Blood and Sand, Our Beloved Blue Paths!
サミットデー100周年記念にもう一本、 EverRest 収録作 Blood and Sand, Our Beloved Blue Paths! の再録です。
1924年遠征中の、関連書では滅多にフォーカスされない、語り残されもしないような、何気ないシーンのスケッチ集みたいなイメージの掌編集です。
マロリーとアーヴィンの関係については、少なくとも10年ほど前までの文献だとポジティブなものが全面に押し出されていることが多いと思います。でも最初から信頼関係を築いているのではなく、ちょっと腹の探り合いをしてみたり、釘を刺してみたり、駆け引きしてみたり……ということを積み上げた上で命を預け合う覚悟を決めるような関係が出来てもいいんじゃないかな~と思いつつ仕上げていた話でもあります。
微修正していますがほぼ同人誌(PDF版)そのままです。PDF版も、参加予定の冬ティアまでにはもう一度修正を入れる予定です。
嗚呼、我らが愛しき青の旅路よ!
- Burnt Our Bridges
- Swap Horses in Midstream
- Roll Pl/ray
- True Love is Like Ghosts
- The Ladies of the Mountain King
- The Day You Made Me a Hero
- The Ghostlier Wanderers
Burnt Our Bridges
1924年3月13日
彼に出会ったとき、まじりけのないあたたかな気持ちでその手を握ったと言ったら嘘になってしまう。あの山へ挑むのに5,600フィートまでしか登ったことのない初心者なんて、というのが会う前の感想。少なくとも膂力は期待できそうだ、というのが第一印象で、ひどく口下手な青年らしい、というのが第二の印象だった。
遠征の始まりを共にする3人は、いずれも初めて会う顔ぶれだった。経験豊富な登山家ベントリー・ビーサムとジョン・ド・ヴァース・ハザード、そして登山家としては誰も知るべくもない大学生、アンドルー・カミン・アーヴィン。人となりの印象が悪い者がいなかったのは事実だ。
はじめからどうにもこの遠征には気乗りしなかった。最終的に署名したのは僕自身だが、なんといってもフィンチが除外されたのが一等気に入らない。初登頂を懸けた命懸けの登攀に、最善の相棒を選びたいのは当然のことだ。そこで最も勝ちの目が濃く思われるカードを理不尽に取り上げられたら、誰だって面白くあるまい。
それでも若手隊員が入ってきたのは良いことだと信じたい。過去2回の遠征では隊員の年齢層の高さが問題になっていたし、最初の遠征で若手登攀員として呼ばれた僕も体力のピークは過ぎている。ありがたきかな、ドイツ様様だ。そこへフィンチ同様科学に強く、しっかりした体格を備えた21歳のスポーツマンが来てくれたのは有難い。彼がアルプスの経験を積んでいたらよかったのだけれど。
アーヴィンは挨拶こそ礼儀正しくしてくれたが、その後の記念ディナーでは終始静かにしていて、話しかけてもはにかみながらぎこちない受け答えをするばかりだった。ディナーの終わりにメニューの表紙へサインを求められた時、彼の書いたあまりにも控えめな筆跡を見れば、食事中の様子も大方想像がつくことだろう。最後に用紙を受け取った彼は、僕のサインの下に小さく自分の名前を書いたが、それはエヴェレストの絵に重なって殆ど見えなくなっていた。心配になるくらい口数が少なく、随分険しい顔をしながら食事を咀嚼していたが、これは元々の顔つきだと冗談半分に抗議されたのは今週のことだ。笑うととても明るく人懐っこい印象を受けるし、これから付き合うのも大方こちらの姿だろう。
この一週間で、僕たちは随分打ち解けたことだと思う。友達作りは苦手ではないが、彼自身人見知りが酷いだけで人好きな性質に違いない。芸術や文学にはさっぱり無関心なようだが、スポーツ、化学、冒険、そして機械については実によく心得ていて、彼の仕事について望めばいくらでも語ってくれそうだった。部屋こそ別だったが、食事を共にする中で彼の表情も少しずつ柔らかくなり、冗談も言ってくれるようになったのは喜ばしい。
冬のイギリスを発った船はジブラルタルを横目にイベリア半島を回り込み、スエズを越えてインドへ針路をとる今、南洋のぬめるような熱に茹だっていた。自然、狭い船室に籠るには向かない日も多くなる。ヒンドゥスタニー語の勉強を進めていた今日もちょうどそんな具合で、午後に入りとうとう耐えかねて部屋を出たところでアーヴィンと鉢合わせ、風通しのいいレストランの隅でお茶をすることになった。
僕はお茶とアイスクリームを、体育館を使ってきたのだという彼は加えてサンドウィッチを頼み、いつものように色々と雑談している中で、インドで合流する予定の面々について尋ねられた。僕はよく知る顔触れだが、内気な彼にとってはある意味ナイフリッジより緊張する問題かもしれない。この遠征隊の構成員は、隊長ブルース将軍や副隊長ノートンをはじめとして軍OBの繋がりが濃い。気持ちよく頼もしい面子だし、かく言う僕も先の大戦では従軍していたわけだが、まだ若すぎて招集されなかったアーヴィンにとっては些か取りつきにくく感じるだろうか。彼らについてのことをきっかけに、話は軍と戦争のことに流れていた。
「もう帰れないかもしれない。相手こそ違えども、戦争に行くような心持ちだよ」
「案外悲観的なんですね」
紫煙をくゆらせながら吐いた言葉に、アーヴィンは意外そうに目を丸くした。別段そんなことを言ったつもりはないし、僕は僕を底抜けの陽気者だとも思っていないのだが、彼にとっては思いがけない発言だったらしい。
「きみが分かっていてくれることを祈るが、アーヴィン、これは命を落とす可能性のある闘いだ。戦場では死を計算することはできないし、この遠征で出来るかというなら、俺は甚だ疑問だね。きみのような若者が加わってくれたのは嬉しいけれど、実のところこれが人として正しい判断だったのかという疑念はあるよ」
青年は礼儀正しく微笑んだ。
「たしかに学生の身分ですが、僕だって大人ですよ。リスクも承知でここにいます」
「分かっているとも。でもきみは従軍していないだろう。馬鹿にしているわけじゃないさ、ただ……想像だけで理解するのは難しいと思う」
「ん、そうですね」
真面目な顔になって、アーヴィンは猫背を直した。
「遺言も書いたし、もう帰れないかもしれないと分かっているつもりです。でもあなたから見たら、全然覚悟できていないように思えるのも仕方のないことでしょう。僕がこれまでの遠征にも、先の戦線にも出ていなかったのは事実ですから」
白いカーテンが花柄を透かした影を揺らし、単調なさざなみがまどろみを誘う、嘘のように明るい午後だった。アイスクリームはとうに甘ったるいだけの生ぬるい液体になって、硝子の星で波と同調していた。視界の端で光る空と海はまた、僕の向き合う色でもあった。紅茶をひと口飲むほどの間があり、少し重い声が続いた。
「でも、従兄が戦場で命を落としました。3つ上の兄もガスを浴びて酷い火傷を負い、生きて帰ってきてくれましたが後遺症が残りました。たしかに僕自身は戦場に出る機会がなかったけれど、機銃とプロペラの改良案くらいは出しているんですよ……それが何人かのパイロットを救い、メッサーシュミットを落としたのかも。僕自身が血を流していないと言われればそれまでですが、戦争や死を実感する機会がなかったわけではありません」
頷きながらも、やはりずれるものだなと思った。時に現実と想像の乖離は埋めようがない。
この子は戦争を知っているのだろうが、戦場を知らない。あの山を知らない。昨日まで一緒に笑いあっていた仲間が突然物言わぬ肉塊になってしまう呆気なさ、ほんの数分前まですぐそばにいた者が消えて二度と現れない奇妙な空白を経験していない。負傷、病、腐りゆく四肢に苦しむ姿を見る方が、既に静かに横たわるばかりの骸を見るより遥かにつらいということ。腐る前の死体には慣れてしまうということ。そして悲嘆を覚えながらも、我々は不思議な淡白さでその先へ進めてしまうということを。
ソンムの戦いには居合わせたものの、最も激しい場所にいたとは言えなかった僕でさえ、戦場に根を張るそれらを経験している。物珍しい土地の美しさに目を配り、野営や進軍を思いの外気に入り、はっとするほど美しい者から厭な者まで様々な人に出会い、軍隊生活をそれなりに楽しみ、泥にまみれる日々の中、ふと鈍感や怠惰といった悪徳が己の内に入り込もうとしているのに気がつく空恐ろしさは、きっと彼の想像している砲弾や機銃に狙われる危険とは性質が違う。そのどれもの傍に死はひたりと、影のように付き纏ってはある日気紛れに人を飲む。死とは歌唱ではなく伴奏のようなものだ。麻痺した喉で歌を添えるのは血肉を備えた魂に他ならない。人は正気のまま死体とお喋りすることを、他ならぬ僕自身が証明している。
そしてそれらを知ってほしいとも思わない。戦場を知らない彼は、たとえ間接的であれども自らの手を汚し、血を浴びてきた僕――そしてきっと僕たち――にとって一種眩いものでもある。先の大戦に身を投じ、同胞を見送ってきたことを悔いる者はこの隊内にひとりもいないだろう。流された血の先を生きていく彼はまさに、僕たちが命を懸けて守りたかったものの姿でもある。それをまた自らの手で死線へ連れ出すことに、微かな躊躇いを感じてしまうのだ。僕の内で遠征と戦争とが重なるのは、決して死の可能性ゆえばかりではない。
黙していると、サンドウィッチの最後の欠片を飲み込んだ口が切り出した。
「ところで、先日甲板で自殺未遂騒ぎがあったのをご存知ですか」
「そういうことがあったとだけは。きみは見たのかい」
アーヴィンは曖昧に笑いながら首を振った。ゴードン・ピムが見たものと似た病める陽は奇妙に白く、落とす強いコントラストが先行きの不安になる肌に踊った。吹き込むアフリカの風に髪をそよがせながら、熱気にあてられるなんて面白くもないと彼は呟いた。
「僕、平凡なことも手ぬるいことも好きではありません。いつかは死ぬというのなら、その時は最後のひと息まで全力を尽くしたい。それならすっごい冒険の中、世界で一番天国に近いところでやり切るのって、なかなかいいんじゃないかなと考えるわけです。ああ嫌だな、言葉にするとひどく気取って聞こえる」
「本気で言っているのか」
「誠実でありたいと思っています」
打ち解けても決して口数の多くない彼が珍しく饒舌な理由は分かっていた。それにしても、これまで表立って見せてきた楽観的な印象の中に、熱意と共存するこの冷めた現実主義は際立って強い印象をもたらした。先日新聞記者につかまった彼が、皮肉を込めながらも熱っぽい口調でインタビューに答えていた姿を思い出し、どうやら本気らしいと認めた。
「きみこそ、案外ドライなんだな。もっと熱に浮かされて、盲目的になっているものかと思っていた」
「その方が上手くいくならそうしますが、目隠し遊びするような丘でもないでしょう。先導できるなんて驕るつもりはありませんが、僕はちゃんと目を開けて、あなたの目指す場所へ至るのにきっちり役立つつもりでいますよ。それとも実際家はお嫌いですか」
「おや、俺が現実を見ていないかのようなことを言うね」
「いいえ? 夢想家だとは思っていますが、あなたは夢みたいな目標を果たすための戦略を立てているでしょう。だったら僕は、見えているけれど困難なその道を最後まで進むために死力を尽くすまでです」
何と返したものか。あまりの苦味に痺れる舌の弁明に、アイスクリームだったものを押し込んだ。その気はないのだろうが、なかなか残酷なことを言ってくれる。2年前、その目標へ辿り着くため助けてくれたポーターたちが雪崩で命を落とした事故を知らないはずもないだろうに。
最善を尽くしてもリスクをゼロにすることなど不可能で、あの時の判断に間違いはなかったと何度己に言い聞かせ周りに諭されようとも、7人を雪の下に置いてくる顛末を招いた責はある。目を逸らすことはできないし、繰り返すことなど絶対にあってはならない。リスクを承知で集っているとはいえ、あの事故はずっと此度の遠征に気乗りしない一因となり続けていた。他人を犠牲にするわけにはいかないし、僕自身もまた死ぬわけにはいかない。どうせ死ぬなら山で終わりを迎えたいといっても、今の僕には妻と幼い子供たちの待つ家庭があり、新たな仕事だって始まったばかりなのだ。犠牲を出さずに帰るという意志ははっきりしているにもかかわらず、もう二度と帰れないのではないかなどと考えてしまうのは厭なことだ。たとえそれが漠然とした予感めいたものに過ぎないとしても。
気が塞ぐ要因はいくらでもあり、どれもが切実だった。それなのに僕はきっと、山へ踏み入る頃にはこの憂鬱を実感できなくなっている。
こんな話は彼にするものではない。早く話題を変えてしまうべきだと思う一方で、彼の誠実さを受け流したくもなかった。いつもとは口数がすっかり逆転してしまっているのを面白がる自分もいたが、アーヴィンはどうやらそうでもないらしい。落ち着かなさげにティーカップへ触れながら、彼は少し困ったように僕を見ていた。
「どうしてそんな顔をするんですか……覚悟はあっても死ぬ気はありませんよ、あなたもそうでしょう。ほら、昨日も奥さんやお子さんの写真を見せてくれたじゃないですか、初夏にまたリヴァプールの港で会えるのが楽しみだって。末の子なんか5ヶ月も離れていたらきっと見違えますよ。素敵ですねえ」
気の合うことだ。先のことを語る彼もまた、家族の話を聞かせてくれたのだった。仲のいい家族だというし、友人も多いようだから、郵便システムが念入りに手配されているのは朗報だろう。大陸奥地で何か月も過ごす中、親しい者たちから送られてくる手紙の嬉しさもまた彼がこれから知るものだ。僕もまず何より先に書かなければならない手紙がある。
「きみもきちんと見送りの顔を見られたかい」
「それはもう、末弟がつ上の弟に小突かれているところまでばっちり。きっと不吉な冗談でも言ったに違いありません。新学期の始まりとそっくりだ、縁起のいいことです」
丁寧に口元をぬぐい、アーヴィンはおもむろに立ち上がった。
「ねえ、少しデッキで風に当たりませんか。きっと部屋にこもってばかりだから気が塞ぐんですよ」
「山へ入る前にフラッシュで目を焼く気にはなれないかな」
「はは、そうじゃなくて……どう切り出そうかと思っていたのですが、この後ジャガイモ・スプーンレースなんてやるらしいんです。あなたが甲板競技を好きじゃないことは知っていますよ、でもこれは実に面白そうじゃないですか。ね、ぜひ一緒に参加しましょうよ」
にこにこと人懐っこい笑みを浮かべながら差し出される手を断るほど大人げなくもなかった。やれ写真だサインだ質問だと集られるのに辟易してデッキからは遠ざかっていたが、この新人にそんな煩わしさはついて回らない。元気いっぱいの若者に甲板競技へ誘われるのは初めてではなかったが、今回こそは彼の初白星だ。
食堂を出て最上階へ向かう階段は射しこむ陽を照り返し、どこか天使の梯子めいていた。重なりながら上っていく速い足音を、ヴェール一枚隔てた心地で聞いていた。この足たちこそは、一ヶ月と少し後にはエヴェレストへ踏み込むものだ。
先を歩いていたネイビーブルーの背は、最後の段に足を掛けると、ふと立ち止まった。
「マロリー。もしもこれがあなたにとって負担になるのであれば、すぐに忘れてくれてもいいのですが」
デッキシューズの爪先がくるりと回った。
「この遠征に参加したからには、僕は頂上に立ちますよ」
その瞬間、透明な膜が弾けた。はっとして、もう遮るもののない蒼い眼を正面に見た。競争心に燃える瞳の奥には、たしかに値踏みする眼差しがあった。そうだ、僕が新たな仲間のことを見定めようとするのと同じように、彼らだって背を預けあう仲間のことを知りたいに決まっているのだ。それは時に、腹の探り合いめいた色を帯びることもある。
彼に負わせることへの不安を言葉にするのはもうやめよう。彼がそこまで言うのなら、これ以上は侮りに等しい。自分だって、先達からそんな登り方をしていては長生きできないなどと言われて決していい気持ちはしなかったじゃないか。思惑はあれども、ベテランも新人も、全員が人類初の地上最高峰登頂という目標を見据えチベット奥地へ赴く。アルパイン・クラブに招集された中に、本当に死ぬ前に何度も死ぬような人間はいないはずだ。困難も危険もない登山が満足たりえるはずもなく、冒す危険を選びながら生死を賭けるのが登山家というもの。それならば彼へかけるべき言葉は、リスクについてではない。
「頼りにしているよ」
それだけを返すと、彼は誇らしげに目を細めた。
ああ、彼のことを同年代の仲間たちと平等に扱うと誓おう。謙虚な彼が敢えて口にした露骨さは、虚仮威しの牙ではない。彼はきっと期待に応えてくれる人間だ。叶うならば共に頂を踏みたいとさえ思う。ファイナルアタックに最も相応しい者だと判断できるならば、たとえそれが天国への片道切符になりうるとしても、僕は彼の名を指すことを躊躇うまい。
僕が参加している以上、この遠征で誰ひとり死なせる気はない。帰る場所はあるし、帰る気もある。
ただ、もう橋は燃やしてしまったのかもしれない。
Swap Horses in Midstream
1924年4月5日
午後中かかりっきりになっていたクッカーのテストが終わってひと息ついたとき、ふわりと鼻先をかすめたのはアールグレイの芳香だった。つと視線を上げると優しい目のオデルが立っていて、おつかれさまと、湯気を立てる魔法瓶を揺らした。
調子はどうかと尋ねてくれる彼こそ山トロルめいた顔色をしているのだが、その一言でこちらは茹でエビのようになるのが分かった。思い当たるのは昼の不手際。広い平野に出たからマロリーとポニーで競走しようとして、僕たちは見事、荷馬車隊の暴走を引き起こしたのだった。跳ね回るポニーを止める努力はしたけれど、鞦がついていなかったものだから酷く手こずったのだ。幸い笑い話で済んだが、少し落ち込んでいるように見えたのかもしれない。
オデルはこの隊で唯一、遠征前からの顔見知りだ。彼と出会ったのは5年前、家族でウェールズはサンヴァイルヴェハンに滞在していた折に思いついた、オートバイでカーネザイを山越えして村へ戻る計画の実行中だった。道なき道を走っている時、正しい方向へ進んでいるか自信がなかったものだから、僕は前方に見えた登山者のカップル――オデル夫妻に道を尋ねたのだった。その後も縁があり、昨夏には彼の指揮の下、大学主催のスピッツベルゲン遠征を共にした。吹雪に足止めを食らっているあいだ、ばたつくテントの中で酸素装置の図面を見せられ意見を求められたあたり、僕がエヴェレストで使い物になるか見ていたに違いない。そして彼の推薦でこの遠征に招かれ、いま僕はここにいる。言ってみれば、彼は僕にとって兄貴分みたいなものだった。
「いやあお恥ずかしい……ハザードならきっと上手くやったでしょうに、とんだお笑い種になってしまいました」
「はは、スピッツベルゲンでハスキーたちが散り散りにならなくてよかったよ。それにしても、船旅の仲間たちとは打ち解けているようで何より。少しは慣れたかい」
「大丈夫ですよ、ありがとうございます」
とは言うものの、一ヶ月の船旅を共にした面々はともかく、インドで合流した隊員たちを前にするとまだ緊張する。僕自身が、年齢をはじめ様々な点で注目を集めていることは自覚していた。それ自体悪い気はしないし、十分以上にやっていけることを証明する気でいるが、人見知りというどうしようもない性格だけが足を引っ張っていた。マロリーからいくらか話を聞いて心の準備はしていたつもりでも、とりわけノートン中佐は――彼と一対一で話すより氷河を横断する方が容易い。忙しさもあるけれど、人疲れしてテントや部屋にこもっている時間が多いことに、オデルはきっと気がついている。いい折にこうしてやって来て、隣に腰掛けるのが彼の優しさだった。
お茶を冷ましながら、彼は逆光の中を足早に行く影を見やった。
「マロリーと仲良くやっているようで安心したよ。きみを除けば彼が一番酸素に関心がある」
頷いたが、ここは一番というより唯一というべきだろう。薄々察しているが、恐らく隊内で真面目に酸素へ期待を寄せているのはマロリーだけだ。正直に言うと、ちょっと不思議な人だと思う。
彼はこれまでに行われたすべてのエヴェレスト遠征に参加している唯一の人物で、凄い人だと分かっているつもりだ。しかしこれまでの旅路での彼は、情熱的なのと同じくらいお茶目で、抜けた印象が強かった。少し考え、オデルになら話してもいいかなと、ぴかぴかのチタンマグで手を温めながら切り出した。
「彼、最初の印象とは少し違うかも」
「というと?」
「思っていたより愉快な人だな、と」
オデルは軽く咳き込み、肩を揺らした。
「愉快、愉快ね。たしかにそうだろうなあ」
顔を見合わせて笑った。何しろマロリーは忘れ物がひどく、あわてんぼうでおっちょこちょいだ。船ではほとんど部屋を移動する度に何かを忘れていたような気さえする。失礼ながら、彼のそそっかしさときたら、本当にこの人に危険な岩や氷を登らせていいのかと少々不安になるくらいなのだ。
「ちょっと戸惑っているんじゃないのかい」
「登山家としての華々しい話は聞き及んでいます。船で沢山話してくれて、様々な物事に造詣が深いことも、いつも人をよく見ていて、随分優しい人だということも分かっています。それに一緒に運動もして、たしかに立派なスポーツマンだなって……ただ、そういうものからイメージする人物像とは少し違っていた部分があるというか……もっとひりつくような鋭さを感じる人だろうと思っていました」
別にがっかりしているわけではなく、彼の言う通りただ困惑しているだけだ。一体どんな聖人様が出てくるのかと構えていたら、思いのほか人間味に溢れた楽しい人が現れたものだから、頗る嬉しいと同時に面食らっているに過ぎない。
頂にかけるその熱はたしかに目を瞠るもので、登山に関してあれこれと教えてくれる彼は良い先生であり、尊敬できる新たな友人でもある。でも、どうしても彼が命を削る世界で薄氷を渡っているところが想像できずにいた。
気持ちは分かるとオデルは言った。
「ただ、あれは自分の目で確かめるのが一番だと思うけど……彼は山に入ると、まるで見違えるよ」
「そういうものですか」
「きっと驚く。あれはきみが最初に期待していたような人物像そのものじゃないかな」
山に入れば、彼は聖人になってしまうのだろうか。それとも、彼は彼のままで冴え切った登山家になるのだろうか。後者ならいいと密かに願った。どう言い繕っても僕は登山経験が浅く、自ら頂に手を伸ばすためには師になる人とロールモデルが必要だ。オデルはスピッツベルゲンで良いリーダーであり、岩登りも教えてくれた。しかしエヴェレストのことを最もよく知っているのはマロリーのはずで、名だたる登山家が集うこの遠征の花形も彼なのは明らかだった。僕は誰を手本にするべきなのだろう。
「オデル、あなたにとってマロリーはどんな人ですか」
「まずはいい友人」
彼の答えはよどみなく、繰り返し聞いた評をみなぎる自信でもって裏付けるものだった。
「そして、この場だから敢えて言うけど、クライミングに関しては天才だよ。登るために生まれてきたような男だ、落ちようと思っても落ちられないタイプだね。あんなに美しく岩を屈服させてしまう登り手は滅多にいるものじゃない。もちろんロッククライミングだけじゃない、登山という活動すべてにおいて天賦の才がある。つまりね、知識や技術や経験は勿論、山で対峙するすべてへの感受性、困難な場面での勘、進む忍耐と撤退する勇気、パートナーへの思いやり、そういったものをすべて備えているんだ」
「登山家として完璧?」
「そのために生まれてきたようにさえ思える時もある」
頷く表層意識の水面下、何かとても冷徹なものが働いている気がして目を逸らした先で、紅い水面に映る顔が薄く笑っていた。
「登攀リーダーとして最適なように聞こえますね」
「一番力強く漕げる者が主将になるわけでもないだろう。彼が本領発揮するのは高原や穏やかな谷間じゃない。さっき並べ立てたことも、下界での彼が色々な意味で目を離せない男なのも、両方ともが事実だ。それで時々仲間を苛立たせるけれど、結局なんだかんだと世話を焼かずにいられないような奴でね。ほら、赤ちゃんが物を散らかしたとて、いくら怒っても意味がないだろう」
なんだか他人事のような口調だった。そういえば、仲間の気が立っている時にオデルはひとり悠々と新聞を広げ始めるものだから、皆毒気を抜かれてしまって冷静になったなんて話も聞いた覚えがある。斯く言う僕も、彼が怒っている姿は想像できなかった。
「あなたも彼に腹を立てる?」
「いいや、別に。直せる悪癖なら彼はとっくの昔に直しているだろう。逆に彼の方が俺に苛立っているかもしれないな」
「それはまたどうして」
「テントをシェアするようになったら分かるさ。なに、きみなら心配ないはずだよ」
まるで見透かしたような物言いにぎょっとした。湯気の立ち消えた水面は乱れ、きちんと表情を繕えているか分からなかった。内心に走る緊張を押し殺していると、変わらない目がこちらを向くのを感じた。
「岩登りの基礎はもう教えたけど、これからは暇を見てマロリーに師事したらいい。向こうもその気でいるはずだ。彼は教えることも好きだし、きみは筋がいいから、一ヶ月でも随分巧くなるだろう。それに、命を預け合うなら、普段からコミュニケーションを重ねることも重要だからね」
「オデル」
たまらなくなって立ち上がった。絶対に気がついている! それなのに、彼ときたらいつもの隠者めいた面持ちで静かに微笑んだままだった。その穏やかな眼差しに波風立つところを見たことがない。彼のそういうところを僕はとても尊敬していて、でも今はどうしてもいたたまれなかった。気がついているなら少しは怒ってほしい。牽制してほしい。お前の中で巡る計算はあまりに冷たいと糾弾したっていいじゃないか。そうしたら僕だって、僕たちが笑って落ち着くべきところへ降り立てるよう言い返してみせるから。
しかしオデルはそっと指を立て遮った。ひとつ言い忘れていたと、あのあたたかい眼差しをたたえたまま、いくらか引き締めた口元で、わずかに声を潜めこう言った。
「彼は山に入ると見違えると言ったけれど、どうしても物忘れは治らないらしい。あんなにピンと、ヴァイオリンの弦を張りつめたような雰囲気になるのに不思議なものだけど、本当にびっくりするようなものを忘れてくれる。ここだけの話、彼、山に登るのに登山靴を忘れてきたこともあるんだ」
だから、と彼は至極真面目そうに続けた。
「もしもきみがジョージと組むことになったら、持ち物の管理はきみがすることだ。きみたち2人の可能性と、命を守るためにね」
「まだ決まったわけじゃ……」
それこそオデルと僕が組む選択肢だってあるはずだ。しかしもう話は終わりだと腰を浮かせると、彼は埃っぽいジャケットをはたきながら、くいっとグラスを呷る仕草をしてみせた。
「さて、そろそろ夕食だ。きみのチームのために、将軍からとっておきが授けられるはずだよ」
140年もののラム酒なんてマートン・カレッジでも出ないだろうと、彼はにこにこ顔で食堂テントへ向かって歩いて行った。月のない夜が地平から高原を蝕み来る中、その背を見つめたまま、茫と立ち尽くすことしかできなかった。
ああ、僕は最後までオデルの忠告を覚えておくべきだったのだろう。しかし翌日受け取った電報は暢気な横っ面を張り飛ばし、彼のくれた命綱は次々に襲い来るトラブルに覆われ、やがて希薄な酸素と過労の中では引き出せないほど深くまで埋もれてしまった。それに悪魔憑きのテーセウスがあんまり速くモレーンを駆けるものだから、僕は手遅れになるまでアリアドネの糸を思い出しさえしなかったのだ。
Roll Pl/ray
1924年4月25日
砂色の頭が乗ったカーキの背が、熱心に摩尼車を見つめていた。ཨོཾ་མ་ཎི་པདྨེ་ཧཱུྃ――異教の文字が刻まれた回転塔が、青い目の前でくるりくるり回され続けていた。彼が何も言わずに姿をくらますことは儘あるが、そんな時は大抵タオルを握って氷河にいると零していたのはノートンだ。地の果てに礎を埋めた聖域、ロンブク寺院に興味深いものが多いことは認めるが、専らスポーツと機械を愛し、繕っても信仰への関心は薄いと見えるあの青年が異教の僧院で3時間も夢中になって過ごすとは、ノエルには意外なことだった。
「サンディは何を考えているんだろう」
何気ない呟きを拾ったサマヴェルが笑った。
「どう機械化してやろうか考えているに違いないさ」
つい吹き出して一緒に笑っていると、噂の人が振り向いた。何の話だろうとばかり、彼は焼けた頬に控えめな好奇心の色を浮かべ、楽しげな2人に歩み寄ってきた。どうやら自分が3時間も行方不明になっていた自覚はないらしい。
「いやなに、お前があんまり熱心に摩尼車など見つめているものだから、何を考えているのかと思ったのさ」
教えると、見られていたのが恥ずかしかったのだろうか、アーヴィンは少しはにかみながら答えた。
「何か良いヒントを見出せないかと思ったんです。ほら、僕の専門は随分厄介なじゃじゃ馬相手ですから」と、彼は冗談めかして広い肩を竦めた。
「おや、俺たちはてっきりあの摩尼車を機械化しようと考えているかと思った」
「回転の自動化なら出来ますとも」
ギフテッドエンジニアはけろりと答えた。
「でも、それでは多分面白くないかなと」
「簡単すぎて?」
そう問われ、彼は少し言葉を探したようだった。
「あれは祈りのための道具でしょう、回すのは人であるべきです。であれば僕の取り組みたい課題は、回転の結果どんな効果を起こすべきかという問題です。そう、たとえば一緒に香を焚くのに、火花をパチパチ散らしてみるとかね」
そう言って少年は悪戯好きな笑みを浮かべ、割れた唇の激痛に顔を顰めるのだった。なるほどと頷きかけ、ノエルはふと彼が使い物にならない酸素シリンダーを丁寧に磨き上げていたことを思い出した。ヨーロッパから出たことがない彼は物珍しいアジアやオリエントの風習に興味津々な様子で、よく現地に詳しいヒングストンを質問攻めにしていた。僧院の鮮やかな絵画についても尋ねていた記憶がある。あれはたしか、チベット仏教における悪魔の類について語ったものではなかったか。
「お前はそんなことを言って、破れた金属の肺を悪魔の息吹だなどと嘯く気だったんじゃないのか」
「あはは……たしかに彼らには僕たちが悪魔かブッダのように見えているんじゃないかと思いますよ。それよりノエル、あなたこそ先ほどはラマ僧たちと何の話を?」
「ああ気づいていたのか。何、僧院の中を撮りたかったのだが断られたよ」
「やっぱり。……」
それきりアーヴィンは黙ってしまったが、にやにや笑う顔を見れば彼が何をしてきたかは凡そ見当がついた。なるほど、彼ならばそれはもう熱心そうに頭を下げ異教の神を拝することも厭わないのかもしれない。残る問題は上手く写っているかどうかだけだろう。宣教師の顔も持つサマヴェルは苦笑いしているが、映画監督ジョン・ノエルとしては有難いことだった。
半分空になった酸素ボンベと火花による説得は失敗していたが、3人は澄み渡った銅鑼の音に満足して僧院を後にした。
しかしキャンプでアーヴィンを待つのは、未だに課題を残す酸素装置、そして使い物にならない大量のシリンダーたちだった。撫でるだけでもさりさり音を立て、運搬しているだけなのにカウベルの如く主張し、軽く打つだけでこぉん……と高く快い音を響かせるシリンダーは確かに楽器に相応しいと、すっかり楽しい気分の萎んでしまったアーヴィンは並ぶ金属筒たちを忌々しげに睨んだ。
登山の初心者である学生がこの遠征に参加する大きな理由となった代物だが、流石の彼でもとんだ不良品を掴まされたのは痛手だった。しかもその原因が学生の身分を甘く見られたからとくるのだからやるせない。マロリーと共に頂へ挑めることになったのが心底嬉しいと同時に、迫る山容に急かされながら、こんな欠陥だらけの酸素を使わずに挑戦できるならもっと良かったのにと本気で思っていた。
僧侶たちにシリンダーを贈ったのは、その音色や散らす火花を喜んでくれるだろうと思ってのことだが、逆に言えばそんなシンプルな善意と悪戯心からの行動でしかない。相手が神だろうが仏だろうが、寄進や祈りで問題が解決するなんてひとかけらも期待していなかった。
帰国したら空のシリンダーをアルパイン・クラブと王立地理学会のドアベルにするよう提言しようと心に決め、夜中まで働くつもりで椅子代わりの木箱に腰掛けた。あのマロリーがファイナルアタックのパートナーに自分を選んだのは登頂達成に酸素が必須だと考えているからであり、毎日夜中まで取り組んでいるこの難題に本気で期待をかけているのも彼だけと分かっていた。いささか切なくはあるが、根を詰めるには十分な理由だ。
ロンブク寺院でのやり取りを知ったマロリーの溜息を察したのは、無理のおかげで気分が優れない行程を続けていた2日後のアーヴィンだけだった。その日の夕刻、彼の寝ているテントへアイゼンの調整という仕事をひと箱持ってきたマロリーは、雑談の中で切り出した。あの時本当は何を考えていたのかと問えば、アーヴィンは質問の意外さに虚を突かれたようだった。
「あの車を回すだけで加護が得られるのなら、どんなに良いだろうと思っていました」
ひどく重いアイゼンを鳴らしながら彼はそう言った。マロリーからすれば全く以て彼らしからぬ返答だったが、奇妙なことに、突然尋ねられて取り繕う間もなく答えた本心のようにも思えた。
「冗談だろう。彼らの神像を盗撮する男が?」
アーヴィンは顔色を変えなかったが、この言葉には内心ぎょっとした。マロリーが何を厭うているのか、彼には判断がつかなかった。青灰色の瞳をじっと見つめ返し、読むことを諦め、アーヴィンは静かに口を開いた。
「本当ですよ、あの回転から良い閃きが得られればという意味ですが。写真は姉に見せたかっただけです。あんな立派な宝石で飾られたブッダの像なんて、万国博覧会でもまずお目に掛かれないでしょう」
「そうだな。ばれて信心深いポーターたちの反感を買う懸念なく済んだのは幸いなことだ、お前の器用さには本当に感心させられるよ」
皮肉まじりの言葉に、アーヴィンは何も言い返さなかった。悪気がないだけにマロリーも少し可哀想に思ったが、こんなことで遠征が失敗に終われば誰もにとって遥かに惨めなことになるだろう。信ずるものこそ違うが、シェルパたちの敬虔さに伴う感覚そのものはマロリー自身よく理解していた。この青年の陽気さは大きな強みだが、楽観的すぎるとなれば瑕でもあった。この土地で僧侶たちを敵に回すリスクを冒すなど、到底賢明とは言えない。
「ノエルも随分だが、あまり危ない橋を渡るものではないよ。往路なら猶更のことだ」
「はい」
返す声は、信頼する教師に叱られる生徒のそれだった。傷をつけないだけの関係性が築けていることを喜ぶ余裕は、まだ一方にしかないようだったが。
風の唸りに震える天幕の中、金属と半ば凍った革の擦れる音だけが、すり硝子のような空気に波紋を刻んでいた。アーヴィンは爪先への血流を妨げるストラップを掛けずにアイゼンを固定しようと器用さを発揮し、マロリーはじっとその作業を見つめていたが、ふと自分が持ってきたもうひとつの荷物を思い出した。また忘れるところだったと内心舌を出しつつ、小さな金属筒を手に取り蓋をひねった。さっとテントを満たしたマスカテルフレーバーに、一点を見つめ続けていた青い目が初めて揺れた。
「……ところで、摩尼車から何かヒントは得られたかな。仕事の役に立たなくても、面白い案のひとつくらいは浮かんでいるだろう。それともあの話はまるきり嘘だったのかい」
もう説教は終わりだと、魔法瓶から2人分のお茶を注ぐマロリーの口元に浮かぶ笑みと向けられる眼差しのやわらかさに、アーヴィンはほっと小さく息を吐いて笑顔を返した。
「いいえ、嘘なんてひとつも。ほら、片手間の落書きですが……」
そう言いながらアーヴィンは、乾燥と陽にやられ傷んだ指で、なかなか精密な図とメモの書き込まれた紙切れを取り出した。
いそいそと浮き立った様子にマロリーもつい微笑み、ちらとテントの外を見やった。ドアの隙から見える人々の姿。小さな車を回し、経文の刻まれた摩尼石に五体投地で祈る背。アーヴィンにはああ言ったものの、初めてこの地を訪れてから現在に至るまで、彼らの信仰はマロリーには馴染まぬものだった。それでも今この瞬間だけは、この地に満ちる祈りの風を少しだけ快く感じられる気がした。
True Love is Like Ghosts
1924年5月11日
「それでもお前、浮いた話のひとつやふたつはあるだろう」
前後の会話が吹っ飛んでしまうほど、その一言は僕を激しく動揺させた。ご期待通りかは知らないが、なるほど、浮いた話ならある。だが浮きすぎた話を楽しもうとするのなら、ジョージはうってつけの相手とは思えなかった。
今は蝋燭の弱い火が灯るテントに2人きり。遠征が始まってからというもの、話題が惚れた腫れたに流れそうなのを見てとればこっそり席を外していたのだが、今ここに逃げる余地はなかった。皆も僕がその話題を避けていることに気がついていると思っていたのだが、ジョージのこれは多分酒の勢いに近いだろう。話をここまで持ってこさせてしまった僕自身、大概酔っていたに違いない。手痛い敗走の結果とはいえ、久しぶりに皆で集まってまともなものを食べられたものだから、ちょっと浮かれてしまったのだ。
この一瞬で僕はすっかり醒めてしまったが、顔色を窺うに恐らくジョージはそうでもないらしい。キャンプへ撤退する道中で随分苛立っていたのを思えば、まだ最悪というほどの状況でもないようだ。
「恋人はいますけど、それよりもあなたの話の方が聞きたいです」
「いや、いつも俺ばかり話していると思ったものだから。よく考えたらきみのことを全然知らない」
呻きそうになるのをぎりぎりで堪えた。それはそうだろう、僕自身が避けていたのだから。悪意のない好奇心は敵意より残酷に退路を断ってくれる。しかし不幸中の幸いかな、ジョージはだいぶご機嫌なようだし、もしかすると明日には全部忘れてしまうかもしれない。話を逸らすのが難しいなら、嘘は吐かずに彼の好奇心をやり過ごすのがいいだろう。あまり誠実とは言えないが、僕にも何を話すか選ぶ権利はある。
恋人のマージョリー・サマーズは元コーラスガールの明るい女性だ。ジョージに、いやこの遠征に参加している誰にもこのことを話したくないのは、彼女が既婚者だから。親友の継母だと言えば、良識的な大人はまずいい顔なんかするまい。でも継母といっても僕たちとは5歳しか変わらないのだから、二回り以上も年上の相手より僕たちと遊んでいた方が楽しいのは当然だ。
彼女と付き合っていることを後悔しているわけではない。一緒にいてすごく楽しいし、恋ってそういうものだろう。時々悩みの種が生まれるのは仕方ないとしても、わざわざ好き好んで恋愛に苦悩しようなんていうのは演劇に酔いすぎだ。彼女の立場上、この関係が褒められたものではないのは分かっているが、世間一般の良識だの道徳だのなんて知ったことじゃない。知ったことじゃない、けど。
厭な記憶が蘇る。昨秋のことだ――姉と親友が婚約したと知らされた。僕は何も知らなかった。何も知らされていなかった。
ひとつ上の姉イヴリンとは物心つく前からよく一緒に遊んでいて、長兄をからかったり、親戚の家に泊まりに行って冒険したり。カレッジこそ違うけれど、大学も一緒だ。親友ディック・サマーズは、僕たちをよく知らない人が見たら正反対なタイプに見えるかもしれない。でも彼もオートバイや自動車が大好きで、人見知りな僕たちはすぐに仲良くなった。休暇になると彼の家や別荘に泊まりで遊びに行き、マージョリーが帽子を投げてきたのもそんな折だった。
イヴリンは彼女のことを蛇蝎の如く嫌っていたし、ディックも僕たちの関係に肝を冷やしているのは分かっていた。だからって、僕に何も言わないままプロポーズして婚約して、全部終わってから知らせてくるなんて裏切りじゃないか。本当にショックで、あの時僕は滅多にないくらい怒った。後で少し冷静になってみれば、きっと僕自身の行動が招きうる結果が怖かったのだと思う。僕が付き合っていたのは、イヴリンの義父になる人物の妻だ。
この遠征に参加した動機はいくつかある。その中のひとつにスキャンダルから距離を置きたいというものがあったと知ったら、ジョージはどう思うだろう。彼との付き合いは短いけれど、驚くほど理想主義的で、ガラハッドのあだ名も納得いくような人だと分かる。しかも忙しい中でほぼ毎日長い手紙を書き綴るような、とびっきりの愛妻家だ。彼にだけは絶対この後ろ暗さを知られたくなかった。
だからジョージに話すのは楽しいことだけ。お喋りが大好きで、友人のことをよく知ろうと努める彼に口を挟ませないよう、薄い酸素を継いでひたすら喋りつづけるのだ。明るくて楽しくて可愛い恋人と一緒に、ドライブして、ピクニックして、踊って、旅行して。ありきたりだけど楽しい思い出を、アルバムの写真を説明するように語る。僕は見せる写真を選ぶだけで、差し替えてはいない。ジョージは本棚の全貌を知らないから大丈夫だ。嘘だって吐いていない。捲っているアルバムのラベルが、彼の注文と違うものだったとしても。
……そしてすぐに、そう言い聞かせること自体にうんざりしてしまった。演じることは甘んじて受け入れよう。でも芝居は嫌いだ。
「恥ずかしいから。もうおしまいです」
ジョージの顔を覗き見るために、もう一杯のロック・ウィスキーが欲しいほどだった。冷えた紅茶をアルコール入りと念じ呷り、恐る恐る視線を移した。
と、意外や意外、ジョージは優しげな目で微笑んでいた。困惑した。退屈そうな顔をされるか、あるいは何かを察して蔑まれたり、怒らせたりする可能性なら考えていたけれど、そんな笑みを向けられる道理は全く分からなかった。
そう、そのまなざしは確かに優しかった。しかし、ちょっと怖いくらい澄んだ底の深い眼にちろちろと蝋燭の灯が揺れている様は、じっと見つめ返していると、まるで篝火を掲げて湖を覗いているかのようだった。こういう場所に近づいてはいけないと、かつて母にきつく言われたのではなかったか。
どれほどのあいだそうしていたものか。ふっと湖面が揺らいだと思うと、彼はこらえきれないとばかり、くつくつと喉から漏れるテノールが凪いだ闇にさざなみを打っているのだった。
「きみはまだ、ほんとうの恋を知らないんだな」
まなざしと変わらない色で何を言われたのか、数拍理解できなかった。
ほんとうのこい。本当って何さ。それはあなたにとっての本当でしかないじゃないか。
「じゃあ教えてくださいよ。本当の恋ってどんなものですか」
その一言を冗談の勢いに乗せることすら出来なかった。
はてさて、彼の答えは意図が掴めないものだったが、夜が明けてから蒸し返す気には到底なれなかった。彼が一連の会話を覚えているのかも定かではないが、少なくとも改めてこの話題を振られることは2度となかったから。僕自身、朝陽を浴びる頃にはあのやり取りすべてが妙に遠くて、酔って夢でも見ていたかと思うほどだった。
これは別段良い思い出でも、日記に書くようなことでもなく、このまま自然に忘れていくのを待つような、ありふれた些細な出来事のひとつに過ぎない。ただ、彼の信じる幽霊は僕にはどうしても触れられないようだと、幼い指先に赤く滲む野ばらの刺を思い出すばかりだった。
The Ladies of the Mountain King
1924年5月15日
大抵元気のいい顔がひどく引き攣っているので問えば、どうやら昼の肉とマカロニ、唐辛子やラディッシュといったエキゾチックなメニューがサンディの胃には合わなかったらしい。どんなに鍛えようが胃腸は強くなれない、というぼやきは至極もっともだ。もしも皆腕力と等しく腹の中も強かったならば、何人かはラザロのように登らずとも済んだに違いない。我らがヘラクレスもそれでも寺院での祭儀は楽しんだようで、無事キャンプまで戻ってくると木箱に座りこみ、手慰みに地図や過去の遠征における写真をめくりながら、あの仕草が不思議だの、こんなことをしている人物がいただのと、ロンブク寺院で目にしたものについてぽつぽつ話してくれた。
惨めな撤退を経て、ポーターたちの士気はすっかり落ちてしまった。ヤクが突然8,000メートルまで登ると決めない限り、遠征は致命的局面に瀕していた。そして葬列のように意気消沈している彼らを元気づけるため選ばれたのは、栄誉でも報酬でもなく信仰の力だった。正直なところあの中庭での出来事はよく覚えていないが、寺院を後にする彼らの顔つきを見れば、ノートンの作戦が高原の空のように冴えたやり方だったのは明白だ。そういえば妙に聞き覚えのある銅鑼の音が響いていた気もする。
そんなとぎれとぎれの会話に重なっていた、ぱらりぱらりとエフェメラの捲られる音がふと止まった。
「愛らしい山容ですね」
そう言って、酷く傷ついた指がひときわ白く輝く山を指した。モノクロ写真を覗き込み、その両の手で包み込みたくなるような姿につい口元が綻んでしまった。
「それはクレア・ピークだ」
「おや、馴染みの良い。でも初めて聞く名前です」
「ふむ。プモリという名ならどうだい」
その簡潔な、しかし英語ではない響きを何度か口の中で反芻し、サンディはいくらか難しい顔で首を振った。
「どこかで聞き覚えのあるような気はします」
「俺が名づけた山だからだろう。誰かしらの口の端に上ったんじゃないか」
「ああ、それで分かりました。どういう由来で?」
「山のお嬢さん、とでもいうような意味のシェルパ語だ。ダウラギリ(白い山)、ニルギリ(青い山)、チョモラーリ(女神の聖なる山)……彼らの言葉でリ(ri)は山を意味する」
へえ、と素直な感嘆に目を丸くする彼は、言語への関心というものが皆無だ。ポーターたちの言葉を全く解さないまま、それでも親切さを筆頭とする美徳で人望を得ているのは立派なものだが、さてプモ(お嬢さん)・リ(山)は彼が地名と人名以外では何番目に覚えた単語かと考えると、少々頭が痛くもあった。なんといってもサンディは僕自身が選んだクライミングパートナーだ。女神の機嫌が良ければ、2週間以内に我々2人と選りすぐりのポーター数名で最終キャンプへ登ることになる。その時に僕が指示を出せれば問題ないが、率直なところ喉の調子がいささか不安だった。単語の繋ぎ合わせに過ぎずとも、言葉を話せる者は多いに越したことはない。
とはいえ、この山で百を望み百を得られるなどと期待する愚か者になったつもりはない。彼の仕事は通訳ではないし、ファイナルアタックでひとりにするはずもない。杞憂であれと願いつつ、僕の思いは既に、遥かイギリスで待っている幼い娘(クレア)へと移っていた。
「本当は娘の名を付けたかったんだが、残念ながら通らなかったよ。しかしエヴェレストの娘と呼ぶのも似つかわしい、そんな佇まいの嶺だ」
モンブランよりもずっと高い山なのに、すぐ傍にエヴェレストを含む7,000メートル超の峰々が立ち並んでいることもあってか、随分小さく上品に見える。地図に載るプモリという名も悪くない響きだが、この愛らしい山にクレアの名前を残してあげられたらどんなに良い記念になっただろう。未だにそんな未練があり、家族恋しさも相俟って幻の呼び名を捨てられずにいた。
サンディはまた暫く写真を見つめ、口を開いた。
「英国のクレア嬢はまだ小さいでしょうけれど、ヒマラヤのクレア嬢も?」
「いや、これがどうして23,494フィートもある。だがエヴェレストに較べれば可愛らしいものさ」
「では練習がてら登攀するというわけにはいかないと。この辺りからは見えませんよね? もっと高いところまで登ったら、僕もお目にかかれますか」
「実のところ、彼女は母親の西側にいてね。もうここまで来たら、最後の尾根に出ないことには会えないだろう。頂上からも見えれば何よりだが」
その言葉に、彼は果敢にも痛々しい唇をつり上げてみせた。
「あなたは上の空だったようだし、忘れてしまったのかな……大丈夫、あれだけの祈祷と祝福を貰ったのだからきっと晴れますよ。少なくとも、そういうことにしておいて次の一手に集中するのは、毎朝気圧計を睨みつけて呪ってやるより有意義だと思いませんか。そうだ、せっかくだから頂上ではこの山をバックに一枚撮って、娘さんに見せてあげましょうよ。随分珍しい親子写真じゃありませんか」
あまりにも無邪気な優しさに、つい声を上げて笑ってしまった。きっと失礼だと思っても止められない。予想外の反応だったのだろうか、微かに戸惑いを浮かべる彼はまだ、あの頂直下を歩むということを知らないのだ。僕たちはこの期に及んでノースコルを征服できず、キャンプⅢの維持さえできずにいる。
「いい記念になるね」
ああ、実現すればどれほどいいだろう。他ならぬ彼の手掛けた機械が、その一枚を撮るための猶予をくれたなら素敵だ。彼は本当に有能だけれど、僕が仲間のうちでも彼をとびきり好ましく思っているのは、多分こういうところなのだろう。戸惑うほどに彼自身の自然な美徳でもあるし、その度に僕は、戦火と屍の向こうに置き去りにしてきてしまった光に触れられた気がするのだ。
「でもそのために頑張りすぎることはないさ。また鼻血が止まらなくなるよ」
「もう大丈夫ですよ。あの時はちょっと乾燥にやられただけです、頑張りすぎだなんてことありません」
確かにその可能性もあると頷いた。見ているこちらも辛くなるほど、彼の肌と粘膜はこの山に酷く傷つけられている。火傷で爛れきったこの肌にマスクを押さえつけなければならないのは心配だったが、彼の気の強さと責任感は痛ましいほど頼もしかった。
犠牲なく得られる真の勝利などなく、陽に焼け剥ける皮膚、乾燥に流す血など――命を落とすことに比べれば些事に過ぎない。それでもやはり、2年前の写真へ僕を重ねる夢をなぞる指も、これ以上血を流さないでほしいと思うのだ。
もしもその指先が、頂でシャッターを切ったなら。そして無事に凍りついた岩を下り、暖かな家の扉を開いたならば。何もかも上手くいった暁には、花咲く庭で小さなクレアとの写真も撮ってもらおう。愛する家族、そして自慢の相棒と一緒に語らう幸せな時間を想像し、すっかりこわばっていることの多くなってしまった頬があたたかくゆるむのだった。
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5月27日、散々な悪天候と消耗のため酸素を使用した登攀を中止することが決まった時、登山初心者のサンディはアタッカーから外された。新計画へ寄せられた満場一致の賛成を、各々どう受け取ったものだろうか。
僕自身もこの手順に同意した。しかしその裏で思い巡らせるのは、どうやってこの見込みのない破れかぶれの特攻を流し、僕の信じる最善の道を選び取るかということだった。
裏切り者の誹りを浴びるかもしれないが、これは僕なりに最大限の誠実さであるつもりだ。最もエヴェレストの経験ある登攀リーダーとしての決断であり、大英帝国への献身であり、ブルース将軍やノートンをはじめとした仲間たちへの尽力であり、サンディ・アーヴィンという人物への真摯さである。そしてこれまで行われた3度の遠征すべてに参加し、命を懸けて死の領域へ切り込んできた僕自身と、こんな冒険を許してくれた妻(ルース)と子供たちへの。
頂を目指す切符のうち2枚は僕が握っている。今回の遠征だけではない、僕の生涯で最後の2枚だ。ジェフにはすまないが、こいつを勝ちの目がない闘いに使うつもりはない。誰が何と言おうと、登頂を果たすためには絶対に酸素が必要だ。
なにも酸素だけの話ではない。フィンチという強力なカードを取り上げられてもまだ頂に嚙みつく気でいられるのは、彼の代わりとして送り込まれたサンディが、期待を超えるポテンシャルと烈しい闘志を見せてくれたからでもある。しかも精神的な繋がりは時に現実のロープよりも重要になるというのに、この上みすみす彼まで手放す気など毛頭なかった。唯一、彼がアタッカーから外されてほっとしているならば話は別だが、最初の登頂計画が決まってからも彼がどれだけ努めてきたか、どんなに最後のひと息まで尽くしたがっているかなど、今更僕が語るまでもあるまい。
会議は淡々と、どこか冷めた空気で進んでいった。僕の隣には、感心したことに落胆の色を一切顔に出さず、ただ固く指を組んだサンディが座っている。
高原の冷涼な風に吹かれながら妙に懐かしく思い出すのは、熱く茹だる潮の匂いと、金属音を奏でる天使の梯子だった。幸運のお守り、希望の星、僕の銀の弾丸。50対1の不利な賭けに出よう。この切符を渡す相手は、とうに心に決めている。
The Day You Made Me a Hero
1924年6月8日
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■■■■■■■■■■――そこに、いてくれたら、どんなによかっただろう。
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The Ghostlier Wanderers
1924年7月9日
「迷ったかもしれない」
言葉の悲惨さに対し、口調は軽かった。辺りを見渡す仕草も、どことなく呑気なものだ。
「困ることが?」
「いいや、ちっとも」
そう答えた彼はひょいと谷底を見下ろして、下ってみようかと言った。まるでヒースの丘を散策するような調子だ。当の彼からの教えを思い出し、首を傾げた。
「迷ったら尾根に登るべき、では」
「登っても下りても変わらないさ」
なるほど、それもそうだ。身軽に礫を渡る彼について、僕も崖のような山腹を下り始めた。轟くような音が氷河から吹き上げ、そのまま身体をすり抜けていく。モンスーンの季節には珍しいことだろう、今日のデスゾーンは久しぶりに星の光る紺碧の空が広がっていた。爽快、その一言がぴったりだ。
「何処まで行くおつもりで?」
「決まってないよ。見送りが終わった今、我々が間に合わせるべきことなどひとつも無いだろう」
投げる声も返る声も、希薄な空気の中でよく透った。肌や粘膜が痛むことも、沈む陽に焦ることもない。此処では何もかもが塵ひとつなくキンと澄んでいて、この上なく気持ちがいい。あれほどにも苦しんでいた日々の記憶は白昼夢のように遠く、僕たちは今とても自由だった。自然と口元が綻ぶ。もうそのせいで血を流すこともないのだ。
「それなら僕たち、迷ったわけではありませんね」
「ふふ、確かに。俺たちは帰る場所も目的地もないだけだな」
でも居場所はあることを、2人とも知っていた。そう、悲観することなんて何もないのだ。
そして彼は突然立ち止ると、くるりと振り向いた。
「サンディ、何処へ行きたい」
僕は考え込んだ。想うのは知る場所のことではなく、あの夜のことだった。ザイルが切れ、相棒と分かたれ彷徨う独りの夜。衰弱した身体を刺す冷たさと、苦痛に足を引きずりながら勘だけを頼りにキャンプを目指す絶望、座り込み見上げた宙のぞっとするような星々。凍死は楽な死に方かもしれないけど、絶望を噛み締める時間が長すぎた。もしも隣にこの人がいてくれたなら、結末は変わらなかったとしてもどんなに慰められただろう。だから彼と一緒なら何処でも良かった、けど。
「まずはプモリ。それから植物の見えるところ。このままでは僕たち、緑色を忘れてしまうと思いませんか」
「それはいい。ではどう向かおうか」
微笑むジョージに促されポケットを探ると、くしゃくしゃの地図が出てきた。白紙の残る不完全なものだが、寧ろ今は都合が良かった。僕たちにはその空白を埋める時間がたっぷりあるのだ。
ルートを探し、提案する自分の声が浮き立っているのがよく分かった。少年時代のような興奮のままに喋る僕の話に相槌を打ちながら、ジョージがふと東に広がる峰々を、そして広大なチベット高原を見やった。
素晴らしい展望から臨む世界は広大だが、僕たちが歩き回れるのはせいぜい氷河の末端までだろう。動ける場が変わっただけで、限界ある身であることに変わりはない。それでも今感じているのは、一ヶ月前の僕なら頬が熱くなるほどの高揚だった。
さあ、その氷河の出口に咲く花はあるだろうか。緑は遠く、今の僕たちには見つけられないものかもしれない。僕たちはこの山で誰よりも自由だけど、その代わりに山から離れることは出来ない。仮に懐かしい色を摘もうとて、今や野に咲く一輪でさえ高嶺の花より遥か、きっとこの手は届かない。それでも、この人との旅に目的の達成が必要不可欠というわけではないことなんて、とうに知っていた。僕たちに必要なのは、吐き切るための最後の一息だった。
「行こうか、サンディ」
頷いて、目ぼしい岩の頭へ大きく跳んだ。
氷河の末まで行ったら、次は他の山へ行ってもいい。ここにはピーク15だけではない、未踏の8,000メートル峰や名もなき高峰が数えきれないほどある。そしてこの高みで踊るような足取りは、僕たちが酸素と引き換えに得た最高の呪いだ。
この人となら何処まででも行ける。好奇心を薪に、僕たちはヒマラヤという箱庭の果てまで彷徨いゆくのだ。
――Blood and sand, our beloved blue paths!

フィクション・ノンフィクション共に「エヴェレストの幽霊」をいっぱい詰め込んでいます。ご縁があったらよろしくね。