も素晴らしい朝だった!

 ヴィーナスベルトに染まる雪に青い影が落ちていた。見上げては宇宙の透けた未だ星光る空、見下ろしては天国に来たと紛うような黄金に珊瑚にうねる雲海。人波に押されて通過するのとは較べるべくもない。今はただひとり、わたしだけの頂だった。

 写真を何枚か撮り、来た道を振り返った。少し低いところで、控えめな様子でにこにこと見守っていたサンディが、白い手で拍手した。彼を手招き、共にこの狭いテーブルのようなてっぺんに立つと、2人で写った写真も撮る。それゆえに単独登頂が否定されようと、もうどうでもよかった。カードを差し替えるとまた数枚撮影し、最初とは色味の変わった世界を見渡してほうっと溜息を吐いた。朝の色の移り変わりは早く、薔薇色の嶺々もすぐに白くなっていく。透明で柔らかな陽は、既に無機質な光線と化しつつあった。

「ずっと此処にいたいくらいだ」

 思わず呟くと、サンディは暫くじっと見つめてきたあと、こう言った。

「それならちょうどいい」

 驚いて見やると、彼は相変わらず人好きのする笑みを浮かべたまま、ぐいとわたしの手を掴んで後ろへ倒れ込んだ。クリスマスの庭で雪遊びに興じるようなその動作は、しかしここでは致命的だった。腕を引かれるまま彼の胸中へ飛び込むようにつんのめると、2人もつれ合うようにして転げ落ちていく。天と地がさかしまになり、青と白と黒がぐるぐると回り、どこをどう落ちているものかさっぱり分からなかった。そこかしこに生える岩で潰されなかったのは、幸運というほかない。

 いくらか転げ続け、すっかり目が回った頃、どっという衝撃と共に止まった。そうっと目を開けてみると、どうやらサンディがわたしとの間に挟まる形で、急な斜面に突き出た岩にぶつかったらしい。ろくな思考も働かぬままに、ひとまず彼の腕から抜け出そうとすると、途端に万力のような力でしがみつかれた。

「だめ、だめ、行かないで」

 掠れた声は哀れに必死な様子で、しかしどうしようもなく怖ろしかった。

「どういうつもりだ」

「一緒にいて。僕の一番欲しいものを、くれると言ったでしょう」

 まったく、曾祖母の本棚で黴を生やして灰色の埃を被ったような怪談話だった。笑ってしまうほどに、わたしは間抜けだった。その笑いをどう取ったのか、血を吐きながら、彼はにっこりと笑みを浮かべた。

「ここなら毎日夜明けが見られるんだ、死に場所には悪くないでしょう。あなたは頂も踏んだし、これなら痛くもない。だからもう、いいでしょう」

 そう言って、この寂しい百年を彷徨った魂は、より一層強く抱き締めてきた。きっと彼はここで岩に打ちつけられ、ひどく痛い思いをして苦しみながら死んだのだろう。サンディはどこまでも優しい友だった。

 なるほど確かに、死に方も死に場所も悪くなかった。友人が一緒というのはとりわけ素敵だ。それでも死への忌避感はあり、地上に置いてきた家族と友があり、そして他ならぬこの死者への哀れみもあった。

「サンディ、重ねているのなら大間違いだ」

「まさか。あの人はもういないということくらい、ちゃんと分かっている」

 ただ誰かに傍にいてほしかった、独りは嫌だと、彼は切に零した。会話は成立しているように見えて、交渉の余地はまるでなかった。

 首をひねって見る限り、ここは北壁の8000メートルより少し高い地点らしい。キャンプⅣが近そうだが、屍の腕をほどける見込みはなかった。くっついている相手に体温はなく、じわじわと己の血が冷えていくのが分かる。サンディは嬉しげに、親しげに、しきりと話しかけてきたが、わたしの返答は段々と緩慢になっていった。

 これはもう助かるまいと、永遠に目を閉じようとした。サンディは確かに死へと引きずり込んでくる悪霊の類かもしれないが、登るまでは大人しく見守ってくれるあたり、良心的な亡者なのだ。大概わたし自身愚鈍であった上に、元より死を覚悟していただけに諦めもつく。そう思った時、さっと視界が暗くなった。

 おお、この微かな空気を掴む黒き翼よ! それは屍体と、死体になりかけている肉を啄みに来たゴラクたちであった。サンディはわっと叫ぶと、そのくちばしを払いのけるため手を離した。わたしはその腕から自然と抜け出し、再び凍った北壁を転がっていった。低体温症を起こしている身体で受け身など取れるはずもなく、今度はこの身がひしゃげるのを庇ってくれる人もいなかった。

 しかし間もなくして、ザックとボンベ越しの衝撃と共に勢いは止まった。それだけでも大きな幸運だが、ちょうどその時風がやみ、暑いくらいの陽射しが照り始めたのである。次第に身体が温まり始め、ゆっくりではあるが意識もしっかりしてきた。

 これまでに短くない時間が過ぎたはずである。はて、サンディが追ってこないのはどういうわけだろう。空と切り分けるような斜面に視線を走らせると、たった60フィートほど高いところに彼はいた。そしていかにももどかしそうに、そわそわとわたしを見ているのである。それでわたしは、自分が彼の昼でも自由に動ける領域から既に脱していることを知った。

 これはいよいよ助かるかもしれないと思うと、力がわいてきた。わたしが起き上がるのを見て、あの若者は分かりやすくうろたえた。既に正午を回っていた。あまり猶予は残されていない。わたしはカメラを取り出すと、彼が見ている前で岩に安置し、キャンプⅢを目指すことにした。

 サンディはやはりそれ以上は下りてこられないようで、夜に追いついてやろうとばかり、その視線はずっとわたしの背に追いすがっていた。その声があまりにも哀しくわたしの名を呼び続けるものだから、やはり戻ろうか、留まろうかと思ったことも、一度や二度ではなかったと告白しておく。

 アックスもなしにキャンプまで辿り着けたのは、奇跡と言うほかなかった。荷を回収する余裕はない。わたしはお湯だけ作りながら携行食をまとめると、予備のアックスを手に、一目散にキャンプⅡを目指し下り始めた。

 頂上からベースキャンプまでは、順調にいけば二日で下りられる。だが夜になればサンディがあっという間に追いついてくるだろう。そして明日も好天に恵まれる保証などなく、彼は悪天候下でもてんで平気なのだ。

 限界まで軽くした装備で、恐らく冬季としては史上最速記録で高度を下げていった。往路のトレースなどとっくに消えており、クレバスの危険が鬱陶しかった。そこら中に転がっている死の危険を回避する間にもぐんぐん陽は傾いていき、日没を迎えたのはキャンプⅡだった。ここでものんびり休んでいる暇などなかった。サンディはどこにいるのだろう?

 簡単な補給を済ませ、即前進。キャンプⅢと同じことを繰り返すだけだった。振り返ることなど、とても怖ろしくて出来なかった。逆にわたしの姿はこの山で唯一の灯りだ、さぞ見つけやすいことだろう。真っ暗闇をライトひとつと月明かりを頼りに下っていく道行きは、こうでなくとも泣きたいほどだった。一説には彼は相棒を失って独り、キャンプへ帰ろうとして力尽きたことを思い、ついあの哀れな子を思って涙を流した。

 その哀れな青年が、わたしを呼ぶ声が聞こえた。お願いだから一緒にいて、僕をひとりにしないで、約束したでしょう、と。縋るような、詰るようなゴースト・ストーリーおきまりの言葉の合間に、繰り返しわたしの名を呼んでいた。わたしは泣きながら、それでも彼の名を呼び返しはしなかった。ベースキャンプの灯りは絶望的に遠かったが、確実に大きくなってきていた。そしてわたしを呼ぶ声もまた、負けず劣らず近づいていた。どちらにつくのが幸いなのか、もうわたしには分からなかった。

 キャンプⅠまで戻ってくる頃には、呼吸は随分楽になっていた。だが疲労のあまり膝は瘧のように震え、次に転んだが最後、もう立ち上がれないのではないかと思った。思った瞬間倒れ込み、しかし這うようにして前進し、意地で立ち上がった。そんな無我夢中の歩みは、ずるずると足を引きずる音と共にあった。それが一つではないことに気がついたのは、ベースキャンプまでの道半ば。中間キャンプにて、とうとうわたしは振り返った。

 手を伸ばせば届くようなところに、サンディはいた。カメラを握り締めて、彼は泣きそうな顔をして唇をかみしめていた。きっと、もう随分長いあいだ、そこにいたに違いない。

 もう夜明けが近かった。東の空はうっすらと白み、明るい青と黄に染まりつつあった。彼とてこれ以上追ってくるのならば、私を道連れにするのと引き換えに、今日の昼にでもその身体ごと片付けられるリスクを負わねばなるまい。そして賢い彼はそのことを理解しており、わたしは信頼を失っていた。

「さよならを言わなきゃならない」

 涙を堪えるように引きつる喉から洩らした声は、壊れたヴァイオリンを無理やり鳴らすようだった。それでもさよならとは言わず、先へ進もうとするわたしの背を、彼はあの目で一心に見つめていた。

 十歩進んで、わたしはもう耐えられないと思った。自分を永遠の彷徨に巻き込もうとしてきた男だが、それを差し引いて尚、彼は本当に……素晴らしい友人なのだ。

「サンディ、一緒に帰ろう」

 わたしがそう言い振り向くと、彼は全く思いがけないという風に目を見開いていた。

「わたしはそちらには行けないが、よかったらきみが一緒にこちらへ来ないか」

 差し伸べた手を、彼はどうしたら良いか分からない様子だった。わたしの顔と手を交互に見やり、困ったような、戸惑うような足踏みをする仕草は今朝も見た。ついていきたいが迷っているというジェスチャーだ。

 ひとりで帰るのが寂しいのはお互い様だろう。ゆるく手招き、凍った唇で笑ってみせると、彼はゆっくりと近寄ってきて、黙って手を握ってきた。わたしだけ手袋越しなのも何だかすげなくて、繋いだ左手のそれを外すと彼の手にはめてやり、その白い指を強く握り直した。左手にはカメラ、右手にはわたしの指を握った彼は、遊び疲れて家へ帰る子供のように静かについてきた。明けゆく空の下を行く足音に、もう引きずる調子はなかった。

 

 どうやってベースキャンプまで戻ったものか、記憶は定かではない。しかし物凄い勢いで下ってくるGPSに身構えていたカルマ・ダワの度肝を抜いたことは間違いない。そして正気づいたわたしもまた下界の状況を知らされ、ショックで再び気を失ったものである。順を追ってお話しよう。全く不可思議な悲しい話である。

 カルマ・ダワが語るには、わたしは屍体を背負って下りてきたそうだ。持つべき荷の殆どをどこかに捨て置いて、秋シーズンに遭難した奇跡的な生存者を搬送して来たのかと思えばとんだ古い凍死体。背負うわたしの顔も青く、真昼の亡霊を見てしまったかと思ったという。キャンプに入るなり気を失ってしまったわたしを介抱すると共に、彼は命懸けで連れ帰った友人の身元確認までしてくれた。

 しかし、終ぞこの友の正体が判明することはなかった。かなり古い遺体には相違ないのだが、彼はあのアンドルー・アーヴィンではないらしい。加えて過去の遭難者リストと照合しても、それらしい人物が見当たらない。彼が若かったこともあり、最終的にお金のない密入山者が遭難した末路として結論づけられたそうだ。ひどく気味悪がられたのは、その白い栄光の手が、時代の合わぬ最新式のデジタルカメラを握り締めて決して離さなかったことである。彼の茶色いゴアテックスという珍しい代物の内側には、偶然にもAndrewの記名があった。

 この不思議なアンドルーの葬儀は、奇しくももう一人のアンドルー――わたしの弟と共に執り行われた。

 我が弟は、わたしがちょうど7000メートルを超えた頃、ベースキャンプで体調を崩したそうだ。すぐに治るだろうと甘く見たのが災いして、彼は肺にひどく水を溜めてしまった。わたしにその話が届かなかったのは、ベースキャンプを発って以降の通信をわたし自らが拒み、GPSで生存を知らせるのみだったからである。わたしが帰ってきた朝、彼は息を引き取ったとのことだった。その死に顔が穏やかだったこと、わたしの登頂の報せは間に合っていたことが、何とか不幸中の幸いと呼べそうなものである。

 弟とサンディの亡骸はこの地で火葬し、わたしは2人の灰を引き取った。彼らを国へ連れ帰るためにも、上に置いてきた荷やごみの回収する算段を整えるわたしに、カルマ・ダワは自分と信頼できる仲間がその仕事を引き受けると申し出てくれた。

「あなたはもう、この山に入らない方がいい」

 そう言う彼は遺灰を収めた陶器のひとつを悲しく見やり、もうひとつを恐れるようにちらとだけ見た。彼はキャンプで、弟ととても仲良くなってくれたらしい。友を失う悲しみは、わたし自身ひどく堪えていた。

 彼の進言に従い、わたしは彼と何人かのシェルパに金を払って、置いてきたものの回収を依頼した。実に誠実な人々で、最終キャンプのテントだけは落としてしまったのだと言い張り持ち帰ってこなかったが、これは彼らの鋭い勘が働いたか、あるいはその中に死者の痕跡でもありありと残っていたのだろう。このテントの話をする時、勇猛果敢な彼らの面に暗いものがよぎるのを見れば、到底責められるはずもない。

 山の中にて果たして何が起こっていたのかは、カルマ・ダワにのみ語った。あの寂しげで素敵な友の話に、彼は複雑そうな顔をした。それでもこれまた心優しい彼は、最後にはあの遺体をきちんと弔うことで、長くこの山に縛られていた哀れな魂がひとつ、正しくあの世へ行けることを喜んでくれた。空港へ出発する朝、彼がふたり分の灰に祈ってくれたことを、わたしは生涯忘れまい。

 そしてわたしは弟と友を連れて帰国し、今に至る。わたしは不思議な縁からサンディの魂を救い、己をながらえさせたと思うが、その裏で結ばれた因果によって弟を亡くした気がしてならない。迷信深さは結局直らないようだ。あのエヴェレスト行以降も山には登っているものの、やはり次にあそこへ行けば命はないような気がしている。あの地に彷徨う〝サンディ〟は、一人ではないのだ。その全てを救える力が己にあるなどと思い上がるつもりはない。それは第二、第三のわたしか、あるいは登山を嗜む聖職者にでもお任せするとしよう。

 

 かくして、胡乱な予言は外れの恥晒しも良いところとなったのである。

 わたしの分まで長生きすると言われていた可哀想なアンディは、たったの22年しか生きられなかった。

 あの山で出会った不思議なサンディも、恐らくは22年でその短い生涯の幕を閉じたのだろう。ここまでくると、そう信じたくなるものである。

 何しろわたしの名はジョージという。

 あの事件から早くも半年が過ぎ去った。もう半刻で、38の誕生日を迎える。

 

 了

 

 


 

メモ

  •  葬送型の骨組に、名前の縁深さ、呼ばれないと入れない、こちらが話しかけるまで話せない、人間の不用意な発言を拾っていく人外、何の気なしの契約……あたりの古典怪談のお決まり詰め込みセット。
  • 結局〝サンディ〟は何だったのかよく分からないままでいい。語り手の幻覚と幻聴だったのかもしれない。彼は大抵、語り手の望む通り、都合の良いことしかしていないし、この語り手はそんなに精神が強いわけでもないらしいから。彼の「話」や声を聞けるようになるのがいつも視覚情報の更新に遅れており、頂上で突然口を利いてからは高度に影響を受ける様子もない辺り特に。彼のジェスチャーや仕草のいくつかは語り手の弟がしていたものだろう。語り手の受ける疲労や負荷と幻覚強度が比例すると見れば凡そ説明はつくが、それなら置いてきたはずのカメラは一体。
  • 終始胡乱で曖昧なので、占い師の話も当たっているんだかいないんだか。まあ3割当たるととんでもない手腕というし、これが遺稿なあたりテンプレとしてはお察し。
  • 語り手はアメリカ人を想定。マロリー・アーヴィンの血筋ではない、が両家の家族や子孫は結構アメリカに渡っている。
  • 名前の縁が深いだけで、語り手はマロリーと全く似ていない。弟の方は偶然、同名の彼と似た性格要素があったようだ。
  • 前半でやたら金髪や白い肌について言及しているのは、迷信に振り回されるところのある語り手が無意識に「ついてくる死体」というどう考えても厄なものを「絵画の天使のような色彩」という幸運なものに置き換えようとしていたため。お迎え的な発想はなかったご様子。
  • カルマ・ダワは月の業というか業の月というか、そんな感じの名前。一等星軸とは全然別の設定の話だが、本筋関係ない類似要素くらいはいいかなと。
  • 死体・屍体・遺体・サンディは割と意図的に使い分けて推移している。
  • エヴェレスト山行でついてくる死体の話は長らくふわっとしたネタだけあったので発散してすっきりした。可愛い屍体が好き。

 

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