CampⅦ

1920s Mt.Everest Expedition

Phantom Ridge 1933

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 1933年、フランク・スマイスが経験した奇怪な出来事に題材を取った短篇のバックアップ。

 クトゥルフ神話絡みのストーリーの背景でもあるけど、足のある幽霊程度に流せばいい話。縦書き明朝体とはだいぶ間が変わるので困ってしまったけど残しておこう。

 

【phantom】

①幽霊の、幻影の、幻の、妄想の

②見せかけの、(ふざけて)正体不明の

語根 [pha-]:輝くことを表す。また、(合図の)のろしなどの意。

 

 

 誰にも語っていなかった思い出話がひとつある。

 1933年6月1日、私が空に最も近い場所で経験した不思議な出来事については、報告書にも後の自著にも書いた。あのエピソードについては十分語ったという体裁を取ることにしていたが、思うところあって一度だけ書き残しておくことにする。

 ほんの数時間のことだが、忘れ得ない邂逅の話である。

 

   ///

 

 あの日私は、体調を悪化させ登高を断念したエリックと別れ、ひとりで頂上を目指していた。

 彼と別れたのはファーストステップに程近い地点で、この壁を登攀せず下部の斜面をトラバースするのが私たちの計画だった。予定外の状況下で予定通りのルートを辿り、岩に座り込んだエリックの姿が見えなくなってすぐのことである。

 澄んだ空気のおかげで、雲さえ晴れれば遥か下方に点のように佇むロンブク僧院が頂上付近からでも見てとれる。気が遠くなるような光景を見下ろした私の目は、もっと手前のあるものに強く引きつけられたのだ。

 はじめは雪とガレの塊かとも思ったが、それにしては妙に気にかかったのである。何か霊感のようなものが働いたと言っても良い。そうでなければ酸素不足で麻痺した脳が、運命的な寄り道へと脚を突き動かしたのだろう。

 頂上を目指すのならば致命的と言える寄り道だった。それは鈍った頭でも分かっていたのだが、切れ落ちた急な斜面をゆっくり下って行くにつれ、私の胸は高度と運動のせいでなく激しく高鳴った。

 近づいていくと、それが人の姿をしていることが明らかになったのである。標高27000フィート、神の視座を垣間見る世界にて永遠の眠りにつける人。この世にただ2人しか有り得なかった。

 どちらだ、あなたは――

 高揚の中必死に己を抑え、一歩一歩慎重に下る私が凍礫を踏む自分以外の足音を聞いたのは、まさにこの瞬間だった。

 はっとして目を上げると、ぶつかる眼差しがあった。音の出所は落石だと考えるべきだったのだろうが、何故だろう、私はそこに確かに人がいると思い面を上げたのだった。

 彼は背が高く、肩幅の広い立派な体躯の男だった。しかしその服は何年間も吹雪に殴られ、乾燥に苛まれ、日光に焼かれ、風に切られ、更に何度となく滑落を繰り返したかのように、ひどくぼろぼろでみすぼらしかった。テント地で継ぎをしたジャケットの袖は今にも肩口から千切れそうで、ボタンなどはとうに取れてしまっていた。代わりに一番上のホールにザイルの切れ端を結わえ前を留めており、裾を女神の荒々しい息吹に激しくたなびかせていた。

 頭には擦り切れた中折れ帽を目深に被り、寒さを防ぐというよりは口元を隠すように色褪せたマフラーをぐるぐると巻きつけていた。そしてその隙間から、驚くほどよく光るロイヤルブルーの瞳が私を見つめていたのだ。

 こんな有様なので彼の表情は窺えなかったが、恐らく驚いていたのだろう。全くこんなところで人間、いや生き物に出会うなどとは思いもよらなかったといった様子だった。後に推測したことが凡そ当たっているならそれも当然のことだし、そうでなければ彼はもっと慎重に行動していたはずである。

 この邂逅が全く思いがけなかったのは私も同じことで、我々は暫し遺体を挟み無言で見つめ合った。自然の中で思いがけない出会いに気がつくのが遅れた時、事が悲劇に転げていくケースが多いことなど今更言うまでもあるまい。彼の剥き出しの右手は、見えないアイスアックスを探して泳いでいるようだった。

「幻覚でも見ているのかな」と私は言った。すると彼はちょっと間をおいて、きっとそうですねと小さな掠れ声で言った。ただその一言を紡ぐのにたいそう喉につっかえる様子だったのが、何とも寂しい様に感じられたのを覚えている。

「この方はジョージ・マロリーでしょう」

「ええ」

「あなたは……彼を守って?」

「さて、どうでしょう」

 彼は私の処遇を決めかねているようだったが、不思議と恐怖感はなかった。

 私は座り込み、頂上へ手を伸ばすように伏せている英雄を暫し見つめた。私は彼の偉業に憧れ、死の上で薄氷を渡るようなこの世界までやって来たのだ。九年間! 雪と氷の中に覗く彼のうなじは真っ白で、張り詰めた空気を纏ったままの男の手と同じ色をしていた。死してなお、畏敬の念を抱くに十分すぎる姿だった。

「このことは公表しない方がいいでしょうか」

「僕はかくあれと望みます」

「ではその通りにしましょう」

 そう言うと、彼はほっとしたように緊張の糸を緩めた。

 

 ロンブク氷河へと切れ落ちた斜面で、偉大な先人たちとけぶるヒマラヤの山並みを見つめるなどとは思いもよらないことだった。本当は一刻の猶予も無いのだが、あまりに思いがけない出来事に呆然としていると、彼は好奇心に負けた鹿のように、そろそろと傍へ寄ってきた。

 かつて大きな滑落を経験した際、私は自身の一部が抜け出して傍に在るような感覚を覚えたものだった。あの時の不思議な感覚と、今傍に立つ彼の気配とはどこか似たものにも思えたが、どうしてもこれが夢幻の類とは思われなかった。

「あなたは一体?」

「言ったでしょう、幻覚だって。ただの幽霊ですよ、エヴェレストの亡霊。そういうあなたは?」

「ただの登山家と答えるべきかもしれませんが。私はフランク、フランシス・スマイスといいます」

「スマイス? スマイス……どこかで……」

 明瞭に語り、世間ずれしていない素直な青年は、やはり私の脳から生まれた幻とは思われなかった。自然と微笑みながら私は言った。

「一九二四年の遠征隊員候補に挙がっていました。結局サマヴェルに選ばれたのは、当時実績のないまだ23の若者だった私でなくビーサムでしたがね」

「ああ!」

 声を上げ、彼はしまったという風に咳払いした。滅多に動揺しない人物と聞いていたが、決して短いとは言えない年月の間にポーカーフェイスは崩れやすくなったのかもしれない。隠す相手がいないのでは仕方のないことと思えた。

 私は何も聞かなかったふりをしてようやく立ち上がり、偉大なるマロリーに十字を切ると斜面を登り始めた。後ろから彼がついてくる気配を感じながらゆっくりと、薄い酸素に息を切らしながら定めたルートを登っていく。彼は何も話さなかったが、それは息を上げながら難所を踏破せんとする私の邪魔をするまいといった風な優しげな沈黙で、私はちっとも淋しさを感じなかった。非常に友好的な気配が傍にいるということは、時に熱い飲み物よりも心を癒し、足を動かしてくれることがある。

 やがて大層滑りやすいスラブへ辿り着くと、私はザイルの片方を自分の腰に結わえてもう一方を差し出し、ぱらぱらと石片を落とす一枚岩を鋲靴で軽く蹴った。

「お願いがあります。このスラブは骨が折れそうだ、立派な登山家が支えてくれると本当に心強いのですが」

 手放したザイルは地に落ちることなく、確かに結ばれた。

 

 細かに足場を切りながらスラブを横切る途中で休憩を求めると、彼は気の毒そうな声で何か食べるべきだと言った。食べ物のことを考えるだけでぞっとするほどだが、実際その通りだったのである。冷え切った手でポケットの中を漁れば、砂糖菓子の包みがあった。

「ケンダル・ミントケーキはお好きですか」

 私は取り出したミントケーキを半分に割り、支えてくれている彼へ振り向き差し出した。

「ありがとう、懐かしいな。でも僕には必要のないものですから、あなたが召し上がるべきでしょう」

「遭難しなければ十分以上にあるんです。あなたと一緒ならその心配はなさそうだ、となれば荷物を軽くするのを助けると思ってください。それに、私にできるお礼といってこれしか無いのですから」

「そこまでおっしゃるのなら、ひと口だけ頂きましょう」

 手袋などとうの昔に駄目になってしまったのだろう、彼は私が差し出したミントケーキを、同じ色の手で小さく割って取った。

 雪を固めて足場を作ると、私は立ったまま甘いケーキを齧った。彼もザイルを短く巻き、口元を覆うマフラーに指を掛けた。

「幽霊の顔なんか見たところで、いいことなんてありませんよ」

 好奇心を隠さずじっと見ている私に呆れた様子だったが、この警告は無視することにした。

「いや、この白々しいやり取りをいつまでしたものかと」

「幻覚に食糧を分けるなんていうのは不毛ですねえ」

 苦笑いしたらしい。視線をローツェへと移した彼がマフラーを顎まで下ろすと、左の頬に歯が剥き出しになるほどの無残な傷を負っているのにぎょっとした。しかし当人は痛がる様子もなく、真っ白なミントケーキの欠片をぽんと口へ放り込むとまた無造作にマフラーを引き上げた。ほんの束の間その横顔を見たに過ぎなかったが、到底生きた人間とは思えないものの、まさしく知っているあの顔に違いなかった。ただ彼の瞳が故郷の空より此処の宙に近い色だったのが、自分でも不思議なほどに意外ではあった。

 別段美味そうにするでもなく薄荷糖を飲み込んだ彼は、風に消え入りそうな声でぽつりと問うた。

「ジョージとサンディの後、皆は無事に帰りましたか」

「ええ。立派なケルンを建てて……それにイギリスでは、二人のために国葬が執り行われました」

 彼はちょっと皮肉げな笑いを零した。それは思わず、他の誰かがこの場にいるのではないかと辺りに視線を走らせてしまったほど、彼よりマロリーに似合うものだったのは不思議な話だ。

「神にかけて本当ですよ、からかっているんじゃありません。前代未聞だ、登山家の葬儀に国王陛下まで参列して……最初で最後のことかもしれませんね」

 彼は答えなかった。私の話をどう受け止めたら良いものか戸惑っているようでもあったし、ただ興味が無いだけにも見えた。

「私も、どうしても教えてほしいことがあります」

 口を噤んだ彼に代わり、私は尋ねた。

「ジョージ・マロリーとサンディ・アーヴィンは、あの頂を踏みましたか」

 彼はこの問いに、哀れなほど肩を揺らして目を見開いた。

 そして痛みを受け止めるような長い、長い沈黙の後に、ようやく重々しく頷いた。

「でも証拠は持っていません。ジョージも、サンディも」

「2人とも? カメラのことでしょう、落としたのですか」

「いえ、そういうわけでは。とにかく、彼らの遺体を見つけて調べたところで証拠は出ませんから……多分、今イギリスで語られていることと結論が変わることは無いでしょう」

 私は彼の言葉を噛みしめた。彼らにとってはあまりにも当たり前の解で、下界では何年も取沙汰されてきた問題。これからも登山史に残り続けると宣言された最大の謎。

 半ば麻痺した脳がゆっくりと彼らの成果を受け入れると、やがて私の物語の顛末が決まっていくのを感じた。

「いずれにせよ、私はもう知ってしまったわけだ。ここで仮に頂へ辿り着いても、それはセカンド・アッシェントだと」

「でも、24年の登頂の証拠はないから……」

「それはそれです。私は彼らの偉業に敬意を払うし、あなたの証言も信じます。これで迷いも晴れた」

 私は背に積もった雪を払った。南西を見上げれば、雪に霞む黄色いピラミッドが屹然と佇んでいた。地上に残された最後の果て、星に最も近い場所。手を伸ばせば届きそうなほど、その頂点は間近にあるかのように聞こえるだろうか。しかし、エヴェレストにおける最後の1000フィートは生の血肉を備えた身体のために在るものではない。呼吸が不要で低温が問題にならない幽霊であれば、或いは――そんな考えさえ浮かぶ世界だ。首が痛くなるほど見上げねばならぬ距離にあるゴールは、絶望的なまでに遠い。

 それでも驚嘆すべきかな、彼らはあの頂を制覇したのだという。憧れた九年前の偉業は、人知れず遂げられていた。私の心は、少なくともその瞬間、これ以上なく満たされていた。

 高度計は、此処がハリスとワーガーが到達したのとほぼ同じ標高二八一二〇フィート地点であることを示している。私はじっと見上げてくる彼を見つめ返した。今しかない、と思った。

「私はここで撤退するよ。これ以上進んだら、生きて帰ることは出来ないだろう。……あなたはどうする? ザイルを引くのが役割だったりするのかな」

「まさか!」

 ごうと吹きつける風の中で打つ声は悲鳴のようで、満足感と薄い酸素に酔った頭が一瞬で冷えた。

 私が謝るより先に、彼は取り乱したのを恥じるように目を逸らすと、ザイルの結び目に指を掛けた。

「……失礼。ご安心を、僕がザイルを引くとしたら、あなたが滑落した時です。でも疑うのなら、アンザイレンすべきではないでしょう」

「いえ、いえ、本当に申し訳ない」私は慌てて言った。「惨いことを言いました。もしよければ、どうか最後まで一緒に来てくれると嬉しいのですが……あなたとこの山をやるのは、本当に気持ちがいいんです」

 まったく馬鹿なことを口走ったものだった。彼が足のない幽霊や幻だなんて有り得ないと、分かりきっていたのに。

 しかし彼は穏やかに頷くと、ザイルを握り直してくれた。

 私は最後にもう一度だけ頂点を振り仰いだ。己が足であそこに立てなかったつらさは身にしみるものだったが、これ以上進まなくて良いという安堵は悔しさと執着をも凌駕した。それでも尚進み続け、世界の最果てへ到達した彼らの身に一体何が起こったのだろうか。頂上にはその答えがあるかもしれず、彼に訊けば教えてくれたかもしれないが、敢えて問いはしなかった。

 彼もそれ以上の登高を促すことは無く、却って早く下りた方がいいと吹き上がりつつある雲海を指し示した。この優しく頼もしい仲間が、ここまで登る挑戦者を支えてくれたように下りる撤退者にもついて来てくれたおかげで、私はずっと見守られているような安心感と、エリックと組んでいる時のようにしっくりと馴染むアンザイレンでもって降下できたのだ。敗北の話である上に怪談じみていると思われるだろうが、なんとも不思議で素晴らしいファイナル・アタックだった。

 実に順調な降下だったが、ひとつだけ付け加えることがある。これも各所に書いたが、私が見た2つの不可思議な飛行物体のことだ。

 この宙に浮く繋留気球のような暗いオブジェクトを認めたのは、岩の出っ張りがかなり広くなっているところだった。頻繁に立ち止まり、休んでいる内にふとその存在が目に留まったのだが、私が休む度それを見つめていることに気がついた彼が、背後からひどくこわばった声で叫ぶのだった――視るな、と。

 この物体はほんの2、3秒のあいだ霧が視界を遮る間に忽然と消え失せてしまったが、アンザイレンしている彼の存在と違ってなんとも薄気味悪いものだったことを添えておく。

 やがて羽根のように長く尾を引きながら渦巻く雲が近づく中、私は彼に訊いてみた。

「念のためにお尋ねしますが、一緒に来るつもりはありませんか」

「ええ、お見送りはしますがね。僕にはまだ、此処でやらねばならないことがありますから」

「やらねばならないこと?」

「はい。でもこれは本当に秘密です」

 この謎めいた返答の真意は、10年経った今でも分からないままである。

 やがて私がそろそろキャンプがあるはずだと辺りを見回すようになった頃、彼は不意に足を止めると、今度こそザイルの結び目を解き始めた。

「それでは、僕はここで。あとはもう大丈夫でしょう、あなたが本当にそのザイルを結ぶべき相手は、あそこにちゃんといるのですから」

 彼が指した先に、見間違いようのない私たちの最終キャンプがあった。ちっぽけなテントだが、見慣れた岩角に嵌まり込むように張られたそれがどれほどの安心感をもたらしたことだろう。見れば雪面には点々と足跡が残っており、そのまま辿っていけばあそこでエリックが待っているはずだった。

「やあキャンプⅥだ、随分懐かしく感じるな! どうもありがとう。それと……」

 私はザイルの先を辿った。神の座を背に、静かに佇むエヴェレストの亡霊。彼を此処に置いて行かねばならないことを認め、私はこの日初めて淋しさを感じた。

「あの年、君と一緒に登りたかったよ、サンディ・アーヴィン。きっと良い友人になれたと思うんだ。何といっても私たちは歳が近かったし、機械が得意だからね」

 彼はぼろぼろの中折れ帽を少し持ち上げると、砂色の前髪の下で、こればかりは生きているとしか思えない目を嬉しげに細めた。

「それは光栄だ。僕も思うよ、君がいたらきっともっと楽しかっただろうし、あのとんだ酸素装置にもあそこまで手を焼かされなかったかもってね」

「ああ、残念なことだ。……そしてありがとう、私は頂を踏めなかったけど、まさかこうして君とこの山を登れるだなんて思いもよらなかった。死んだはずの素晴らしい先輩とアンザイレンし、ミントケーキを分け合うなんて、私にとっては登頂に勝るとも劣らぬ歓びだ。随分苦しい時間だったけど、本当に楽しかったよ」

 冷え切り固まった手を差し出すと、サンディは更に冷たい手で強く握り返してくれた。

 やがて彼は名残惜しそうに指をほどくと、代わりに綺麗に巻いたザイルを握らせ、励ますように私の肩を叩き、そっとキャンプの方へ押した。

「こちらこそ礼を言うよ、楽しい気分になったのは久しぶりのことなんだ。あそこへ訪れてきたのが君でよかったよ、フランク、どうか無事に帰りたまえ。ノースコルを下りるまでは振り返っちゃいけないぜ。……それじゃあ、さようなら」

 手を振る彼と別れ、私は敗北したにも拘わらず大きな歓びと安堵を抱いてキャンプⅥへ駆け込んだ。

 相談の結果、すっかり疲弊していた私はⅥで夜を明かし、休養を取っていくらか回復していたエリックはⅤまで下りることに決めた。キャンプⅥは、二人で快適に夜を明かすには手狭すぎたのである。

 一時間後、降下する彼を見送ろうとテントを這い出した時、寂しい手に幻のザイルを引かれた気がした。

「どうした、フランク」

 怪訝な顔で振り向いたエリックは、私の背後に何がいるとも言わなかった。

「いいや……何でもないさ」

 だからといって振り返りはしなかった。サンディは、自分がザイルを引くのは私が滑落した時だけと言ったのだから。私が二人の道を最期まで辿るのは、彼の望むところでもないだろう。

 

   ///

 

 これで私の話はおしまいだ。

 もしも、この書付をアルパイン・クラブの本棚から見つけてくれたのなら。そして、あの未踏峰の頂を目指す機会が巡ってきたら。かの英雄が眠る、不香の花ばかりが添えられた星仰ぐ斜面へ辿り着いたら。きっと永遠に若いままの墓守に出会ったとしたら。

 どうか彼への言伝を預かってくれないだろうか。仲間が君のアイスアックスを拾ってきてしまったと伝え忘れていたことを、スマイスが気にかけていたと。私たちの持ち帰った聖遺物のために、あの寂しい友がその目的を達成しかねて女神の掌上を彷徨い続ける羽目になっていなければ良いのだが! 持ち主のことこそ胸中にあれど、その所有物のことを思い出した時には、死の領域にいる彼に伝えるにも、返すにも、代わりを渡すにも遅すぎたのだ。きっと要らぬ苦労をかけてしまったことだろう。思えば私より遥かに元気そうで親切な彼がずっと後ろをついてきたのは、技術の差というよりも、足場を切るアックスが無かったからに違いないのである。そしてアックスなしであのスラブやガリーを歩けるという、まったく人に可能なこととは思われないほどの技を見せられていたのだと、後から気がついて驚かされたものだ。たとえ九年のあいだ彼の地を歩き回ったとて、足のある者に可能とは俄かに信じがたい。それでもマロリーならばあるいは、と思うのは買い被りすぎだろうか。私は時々、確かに静かな眠りについているのを見たはずのあの人と一緒に歩いていたような気もするのである。

 あれから十年が経ったが、彼は仲間と共に静かな眠りを得られただろうか。あの数時間は今なお私の素晴らしい思い出の一つだが、エヴェレストの亡霊には出会わない方が、結局は互いのためにも幸せなのだろう。それでも彼と出会ったとしたら、どうか恐れず、穏やかに話してあげてほしい。いつも人に囲まれていた陽気な若者は、きっとあの不毛の地で孤独な旅を続けているのだから。

 そして、もしも可能ならば、どうかあの彷徨える亡霊を助けてほしい。私には出来なかったことだ――時代も許さなかった。あれ以上踏み込んでいたなら、間違いなく彼を巻き込む間もなく私ひとり駄目になっていただろう。しかし彼の成さねばならないことが、天の父が与えたもう人の乗り越え得るものでなく、地の神が与えし独りでは成しえない業だったとしたら、彼はきっと星の果てで狂気の海に溺れてしまう。

 散々悩んだ挙句、眠れるマロリーについては、知らせるのが相応しいと思われたある人にだけぼかしたことを伝えることにした。とはいえ公表しないと約束した手前、それ以上広めるつもりもなく、この話も墓まで持って行こうと思っていた。しかし三年後に再びあの山を訪れても彼と再会することはかなわず、受けた恩の礼がケンダル・ミントケーキひと口だけというのはあんまりではないだろうか? だから更に七年悩んだ挙句、少しずるいかもしれないが、こうしてこっそり告白することにした。あの出来事を幻だと切り捨てるのは、それこそ失礼千万な所業だろう。

 どうかこの祈りよ、いつかの登り手よ、白い羽根引く西風より強く強く、彼の助けとなりますように。

 

 (一九四三年六月某日)

 

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執筆中のメモ、瞳の色の設定が古い。

それと最初手元で確認したものがF.K.Smytheと誤植していたのをそのまま写して直し忘れている…。

フランシス・シドニー・スマイス(フランク)

1900/7/6~1949/6/27

 

 イギリスの登山家、作家、写真家、植物学者。ヒマラヤ及びアルプスの登山でよく知られており、沢山の優れた著書を遺した。シッキムの「花の谷」発見者でもある。

 1924年の第三次遠征隊員候補に挙がっていたが、メンバー選抜の任を託されたサマヴェルが選んだのは、まだこれという実績のなかった若きスマイスではなく、高く評価していた友人ビーサムだった。

 マロリーの偉業に影響されたスマイスは、1933年の第四次遠征隊に参加する。この遠征隊も頂上へ到達することは出来なかったが、ファーストステップの下に落ちていた、あるいは残置されていたアーヴィンのアイスアックスを持ち帰り、二四年隊が使用したキャンプⅥの残骸も発見した。

 頂上アタックに際し、体調が悪化した相棒エリック・シプトンと別れひとり先へ進んだスマイスは、無酸素で28120フィートまで到達する。彼はこの登高の最中、もう一人の誰かが自分と一緒におり、傍に立って見守ってくれている感覚を覚えていた。この存在は強く友好的であり、それと同行することで淋しい思いをせず、気分を害されることも全くなかったという。彼はミントケーキを二つに割り、片方をこの「仲間」に差し出そうと振り返りもした。

 また彼は下降の最中、24年のキャンプⅥと北東の稜線とのほぼ中間あたりに、繋留気球に似た二つの暗い物体を見たという。一つはずんぐりとして下に翼のようなものがついており、もう一つは茶瓶のような嘴じみた突起がついていた。これらはまるで生きているかのように膨れたり萎んだりし、明らかに脈を打っていた。やがてこれらは霧の中に霞んでいき、2、3秒の間たちこめた霧が晴れ渡るともはや見当たらなかった。彼はこの物体と現象についていくつかの推測を立ててはいるが、いずれにせよ「まことに不思議な気味の悪い体験」と結んでいる。

 スマイスは1935年、個人で違法に登山隊を編成してエヴェレストへ登る計画を立て問題になった(この年も英国が偵察遠征を行っているがそれとは別)。一体何が彼をそこまで駆り立てたのか。その後1936年の遠征にも参加、彼が24年隊隊長ノートンへ宛てた手紙でマロリーの遺体を見つけたことを示唆したのはこちらの遠征に際してのことである。しかし公にしてメディアをわかせ、彼の眠りを騒がせることは望まなかった。九九年調査隊がマロリーの遺体を「発見」し、その写真が世界中のメディアにばら撒かれた結果どうなったかは現状の通りである。スマイスがこの手紙で記したのは、ベースキャンプから北壁を見ると身体のようなものが見えるということだった。36年隊は悪天候もあって酷い失敗に終わり、ノースコルより上へ登ることは出来なかった。

 登山を続けたスマイスは1949年、マラリアで亡くなる。49歳の誕生日を迎える2週間前のことだった。

 

   ///

 

 以下長編絡みの話、ここも元のファイルからコピペ。

 マロリーに憧れ、エヴェレストで不思議な経験をし、後にかの人の遺体を発見したとも密かに語っていたスマイス。彼が24年隊候補に挙がっており、参加していれば平均15歳上の仲間に囲まれていたアーヴィンと歳の近い仲間だったのはイフが見たくなる。そんな動機の話。

 CoCネタの話としては、スマイスは「真相へ辿り着くことは出来なかったが、きちんと死線を見極めて撤退判断、生還できた探索者」になる。

 白銀の一等星でサンディが助けを求めたのは、技術進歩によりエヴェレストの登頂難易度が下がっている・登山者が飛躍的に増えたため紛れて行動できるようになった・自分の正気がもう長くもたないのを感じ単独での解決が無理だと判断したからなので、33年時点ではまだ他人に助けを求める気はさらさら無い。スマイスに手を貸したのは、何かしらのアクシデントがあって彼が相棒なしに単独登攀しているものと判断した、24年に一緒に登っていたかもしれない相手への興味、マロリーを挟んでの対話で得た人柄への一定の信用、人恋しさあたりが理由。まさか登山者がいるとは思わなかったため、ミ=ゴが拠点にしている南西壁とは反対の北東稜での行動では警戒が緩んでいた。

 アックスは残置している間にハリスたちが持って行ってしまい、風に飛ばされたかと考えスノーテラスまで探しに行くも見つからず、諦めて稜線へ戻りがてらマロリーに会いに来たところでスマイスと遭遇したという経緯。全く思いがけず9年ぶりに見る生きた人間がいた驚愕は推して知るべし。アックスについてはこの話の後キャンプ残骸の中から自前で代用品を作るので、実はそんなに困っていない。

 今回は一等星と同じ世界線の話にしたので、彼がアンザイレンしていた「仲間」をサンディ、「2つの暗い物体」をミ=ゴの宇宙船という設定で書いた。

 もう一つ史実から大幅に変えた点として、スマイスが33年にマロリーの遺体を見つけたことにしている。理由は3つあり、1つはフィクションとして話をまとめる意図から。そして2つ目、99年隊の行動について言及するにはまだ考えが浅いが、メディアが騒ぐことを懸念したスマイスの配慮は個人的に好ましく感じている。それもあり、マロリーの偉業に憧れて二四年隊の道を辿ったスマイスがマロリーに直接会っていたという設定のフィクションが見てみたかったから。これに伴って3つ目の理由、36年隊がノースコル(7000メートル)より上へ登れておらず、マロリーが眠るスノーテラス(8200メートル)へ訪れようがないから。

 

 最後に補足。

「あなたはどうする? ザイルを(滑落させるため下へ)引くのが役割だったりするのかな」「ご安心を、僕がザイルを引くとしたら、あなたが滑落した時(に引き留め、引き上げるため)です」

「ノースコルを下りるまでは振り返っちゃいけないぜ」「寂しい手に幻のザイルを引かれた気がした」「振り返りはしなかった。サンディは、自分がザイルを引くのは私が滑落した時だけと言ったのだから。(振り返ることで原因と結果が逆転する形で滑落し、)私が二人の道を最期まで辿るのは、彼の望むところでもないだろう」

 一等星の設定では(それがマロリーの致命傷になったわけではないが)サンディが滑落してマロリーを一緒に引きずり落としてしまったので、「ザイルを引いて相棒を落とす」はNPCサンディの地雷。名前のない亡霊の像としてはザイルを引いて滑落・遭難させてくるのが怪談らしいテンプレートなので、探索者スマイスはあくまでゴーストストーリーの流れとして口にしただけ。低酸素と疲労で判断力が落ちていなければ、軽口だとしても言わなかっただろう。話の演出のために言わせてしまったけれど、申し訳ないので念のため。

 一等星軸にはならないけど、マロリーの亡霊と登る話も読みたい。明らかに物語の余地が多い人。

 

■参考資料

・F. S. スマイス『キャンプ・シックス』明文堂、1959

・W. デイヴィス『沈黙の山嶺 下』白水社、2015

・H. Ruttledge (1933) "THE MOUNT EVEREST EXPEDITION, 1933." Alpine Journal, 45, pp.216-231

https://www.alpinejournal.org.uk/Contents/Contents_1933.html

https://www.alpinejournal.org.uk/Contents/Contents_1933_files/AJ45%201933%20216-231%20Ruttledge%20Everest%201933.pdf#search='1933+mount+everest+expedition'

・Lifelong secret of Everest pioneer: I discovered Mallory's body in 1936

https://www.theguardian.com/world/2013/nov/23/mallory-body-everest-secret-frank-smythe (最終閲覧2019/06/29)